光のお隣さん/第六話 自分の店の扉でこれをやられたらキレてしまうかもしれない。
そんなことを思いつつ、動力の来ていない自動ドアに、べたりと両掌を置く。横へとずらす力を込めると、音もなく、重いドアは動いた。暗闇の中、ぬるぬるとひらいていく入り口を、サンクレッドが訝しむ表情をして見つめている。
「鍵は……」
「かかってないようだ」
信じがたい話だが。
掌紋がべっとり付着したドアを、半分ほど開けてから、先んじて中に入り込み、サンクレッドを手招いた。戸惑いながらも続いた男が完全に入りきるのを見てから、再び、ドアに手を貼りつけて、今度は逆方向へと押す。外から気付かれるような異常は、なるべく少ない方がいい。
「あんたはやめとけ。俺がやる」
スマホのライトを点けたサンクレッドを制して、役目を代わった。彼のスマホにはリーンからの連絡が入るかもしれないのだ。バッテリーの消耗は、極力、抑えるべきだろう。
滅多に使わない機能に手間取りつつ、どうにか灯りを手にすると、右から左へゆっくり振って、屋内の様子を窺った。受付らしいカウンター。取って付けたような観葉植物。茶色のPUレザーを張った、二人掛けの分厚いソファ。本来ならば広いホールに散在しているようなものだが、ここではせいぜい十畳くらいの部屋に小さくまとまっている。
個人運営の博物館。ウリエンジェが指し示したのは、店から車で五分程度しか離れていない、ここだった。
「こんなところに、リーンがいるのか?」
「わからん……」
疑問は尤もだ。およそリーンには縁のない場所だとしか思えない。しかし、おかしいと言うならば、この場所の門が開いていたことからして、既におかしいのだ。自動ドアの鍵も外れていた。セキュリティが切られているのか、侵入者である自分らに、警報の類いが一切おこなわれないのも、異常な事態である。小規模であっても博物館(正確には「記念館」と表札には記されていた)ならば、それなり価値を持つものが展示されているのだろうに。
誘い込まれているようだ、と、嫌な予感が背を這うが、今はそんなことよりも、リーンの安否を確かめたい。スマホのライト一つを頼りに、少しずつ、歩みを進めていく。灯りを持たないサンクレッドも、やや遅れて、後ろに続いた。
無人の受付の横を抜け、まずは、一部屋目に入る。ショーケースにはよくわからない器具やら石やらが並んでいる。壁には地域だか人だかの歴史がずらずらと書いてあったが、読み耽っている時間はない。矢印と「順路」の文字が書かれた看板を横目に、二部屋目。
「……ッ!」
呼吸ごと、足を止める。後に続いていたサンクレッドが、軽く背中にぶつかった。真横にずれて視界を確保した彼からも、息を呑む気配がする。
女が、一人。リーンではない。まったくの別人、大人の女だ。広がった黒いスカートのせいで、まるで暗闇から突如として生えてきたかのように見える。ライトを向けると、複雑な色をした目が、ゆっくりと背けられた。
「顔に向けないで。眩しいわ」
友人を窘めるような、遠慮のない口調である。若干の苛立ちは感じるが、特に、逆らう理由もない。スマホを下へ傾けて、照らす先を足に移すと、女は、こちらを向き直り、ごく穏やかに微笑んだ。いい子ね、とでも言いたげだ。
「ようこそ、マトーヤ記念館へ。そして、お疲れさま。ここがゴールよ」
言葉は、前に立つ自分を外れて、サンクレッドに向けられている。咄嗟の反応ができずにいる彼を庇うように立ち、可能な限りの険を込めて、女の顔を睨みつけた。
「何だ、あんた」
誰何の声を、女は、妖艶な笑みでいなした。
「私? 善意の第三者、かしら」
「ふざけろ」
「あるいは新宿の魔女」
「あ?」
そのフレーズは、いつか、誰かの口から、聞いたことがある。朧な記憶を浚う間に、サンクレッドが立ち直った。横を通り過ぎ、前に立ち、ひたと女に視線を据える。
「質問を変えさせてもらう。……俺の娘は、ここにいるのか」
「いるわよ」
女はさらりと答えた。その「わかりきったことでしょう」とでも言いたげな態度に圧され、同じく圧されたサンクレッドと、思わず顔を見合わせる。
「お迎えが来たわよ。出てらっしゃいな」
振り向いた女の視線と声は、隅にあるドアに向けられている。壁紙に近い色で塗られた、目立つことを拒んだ造り。小さな「STAFF ONLY」のプレートが付いた扉はやがて、おずおずといった具合にひらき、その向こうから光が差した。
明るい。館内で、その部屋だけが、煌々と照明を灯している。そして、漏れ出す光の中へと、見慣れたシルエットが、進み出た。
「サンクレッド……」
「リーン! 無事か! 大丈夫なのか!?」
「来ないで、ください」
駆け寄りかけた父親を、暗く静かな声が止めた。前に出たサンクレッドの向こう、逆光に立つ少女の貌は、影に包まれて、窺えない。
「どうして、ここに来たんですか。サンクレッドは、私を家から、追い出したいんじゃなかったんですか」
「そんな訳ない。そんな訳ないだろう!」
「だったら、どうして、ルヴェユールのおうちに、私を遣ろうとするんですか!」
闇を裂くようなリーンの叫びに、サンクレッドが、僅かに怯んだ。喉を突かれたように俯き、拳を握った背中を見る。
「ルベ……?」
「ルヴェユール家。あの花屋を立ち上げたのが、彼の師、ルイゾワ・ルヴェユール。そこまで言えば、わかるでしょう?」
小さく零した疑問の声に、的確な回答が返された。わかる。わかるが、どうしてこの女が、説明をしてくれているのだろうか。
いつしか隣へ来ていた女は、父と子の緊迫したやりとりを、何か、微笑ましいものでも見るような目で、眺めている。まるでこの先どう転ぶかも知り尽くしているようだった。
「フルシュノさんも、アメリアンスさんも、いい人だって、わかってます。アルフィノさんも、アリゼーさんも、みんな、みんな、大好きです。でも、私がルヴェユール家の娘になるのは、絶対に違う……!」
「リーン」
「俺にはできないことだからって、何ができないんですか! 私は、サンクレッドと暮らすことに、不満なんてなかった!」
悲痛な声に、潮が交じった。リーンが、涙を零している。
「そんなもの、俺だってない!」
「だったら、どうして!」
「だから、それは──」
何かを衝動的に言いかけ、そして、サンクレッドは、噤んだ。
「……お前は、賢い子だ、リーン」
やがて、低く沈んだ声が、強引な話題の転換を図る。
「大学でも専門学校でも、きっと、好きなところに行ける。国内に限った話じゃない、海外でだって、同じことだ。お前は、本当にすごい子だ。……うちには、収まりきらないくらいに」
サンクレッド。それは。
思わず口を挟みそうになったところを、そっと腕に添えられた、女の手に止められる。相変わらずの柔らかな微笑を浮かべた唇には、子供に静寂を促すときのよう、人差し指が当てられていた。
「お金の、問題ですか」
「それもあるが、それだけじゃない。そもそも、学のない俺では、お前を上手くサポートできない」
俯き、くしゃりと前髪を握り潰したサンクレッドは、苦悩しているようではあるが、同時に、娘から目を逸らしている。
「お前の可能性を見逃すことが……いや、潰してしまうことすら、今の生活では、あり得るんだ」
「………」
「フルシュノさんなら、お前のことを、俺より正しく見てくれる。何せ、あの人はバルデシオン大学の教授だ。教育のプロだ。わかるだろう?」
ご子息は教職に就いていらして、って、バルデシオン大学の教授かい!
とんでもない肩書きに、思わず口がひん曲がった。それは確かにプロ中のプロと呼んでも差し支えない。頭のいい我が子を預ける先として、充分な相手だろう。
しかし、本題は、そこではない。そこではないのだ、サンクレッド。彼ほど聡明な男が、どうして、それを見誤ってしまうのか。
「結局、追い出したいんじゃないですか」
リーンにしては珍しい、吐き捨てるような声がした。
「違う」
「違いません。サンクレッドは、さっきからずっと、私を手放すのがいかに正当なことか、そればかり話してる」
「正当だなんて思ってないさ。無責任なのもわかってる。ただ、俺では力不足だと」
「私を本当に賢い子だと思ってくれているのなら、サンクレッドの力不足なんて関係ないでしょう!? お金のことだって、不安があるなら、奨学金を獲ってみせます!」
「だから、金だけの問題じゃない。環境のことを話してるんだ」
「今の暮らしが、環境が、そんなに悪いものなんですか」
「そうじゃない、ただ、ルヴェユールの家なら」
「ッーーーーー!!!」
突如、獣のような咆哮が、館内に轟いた。
さっきの女か、と横を見るが、彼女は悠然と微笑んだまま、小さな口を噤んでいる。とはいえ、リーンの声ではない。サンクレッドが話しているところを中断されたのだから、当然、サンクレッドの声でもない。
目を凝らす。スマホを持ち上げる。リーンの足下を緩く照らして、そこで、我が目を疑った。
もう一人いる。いつの間に、いや、リーンが部屋を出てきたときから、後ろにいたに違いない。リーンと同じくらいの少女だ。正しく烏の濡れ羽色と呼ぶべき黒髪と、黒いドレス。濃いメイクが華やかに端整な顔を彩っている。
「リーンが言うから黙って聞いててやれば、いつまでもうだうだと……」
やはり、この少女の声だ。苛立ちを隠そうともせずに、腕を組み、舌を鳴らした少女は、カン!とヒールで床を叩いた。
「家が家がって、うるっさいわね! そんなにリーンの家を変えたきゃ、あと三年で変えてやるわよ! それまでおとなしく待ってろっつの!」
「「「えっ」」」
ハモった。何故かリーンまでもが。魔女だけが、華奢な手を口に当て、可笑しげに目を細めている。
「リーンの父親!」
「え、あ、はい」
滅多に聞かない呼び方をして、サンクレッドが指差される。
「そもそもだいたいの責任はアンタにあるわよ、わかってんの!? 一度はリーンを引き取ったくせに、やっぱり自分じゃ役者不足でしたーとか、後出しにもほどがあるわよ! それもリーンに相談してじゃなく、勝手に判断したんですって!? ふざけんじゃないわよ! 何様のつもり!?」
強い。言葉も声も威勢も、ありとあらゆるものが強い。あのサンクレッドが一言も返せず、むしろ気圧されている。
「その上、さっきから屁理屈をいじいじうじうじ捏ね回して! いかにも話し合おうみたいな顔して、アンタ、リーンの言い分をちっとも聞いてないじゃない! いいから! まずは! 話を! 聞け!」
「はい……」
「リーン!」
「え、えっと、あの、私、」
「この男と暮らして、どうなの!」
「しっ……幸せです! すごく! 最高に!」
「聞いたわね、リーン父!」
「はい……」
なんかもうすごい。完全に、黒い少女のペースである。親子も親子で呑まれているが、自分など完全に蚊帳の外だ。
「幸せだっつってんのよ! リーンは! アンタの娘になれてよかった、アンタが父親でよかったって! それ以外に何があるの!」
やり手の司会者みたいだな、と、場違いなことをぼんやり思う。これまでの流れがひとまとめに、話題が一つに絞られた。サンクレッドが目を逸らすことも許されないほど、シンプルに。
「……ない、な」
そうだ。リーンの中ではまた格付けが違うのだろうが、少なくともサンクレッドの中では、リーンより大事なものなどない。彼女が「今」を幸せだと、何も引かずとも足さずとも構わないのだと言うのならば、サンクレッドは「今」を保つことをこそ、考えるべきだった。より幸せになれるかもしれない未来を得るためならば、幸せな現在を壊してもいい、なんて話はどこにもない。
ぽつりと零された返答に、納得したのか、していないのか。フン!と鼻から息を吐き、黒い少女は、歩き出した。床を踏み鳴らすヒールの音が、今度は一回きりでなく、畳み掛けるよう、続いて響く。
「帰るわよ、リーン!」
「え、あの、何処へ」
「今のアンタの家よ! 暫定!」
「暫定じゃないよぅ……」
「暫定よ! 私と二人で暮らすまでの!」
「ガイア、私と一緒に暮らすの? なんで? 嬉しいけど」
「嬉しいからよ!」
そして、ガイアと呼ばれた少女は、リーンの腕を引ッ掴み、立ち尽くすサンクレッドの横を、早足で通り過ぎていった。思わず見送る形になった、自分の横も、言わずもがな。灯りも手にしていないのに、まるで問題にしていないよう、しっかりとした足取りで、一気に玄関へと向かっていく。
「ふんぬ!」
自動ドアを人力で開けているらしい声がした。なるほど腕力まで強い。パーフェクトなガールである。
「あ、あのっ、」
遠くから、さらに遠ざかりつつある、リーンの声がする。
「心配かけてごめんなさい! 先に、家に、帰ってまーす!」
最後の方は、閉じた自動ドアに遮られて、よく聞こえなかった。
「最近の子は進んでるなあ……」
完全なジジイの発言が出た。おっさんの発言ですらなかった。わかっていたが、止められなかった。
若い二人に置いて行かれた大人三人で立ち尽くす。もっとも、実際に立ち尽くしているのは自分とサンクレッドだけで、黒いドレスの女は寛ぎ、愉快そうに微笑んでいる。
「で、」
情報の処理に時間が要りそうなサンクレッドに代わって、尋ねた。
「結局、あんたは何だったんだ」
「あら、言わなかったかしら? 私は、善意の第三者よ。あるいは、新宿の魔女。そして、ガイアの保護者」
「ハァ!?」
「血で繋がらない親子なんてもの、いくらでもいる。そういうことよ」
ころころと笑う女の指が、壁のパネルを手早く弄る。すぐに照明が館内を満たし、眩さに、何度も瞬いた。
ようやく明るくなった場所で、改めて、女の姿を見る。確かに、黒いドレスのほかは、何一つガイアと似ていない。性格的な面においては、めちゃくちゃ似ていた気もするが。
「いや、待て。ってことは、あんた──」
リーンの友達の母親。娘の不在に気が付いたとき、サンクレッドは真っ先に、彼女と電話で話したはずだ。
「ええ。だから言ったでしょう? 家には来ていない、と」
「……なるほど」
正しく魔女であるらしい。嘘は一つも吐いていない。リーンの安全も確保していた。その上で、振り回してくれた訳だ。
「荒療治でごめんなさいね。けれど、最近の彼女を見る限り、必要なことだと思ったのよ。私や娘も知らないところへ、家出してしまうより先に、ね」
「そうだな。……返す言葉もない」
ようやく処理が追いついてきた様子のサンクレッドが、寂れた苦笑を滲ませて、女の謝罪を受け止めた。一年の付き合いを経てもなお、彼は自身を「私」と言い、リーンとの正確な関係についても、打ち明けてはくれなかった。それが崩れるほどの衝撃。確かに荒療治そのものだ。しかし、この荒療治がなければ、二人は、どうなっていたろうか。
ともに賢く、忍耐強く、我慢というものをよく知る親子。彼らが互いに「自分さえ耐えれば丸く収まる」と思い続ければ、そこから時間が経てば経つほど、話はこじれたに違いない。そして、いつの日か、取り返しの付かない規模で、爆発する。最も失いたくないものを失う可能性すら孕んで。
納得しきれた訳ではない。振り回された、の一言では済まないダメージをサンクレッドは負ったし、そもそもどうしてこの女が、この親子がそこまで食い込んできたのかという疑問もある。自分ですら触れられなかったのに、という腹立たしさも若干。
とはいえ、結果として自分らは、リーンを見つけることができた。彼女の身も無事だった。そして、不器用な親子の本質、たった一つの重要なことも、再確認することができた。ならば、ここらで手打ちにするというのも、妥当な判断ではある。
「お嬢さんのことは心配なさらず。うちの娘が責任をもって送り届けるわ」
まあ、確かにあの子なら、寄ってくる大人の五人や十人は、余裕でしばき倒しそうだ。とはいえ、結果を見届けなくては、真の安堵は得られまい。
「帰るか」
声を掛けた自分をゆっくりと見る琥珀の目。娘が行方不明になり、なんとか無事を確認したものの、その娘と口論し、終いには娘の友達から死ぬほど罵られるという、稀有な深夜を過ごした男は、まだ少し、呆けているようだ。
「何処へ?みたいな顔すんな。あんたと、リーンの家にだよ。まあ、俺は玄関先までですが?」
気合いを入れるようその背をはたいて、親指で、出入り口を示した。ガイアの母親はひらひらと手を振り、見送る体勢に入っている。自分らがここから出なくては、彼女も戸締まりを始められまい。
先ほど見たガイアのように、腕を掴んで、歩き出す。暗闇の中を我がもの顔で走り抜けた彼女とは違い、充分な照明の下ではあるが、そうでなくては歩けない。速さも勇気も無謀さも、もう、若者には敵わないのだ。軽やかに駆けた少女たちの後ろを、せいぜい追いかけよう。
「馬鹿。寄っていけよ」
やがて、自動ドアを開け、閉めて、門の外まで出た頃。腕を掴まれていた男は、ようやく、そう言って、笑った。