fine「アルヴァ、君が気にするような事は何も無い。まだいくつかあてはあるんだ」
そう言ってヘルマンは手にした書類を忙しなく捲っては斜線を引いていった。
外から帰ってきた友の為にと用意した紅茶にも、目の前に座る私にも目もくれず、ペンは痛々しい音を立てながら、資金援助や融資を断った訪問先に黒い一線を入れてゆく。
「奴等め、このレポートには担保の価値もないなどと抜かしやがって。完成すればこれがどれほどの素晴らしい発明品になるか分かってないんだ」
大きく広がったペン先は矢継ぎ早に墨を吐き出して滲みを作り、紙が吸い取りきれなかった分は往復する右手によって伸ばされる。
綺麗に整えて書かれていた文字たちは、あっという間に怒りと嘆きの黒で蹂躙されていった。
2年間行方を眩ましていたヘルマンはある日突然帰ってきた。
居なくなる前と変わらない、まるでそこらを少し散歩してきたかと言わんばかりの顔をして、玄関口に立っていたのだ。
どこへ行ったのか、なにをしていたのか、あの資金はどこから捻出されたものなのか。
どれだけ問いただしても「君は心配しなくていい」の一点張りだった。共同研究者に何も言わず長い間姿を消して、手紙の一つもろくに寄こさずにいたというのに、それはあんまりではないか。
そう告げてもなお、彼は口を噤んだままだった。
「ヘルマン」
苛立つ彼を嗜めるように声を掛けるが、まるで耳に届いていないようで、あいも変わらず紙を墨で汚していく。
(紅茶が冷めてしまうよ。今日は朝から寒かったから、ずっと外を歩き回ってたからすっかり体が冷えてしまったんじゃないか。ブランデーを少し垂らしたものだから、こんな寒々しい部屋の中だって少しは暖かく感じるんじゃあないかと思ったんだ。)
そんな言葉を投げかけたところで、彼が返事どころか顔を上げる事すらしないのはよく分かっていた。
「それより一昨日の実験内容についてなんだが、過去の記録と比べて幾つか新しい仮説を立ててきた。デスクにまとめたものを置いておくから後程確認して欲しい」
「ヘルマン、その事なんだが」
「あと君が以前言っていた電気量の件なんだが、やはり私は今よりも」
「ヘルマン、」
「わかってる、今の設備で試すのは危険過ぎるというんだろう。だからといって出来ない訳ではないんだ。私の予想では…」
「もう、こんなことやめよう」
それ迄ずっと手元の書類に向けられていた視線が、ようやっと此方に向けられた。
こんな風に私の目を見つめ返してくれたことなんて、長い付き合いの間でどれ程あっただろう。あの日、自らの運命に私を引き摺り込んだあの時、情熱と期待と希望で輝かせた眩い光を向けたのが最初で最後だったのかもしれない。
零れ落ちそうなほど見開かれた男の瞳には、あの日見た眩さは残ってなかった。
「何故」
短く呟かれた言葉から、彼が当惑している様はありありと感じ取れた。
それから、見開かれた瞳は瞬時に鋭い眼光へと変貌し、整った形の眉を歪ませ眉間に深々と皺を刻んでいった。
「資金の事なら心配するなと言ったろう!?人手が必要なら他の研究所からまた借りてくればいい!証明に必要な資料か?それともなんだ?何が、なにが君にそんな事を言わせるんだ!!」
手に持つ書類がぐしゃりと悲鳴を上げ、床に打ち捨てられるのを、私はただじっと見ていた。そうして再びヘルマンの顔を見やると、今迄に無い程の怒りに満ちた表情がそこにあった。
憤怒の感情を向けられる事に、耐性があるわけでは無い。むしろこうやって一種の激情を向けられるのは、彼と長く過ごしていても、いつまで経っても苦手なままであった。
しかしこの時ばかりは、肩をいからせ感情的に息を荒げる彼のことも、彼を怒らせてしまった自分自身のことも、全て遥か遠くで起こった出来事の様に思えて仕方がなかった。
「この研究は、永久機関の実現は不可能だという証明だけを繰り返している。私たちでは、いや、私たちでも。この証明を覆す事なんてできないんだ」
おかしな事に、私の心は今、凪の様に穏やかであった。
かけがえの無い友人を、彼が縋るものを、あの紙束たちの様に打ち捨てる行為だというのに、私は自分の言葉に対して、後ろめたさなど微塵も感じていなかった。
検証結果をレポートにまとめ、報告する事とさして変わらないのだ。
そう思った刹那、視界が大きく揺ぎ、普段は視界に入らない天井が目に入った。
ゆっくりと寄せる左頬の痛みによって、ようやくヘルマンが私にした事を理解した。一等の教育を受けて育ったであろう彼が、どんなに怒り喚き散らしても、自ら誰かに手を上げることは一切無かった彼が、拳を振るったのだ。
呆然とする私に覆い被さるように、ヘルマンは身を乗せ胸ぐらを掴んだ。もう一発殴るつもりなのか、左拳は再び振り上げられ私は思わず身構えた。しかしその拳はいつまで経っても振るわれる事は無く、恐る恐る目を開けば、彼は上げた腕を無気力に垂らしていた。
「君には、君だけは、そんな目をしないで欲しかった」
胸元を掴んでいた手は、縋るように私のシャツを固く握り締めていた。垂らした頭からは表情は窺うことはできない。
それは私も同じ気持ちだよ、と口に出そうかとも考えたが、彼の震える声に、これ以上何も言うべきでないという事を悟った。
冷めた紅茶も、自ら再び熱を持つ事は、もう二度と無いのだろう。