厄介な/待っていて/ぐずぐず「おはようございます」
ちょうど椅子に掛けた彼の頭に声をかけると「あァおはよう」と短く返事が返ってくる。今朝も彼は煙草の灰を積もらせて新聞に目を通していた。私の一日は朝刊をこのテーブルに載せておくことから始まる。ついでなんてふりをして彼に朝の挨拶をするのも忘れずに。なおも煙をくゆらせる副船長に、すこしくらいこっちを向いてよなんて思っていた頃が懐かしい。厄介なこの恋心を抱え始めたのはいつだったかいまではもう思い出せない。いつの間にか好きになっていたのだ。なんてありがちでべたな話だと我ながら思う。
第一印象は海賊らしいデカくておっかない顔した人だと感じてた。でも実際は怖い時もあるけど理不尽に怒ることなんてなかったしあの低く穏やかな声が不思議と優しく聞こえてくるようになるまでそう時間はかからなかったと思う。
「もう中に戻るか?」
朝の挨拶を終えたらその日の持ち場を確認しに一度船室へ戻るのが常だったから勿論今日もそのつもりでいた。
「誰かに伝えとくことでもありましたか」
彼の方から引き留めてくれるなんて滅多にないことで心が弾んだ。大きな手がちょいちょいと手招くように動くのが可愛らしいななんて思ってしまう。
「いいや毎朝がんばってるおまえさんにな」
駄賃だといって渡されたのは飴玉だった。
「頑張ってるって言ってもカモメちゃんから受け取った朝刊置いとくだけですけどね。ありがたくいただきます!」
「この時間に起きてるだけえらいさ。たいていの奴ァまだ寝てる時間だ」
おまえは偉いよと言葉を重ねられて胸がむずがゆい。好きな人にこんなささいなことまで褒められて嬉しくないわけがない。お世辞とわかっていてもやっぱり嬉しくなってしまう。最後に「今日も一日よろしくな」なんて言われてしまえば今日という日がどんな一日よりも素晴らしい日になるんじゃないかなんて予感さえしてしまう。
幸せな一日の幕が今日も上がった。
「おいぐずぐずしてんじゃねェ! そこのロープもっと強く引け!!」
船上に大声で指示が飛び交う。朝あんなに穏やかだった船は今大荒れの海を進んでいた。風はごうごうと吹き付け雨がバシャバシャと降りしきる。
嵐の音にかき消されないように負けじと大声で返事して私も船上を駆け回る。
「雲の切れ目だ……もうすぐ嵐を抜けるぞ!」
その知らせにほっとする。こんな状況が長引かれちゃたまったもんじゃない。あと少しの辛抱だと思ったその瞬間だった、ほんの少しだけ気が抜けてしまったのが良くなかったらしい。大波を受けた船体がぎぃと傾いで踏ん張っていた足がずるりと滑った。
「あっ」
ガンと派手な音がして強か頭を打ち付けた。視界が明滅する。「滑ってこけた」と認識する間にじわじわと痛みがやってくる。くらくらとする頭をどうにか持ち上げてようとしてズキンと走った痛みに思わずその場にうずくまったのを最後に私の意識は途切れた。
「……い、おいナマエ聞こえてるか!」
完全に意識を失っているのかナマエはベックマンの呼び声にピクリともしない。
「チッ、こいつは先に医務室に連れてくからホンゴウ呼んどけ」
丁度近くにいた仲間に声をかけおれは目の前でだらりと力を無くしている女を慎重に抱き上げる。極力揺らさない様にかつ迅速に医務室へと彼女を運んだ。白いベッドの上に横たえたナマエを見て言いようもなく胸がざわつく。
「悪ィ遅くなった!」
ばたばたと駆けこんできたホンゴウに恐らく頭を打ち付けていることを伝え、それからすぐ雨の降り続く船上へと戻った。
久々の大荒れの海に苦戦しつつもようやく嵐を抜けクルーにいくつか指示を出し終えるとベックマンは医務室へ向かった。彼女の顔を最後にみたときに感じたあのいやな感じがその足をはやらせる。ノックして入るとそこには身体を起こしてベッドに座る彼女の姿があった。
「起きて大丈夫なのか」
その姿に安堵して尋ねるとホンゴウが状態を簡単に説明してくれた。今のところ問題なさそうだが明日の夜までは絶対安静とのことだった。
「ってなわけで、明日まではここにいろよ。仕事も無しだ」
そう言い渡された彼女は行儀よくはいと返事するとこちらを振り返って言う。
「あの、副船長が気付いて運んでくださったってききました。ありがとうございます」
朝あったときと比べて随分弱弱しく礼をする彼女を見てベックマンの心臓がつきんと痛んだ。
翌朝、ベックマンは目を覚まして身支度を済ませると毎朝そうしているのと何も変わらず甲板へ出た。朝もやが少しずつ晴れていくのを眺めながら静かに煙草の煙をとりこむ。吐き出した煙がもやにとけて一緒になって消えていくのをただぼんやりと眺めているとカモメがくるり頭上を旋回して降りてきた。はたと気づいて小銭を渡し朝刊を受け取った。それからいつも通り椅子に腰かけて朝刊をぺらぺらと読み進める。何かが足りない、落ち着かない。いつもと同じ朝、着慣れた服に吸いなれた煙草。彼女の姿だけが足りなかった。
「そうかァ」
万感の思いを込めて独り言ちると、立ち上がり新聞片手に彼女が眠っているだろう医務室へと足を向けた。だが医務室のドアをノックすると意外にもどうぞと返事が返ってきた。
「起きてたのか」
開口一番に尋ねると、「ついいつもの癖で」と彼女は微笑んだあと心配そうな顔をしてこちらを上から下まで眺めて「どこか怪我したんですか」と言った。医務室に来る用なんて普通そんなものだから彼女がそう尋ねるのも無理はない。だが勿論ベックマンの目的は違う。
「今日はあそこで待っていてもおまえに会えないだろう。だから会いに来たちまったのさ。どうもおれの朝にはおまえさんがいないと駄目らしい」
「ど、どういうことですか?」
どうやら今の言い方では十分に意味が伝わらなかったらしい。瞳をぱちくりさせている姿を可愛らしいもんだと思いながら想いを伝えるべくもう一度おれは口を開いた。
「あァつまりな、おまえが好きだと言ってる」
「は、え」
今度こそ意味を正しく理解したのか彼女の頬が段々と赤く染まっていく。
「返事は?」
顔を真っ赤にさせて好きですと伝えてくる彼女にどうしようもなく愛おしさが募った。