下拵えもすきずき フィディアの尾は美しい。スイッチを切り替えて、天井の照明の眩しさが抑えられると、鱗の光沢にいくつもの色が与えられる。宝石のようだとも思う。加えて、種族特有のものなのかヴィーヴルの尾とは違い、しなやかで柔らかく張りがある。ドクターは目の前のそれに夢中になった。正確には、現実から逃避するために夢中になろうとした。
会話も何もない静かな空間で、二人の男がベッドの上で向かい合っていた。コロセラムの指先がドクターの閉じた膝に触れる。ひやりとして冷たい。それに対してドクターは先程シャワーを浴びてきたばかりだ。湯気も髪を滴る水分も全て拭き取られてしまったが、じわりと内側から発熱するように高くなった体温に掌が沈み込んだので、ドクターは思わず背筋を震わせた。
「ドクター、そこまで緊張していちゃあ出来ることも出来ませんよ」
「いや、わかってるんだ、だがどうしても……」
この先のことを思うと、反射的に体は強張った。己の恋人――コロセラムに主導権を委ね、自分はただ彼の誘導のままに力を抜いていればよい。頭では理解している。それを思ったように出力できないことを誰が責められようか。勿論この出来た恋人もそれを責めはしなかった。ドクターの葛藤は、コロセラムにとっては全て過ぎたことなのである。今彼の頭の中には、この問題をどうやって解決してやればよいのか、それしかない。
「身構えるから恐ろしくなるんです。ほらドクター、私の声に集中して。まずを目を瞑りましょう。次に体から力を抜きやがってください……こら、抵抗しない」
「なあ、これは君を信じているからこその確認なんだが、痛くしないよな? 優しくしてくれるよな?」
「それはドクターに懸かっていますので、私から約束できることはありません。では少しずつ力を加えますよ」
「そんな!」
ドクターの閉じられた足が胡坐をかくように広げられている。コロセラムの両手はドクターの両足を抑えつつ、真下へ向けて圧力を強めていった。ドクターの股関節が徐々に開く。手応えが固くなっていき、限界だと言わんばかりに反発力が強まっていった。「ストップ!」止まらない。「ぁ、ちょ、やめ、いだだだだ」しかしまだ止まらない。今やドクターの膝はベッドシーツすれすれのところにあった。「もう無理だって!」「いやいや、まだ行けるでしょう」「これ以上広がらない! ほんとに無理!!!」シーツがばんばんと手で叩かれる。コロセラムの基準からすれば、ドクターの限界値はお遊びみたいなものだ。しかしスタートラインを考えればよくぞここまで解すことが出来たと己へありったけの賞賛を贈りたくなるのも無理はない。その開かれた両足の間に自分の体を滑り込ませることさえ厳しかった過去を思うと、恋人へ施すにはあまりにも色気のないストレッチを続けてきた甲斐もあるというものである。
一旦加える力を弱めると、ドクターは息を切らして背中から倒れこんだ。荒い呼気に合わせて薄い腹が上下する。この人は体力がない。コロセラムの想像よりもずっと。ウルサスやヴィーヴルにこそ劣るもののフィジカル面に優れるフィディアの中で、相対的にコロセラムは貧弱だ。しかし同じデスクワーカーとして扱うのも憚られるほど二人の体力には差がある。その歩調に合わせてやる必要がある。そういう時、コロセラムは決して少なくはない口数が更に多くなる。
「先週に比べれば目に見えて効果が出ています。就寝前の柔軟を欠かさず行っている証拠です。嫌だ嫌だとごねていやがりましたが、結果はなかなかどうして悪くない。及第点としましょう」
倒れたドクターに覆いかぶさるように、片手を顔の横についた。ドクターはまだ酸素を取り込むことに集中している。風呂上りということもあって目はとろんとしており、日中の激務による疲労が残っていることが窺い知れた。だが性質の悪いことに、ドクターは疲労だけでは眠ることの出来ない体だ。彼が自然な睡眠を取るにはもう一工夫いる。肌を擦り合わせることでこれを特効薬としても良いが、ただ隣で同じように横になって目を瞑ってやるだけでも、彼にはじゅうぶんな安心感を与えられるようである。ドクターがそれを望むのであれば、終わりかけの今日という日をそう過ごすことも吝かではなかった。だから問いかける。選択を完全に彼の意思にのみ委ねるのではなく、お伺いを立てるように熱の籠った視線でこの光景を味わいながら。
「どうしたいですか、ドクター?」
ドクターがコロセラムを見上げる。双眸にどういった感情が込められているのか――コロセラムは正確にそれを読み取った。であれば、以前からのドクターの要望もこの機に叶えてやるべきだろう。コロセラムが割り込んでいるのはドクターの足の間だ。成果を挙げたことを褒めるように片膝を撫でてやる。本人の意思に反して拒まれるというのはなんとも悲しいものだ。だが、時間をかけて頑なさを解すのも悪くはない。
視線に込めた期待を受け取ったにもかかわらず一向にその先に進もうせず感慨に耽る姿に、ドクターは緩んだ唇からは放心するままにか細い問いが漏れた。「コロセラム……?」この状況で名前を呼ばれると、焦れて強請られているようにさえ聞こえる。しかし、ドクターは純粋な疑問を向けたに過ぎない。下心を邪推するのは、他でもないコロセラムがそうであってほしいと思うからである。
「その……しないのか?」
シーツに手をついて、上体を起こそうと試みるドクターを手で制した。
恋人に恥をかかせるわけにはいかない。コロセラムは思考を中断して、目の前の据え膳に向き直る。
「お待たせしてすみません。ところでドクター、これは確認ですが、先程のストレッチの目的をまさかお忘れではありませんよね?」
ドクターの頭脳は優秀だ、目的を忘れるはずがない。この先自身の身に降りかかる未来を即座に察知するなり慌てだした。
「ま、待て!」
足を閉じようにもコロセラムの体が割り込んでいる。
「する、のは、構わないが! た、態勢が……」
「酷い人だ。ドクターが言ったんですよ、顔を見ながらしたいってね。これ以上おあずけを食らわされるのも勘弁したいところです。大人しくお縄につきやがることをお勧めしますよ」
結局ドクターはその攻防にあっさりと負けた。
代償に翌日、酷い筋肉痛と倦怠感に見舞われたが、平時以上に甲斐甲斐しい恋人の助けを以てして一日を終えたのだった。