幸福な王子「おい、こらモニカ。いい加減待ちくたびれたぞ」
頬にむにっと何かが触れた。
書類から視線を上げると、呆れたような顔をしたネロの前足がモニカの頬を押し上げていた。
「モニカ、そろそろお昼にしよう? 誰かさんはもう限界みたいだ」
すかさずすぐ傍にいたアイクがモニカの手元からするりと書類を遠ざけた。
「あっ待たせてごめんなさい、アイク、ネロ」
「お前のその癖はいつになっても直らないな。でもオレ様優しいからな、肉一つで許してやる」
「ふふっわかった」
「こら、裏取引はだめだよ。モニカはモニカの分、ネロには僕の分をあげるから」
「オレ様はもらえればなんでもいい」
モニカ同様ネロもすっかりアイクに胃袋を掴まれている。
「そんなことよりマスター、最近働き詰めだけど、僕に手伝えることがあったら遠慮なく言ってね」
アイクは心配そうにモニカの目の下の隈をそっとなぞった。
「そんなにひどい顔してますか?」
困ったように頷かれて、また、ごめんなさいと返した。
一度スイッチが入ったら周りのことが見えなくなるのはモニカの悪い癖。
実際に現地に赴く必要のある依頼をこなしている間に、ラウルさんからの新たな魔力付与の観測結果や、そのほかモニカにとっては苦ではない計算書類が山積みになっていた。
以前より確かに仕事量は増えているが、モニカはさほど苦とは思っていない。
だからアイクの心配を余所に、依頼が来ては片付け、来ては片付け、それを繰り返すこと数か月。
(あれ?)
思えば、優秀すぎる弟子ができてから何か師匠らしいことをしたことはあっただろうか。
改めて思い返してみても、アイクは文句や苦言を口にすることなく、本当に甲斐甲斐しくモニカの衣食住を支えていた日々しか浮かばない。
夕食後には、彼が自主的にモニカの過去の文献や魔術書を読み、疑問に思ったことを話し合ったりすることもあったけれど、最近は減ってしまった。
それはきっとモニカのことを思っての彼の配慮だということも今になって気が付いてももう遅い。
アイクのたった一人の師匠と名乗るからには、頼れる師匠でいたいという思いはあるものの、実際には世話を焼かれるばかり。
これ以上迷惑を掛けたくないし、情けない姿は見せたくない。そんな思いから、モニカはたとえ目に見えて疲労が溜まっていても大丈夫と言ってしまう。
弟子の心、師匠知らずである。
悶々と考えていると、香ばしい匂いがモニカの思考を現実へと引き戻した。
いつの間にか隅に寄せられた書類の代わりに美味しそうなご飯が目の前に鎮座している。
「鶏肉とマッシュルームのパンシチューとサラダだよ」
ここで料理を振舞うアイクのレパートリーはどんどん増えていく。
モニカの好み、ネロの好みを分かっていて、見たことも食べたこともないたくさんの美味しいものを教えてくれるから、舌がすっかり肥えてしまった。
「ネロのは少し冷ましてあるけど、火傷に気をつけて食べてね。君は猫舌だろう?」
「苦手でも経験をこなせばなんとやらだ」
と、言いつつもアイクの言うことをきちんと聞いて桃色の舌でぺろり、表面を恐る恐る舐めた。
そんなネロの様子を見ながら、モニカもスプーンを差し込んで一口すくい、つられて、ふーふーと息を吹いて熱を誤魔化しながら頬張った。
「……美味しい」
ほっとするあたたかさがおのずと頬を緩ませる。
あまりの美味しさにすくってはもぐもぐ、すくってはもぐもぐ。そんなモニカを満足そうにアイクは見て、自分も食べ始めた。
(もっとちゃんとしないとだめだよね)
幸い提出期限が差し迫っているものも少ない。だから今日ぐらいはゆっくりアイクと弟子と師匠にしては足りなさすぎる会話を補うのもいいかもしれない。
「アイク、食べ終わったら少しお話しませんか」
「もちろん」
断る理由はないとでも言うように返事にモニカは安心してへにゃりと笑った。
「「ご馳走様でした」」
手伝うと言ったのだけれど結局アイクが後片付けをして、モニカは珈琲を淹れて、机にマグカップを並べる。
その時、ノックの音ではなく突風がドアを開けた。
颯爽と現れたのは、ルイスの契約精霊 リィンズベルフィードだ。
「御機嫌よう、沈黙の魔女殿。そしてご無礼を失礼致します」
そう言うと、リンは颯爽と小さなモニカを背負う。
「えっえ、え?」
「……こちらが正解ですね」
横抱きに抱え直すと、瞬く間に外へ飛び出し、ふわりと空に浮かんだ。
「モニカ」
地上からぐんぐん離れていく最中、自分を呼ぶ声が聞こえた。下を見ると、アイクが心配そうにこちらを見つめている。
「……大丈夫です。ちょっと行ってきますね」
そう呟くモニカの言葉を、アイクは唇で読んだ。
ここでもやっぱり師匠として弟子にこれ以上心配は掛けさせたくないという思いで吐き出した言葉。遠ざかってよく見えないが、アイクは傷付いたような、悲しいようなそんな表情を浮かべたように見えた。
「……リンさん緊急事態ですか?」
「私から言わせていただくと、そうとは思わないのですが、絶対に連れてこいと」
「そうですか」
納得したふりをして、心の中ではきっと帰る頃にはアイクと一緒に飲むはずだった珈琲はすっかり冷めているのだろうなと、唇をぎゅっと噛み締めた。
◆ ◆ ◆
遠ざかるモニカに向かって伸ばした手を、力なく下ろした。引き止められるとは思っていなかったけれど、あんなふうに困ったように笑われたら逆効果だ。
彼女の大丈夫を信じてあげたいけれど、信じられなくなる。
僕にもっと力があればいいのに。
本物のフェリクスであれば、七賢人である彼女の力になることはできたのだろうか。
そう思うと、今の自分の存在が歯がゆくて、どうしようもなく無価値に思えた。
「ネロ、僕ってそんなに頼りないかい?」
本物の猫のように前足で顔を掻いていたネロは手を止めた。
「オレ様に比べたら頼りないな」
真顔でそんなこと言うものだから、いよいよ肩を落とした。
それどころか、寒いから早く扉を閉めろとでも言いたげな顔である。
「嘘でも励ましの言葉が欲しかったな」
「オレ様は正直者だからな」
呆然と立ち尽くしていても、モニカは帰ってくるわけではない。
渋々扉を閉めて、彼女が淹れてくれた珈琲を一人で口に含んだ。美味しい……けれども、アイクは彼女と一緒に飲めばもっと美味しいことを知っている。
押しかけ弟子になってからしみじみ感じているのは、彼女は生活能力がとてつもなく低いということだ。
日がな一日机の上に齧りつき、ペンを走らせ、時よりネロに止められて食事とは言い難いクッキーや保存食を口にして、またペンを走らせ、ある時はそのまま机の上で目覚める。
これがモニカの日常の一部であったと聞いた時は、重たいため息しか出なかった。学園生活での自分の餌付け行為すら彼女の衣食を支えていたなんて、実に皮肉だ。
この家に出入りするようになって多少は彼女の生活はましに見えるかもしれないけれど、それでも根本として、モニカのいつ体を壊してもおかしくない要素を取り除けているとは言えない。
自身がエリン領に戻りっきりだった際には、モニカの衣食住は奇しくもハイオーン侯爵領で整えられていたとあれば、弟子としての感情を超えて、複雑に思わざるを得なかった。
彼女は僕の抱えている感情を知らないのだから、口を酸っぱく言えるわけもなく……心の中でもやもやとした思いだけが残る。
それならば誰かに相談したら変わるのだろうかと、頭の中で何人か名前を並べてみるが、どうにも適任者は浮かばない。
よくよく思えば、アイザックと友達になってくれたのはモニカくらいだ。でも片思いの相手に恋の相談なんて技は彼女には通じないどころか、より自分の心を抉る結果になることを身を持って知っているので、除外。
この複雑な立ち位置の僕に気兼ねなく話をできるといえばネロだが、いくら人間世界に精通しているとはいえ、その知識や思考には偏りもある。
望むような回答は得られないだろう。
そんなアイクの視線に気が付いたのか、ネロはにやりと笑った。
「……キラキラ、さてはお前悩みがあるな?」
「うん、まぁ」
「このオレ様が相談に乗ってやろう」
さて、どんな風の吹き回しだろう。暇を講じてのことだろうか。
「……ちなみにどうしてそんな気になったのか知りたいところなんだけど」
「オレ様は先輩だからな、たまには後輩の為に一肌脱いでやる」
ぎらりと鋭い歯を見せるネロの足元には、イザベラ嬢からモニカへと贈られた恋愛小説の数々があった。
(あぁ、なるほどね)
「それは、うん、頼もしいけど……」
「よしよし、さぁ先輩に相談してみろ」
ネロがやる気になることは往々にしてあるが、最終的には長続きせず飽きる。
とはいえ、鼻が利くからここで適当なことを言っても、きっと機嫌を損ねるだけだろう。その方がもっと面倒くさいことをアイクは知っている。
「モニカに頼られるにはどうしたらいいかな」
実直に申し上げると、ネロはな~んだとつまらなさげに前足で顎を掻く仕草を見せた。
「……キラキラが強くなればいいんじゃないか?」
あっけらかんと、至極当然なことを口にした。
「そうだね……」
予想した通り、何とも言えない回答が返っていたが、まぁでもネロの言うことも一理ある、かもしれない。
ようやく自由に魔術を齧れるようになったとはいえ、まだまだ知らないことも多い。
アイクは自分の願いを通そうとするあまり、無理やり彼女の弟子という枠の中に入り込んだわけで、その技量を認められたわけではないのだ。
真っ向からいったのでは断られることが目に見えていたからの手段であったとはいえ、大人げなく、もっと方法があったのではないかと、今更自分に呆れる。
つい先日も、モニカに意識されたいと思うばかり露骨に行動してみたが、それも空回りし、モニカに風邪を疑われる始末という苦い思いをした。
「さすがオレ様、こんな簡単に解決できるなんてな。アドバイス料は肉でいいぞ」
満足げなネロにアイクは見えないようにため息をついた。
そうだ、今必要なのは、自分を律すること。
彼女が何の話をしようとしたのかも気になるけれど、夕飯の準備をしている間にモニカが帰ってこなければ、一度領に帰ろう。
冷静さを取り戻すには、ウィルのお灸が一番だ。
もしかしたら、帰るなり拗ねてポケットから出てこないかもしれないけれど。
以前ネロの毛が服に付いていた時も、複雑そうな顔で念入りにぱたぱたと服を仰いでいたし、モニカの言うフニフニを調べていた時も、自分の皮膚をこっそり抓っていたこともある。
(別に僕は毛のある動物が好きと言ったわけではないんだけどな)
ひとまず、しばらくはここへ戻れないことを覚悟しておいたほうがいいだろう。冬至休みは、アイクは仕事に追われ、モニカにはケルベック伯爵家へ行くことになっている。
イザベラ嬢の元ならモニカの衣食住についても心配する必要はない。
何と言っても彼女は自分と同様〈沈黙の魔女〉のファンだ。それだけで信頼に足る。
本音を言えば、アイクももっとモニカとゆっくりしたかったけれど、こればかりはしかたないことだ。
彼女はこの国が、いや世界が誇ってもおかしくない最高峰の魔術師なのだから。
モニカの淹れた珈琲を片手に、折り畳まれたままの新聞を広げる。この家で新聞を読んでいるのは僕とネロだ。自国以外のことを知っておくのは、フェリクスにとっては必要なことだが、ネロは何のためにと疑問に思う人も多いだろう。
僕が尋ねたところ、何でも紙面の一部、隅っこに度々掲載される新刊情報を見ているらしい。そして、そこに彼の好きなダスティン・ギュンターの新刊が出るのを心待ちにしているというわけだ。
「ネロ、先に読ませてもらうよ」
そう声を掛けると、飛びつくようにアイクの肩口から新聞を覗き込んだ。
「なんかへんてこでおもしろいものはないのか?」
君の好奇心を満たせるようなものは、そうそうないだろう。
そう思っていたら、一つの記事に二人の視線が止まった。