祝福の日「すんげぇ良い店に行きましょう」
休前日、彼が突然そんなことを言い出した。よくよく話を聞いてみると、どうやらジュウォンが父と利用していたような高級店という意味らしかったので、少し調べて(彼は言い出しっぺのくせにジュウォンのスマートフォンを覗き込んであれこれ口を出しただけだった)予約して、翌日の夜に行くことになった。
久しぶりに袖を通すオーダーメイドのスーツ姿をもう一度鏡で確認して、ジュウォンはおかしなところがないかチェックする。急遽予約をした店だが、わりとちゃんとしたところのようだったので、粗相がないよう入念に準備した。
そろそろ出発の時刻かとリビングへ降りて行ってみると、見たことのないスーツを着て見たことのない髪型になった彼が、いつも通りソファに座って新聞を広げていた。ジュウォンが戸口に佇んでいるのに気づくと、おおー、と感心したような顔をした。
「さすが決まってますねぇ」
「…あなたこそ、驚きました」
「そうですか?そりゃ大成功ですね」
彼はにやりと笑うと、新聞を畳んで立ち上がった。心なしか仕草まで普段より洗練されて見える。こんな逸品を持っているとは知らなかった。それはたまに着ている微妙にサイズの合っていない量販店のスーツとはどう見ても違っていて、サイズも丈も色も形も彼にぴったり合っていて、それだけでなく、いつも手櫛さえしない髪もスーツに合わせてきちんとスタイリングされていて、それも自然でこなれて見えて、つまりどこからどう見てもすべてがよく似合っていて、なぜかジュウォンは慌てた。
「あの、それは、本当にとても、とてもよく似合っています」
「それはどうも。あなたもよく似合ってますよ、かっこいいね」
「はい、いいえ」
「あははは!どうした、ハン・ジュウォン!」
「あなたこそ、その、素敵です、イ・ドンシクさん」
「あーはいはい、このまま褒めあってたら朝になっちまいますよ、さあ行きましょう」
彼は棒立ちになっていたジュウォンをぐるりと回して、背中をぐいぐい押した。
玄関で並んで靴を履くと、どっちが運転するかじゃんけんで決めた。ジュウォンが勝ったので、ジュウォンの車に乗り込んだ。隣でシートベルトを締める彼から嗅いだことのない匂いがして、思わず顔を確認した。見慣れない彼が、どうした、と首をかしげた。
「いえ、シートベルトを、確認しました」
「ああ、はい、ちゃんと締めましたよ」
「では、出発します」
「お願いします」
ジュウォンは、自分が動揺しているのを自覚した。それはそうだ、すっかり見慣れた人がいつもとまったく違う雰囲気だったら、誰だって驚くに決まっている。しかし違うのは表面的なところだけで、その人自身が何か変わったわけではないのだから、今隣に座って腹へりましたねぇイタリアンでしたっけ箸あるかなあなどと呑気に喋っている人はいつもの彼そのものなのだから、そろそろ落ち着かなくては事故でも起こしては事だ。そう思って、アクセルを踏む前にこっそり深呼吸をした。知らない匂いをいっぱいに吸い込んでしまって咽せた。仕方ないので心頭を滅却し、黙々と運転した。
何事もなく店の前に到着できた頃には、ジュウォンはすっかり疲れて大きなため息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「何がですか?着きましたよ」
彼がこちらを覗き込もうとしたので、ジュウォンは早口に言ってさっさと車を降りた。
店に入ると彼は、おおー、と楽しそうな声を控えめにあげてぐるりと店内を見まわした。景色を楽しむような店ではないが、照明は暗めでテーブルごとにキャンドルが置いてあった。予約客しか入れない店なので、ほぼ満席だったが座ってしまえば他の客は視界に入らなかった。
「メニューはもう決まっているので、飲み物を選びましょう」
「あなたが決めてよ、ワインはあまり飲まないから」
「ほかのものもありますよ、このあたりは好きでしょう」
「お、ほんとだ、へぇ、こんなとこでもいろいろ置いてるんですねぇ」
「最近は伝統酒ブームですから」
「あなたはワインですか」
「はい、これにします。決まりましたか?」
「俺もそれにします」
「え」
なぜだ?と思っている間にウェイターが来て、彼が注文してしまった。不慣れに見えるわりにてきぱきスマートにこなしてしまったので、ジュウォンの出る幕はなかった。
「ワインで良かったんですか」
「うん、酔えりゃなんだっていいですよ」
「そんな投げやりな…」
「いや、あなたと同じのを飲もうと思ってたから」
「なぜですか?」
「さあ、なぜでしょうねぇ」
彼は意地悪そうな顔をして笑った。いつもとこんなにも違う格好をしているのに、彼でしかないので混乱した。
そうしているうちにワインが来たので乾杯して、味よりも彼がどういう反応をするかが気になって、どうですか、と聞いたら、好きですよ、と言ったので急に何と言えばいいかわからなくなって、そうですか、としか言えなかった。せめて彼が好きな味を覚えておこうと思ったのに、ジュウォンは何度飲んでも味がわからなかった。
それでも、アルコールが回ってくるとなんとか調子が戻ってきて、メインが出てくる頃にはいつも通りの会話ができるようになった。涼しい顔をしてぱかぱか飲んでいく彼に負けじと、ジュウォンも料理に合う銘柄を考えては次々飲んだ。選んだ理由などを話すと、彼は面白そうに聞いてしげしげと眺めたり嗅いでみたりした。こんな場所で彼とこんな風に過ごすのは初めてだったが、いつもと違う様子にもだいぶ慣れてきて、たまにはこういうのも良いものだな、と思った。
料理もデザートも終わった頃に、彼がさらりと言った。
「もうすぐ誕生日だろ」
「え、誰のですか」
「ハン・ジュウォンさんのですよ」
「は、え、そう、ですが、それが何か」
「いや、何しようかなあと思って、いろいろ考えてるところでね」
「あなたが?」
「ほかに誰が?」
おかしそうに彼が笑う。見慣れない仕草で、ジュウォンの選んだワインを飲む。意味がわからなくて、なぜか涙が出てきそうで、驚いて俯いた。
「…今日じゃありませんが」
「今日は予習ですよ。ハン・ジュウォン警部補殿をお祝いするんですから、予習は必ず要るでしょう。まだ時間があるから、さて、次はどんな予習をしようかなあ」
「誕生日なんて、今までしなかったのに」
「したくなさそうだったから。でも、もうそろそろ良いでしょう」
そんな話、料理のあるうちに言ってくれれば良かったのに。テーブルにはもう食後酒しか残っていなくて、仕方なくそれを飲んだ。アルコールが強くて、脳が回るような感覚がした。
「ジュウォニの生まれた日を祝わせて」
その笑顔は必殺だ。優しく滲むような、春風の笑顔。
ずるい。この人はいつもいつもずるい。ジュウォンばかり軽々と掬い上げては笑ってみせる。
ジュウォンにとって、誕生日が特別な良き日であったことはなかった。物心ついた頃には母はもうそれどころではなかったし、父は息子の誕生日になど興味がなかった。それを残念に思ったこともあったが、もうそんな気持ちも忘れてしまって久しい。
父の事件があってからは、ますます誕生日というものを良く思えなくなった。祝うべきことなどないと思った。
そういう風だったから、ジュウォンは誕生日の処し方を知らなかった。彼の誕生日も、周りに合わせて振る舞ってきただけだった。プレゼントはおろか、大した言葉も贈った覚えはない。
それなのに。
泣いてたまるか。なにしろ今日は予習だ。なんなんだ予習って。馬鹿なのか。そうだ、この人は果てしない馬鹿だ。ジュウォンに手を差し伸べたばかりか、その手を掴ませて笑っているのだから。
「…あなたの誕生日、終わってしまったじゃないですか」
「俺はいつもちゃんといろんな人に祝ってもらってるから」
「僕個人としては、何もしてません」
「じゃあ、来年から頑張って」
「…フライングです。反則です」
「はは、時間は戻らないからなあ、諦めな」
さらに言い募ろうとしたジュウォンをびしりと指差して、彼はきっぱりと言った。
「大人しく祝われろ」
「……嫌です」
「あれ、今日みたいのはお気に召しませんか?」
「それは、そうではありませんが…」
「やっぱり俺とこんなところへ来るのは嫌かあ」
「嫌じゃありません」
「それなら良かった。これも候補に入れよう」
にこにこする彼を見て、しまったと思ったが遅かった。彼はこれで話はついたとばかりにウェイターを呼ぶと、代行に連絡するよう頼んだ。食後酒をぐっと飲み干すと、あー美味かった、と満足げに言った。ジュウォンはけして納得したわけではなかったが、たまにはこういうのも良いもんですね、と彼が笑うので何も言えなくなった。
ほどなくして代行がやって来て、二人して後部座席へ乗り込んだ。彼が身を乗り出して運転手と少しやり取りをして、カーナビを設定した。
車が走り出すと程よい揺れが心地よくて、すぐに眠気に襲われた。隣からも思いきり欠伸をする気配がした。
「あー、眠い」
「寝ていて良いですよ、僕が起きています」
「じゃあ先に寝た方が寝て良いことにしよう」
「なんですかそれは…、ジャッジのシステムがないので破綻しています」
「じゃあジャンケンだな」
ほらじゃーんけーん、と掛け声をかけられると反射的に出してしまって、そしてまたしても勝ってしまった。
「…ジャンケン弱いですね」
「うるさい、寝ちまえ」
さして悔しくもなさそうな声音は優しく柔らかく、そして窓枠に押し付けるように頭を押されて、ついでにぽんぽんと撫でられた。知らない匂いはいつの間にか薄くなっていて、その手からはいつもの彼の匂いがした。ふう、と肩から力が抜けて、瞼が限界を迎えたように下りてきた。
けれども寝入り端に無理やり目を開けて見た彼の横顔は、窓外を流れていく明かりに輪郭が溶けそうに見えて、こわくなって、でも眠くて、寝たらいなくなってしまうのがこわくて、手をのばした。あたたかい指があったので、ほっとした。
「…電子マネー使えます?これなんだけど」
「使えますよ。ここを、そう、そうです」
「あーありがとう、へぇ便利だなあ、あんまり使ったことなくてね」
「使えると便利ですよ、ほら、手がふさがってる時とか」
「あはは!違いないね」
彼が笑っている。誰と話しているのかわからなくて、車に乗っているのに、なぜジュウォンと話していないのに笑っているのだろうと不審に思って目を開けた。暗い車内で、運転席の方へ寄っている彼の横顔が光って見えた。
「一人で行けますか、手伝いましょうか?」
「大丈夫ですよ、無理そうならこのまま寝るし」
「それくらいしますよ。あ、起きられましたよ」
ぱっと彼が振り返った。手にしているスマートフォンの、画面の照り返しで光って見えるのだとわかった。
「おう、よく寝てたね。吐きそう?」
「…はきそう?なぜですか?」
「大丈夫そうだ、ありがとう」
「いいえ、また是非ご利用ください」
「ええ、ご親切にどうも」
運転手は過剰なほどにこやかに会釈してから、車を降りて行った。彼もなんだか丁寧にお礼をするので、ジュウォンは自分だけが蚊帳の外のようで面白くなかった。
「さあ、降りるぞ」
「…なぜ起こしてくれなかったんです」
「声はかけましたよ、でもあなたぜーんぜん起きなかったから」
「そんなはずありません。だいたい電子マネーなんか、使ったことないのになぜ今突然使うんですか」
「なんで怒ってるの?だって手がふさがってて、財布を出せなかったから」
「なんで手がふさがって」
「ほら」
彼が片手を持ち上げて見せるのに、なぜかジュウォンの手も勝手に動いたので驚いた。その時ようやく気がついた。
ジュウォンの手が、しっかりと彼の手を掴んでいる。手を繋ぐというような相互的なものではなく、本当にただジュウォンががっしりと彼の手を握り込んでいたのだった。
それを理解した瞬間、頭が爆発したような気がした。思わず慌てて手を離してしまった。
「うわ!」
「うわってなんだよ、ひどいなあ、そっちから握ってきたくせに」
「いえ、違います!いや握ったのは違いませんが、うわって言ったのがです、違います、あのびっくりして、出ただけで、意味のある言葉ではありません、なぜあなたの手を、いや手が、僕は、その」
頭がぐるぐるする。顔が火を噴きそうなほど熱いとわかる。自分が何を言っているのかわからない。とにかく、彼を傷つけたくなかった。なぜ手を離してしまったのだろうか。彼の手はいつでもあたたかいのに。それは今ぜんぜん関係がない。いやぜんぜんではないか。頭がぐるぐるする。
「ごめんごめん、揶揄った。起こせなくて悪かったよ。あんまりよく寝てたし、俺も悪い気がしなかったもんだから。次からは叩き起こすよ」
励ますようにぽんぽんと肩を叩かれた。悪い気がしなかったと言った彼が、車のドアを開けようとした。代行の車が家の前から出ていくのが見えた。咄嗟に、逃げられてしまう、と思った。ぐるぐるする頭は使いものにならず、ジュウォンは脊髄反射で彼の手を掴んでいた。
「わ、なんだ」
「ドンシクさん、今日は、あの、ありがとう、ございました」
「ああ、いや今日はあなたに全部やってもらったから」
「そうじゃなく、その、誕生日のことです」
「祝われる気になった?」
「それは」
彼の手はあたたかい。言葉も笑顔も声も、何もかもジュウォンのどこかをあたためてしまう。
こんな人はほかにいない。もう二度と出会えない。だからジュウォンは、今この人が生きていてくれることをちゃんと祝福したい。
だってジュウォンが誕生日を嬉しく思える日が来るとしたら、それはこの人がそばに居なくては絶対に来ないのだ。
「ちゃんと嬉しいと、いう気持ちはあって、とてもありますそれは。だから、ありがとうございます。嬉しいです。あなたに祝ってもらえるのは、格別に。でも僕はあなたの誕生日をちゃんと、していないので、本当はちゃんとしたいと思っていました。ずっと僕は、あなたが生まれて、生きていてくれることを心から感謝したくて、それで、だから、僕だけというのが、どうしても納得できなくて」
「…わかった」
彼がジュウォンの手を握り返した。
「俺も今年は8月13日が誕生日ってことにしよう」
「…何を言ってるんですか」
「いや、そこまで言うなら一緒に祝ったらどうかなと。お互いに、生きてて良かったね、ってお祝い。どう?」
「“生きてて良かったね”…」
「そう、あなたも俺も、死にそうな瞬間はいくらでもあったと思うけど、死なずに来れて、“生きてて良かったね”と」
「それは誕生日ですか」
「間違いなくそうだろ、生まれたこと、生きてること、生きてってくれることに感謝する日だ」
確かに、死が安易と思えた瞬間があった。この人がいなければ、ジュウォンはその時を越えられなかったかもしれない。
彼が生きていてくれて、ジュウォンも生きてこられて、今がある。
そしてこれからも、どうやらあるらしいのだ。
「じゃあ次は何をするかあなたも考えて。何しろ予習しないといけないんだから、時間はありそうでないですよ」
「…予算によって変わってきますが、どれくらいを想定していますか」
「そこからですかあ」
「まだ決まっていないのなら、少し考えさせてください。やったことがないので、まずはいろいろ調べてみないと」
「あ、次の案を思いついた」
「なんですか」
「ホールケーキを食べましょう」
「…食べたことありません」
「じゃあ決まりだな」
彼が笑う。それがジュウォンにとって一番の祝福だと、きっと知らないのだろう。
クラッカーもやろう、などと言いながら、彼が手をシートの上で弾ませた。繋いだ手がぽーんぽーんと跳ねる。それがとてもおかしくて、ジュウォンは笑った。
おわり