『アイアイ傘』
「おれの傘返せ」
だいたいいつも戸締りされていない不用心な玄関ドアをバーンと開くと、口をもごもごさせたルフィがリビングから顔を出したので、ゾロはいのいちばんに要件を告げた。
ルフィとは物心ついた頃から家がお隣同士で、幼稚園、小中学校、高校に至るまでずーっと一緒の幼馴染という間柄である。
ゾロが高3でルフィが高1。ふたつ違いなので、ゾロが中学に上がった頃から一緒に登校する機会はめっきり減っていたけれど、今年はまた同じ制服を着て一緒に通える。
けれど今日はゾロに野暮用があり先に行きたいのだが……。
「ごっくん。ゾロおはよう! 早ェじゃんか」
「おはよう。おれの傘どこやった? この前貸したよな」
「おお」
ごしごし腕で口を拭いながら細身の体がてこてこ玄関先のゾロの元までやってきた。
「そいや借りた借りた! どこだっけ、ゾロの傘ー!」
今日も朝からルフィは元気いっぱいだ。赤いタンクトップに短パン姿の健康的な肌がゾロの目に飛び込んでくる。
傘立てから一本一本引っ張り出してはこれじゃねェこっちじゃねェ、と首を捻っているルフィに嘆息しつつも、ルフィが屈む度にタンクトップの脇からチラ見えするすべらかな胸元とか、小さなチクビにドキリとし、ゾロは咄嗟に目を逸らした。
「………ぴんく(ぼそ)」
「ん?」
「な、なんでもねェ」
最近、不本意ながらこんなことが増えている。ルフィを直視できない。理由はだいたい解っている。
「これだっけ?」と言うルフィにチラッと目線を戻すと、バキボキに折れた傘を差し出され、それが自分のだと理解するや一気に邪な思考が吹っ飛んだ。
「おまっ……これ折れまくってんじゃねェか!! どうしてくれんだ今日めちゃくちゃ降ってんだぞ!?」
梅雨入りしたからな!!!
「う、うん……ザーザー降りだよな。やだよなァ雨……おれ好きじゃねェ」
「そういうことを聞いてるんじゃねェ。今日は日直で早く行かなきゃなんねェっつーのに」
「ゾロが日直!?」
「おれにも日直くらいあるだろ」
「だってまともにやったことねェって前に言ってたじゃんか」
「相手の奴がうるせェんだよ……。昨日から、準備あるから早く来いって何度も何度も念押して来やがって」
「……誰?」
「お前の知らねェ奴だ気にすんな」
「ふ~ん……」
ルフィの上目遣いがじとっと見てくる。なんとなく責められている気がしたが今はそこを言及している場合じゃない。
「しゃあねェからお前の傘貸せよ」
「え、そしたらおれが濡れるじゃん!」
「自業自得だ」
「え~~!? あ、おれいいこと考えた! ゾロ、おれのカッパ貸してやるよ!!」
どーーん。
「合羽ァ?」
ルフィが下駄箱の上の棚から何やら真っ赤な袋を出してきた。中身を取り出し、バサッと広げるとそれは確かにレインコートという代物だったけれど、
「これをおれに着ろと……?」
袋と同じく、真っ赤なカッパ。背中に可愛いカエルのプリント付き。どう見てもお子さま仕様でしかもサイズが小さい。
「いつ買って貰ったヤツだよ……。まぁルフィならギリ着られるだろうな。細いしちっせェし」
「小さくはねェ!!」
ぷりぷり怒るけれど彼が中性的なのは周知の事実なので。
「サイズ的にもおれにはムリだ。お前がこれ着ておれに傘貸せ」
「はぁ!? ヤダよ高校生にもなってカッパなんて」
「おれも一緒だアホ!!」
「う~~ん、困ったなァ。兄ちゃんの貸したら怒られるしな~」
「ルフィ、今すぐ着替えて来い。そんで学校行くぞ。あとそのブカブカの服やめろ」
「なんで!? これエースのお古……つーかおれもォ!? でもメシの途中だし残したらサボに怒られ──」
「1分で食え!!」
「解ったよもう!!」
わたわたとルフィが戻って行った。中から「どんどんすんな!」というエースの声が聞こえてくる。
ルフィは兄ちゃん二人には頭が上がらないのだ。でも我侭。
ゾロは腕を組んで厳しい顔を作ると、兄達より甘やかし気味の自分の心が傘のように折れないよう、気を引き締め直すことにした。
その朝ゾロは、ルフィと久しぶりの相合傘をして登校した。
「あ~アイツ……また折るぞ、傘」
「傘がどうかしました?」
「いや……」
放課後の教室。
最後の日直の仕事をしていたゾロが窓の外の赤い塊に気付いたのはついさっきのことだった。
朝から降り続いていた雨はとうとう止むことを知らず、校庭をぐっちょぐちょに濡らしていて。そこに真っ赤なカッパを着た幼馴染が黄色い傘を振り回して遊んでいたのだ。
背中にはカエル、間違いない。
「まんま幼稚園児……」
「はい? あ、日誌はこれでいいです。私が職員室に持って行くので帰っていいですよ」
「あぁ。つーかおめェのがよっぽど教師っぽいよなァメガネ女」
「メガ……っ、その呼び方やめてくださいって言いましたよね!? それに私は海軍将校を目指してるんです!」
「解った解った。どうでもいいよ。じゃあ任せた」
「ど……ほんっっといちいちムカつく……! それよりさっきから何を見てるんです!? ニタニタして気持ち悪いんですよっ」
「ニ、ニタニタなんかしてねェだろ!!」
「してましたよ! 自分じゃ解らないんです」
フフン、と鼻で笑われてゾロはカチーンと来た。そりゃあ多少は頬筋が緩んでいたかもしれないが、それをこの、目の敵にされている同級生に見られていたとは……一生の不覚。
たしぎ(メガネ女の名前だ)がゾロの脇から窓を覗き込むので阻止しようとするも退けられてしまい、校庭で遊ぶルフィを見て「あら」と間の抜けた声を上げた。
「1年のモンキー・D・ルフィ」
「知ってんのか?」
「問題児だとスモーカー先生が言ってました」
「ハァ……」
さっそく目をつけられてるわけか……。校庭に川とか掘り出さない内に回収するとしよう(傘が折れる)。
「おれは帰るぞ」
「はいどうぞ。お疲れ様でした」
「おう、ご苦労だった」
「ちょ……! その言い方……!」
まだ文句を言いそうなたしぎを無視して教室を出、ゾロは昇降口へと向かう。
靴を履き替え雨の中を校庭に回ると、ルフィがこちらに気付いたようで慌てて駆けて来た。
「ゾロ! 濡れるじゃんか!!」
パカァ! と傘を開いてゾロに差し掛けてくれる。ハァと少し息の上がったルフィはそれでもゾロの顔を見上げてニコッと笑って。
「待っててくれたんだな、ルフィ」
「そりゃそうだろ、ゾロ傘持ってねェもん」
「カッパ持って来てたんならその傘置いて帰りゃ良かったろうが」
「う、それはだなァ……。イ、イジワル言うな」
「悪ィ悪ィ。ありがとうな」
「おう!!」
またぱあっと笑顔になる。昔っから見てきたルフィの笑った顔は、それだけで誰をも笑顔にする。
幼馴染の思い遣りにゾロの心がじわり温かくなり、今日はじめじめ気持ち悪い日なのに、ルフィの傍はいつでもカラッと晴れた青空のようだと思った。
むしろ、太陽かもしれない。てそりゃ惚れた欲目か……。
――そうなんだよな。おれはルフィが好きなんだ……。
「ルフィ、似合ってるぜ。そのカッパ」
「む、嫌味か。子供っぽいって言っていいぞ」
「可愛くていいんじゃねェか? けど傘折ってるうちは子供だな」
「可愛い言うな。今日はまだ折ってねェ!!」
「お前、ガキの頃から買った先から折って帰ってくっからじいちゃんにゲンコツ喰らいまくってたよな、懐かしい。けどいまだに折ってたとは……」
「ほっとけ! なんか気付いたら折れてんだもん」
「さっきみてェに遊んでたらそりゃ折れる」
「見てたのか? カッパなんて久しぶりに着たけど雨が冷たくてキモチかった!」
カッパのフードを被っていても頬を伝う水滴、悪びれないルフィにゾロはくすりと笑う。
ルフィといると飽きないし楽しい気分になる。いつ惚れたなんて解らないけれど、もうきっとずいぶん前から惹かれていたに違いない。
「日直、一緒のヤツは?」
「あ? 職員室だと思うぜ。用でもあんのか?」
「ねェよ、あるわけねェじゃん」
「?」
「おれもゾロと日直とかやってみたかったなー。なんで同い年じゃねェんだろ」
「なんだそんなことか」
「なんだとはなんだ! おれには重要なんだ!!」
「そんなもん、お前が社会に出りゃ関係なくなる。あと何年か我慢しろ」
「えー! ていうか日直って女子と組むんだっけ?」
「多分そうじゃねェか?」
「そっかー、どっちにしても無理か。あ、代わって貰うとか」
「ルフィと日直とか失敗するイメージしか湧かねェ」
「失敬だな! お前失敬だな!」
「こらじたばたすんな水が跳ねる!!」
とか、他愛もない話をしながら。ゾロは実は、ルフィの濡れた頬や唇から目が離せなくて困っている。
逸らしてしまうか、釘付けになるか。
それは自分の意志に関係なく、コントロールできないことを不甲斐なく思うのだけれど。
「――だぞゾロ、解ったか?」
「あ? 悪ィ聞いてなかった」
「あのな! おれが日直の日も一緒に学校行くんだぞ!」
「はいはい、付き合うよ……」
「そんでゾロも一緒にやろう」
「ムリだろ……」
「だってよォ~」
ブツブツ言いながらルフィは口をとんがらせている。その唇ばかり見てしまう。
ゾロがルフィの傘を持つ手をそのまますっぽり掌に包むと、ルフィが「帰りはおれが持つぞ?」とか言うので、
「そうじゃねェ、隠れ蓑にはちょうどいいかなーと……」
「隠れ何……??」
きょとんとするルフィにゾロはすっと顔を近づけると、濡れそぼったその唇にそっとキスをした。
「いい加減クチをきいてください」
「………」
「なんべんも謝ったろ?」
「………」
「なんだよちっとキスしたくれェで……」
「開き直った! ひとの初チュー奪っといて!!」
「知ってる」
「~~~っ!!!」
ルフィの事なら何でも知っている、と思っていた己の自惚れになら、ゾロは少々反省気味である。
唇の感触や柔らかさすらついさっきまで知らなかったわけで。
それだけじゃない、体のまだ見てない部分や触れたことのない部分もたくさんあるわけで……。
「何ニタニタしてんだよ、気持ち悪ィ」
「また言われた……」
「ゾロはよォ、先に『好きだ』って言わねェとダメなんだぞ?」
「……!?」
まさかそうくるとは思わなくてゾロは横を歩くルフィをハッと見た。ちなみに結局ゾロが傘を持たされている。
前を睨みつけているルフィの頬はカッパのフードと同じくらい真っ赤で、ついうっかり可愛いなと呟いたら脇腹に肘鉄を喰らい、
「イッテ……! ご、ごめんって。ルフィにそんな常識があったとは思わなくてよ」
「聞きたいのはソレじゃねェ」
「……あー。ルフィが好きだ」
「うん」
「付き合って欲しい」
「んー」
んーって返事はどうなんだ……。よくない予感しかしない。
ルフィが、傘を持つゾロの手をゾロがさっきしたように上からぎゅっと握ると、足を止めてゾロを見上げてきた。
ルフィの目はとても大きくて、黒々した瞳が意志の強さを物語っている。
一応はゾロがフラれる覚悟をしていると、
「まだちょっとわかんねェんだ」
「曖昧かよ……」
「もっとしたらわかるかな?」
「え?」
「キ、キスとか……?」
順番は違うけど、とルフィが呟く。もう誘われているとしか思えない。
またまたゾロが顔を近づけると顎を押し返されてしまい、
「今じゃねェよバカ!!」
「傘あるし、雨だし」
ルフィの手を退け懲りずにキスをしかけるも、ルフィが傘から飛び出して行くのでゾロも慌てて後を追いかけた。
やっと捉まえられそうなのにここで逃がしちゃ男がすたる。
「待てルフィ! こら逃げんな!!」
「こ、これは逃げてんじゃねェ! 避難だ!!」
雨の中を追いかけっこが始まった。全くいつもいつもルフィはゾロの予想の斜め上をいってくれる。
そんなルフィの破天荒なところに惚れたゾロなのだが――。
「何もしねェから待て!!」
「うるせェ声がデケェ!!」
「頼むから待てって!!」
「いやだ!!」
「おれの心が傘みてェにポキッと折れてもいいのか!?」
「!?!」
ピタ、とルフィが止まった。これ以上逃げられないように手首を掴む。
ぜぃぜぃと二人で肩で息をしながら、
「ポキッて……。も~~っ、ほんっとゾロはおんもしれェよなァ~」
「お前には負ける……ハァ」
「おれ、ゾロんことガキん頃から大好きだけどさ、毎日好きんなってく気がするよ」
「それはおれのセリフだ」
「ゾロもか。一緒だな!」
しししっ、とやっとルフィがいつものように笑ってくれた。心の底からホッとする。
「今日、雨が降ってよかったよ」
ゾロがそんなことを言えば、やっぱりルフィは「おれは雨降り嫌いだ」とほっぺたを膨らませた。
その日の帰り道も二人は相合傘をして帰った。
むしろ〝愛愛傘〟と呼ぶべきかもしれない。
(おしまい)
おさななゾロルはよいですね〜
何通りでも書きたい。
お友達の圭さんへの捧げ物でした!