善悪の天秤プトレマイオスは藤丸立香のマイルームに度々寄っては本の紹介をしたり、読書に耽ったりと彼らしく飄々とカルデアの生活を楽しんでいた。彼は聖杯戦線の記憶を保持したままカルデアに召喚されたため、マスターに対して多少の思い入れはあるようだった。しかし、その距離はかの特異点ほど近くはない。
立香はそれがすこし不満である。あれだけ親しくしていたのにカルデアへ来た途端、一歩引かれたような対応に肩透かしを食らったし、自分だけが相手を好きになってしまったのだと寂しい気持ちに襲われた。
しかし、めげないのが立香のいいところである。めげない、諦めない、空元気も元気のうち。全く気にせずにプトレマイオスの元を訪れて一緒に過ごした。立香にしてみれば初恋のようなものであったので駆け引きの匙加減という観点はなく、当たって砕けろの精神だけで向かって行ったのだった。
プトレマイオスはというと、内心ではこの可憐な少女を憎からず思っていた。少々引いた立場で接したのは理由がある。聖杯によると当世の恋愛事情において著しい年齢差は倫理的な禁忌とする風潮があるらしいのだ。プトレマイオス自身は古代ギリシャ、マケドニアの常識がある上に支配者側だったため年齢差など些細な問題である。古代ギリシャにおける結婚適齢期は男性が大体三十歳、女性が十五歳からであり、十五歳以上の年齢差であることも多かった。古代ギリシャで若い女性が嫁いだのは多産多死の時代に子孫を残す為に若い必要があったし、女性は家の資産に近い扱いであり、家と家の契約により婚姻を行い、家長は女性を保護する側であった。プトレマイオスにとっての結婚は国家の事情で結ぶものであり、エウリュディケもベレニケもそういった繋がりの中で娶った者である。彼女らに対して愛着が無い訳ではない。色恋や一夜の戯れに情を交わした相手で言えばもっと多い。
それにサーヴァントの身の上に年齢など矮小な問題である。神霊や神代の英雄との年齢差など気にしても仕方が無い。ならば、マスターとの年齢差もそう気にしたものではない。ただ、マスターや周囲がこの時代の常識が付きまとうならプトレマイオスは慎んだ方がマスターの利になるだろう。恋愛は多くの時代で若人のものと相場が決まっているのは書物を紐解くまでもない。
王よりも明るい赤毛は絹糸のように風に流れるに任せ、金に似た瞳は一番星の如き光を放つ。当世の救世主はひどくお人好しで可愛らしい。その癖、どんな事態に陥ろうと希望を捨てることはない。燦然と輝く善性が老獪な男には眩しい。この真っ直ぐさは危ういがかつて追いかけた背中に似た勢いがある。計算や計略、権謀術数の限りを尽くした己とは対照的なタイプだと思う。藤丸立香は天真爛漫に神霊にすら怯まない。頼もしく誇らしいマスターである。
「プトレマイオス、あのね、これ」
いつものようにコマンドコードが渡される。今までプトレマイオスに与えられてきたコマンドコードは貴重なリソースだ。そのコマンドコードは他のコマンドコードとは異なり破壊力や強化よりは護符に似た効果を持っていたし、何より形状が指輪の形をしていた。心なしか頬を染めているように見えるのはプトレマイオスの自惚れであろうか。
「バディリング?」
コマンドコードの名称を読み上げれば、立香は耳まで朱に染まる。異性に指輪を送る意味を知らぬ訳ではない。古代ギリシャの婚姻は現代の婚姻にも少なからず影響を与えている。その一つが指輪の交換である。ヴェールや白いウェディングドレスも古代ギリシャから由来している。プトレマイオスは少女が必死な表情をする意図をどう躱したものかと思案する。
「それは伴侶としてか? 相棒としてか? どちらを吾に望むのか? 返答次第では吾もお前に対する対応を変えるやもしれぬぞ」
揶揄うように言えば少女は諦めるだろうか。恋心を軽んじたと怒るだろうか。否、演算するまでもなくそんなことで怯みはしない。少女は真っすぐにこちらを見据えた。凛とした佇まいはまるで敵に相対する時のそれだ。どんな相手にも正面から向き合う姿勢をプトレマイオスは彼女の稀有な才能だと買っている。
「プトレマイオス、あのね」
意を決したように唇を開く。緊張で震えそうになる気持ちを叱咤するような表情は堂々としたものだ。
「ああ」
「わたし、どうやら貴方のことが好きみたいです」
真剣な表情で告げられたややしまらない言葉に面食らった。並列思考が遅れて同じ言葉を紡ぎ出す。
「別に恋人になれとか、そういうのはないです。ただ、知ってもらえたら嬉しいなって。それでこれを渡します。刻むかどうかはお任せします」
相手の意思など無視できる立場であるはずなのに慎ましい告白である。マスターなのだから夜伽の一つでも命じればいいものを、相手に委ねるとはお人好しもここまでくれば大したものだと思う。プトレマイオスは死者にも等しいサーヴァントを徹底して人扱いするこのマスターが嫌いではない。むしろ、好きである。本当なら囲い込んで腕の中から出したくない程度には。それを抑えているのはひとえにマスターの意思を尊重するゆえである。何しろ、このお人好しのマスター、つけ入る隙がいくらでもある。潔いほどのノーガードなのだから。
プトレマイオスが彼女の恋人になろうものなら立香を慕う綺羅星の如きサーヴァント達に反感を買うのも、不和の種になるのも望ましくないから、らしくもなく慎んでいるに過ぎない。救世主の肩に乗る重荷は多い。軽くしてやるならまだしも重荷を増やすのは本意ではない。
一歩引いたのが良かったのか悪かったのか。そういう類の駆け引きをしたつもりはない。しかし、手元に星が転がり落ちてくるなら愛でてもいいかもしれない。
「お前は吾の望みに応えられると?」
少女の小さな手を取ってプトレマイオスが口づければ、彼女の表情は困惑と羞恥に染まる。それでも後退ることなく立つ姿はいじらしい。反応は初心だが情事の匂わせは通じたらしい。