極楽浄土は今此処に。 ...あり、ともあり、友有!
声は段々と近づいてくる。ギコギコと台車を漕ぐ音よりも鮮明に聞こえるその声に、木の棒を握る指に力が入った。何故来たのだ。何故お前は俺の前に現れるのだ。
「いぬ、おう」
「友有、友有!まだ体に力は入るか?少しだけ、少しだけでいい!お前の追っ手を巻くぞ」
「もう足の感覚は無い。腕は無事だ。耳も、声も、無事だ」
「っごめんな、ともありぃ。......ありがとな」
そう言ってひょいと抱き上げられた。乗っていた台車を蹴飛ばして犬王は走った。
「おい、何処に行く?最後に俺は行っておきたいとこがあるんだ!」
「っ最後じゃない!友有、まだ最後じゃないよ。これから始まるのだと、お前は言っただろう?」
「言いはしたが、犬王の巻は封じられた!」
「しかし俺たちの首はまだ飛んじゃいない。そうだろ?」
「では、何処に」
「隠れられる場所だ。...俺も将軍との約束を破ってしまったからな」
「......そうか。お前もか、犬王。はは、お前もか」
「あぁ。っ友有?大丈夫か?」
「ん。だいじょうぶじゃ。ちと、眠くなっただけ」
急に緊張の糸が解けたと言ったところだろうか。いや、安心しきってしまった、と言うのが正解だろう。犬王の腕の中は随分と心地良い。犬王が隣に居てくれるだけで、どれほど心強いことか。先程までのやり場のない怒りと悲しみがすうっと引いていくのが分かる。犬王の心音だけが間近で聞こえ、街の音も人の声も全てが遠のいて行った。
「ともあり、目が覚めたか」
暗闇の中にほわりと桃色に光るそれが話しかけてくる。犬王だ。
「あぁ、何処じゃここは」
「お前が一度俺を連れてきた遊女の家だ。少しだけ匿ってくれるそうだ」
「少しと言わず、ずっと居てくれても良いのよ二人とも」
「ばれぬのか?」
「ここは店の隠し部屋だからまず役人が入ってきた所でバレやしないわ。トクベツなお部屋だから。あとは貴方たちが外にでなければ問題ないわね。何かあったら言ってちょうだい」
「何故俺たちに良くしてくれる?」
「良くしてくれないのは将軍様だけよ。他の人達は皆貴方たちの味方よ。きっとこの先二度と貴方たちの舞台が見れなくなったって、ずっとあの感動と興奮は忘れることが出来ないもの!貴方の座の皆さんも酷い目にあった者は町の人が内緒で看病してるのよ。貴方が気負い過ぎる事はないわ。少しは気が楽になった?...あら、友有ちゃんは涙脆いのね。大丈夫よ、きっと。アタシは飲める物を取ってくるからあとは二人で」
柔らかい雰囲気を纏った女が部屋から出ていった。
あぁ、どうしてこうなってしまったのだろう。
「あしが、いたい」
ズキズキと骨の髄までもを蝕む痛みが戻ってきた。先程までは何も感じなかったのに、いや、我を忘れていたから酷い痛みにも気づかなかったのか。
「あっ友有、まだ動くなよ。応急処置はしたが、随分と酷い。顔もまだ腫れが引いとらん。それに熱が」
辛うじて起こした上半身を犬王に寄せた。しがみついた。
「何故お前は......了承したのだ?何故お前はそれなのに、俺を助けたんだ?何故俺の...俺たちの、全てが失われなければならんのだ?犬王...いぬおうっ!」
叫ぶように彼の名前を呼ぶ。彼が今ここに居るだけで十分理由は分かるけど、理解出来なかった。悔しかった。悔しくて悔しくて、どうにかなりそうだった。兄者が殺され、座の者達も酷い目にあい、俺からは全てが取り上げられた。名前までも。あぁ、あぁ、何故じゃ、何故なのじゃ。
「ともあり、全部答えよう。だから少し落ち着けないか?大丈夫だ、大丈夫。まだ俺達は共に居る。それだけで十分すぎる程だ」
そう言って背中を撫でられる。酷く優しいその手つきは良く俺の事を知っている。
「将軍様に呼ばれたんだ。もう、あの舞はするなと。すかさず了承しなければ、と聞いたがお前を人質に取られてな、了承するしか無かった。俺が物語を捨て将軍の為に舞えば、お前の無事が確保されると聞かされていたんだ。だから、俺が捨てれるものはぜぇんぶ捨てた。お前には二度と合わないとも約束した。それから暫くして屋敷に戻ったんだ。町中にはお前の座の旗が踏み潰されて切り裂かれていて、俺は怒り狂いそうだったよ。そしたら聞こえたんだ。お前が役人に捕らえられた事。逃げ出した事。明日には打ち首になること。意味が分からんかった。俺が了承した事には意味など無かったのだと気づいたんだ。俺はお前を守った気になってたのに、お前は一人戦っていたのだと、知ったんだ。だから走った。役人にお前を先に取られたくなくて覚一座に乗り込んで、聞いて、探した。お前が行きそうな所、お前だったら最後に行くであろう場所にな。見つからなかったらきっと俺は、死ぬ事よりも辛いから」
良かったよ、見つけられて。そう言って抱き締められた。強く、強く、離すまいといったように抱き締められた。
「でも、もう何も残っとらん」
「俺はなぁ、友有、お前が居てくれるだけでいい。お前は琵琶を弾けるだろう?もう物語を拾うことは出来ないが、お前はこの町の、この場所の、この時の音を奏でる事が出来るだろう?俺は、お前が楽しそうに琵琶を弾くのが好きだ。琵琶だけじゃない!共に他愛もない話をするのも、美味い飯を食うのも、なんでも好きだ。楽しそうに笑うお前が好き。お前が居れば地獄だって、輝いて見えるものなんだよ。だからさ、もう少しだけ生きよう。また俺たちだけの居場所を作ろう」
「犬王」
「やだよ。友有が居なくなったら、いやだ」
「犬王、俺の人生は犬王を語ること。お前が隣にいてくれる限りずっと、物語は続くと思わんか?ふふ、そうか、こんなに俺は好かれていたのか」
「あたりまえじゃん」
「逃げるのか?」
「将軍から一番遠い場所へ」
「それはいいな。追いつけないほど遠くがいい」
「そうしよう」
「そうだ、お前に見せたいものがある」
「なんだ?」
「海だ。俺の故郷には海がある。何処までも広がっていて終わりのない海がな」
「へぇ、良いじゃん」
「だろ?......足が治ったらじゃが」
「大丈夫だ。万が一の時は俺がお前の足になろう」
「そうか。なぁ、犬王。俺はとっくの昔にお前に人生を渡していた気になっていたが、お前も俺にくれるのか?」
「勿論、俺だってずっと前から思ってたよ」
まだ終わらない。俺たちの物語は第二章に入るだけだ。
深い深いあの海の底には何があるのか。見つけられなかった竜宮城に、共に潜れば辿り着ける気がした。