熱「またかよ……」
仕事から帰るなり玄関に見慣れた靴を見かけた。
それは、去年の誕生日に黛がプレゼントしたもので、同年にサイズの違う同じ物を黛はもらっている。いわばお揃いなのだが、なんとなく気恥ずかしくてあまり口にはしたくなかった。その靴がここにある、ということは合鍵を渡している後輩が来ているのは確かなのだが、家の中はしんとして、静まり返っていた。1LDKの部屋は、廊下を抜けた先にLDKがあり、その隣に寝室がある。しかし、すりガラスの向こうに灯りは見えない。いつもなら、玄関の音がすれば忠犬のように我が物顔で迎えに来ていたが今日はそれもない。期待してたつもりはないが、それでも毎回されていれば、いやでも期待してしまう。習慣というべきか、なんというべきか。
黛はひとまず革靴を脱ぎ、リビングへ入るとやはり部屋の中は暗く、人の気配もない。灯りを付けて部屋を見渡すも、やはり誰もいない。キッチンのカウンターにはガラスのコップが置いてあるだけで、シンクには食器は一つもなく、綺麗なものだった。適当にカバンを置いた後、まだ片付けていないこたつの上に水色のノートパソコンを見つけ、閉ざされた寝室へと向かう。
「テツヤ、いるのか」
寝室に入ればやはり中はうす暗かったものの、小さなルームランプの明かりがほのかに光っていて、ベッドがこんもりしているのを確認する。名前を呼んでも返事がないということは、寝ているのだろう。しかし、まだ七時前のこの時間に、いくら早寝の黒子でも寝ていたことなど一度もない。近付いてもう一度名前を呼べば、色白の腕が黛の袖を掴んだ。
「テツヤ?」
「……おむかえ、いけなくてごめんなさい」
震えるその声に、いつもの覇気はない。そもそもが感情をあまり載せるような口調では無いのだから、いつも通りと言えばそれまでだが、どこか様子がおかしい。
「布団どかすぞ。顔見せろ」
黛は返事を待たずに頭まですっぽり被った布団を退けると、中にいた黒子は何故か服を何も着ていなかった。
「おまっ、なんつー格好してんだよ!」
「……すごく、暑かったんです。あつくて、たまらなくて、でも頭フラフラして……」
慌てて布団を被せ、黛は黒子の枕元に座ると額に手を当てた。確かに熱い。間違いなく風邪か何かだろう。下を向けば黒子が脱いだらしい服が散らばっていて、目を逸らした。
「お前、熱出てるぞ」
「ねつ……?」
虚な瞳が、黛をじっと見る。
その表情はどこか艶っぽく、濡れた瞳が誘っているように思えてわざとらしく咳払いをした。
「あぁ。風邪でも引いたんだろ。今体温計取ってきてやる。今の時間病院はやってねーし、明日からも休みだから市販のやつで我慢しろ」
頭の中で一通りいる物を考えて、黛はそれを取りに立ち上がった。が、しかし袖を摘んだまま離さない黒子のせいで、そこから動けずにいた。
「おい放せ。取りに行けねぇだろ」
「……行かないでください」
「馬鹿。遠くに行くわけじゃない。すぐ戻る」
黛は仕方なく頭を撫でてやると、白い腕はそのままシーツに落ちた。大きな瞳が、まるで誘うように黛を見つめている。
「良い子で待っとけ」
今度こそ寝室を後にしてリビングへ戻ると、まず風呂場に乾かしていたスウェットに着替え、歯を磨き顔を洗った。それから、体温計に熱冷ましのシート、それから常備薬と買い置きのゼリーやミネラルウォーターをかき集めながら、何故このようなことになっているのかを真剣に考えた。
具合が悪いのなら一言連絡すればいいのに。そうすれば、バニラシェイクの一つや二つ土産に買ってきたものの、黒子は普段からスマホを携帯しなかったり、メールの返事が極端におそかった。まして、黒子と黛は恋人関係ではない。同じ高校で先輩後輩の仲でもなければ、友人とも違う。不明瞭な関係。だからこそ、言いにくいところもあったのだろう。まして、体調不良を押してまで家に来るような関係じゃない。ならどうして。黛はそこまで考えて、やめた。今はそれを考えている場合じゃない。
「テツヤ、大丈夫か」
足でドアを開けて中へ入れば、先程と同じように黒子は頭まで布団を被ったままだった。
「良い子で待ってたみたいだな」
少しだけはみ出た頭を撫でてやると、布団をずらし黒子が顔を出した。潤んだ目と赤い顔に、黛は集めた物をサイドテーブルへおくと、布団を剥いだ。
「……だめ、でしたか?」
「いや、いい。それ着とけ」
さっきまで全裸だった黒子が、今はちゃんと服を着ていた。もちろん、黛が朝脱いで置きっぱなしにしてきたスウェットの上下だ。正直何も思わない筈がなかったが、今はそれどころじゃない。
布団を戻し、熱い額に冷却シート、体温計を脇に挟ませ、ひたすら無心と無表情で状態を確認する。
「……三十九度」
「体と顔が熱かった理由、それですね」
「この馬鹿野郎。なんでそんな体調でウチ来てんだよ。家で黙って寝とけ」
あまりの無謀さに、黛は思わず声を荒げた。ここまでの高熱なら、来るまでに行き倒れていた可能性だってある。それでもし、二度と連絡を取ることもできなくなるかもしれない可能性があるのは正直許せなかった。
「すみません……ボク帰ります」
「は? 頭までイカれたのか?」
「だって、ボク邪魔じゃないですか。黛さんに甘えてばかりで、……ごめんなさい」
身を起こし、涙声で鼻を啜りながらベッドを降りようとする黒子の肩を黛は掴んだ。
どうして黛に甘えているのか、それを言葉にすればいい。ここまで来れば、黒子の鈍感な気持ちも、自分の気付かないふりをしていた気持ちも、黛は全て同じ物だと理解してしまう。
「お前は本当に、馬鹿だな」
「黛、さ」
粘膜が触れ合えば、思った以上の熱に余計腹が立った。他人と触れ合うことを好ましいと思わない黛が、合鍵まで渡し、ベッドで一緒に寝ることを許した時点で気付くべきだった。今更、もう元に戻れない。舌の熱さにこれ以上は危険だと判断し、ようやく唇が離れた頃には、涙の引っ込んだ空色の瞳が信じられないと大きく見開かれていた。
「……薬飲んで、今日はもう寝ろ」
「まゆずみさん」
病人相手に何をしているんだ――?
一瞬で我に返った黛は、あまりの気恥ずかしさに居た堪れなくなり、黒子の側を去ろうとした。
しかし、腕を引かれた感覚にデジャビュを感じて振り向くと、無表情を崩し、上目遣いで黛を見つめる黒子の姿があった。
触れた指先は熱く、熱だけのせいじゃないと思いたかった。
「くすり、ボク、のむの苦手なんです。のどにひっかかるし、のみこめなくて。……だから」
「……だから?」
「……まゆずみさんが、飲ませてください」
最後は消え入りそうな声で懇願され、無碍になんか出来るわけがなかった。パッケージから二錠薬を取り出すと水と共に口に含んだ。そして、再び黒子の唇へ、自分の唇を押し付けると、うっすらと空いた口からそれらを一緒に流し込んだ。そして、先程より深く舌を絡め、喉が上下したのを確認すると、名残惜し見ながらも唇を離した。
「明日オレが風邪ひかねー事祈っとけ」
「えっ?」
黛はベッドに潜り込むと、黒子のすぐ隣で身体を横に向けた。
「寝かし付けてやるから、目閉じろ。嫌ならやめる」
「お願いします」
いつものようにぴったりと身体を付け、黒子の瞼が閉じられたのを確認すると、胸の辺りを軽く何度か叩いた。薬がうまく効けばいいのだが、こればかりは明日になってみなければわからないだろう。もし、二人とも倒れた暁には、面倒見のいい後輩を呼べばいい。きっと、余計な人間も一緒に来そうだが、今回ばかりは許してやる。
黛は明日のことを気にしつつも、黒子の体温を感じながら、静かに目を閉じた。