QTそれについて気になりだしたのは、実はつい最近のことである。
前々からそれが紛れもなくそいつの持ち物であることはよくよく心得ていたつもりだったが、思いがけずごく間近で目の当たりにしてしまったことでたちまちに興味が出てしまった。そもそもこんな堅物のお手本みたいな奴があんなものを持っている方が悪いというのは勝手だろうが、それにしたってどうにもちぐはぐで一度気になってしまうとそればかり目についてしまう。
なので、そいつがドンシクなんぞの髪を触ってみたいなどと言い出した時、これはチャンスだと思ってしまった。
内心ではしめしめとほくそ笑みつつ、完璧にとぼけた顔をしてみせながらもったいぶって、なんで?と返した。二人掛けのソファの隣に並んでテレビを見ていたそいつは、まめまめしく画面を消してから改めてドンシクに向き直った。こいつは本当にいつでも真面目そのものの顔をしている。
「三日前のことです」
「はあ」タイミングがだいたい同じなのでもうすべてを察してしまった。
「あなたは警察関係者と会食に行かれて、泥酔しましたね?」
「警察関係者っていうか、昔の同僚ね」
「そして帰りの道中でいらぬ気を回し、連れの方の迎えの車に便乗せず、深夜に一人で歩いてどこかへ行こうとしましたね?」
「これ取調べですか?」
「ところが途中でどうにも眠くなって、僕の記憶が正しければ、深夜の二時すぎに寝ぼけて僕に電話しましたね?」
「何回も謝っただろ……」
「謝ってほしいわけではありませんし、正直間違いであったにしろ僕に電話をくれて良かったと思っています」
「なんでだよ」
「あなたのお知り合いのすべてを把握しているわけでは当然ありませんが、そうだとしてもあの時間に泥酔したあなたの迎えに行く人間としてあなたの手札の中では僕が最も適任だったと自負しているので」
「なんでだよ……」
「それで駆けつけた僕の車に乗せてあなたの家に帰そうとしましたが、なぜかあなたは僕の家に行くと言って聞かず、しまいには運転の妨害まがいのことまでしましたね?」
「ええー?何したっけ?」
「ハンドルを握っている僕の肩に頭を乗せて体重をかけてきたり、まああれはそれほど運転に支障がないので取り立ててやめろと言うべきものではないかもしれませんが、脇腹をつつくのは本当に危険なので運転中は絶対にやめてください特に僕以外の人間は絶対に耐えられないと思うので確実に事故を起こすので絶対にやめてください」
「あは、いや酔っ払っててさ」
「そうです。あなたはしたたかに酔っていて、僕の家に入るなり替えの服もないくせに勝手にシャワーを浴びだし、替えの服がないと言っているのにすべての服を洗濯機に入れて回してしまい、僕のティーシャツは借りたくせに下はなぜかバスタオルを巻きつけただけで満足して僕の話を一切聞かずに僕のベッドで眠りましたね?」
「だってパンツのストックないって言っただろ」
「それは常にあるわけじゃないですし、代わりのものならいくらでもありますと言ったはずですが?」
「そうだっけ?とにかく眠かったんだよな」
「それだけならまだ許せましたが」
「許されてたのか」
「おおいに酔っ払ってまた寝ぼけだしていたあなたは、あなたに毛布を掛けようとした親切な僕をベッドに引きずり込み、あろうことか幼児のように寝かしつけようとしましたね?」
「あー、誰かの小さい頃と間違えちまったのかも」
「確かに僕の名前を呼びました」
「そりゃ…、悪かったな……」
「悪かったとは言っていないと思いますが。とはいえ驚きましたし、居心地の良いものではありませんでしたし、これも居心地が悪かったとは言っていませんが、とにかくそういうわけで僕はあなたと同じベッドで眠り、朝はあなたと共に起きましたね?」
「はあ、間違いありません」
「その朝、つまり一昨日の朝ですが、僕はあなたより先に目が覚めました。あなたは髪をまったく乾かさずに寝たのと、ほとんど動かないで寝ていたのでおかしな寝癖がついていました。このあたりが、鳥の巣みたいでした」
「そういやそうだったなあ」
「最近散髪をサボっていますね?」
「あれ、似合わない?」
「似合うとか似合わないとかは僕が決めることではないので答えかねますが、たとえあなたがどんな髪型や服装をしていようが僕のあなたに対する何かが変わることはありません。ですので、あの朝にあなたが目を覚ますまで図らずも至近距離で観察させられてしまったあなたの髪が、いったいどんな質感なのかどうしても確かめてみたくなったんです」
「長かったね。いいですよ」
ひょいと返事をすると、そいつは期待をこめた目をして口元を少し緩めた。そこへ、ただし、と人差し指を立ててる。
「俺にもあなたの頬っぺたを触らせてください」
「僕のですか?なぜですか?」
「そうだなあ、三日前のことですかね」
「……起きていたんですか」
「あんなに見つめられたら冬眠のリスだって起きるだろ」
あなたはリスなんですか、などとごにょごにょ言ったあと、そいつは演技くさい咳払いを一つして体ごとこちらを向いた。
「どうぞ」
その顔はやはり真面目そのものである。堅物というのが人の形を為しているような体なのに、いつ見ても白い頬はどう見ても柔らかそうにしか見えない。
ドンシクは、逡巡ののちに再び人差し指を立てた。そのままそいつの頬へぷすりと刺した。
「お、やっぱり柔らかいですねー、あとつるつるだ」
「ちょっと、ドンシクさん、それ刺すのはやめてください」
「おう悪い、じゃあこうするか」
あまりべたべた触れられるのも嫌かと思って指一本だけにしたのだったが、それならばと両手で両頬を挟み込んだ。唇がなんだかものすごくかわいらしい形にくしゃくしゃになって、思わず笑った。
「……嫌がらせをしたかったんですか」
「ふ、いやほんとに柔らかくて、かわいいね、ジュウォナ」
「どう考えても嫌がらせです。こねないでください」
「なに?これだめ?じゃこれは?」
「同じでふよね」
「ふ、ふふふ……わざとじゃないよ」
「……もういいでふ」
「んふ、ふふふ、ごめんごめんタイミングがさ、ふふ」
「………」
そいつがぎゅっと唇を閉じ(そうするともっとかわいくなっちゃうのに)、ぎりとドンシクを上目に睨んだので、やりすぎたかな、と思った。
「髪を触ってもいいんですよね」
「ええ、はい、どうぞ」
ドンシクが手を離す前にそいつの手がにょきりと伸びて、精一杯躊躇いを捨てたような微妙な大胆さで頭に乗せられた。ところが、そこからなかなか次の行動に移らないので、ドンシクはその頬をさらにこね回してやった。
「おー、餅みたいだなあ」
「やめてください」
「ヤだね、あなたもやれば?」
むきになるとこいつはすこぶるかわいいのだが、不満げに結ばれているはずの口元がくしゃくしゃになっているので、余計にかわいい。三十路もなかばの男を捕まえてそんなことばかり考えるのも申し訳ない気もするが、思う分には迷惑もなかろうとドンシクは大いに愛でた。
それを手本にしたか、そいつはようやく何かとても壊れやすいか貴重なものでも触るみたいにおっかなびっくり撫でだした。くすぐったくて、笑ってしまう。いつの間にか頬には片手だけを残し、指先で触れるばかりになっている。
「俺の頭はいかがですか?」
「そうですね、他人の髪に触れる機会がこれまでなかったので、こんなに手触りの違うものだと思いませんでした。あなたの髪は、ふわふわですね」
「そうですか?」あなたのほっぺもふわふわだよ、は言わないでおいた。
「僕より少し細いです」
「歳のせいかもな」
「細くなったんですか?」
「うーん、白髪は増えたかも」
「それは僕も増えました」
「ほんとかよ」
「ほんとです」
頭を撫でる、というかきっと何かを「撫でる」ってのを、きっとこいつはしたことがないのだろう。そいつのそれは、撫でるというより「確かめる」という方が相応しかった。それでも初めは不器用そうな手のひらが輪郭を辿るだけだったのに、しだいに髪の流れをなぞり、耳にかかる髪をよけ、前髪を指に絡ませるに至る頃には、それに鼻先を近づけようとした。
「こら、おっさんの頭のにおいなんか嗅ぐな」
「特におかしなにおいはしないと思いますが、確かめましょうか?」
「いらんいらん、もう気が済んだろ」
「うーん、まだもう少し余地がある気がします」
「なんだそりゃ」
「あなただってまだ触ってるじゃないですか」
「くすぐったい?」
「くすぐったくないことはないですが、メリットが大きいので我慢しています」
「あは、何かお得なことがありますか?」
「あります」
「そう」
頬から目元に指を沿わせると、無意識だろうか、ほんの少し小首を傾げるので、なんだか懐かれているような気になっておかしかった。
「かわいいね、ジュウォナ」
「イ・ドンシクさん、あなたもかわいいですよ」
目を合わせると、お互いに本気でそう思っているのがわかってしまった。そんな馬鹿な、と思ったのに、そいつの手がドンシクの頬まで下りてきたのでもう笑ってしまった。
「まさかこんなことになるなんてなあ」
「こんなことってなんですか?」
「なんでしょうねぇ」
そいつの眼差しが熱を帯びる。その頬を弄んだいたずらな手が、とうとう捕まる。
だからさあ、おっさんのにおいなんか嗅ぐなって言ってんのに。
おわり