aokbワンドロライ ニット帽/猫の日/いただきます アオキが仕事から戻ると見慣れたシルエットの人物が珍しくニット帽を被って旧友と共に立っている。
それがカブとメロンであることは遠目からでもわかるほどふたりは良く目立つ。
アオキの部屋の前でふたり揃って立っているのも中々珍しいのでアオキは急ぎ足で近づくが、近づけば近づくほどに違和感を覚えるふたりの雰囲気。
「ああ、アオキくんおかえり、お邪魔させてもらってるよ」
「……ええ、はい……ただいま戻りました」
ただいまと返していいものか……通りがかりのよく見るだけの年配の方におかえりと言われるとただいまが正解なのかと悩んでしまうような……そんな奇妙な感覚に陥るアオキ。
そして珍しく物言わぬカブにも異変を感じ悩むアオキにお構い無しのメロンは隣のカブをアオキにグイグイ押しつけて、カブが被っていたニット帽を取り去る。
そこには見慣れたグレーの頭に見慣れない白いモコモコの猫耳と思われるものが生えており、ぴょこぴょこと左右に揺れていた。
そんな馬鹿な、おかしい、何が起きた……という思いよりも先ず可愛いという感想がアオキの脳内を駆け巡る。
「あ。びっくり要素はこれだけじゃないから」
しれっと言いながらメロンがカブの着ていたベンチコートの裾をまくれば耳と同じ色のしっぽまで見えた。
可愛いが……尻尾もまた耳と一緒で躍動しており作り物には見えない。
流石に本人の健康状態が不安になってカブの表情を確認するが、眠そうに欠伸をして自らの変化をまるで気にした様子は無く。
カブから情報を引き出すのが難しいと判断してメロンの方を見ると、既に彼女はカブをアオキに押し付けそそくさと後退して逃げ去る準備を始めていた。
「と、言うことだからあとはよろしくね」
「どういうことですか?」
「それがわかる人間が居なくてね……しかもなんか意思疎通が難しくて名前を呼んでも返事どころか反応すらしないんだよ……ねえカブ」
メロンに呼ばれてもカブはアオキの部屋のドアを見つめるのみで無反応。
そんなカブの様子を見てメロンはやれやれ、と呆れたようにため息を吐いてお手上げのポーズをとる。
「カブと次のイベントについて話してたら突然こんなことになって、誰かに相談しようとしたらカブが突然走り出してね」
「……はあ」
「アオキくんの部屋に着いたら無言でここに立ちっぱなしでさ、もうかれこれ1時間は動かなくてね……猫になっても頑固でやんなるよ」
「……猫、」
「ああ、多分猫……でしょ?」
じゃ、とにかく任せた!と突き出されてアオキの腕の中へと収まったのは確かに朝、互いのグッドラックと仕事上がりには無事に再開できるようにと祈ったはずの愛しい恋人のカブ……のはずなのだが。
「カブさん、」
名を呼んでもメロンの言う通り返事は無かったが、反応は帰ってきた。
名を呼ばれてグルグルと喉を鳴らして抱き着いて来るので、恐らくは嫌われてはいないと安堵する。
「寒いから部屋に入りましょう」
カブの状態を確認するなら中でとアオキが開錠しドアを開ければカブがするり、と開き切る前の隙間から室内へと入っていく。
そんな風にいの一番のギリギリを攻めなくても……と思いもしたがメロン曰く、今のカブは猫に近い生き物のようなのでその挙動も納得してしまう。
「カブさん」
アオキが呼べばカブは表情変化無くこちらを振り向き、しっぽをぶんぶんと左右に2、3回程往復させてまた前へと移動する。
「あの、カブさん……」
二回目のアオキの呼びかけにはカブは無反応で、ソファに両手からダイブしてそのまま丸くなってしまう。
普段のカブならば絶対にしないだろう態度にアオキは無表情ながら困惑しているが……しかし、新鮮にも思えてまじまじとカブを観察してしまう。
頭に這えている耳はモコモコと気持ち良さそうだったし、しっぽはフワフワしていて触りたい衝動に駆られるが……猫という生き物は確か、そこに触れられるとストレスを感じる生き物だったはず。
「カブさん、言葉はわかりますか?」
問いかけるもカブは目を瞬かせてゴロゴロと喉から音をさせアオキを追視するのみ。
……これは、不味いことになったかもしれない。
アオキが内心で焦りを抱くも、カブがアオキを見上げて満足そうに笑うのでそれ以上は何も言えずに。
何ともなしの時間が流れていく中、ふとした瞬間にカブが口を開いた。
アオキはカブと会話が出来るかもしれないと期待して待つが、
「にゃぁ、」
漸く発してくれた声もまたアオキの焦燥を肯定するような、カブが完全に猫になってしまっているという絶望を抱くに相応しいもので。
猫耳、猫のしっぽ、猫の鳴き声……恐らく人間としての記憶は無い。
「可愛いですね」
言っている場合ではないが、それはそれで可愛いのではなかろうか。
ここまでのアオキの思考にまとまりはなく、しっかりとパニックを起こしてはいるがしっかりちゃっかり状況も楽しんでしまっている。
「にゃ、」
カブの声に不満が混じっているような、と思うより先にカブの腹部からぐぅううぅ、と不満げに音が上がる。
空腹なのかと聞くのも野暮なくらいしっかりと聞こえてアオキはそこで漸くお互い夕食がまだであることを思い出す。
「……今のカブさんは何を食べるんでしょうか?」
キャットフードなんてここにはないし、あってもポケモンフード。
しかしカブはポケモンではないし……体は人間のもの……人間のもので良いのだろうか?
耳としっぽ以外は人間なので人間で良いとは思う。
「とりあえず色々用意してみて食べて貰ったら良いですね」
とりあえず恋人が空腹であるという可哀想な状態からは脱したい。
猫が食べてはいけないものを調べ、一応それは避けて用意を始めた。
アオキがキッチンに向かい作業を始めると、カブがソファの上で伸びをして立ち上がりアオキの足元へとやって来る。
そのままアオキの足に摺りつくようにして床で転がるので危険なのもあるが、何よりも基本人間のフォルムをしたカブが床で転がるのはあまりいただけない。
「あの、カブさん……そこは危険なので、」
と、言っても今の彼には人語は通じないのだった。
アオキが無言でカブを抱き上げてそ、と壊れ物を置くようにしてソファに優しく戻してやり作業に戻る。
しかしそんな恋人の気遣いなどお構い無しでアオキがキッチンに到着する前にカブはソファから出てきてしまい、また同じような状態になる。
「……カブさん、あの……」
アオキの思いなど知ったことかとカブは足元から離れない。
仕方ないのでひとり掛けのソファをキッチンに近づけてカブを座らせると、狭いだろうにそこでコロンと転がりながらアオキをじぃ、と観察するかのように見つめてくるカブ。
「なんだか見張られているようですね」
少しだけ口元で弧を描いてまたアオキが食事を用意すると後方からカブの声がする。
視線だけをカブに向ければ満足気にカブがまた目をしぱしぱとゆっくり瞬かせるのでアオキも目を細めてそれに応えた。
「……謎ですね」
まあ可愛いので良いかと何度かこんなやり取りを繰り返しながらアオキが作ったのはリゾットだった。勿論薄味だ。
猫に熱すぎるもの、味の濃いものはいけない……それにネギやチョコレート……数えればキリがないが、とりあえず米とたまごならば大丈夫だろうと作って食べてみたらアオキにはとてもじゃないが美味しいとは思えないものだった。
しかし仕方ない、今のカブがどんな状態かはわからないのだから。
「すみません、カブさん……今はこれで我慢してください」
味見がてらスプーンに乗せたリゾットを差し出すもカブは不思議そうにそれを見るのみ。
食べ物である、と理解できないのか……それとも食べるという行為を忘れてしまっているのか。
前者ならまだ良いが、後者であるならばかなりの危機である。
「……カブさん、こうやって口に運んで食べるんです」
目の前でリゾットを食べて見せるアオキを見つめるのみで、カブはまるで動こうとしない。
いよいよ不味いかとアオキが焦りリゾットを乗せたスプーンをカブの口元に運ぶとカブの表情が今日一番の衝撃を受けたような顔になる。
「!?」
「カブさん……!?」
口を半開きにしたままアオキを信じられないようなものを見る目で見上げて来る。
カブの視線を受けて、リゾットがそんなにも不味かったのかと再度自分で食べてみるが……味が薄くて美味くはないが、そこまでびっくりするほど不味いだろうか?
確認のためカブを観察すると、舌を出したまま固まっていた……もしかして、猫のカブにとってリゾットはまだ熱いのではと思い当たる。
「……熱かったですか?」
アオキが遠慮がちに尋ねるもカブは猜疑心の塊のような状態になっており、アオキに向かって鋭い視線を送って来る。
そんなカブをよしよしと撫でつけながら、リゾットに息を吹きかけ十分に冷めたと確認してもう一度再トライを試みるも最早カブは信じることが出来ないようで首を反らして拒否を示す。
「……困りましたね」
またたびなど無いし……辛うじて鰹節があるくらいで。
カブがうどんを食べる時に出汁を取るため取り寄せた高級鰹節……かければ興味を示してくれるだろうか。
「カブさん、オカカ、です」
カブがおかかと言っていたものをリゾットに振りかけてみると、カブは急に興味を示して目を光らせながらリゾットの匂いを嗅いでいる。
掴みはオッケーなのだろうか、とアオキが期待をしているとカブがリゾットをはぐはぐと食べ始めた。
どうやら美味しいらしく、耳が嬉しそうにぴくぴく動いて愛らしい……第一関門は突破出来たようだ。
「……良かった。ではテーブルに行きましょう」
食事を持ってリビングに向かうアオキに追走するようにカブがやって来る。
いつも通り、定位置に。自分たちの食事をテーブルに配置させアオキが席につく。
カブの席はアオキの向かい側……だが、今日はやはりそうはいかずに。
「に! に! に!」
遠慮も容赦も無く元気ににゃん!と鳴きながらアオキの脚の上を占領してゴロゴロと喉を鳴らすカブに驚くこともなく。
「今日は、それが普通の流れですよね」
妙に納得したようにアオキが首を縦に数回振ってカブの定位置に置いたリゾットを引き寄せる。
因みにアオキのリゾットも薄味のままだ。
食事は美味しくいただきたいが、カブが興味を示して濃いものを食べてしまったら危険なので同じものを摂る。
「……ではカブさん、どうぞ」
カブの前にリゾットを盛り付けた皿を寄せるも、まるで食べる気配はなく。
食事を与えられるのを待っているような、カブに見上げられてアオキは閉口してしまう。
困った。可愛くてしんどいので。いくらでも尽くしたい。
「……では、カブさん。いただきますをしましょうか」
普段カブは食べる前に必ずいただきます、と口にする。
ホウエン地方周辺の食事前の感謝の挨拶……アオキはカブがいただきます、と食べ始めるのを見るのが好きだった。
「にゃー」
だが、今のカブにはそれは難しい。
しかしまるでアオキの言葉を理解したかのようなタイミングで鳴いてくれたので、アオキは自分の良いように解釈をする。
「はい、いただきます」
アオキがカブの分までふたりぶんの挨拶をして食事を始める。
カブの口にリゾットを運ぶために冷まして、食べさせ、その間に自分が食べるためスプーンを持ち替えて、食べて、カブを見れば催促するかのように見上げられていて。
「……中々忙しいですね」
カブの食事に集中した方が良いだろうか、いや、カブの食事が終わった後にまたどう転ぶかわからない。
食事終了と同時にカブが何をするか今は予測できないのでアオキ自身の食事も済ませてしまおう。
そして今後どう動くか、などと考え耽っていたが故にうっかりとしていたのだろう。
「!」
「ああ、すみません……!」
カブにせがまれ運んだリゾットはアオキ用のおかかトッピング無しのリゾットだった。
半眼になったカブがトッピング無しリゾットを半分だけ食べ、そっぽを向いてしまう。
しまった、とアオキがカブの食べかけのリゾットをひと先ず置いておかかリゾットを口に運べばまた食事が再開されたのでほっと一息。
「美味しいですか?」
「に!」
「……それなら良かったです」
リゾットというよりはおかかをお気に召しているだけのような気もするが。
先程のカブの食べかけのリゾットをそのまま口に放り込みながら、アオキはまた忙しくカブの給仕に励むのだった。
「にゃー!」
食事を済ませて大正解だったとアオキはつくづく痛感しながら高い場所に登って戻れなくなってしまったカブを救出すべく脚立を用意しているところだった。
これは目が離せない、とアオキがカブを救出して直ぐ、今度はいつの間にか侵入していた虫に向かって猫パンチを繰り出している。
万が一虫を食べてしまっても恐ろしいので目を離さないどころかもう腕の中から離さないよう抱き締めてやれば漸くカブが落ち着く。
「これから、どうしましょうか……」
カブがほぼ、猫になってしまった。
治るのだろうか?
「……治らなかったら、」
治らなかったら、もうカブには会えないのだろうか?
猫になったカブだって愛おしくは思っているが、やはりいつものカブに会いたい。
「困りました」
腕の中に閉じ込めたカブはうとうと、と眠りにつこうとしている。
こんなに近くに居るのに、こんなにも遠い。
アオキが物言わずともカブは朗らかに笑っていつだって惜しみなく好きだと伝えてくれていた。
甘えていたのだろう、カブの真っ直ぐで手に取りやすくしてくれていた愛情に。
愛しているという言葉を貰えるのは、当たり前じゃない。
何度この身体に触れることを許してくれて、その度にアオキは心を喜びに震わせていたのに。
それを、伝えたことなどあっただろうか?
奇跡のように幸せなことだったはずなのに、カブが当たり前のことのように与えてくれていただけだ。
カブが居なくなってしまったら、もうそれは当たり前では無くて。
もう、聞けないのだろうか。
沈んでいく。
脈打つような不安に、どうしようも無い焦燥に。
「、」
アオキが零した声は言葉にはならなかった。
息苦しい、胸の中に愛おしい人が居るのに。
「に、!」
カブの声にアオキの意識が現実へと引き戻される。
腕の中のカブを見ればカブは透き通った瞳でアオキを見上げていた。
「カブさん、」
今のカブに言葉はわからないのに、アオキの心の音を聞き分けて、寄り添うように、手を伸ばして。
アオキの頬をいつもと違うザラついた猫舌でたどたどしく舐めて、アオキへと伸ばした手に打算は無くて、それが切なくて。
ふたり、解けてしまわないように。
くしゃくしゃになってしまいそうな程にキツくカブを抱き寄せればいつもと同じ抱き心地で。
いつもと違うカブ、でも、いつものカブも内包している。
例え今は喋れなくとも、猫の耳や尻尾があろうとも。
鼓動の速さも呼吸の仕方も温もり伝うその皮膚の感触も。
変わりないものだってあるのだと。
好きなのだと、変わらず愛しているのだと。
「ありがとうございます、自分も愛しています」
カブから愛していると言われた訳では無い。
ただ、カブの行動がそう伝えているように思えて。
カブが戻ったら、彼にも真っ先に言葉にして伝えたい。
そう願いながら、アオキはカブを腕に閉じ込めたまま瞳を閉じた。
翌朝、元に戻らずに猫のままのカブが同僚や旧友に対してフー!と威嚇を始めたりするのを見てアオキがわかりやすくニヨニヨと破顔して機嫌を良くしたりするのはまた別のお話で。