なんかバーとかで出会う景萩(タイトル)「諸伏サンて、ずっと髭伸ばしてんの?」
ふと訪れた会話の隙間に、さきほどから気になっていたようないないような、けれどわざわざ聞かなくてもいいと思っていたことが口から滑り落ちた。
うっすら血液中に巡りはじめたアルコールが、ほんの少し思考を鈍らせていたのかもしれない。
案の定、猫みたいな瞳が瞬いて、それから少し困ったような笑みが返ってきた。
「うーん……ずっと、でも、ないんですけど」
歯切れ悪く言いながら、柔和な印象からは意外なくらい節の目立つ指が、顎のあたりをなぞる。頬から頬へくるりと輪郭を縁取るそれは、本人の性格を表しているのだろうか、均一に整えられていた。
「……あの、俺」
「うん?」
「これがないと、なんていうかすごく……若く、見られるんですよね」
「あー……」
そういうね、と萩原は曖昧に頷いて、カウンターの隣に腰かける相手の顔をまじまじと見遣った。整った顔立ちの中に、ときおりいたずらっぽく光る目尻の跳ねたキャッツアイ。なるほど、髭でもなければあどけなさすら感じてしまうのも無理はないだろう。
「ちなみに諸伏サンっていくつなんですか」
グラスを無意味に回しながら問うと、諸伏は躊躇いがちに答えた。
「……今年で二十九、です」
「えっ?まじ、タメじゃん!」
「えぇっ!」
にじゅうきゅう、と聞こえた音に思わず身を乗り出すと、同じくらい驚いたような相手の声が被さった。
「……びっくりした。萩原さん、同い年だったんですね」
「ん?ねぇ、それ逆に俺が老けてるってこと?」
「え、いやいやそうじゃなくて!すごい、なんていうかしっかりしてるから」
顔の前でぶんぶん手を振る諸伏に、そりゃあ三十路近いんだから多少はしっかりもするでしょうよ、と心のなかでツッコむ。
しかし本人はいたって真剣なようで、どこか不安げな表情を浮かべている。顔の造形云々より、たぶんそういうところなんだろうな。
「あ、んじゃ敬語ナシにしよ?ここで会ったのもなにかの縁ってことで」
「そうで……うん、そうだね」
ふ、と諸伏の相好が崩れた。笑うと尖ったガラスがまるくなるみたいなところが、この数時間というごくわすかな付き合いのなかではいっとう好ましく感じる。
「諸伏ちゃんグラス空じゃん。次なに飲む?」
「あはは、そんな呼び方されたの初めてかも」
「え、なんて呼ばれてんの?普段」
「ヒロ、かな。幼馴染はそう呼ぶね」
「ひろ?」
「下の名前、ひろみつだから」
もろふしひろみつ。聞き慣れないその名が、目の前の相手にはとてもぴったりだと思えた。
「萩原さ……えぇと、萩原は?」
「萩原研二〜でもそだね、だいたいみんなハギっていうかな」
小学校から大学まで、気づいたらそう呼ばれていた。なぜかずっと隣にいた悪友が、いつもやたらバカでかい声で呼ぶからだ。
「うらやましいな」
そのままはた迷惑な幼馴染の話題に移ったとき、いつの間にか注文していたバノックバーンを傾けた諸伏が唐突にそう言った。意外とマイペースなのかもしれない、と萩原は頭の中のプロフィールを書き換える。
「どこがぁ?熨斗つけてあげるよ、返品不可だけど」
「ふふ、そうじゃなくって」
する、と拳ふたつぶん距離が縮まる。やわらかく細められた瞳は、なにかに似ている気がするけど、なんだっけ。
「……うらやましいなって」
おんなじことを繰り返しているのに、先ほどとは少し違う響き。そこに込められた意味を、推し量ろうとして、やめた。相手が初対面だろうが、深読みしようとするのは悪い癖だと、件の幼馴染に言われたばかりだったからだ。正しくは、そういうことにした、だけれど。
「んじゃ、俺にしとく?」
失念していたのは、このころにはすっかり脳がアルコールに浸っていたということ。意味を自らでも理解できぬ間に口から滑り落ちた言葉に、あれ、と首を傾げた。いま、なんて言った?
「……返品不可?」
諸伏がまたひとつ、拳の分だけ距離が近づく。バーライトがちょうど顔の半分を照らしたとき、きゅう、とその瞳孔が細くなった。
あ、知ってるぞ、これ。猫なんて可愛らしいもんじゃない。捕食。そんな言葉が、ぐるぐると宙を舞う。
「あ〜……っと、クーリングオフは可で」
「ふ、なにそれ」
かえさないけど。
そんな言葉が聞こえたのは、たぶん、気のせいじゃなかった。