切られる枝の矜持とある偉大なSF作家は、時間を川の流れに例えたそうだ。
それはまあ、間違いではないだろう。
過去から未来へ向かって、一方的に流れ続ける絶対の法則。事実であるかどうかはともかく、人間が知覚できる感覚としてはそういうものだ。
だからと言って、人類の歴史もそうだとは限っていない。
時間を川に例えるのなら、人類の歴史は樹木に例えるべきだろう。
木がその成長と共に、無数の枝を伸ばすのと同じように、人類の歴史にも分岐点というものは存在している。
現在を若枝とするのなら、過去は木質化した枝。やがて伸びた枝は別の枝に先別れし、別れた先でもさらに分岐し、二度と交わることはない。
歴史は、常にそれらの積み重ねでできている。
(だから、これは……)
狂っていく世界の現実を俯瞰しながら、彼は静かに目蓋を下ろす。
今や[[rb:惑星>ほし]]と同化しつつある魔神の[[rb:心臓>コア]]、が存在する付近にて。
最果ての地に開いた穴の底に佇む彼──燐は、肺が萎むほど深く息を吐く。
白く凍り付いたそれは、耳が痛くなるほど冷たく張り詰めた空気に霧散していった。地上から降り注ぐ日の光は弱くて、ここには届かない。
一年。水面下で奔走した。
……[[rb:惑星>ほし]]の最果てである北極圏に、ずっと引き込もっていただけだが。
破局した魔神から漏れる[[rb:虚無界>ゲヘナ]]のにおいに引き寄せられてやって来る悪魔たちを、配下にして平伏させた。他の上級悪魔たちとの[[rb:話し合い>・・・・]]もして、了承を取り付けた。
文字通り、血反吐を吐くような努力と忍耐の日々。だが立ち止まる事などできるはずが無かった。
心は疲弊し、精神はとうに尽き果てた。絶望の底に放り投げられ、辺獄の果てで奈落に落ちてなお……それでも、彼にはやらなければならないことがあったのだ。
人間たちは全員、燐を死んだと思っているだろう。魔神の落胤である奥村燐は、魔神と内通していた事実を隠すために弟と仲間を皆殺しにしたが、真相を騎士團に暴かれて逃げられないと悟り、自らの氷の裂け目に身を投げた……と。
現実にはこれである。生来の再生能力に加え、自らの半身が最期の力を振り絞って庇ってくれたおかげで、彼は暗く冷たい奈落の底で生き延びた。
それから実に一年の月日が流れたわけだが……その間、彼が何をしていたか。
その答えがこそが、目の前にある[[rb:それ>・・]]だ。
(…………)
接続を断ち切り、触れていた魔神の一部から手を離して数歩下がる。
一年前から続く魔神の侵食は、[[rb:惑星>ほし]]の地表面を覆うほどの規模となった。
と、いうことはつまり。それは裏を返せば、この星の地表面で起きている知性体の活動を観測できるということでもあるのだ。当然、魔神と[[rb:同期>リンク]]できる術さえあれば、の話だが。
ただの人間では到底思い付かないだろうし、知っていても実行する術がない。これは他の悪魔たちも同じだ。たとえ[[rb:八候王>バール]]であっても、実行に移すまではいかないだろう。
しかし、燐は[[rb:魔神の息子>・・・・・]]。魔神と同質の[[rb:炎>ちから]]の持ち主である彼にとって、自我を失なった魔神と同期し、その権能の一部を使用するなど造作もないのだ。
「…………あぁ」
以前の彼であったなら。
魔神と同期してその権能の一部を使うなんて、絶対に嫌だと顔をしかめていただろう。
だが、もはや躊躇などない。彼を引き留めていた楔は全て、他ならぬ人間たちの手でゴミのように捨てられた。
ここにいるのは、最果てより嵐を伴って帰還する魔王。いずれそうなるであろう、王の幼体。
……それでもなお、彼は。
「[[rb:そういうこと>・・・・・・]]かよ、あのピエロ」
力なく、囁くように溢した声。
散々自分のことを馬鹿だと称しているが、実際のところ、彼は案外聡明であるのだ。知識と経験不足が理由の馬鹿ではあったが、愚か者では決してない。
なので、魔神と同期して得た情報から理解した。いや、[[rb:理解してしまった>・・・・・・・・]]。
「結局……あいつらがやったことは、トドメの一撃だったってことか」
人類の歴史とは、成長途中の樹木であるべき、なのだ。そして成長途中の植物とは、今よりさらに大きく、もっと勢い良く育つ事を善しとするもの。
そして樹木を健やかに育てようとするならば、必ずやるべきことがある。
栄養を与える? 水を与える?
そんなものが何になる。この宇宙は無限のように見えて有限なのだ。[[rb:資源>リソース]]は常に限られていて、全ての枝には行き渡らない。
ならば何をすべきか。答えは簡単だ。
──不要な枝を切り落としてしまえばいい。
他の枝よりも勢いが強すぎて、養分を根こそぎ奪っていく大きな枝。
逆に、既に成長が止まって、ただ死を待つだけの小さな枝。
彼が今いるこの“[[rb:枝>世界]]”は、後者に当たっているのだろう。
きっと、一年前の時点では、まだどうにかなったのかもしれない。だが、その“どうにか”できる要素を、人間は正義感で包んだ悪意でもって踏みにじってドブに捨てた。
時間の流れは川なのだ。逆流などしないし、分岐点に戻れるわけがない。
剪定は既に決定事項。後はこの枝に刃が食い込んで、切り落とされるのを待つばかり。
「でもな────それならそうと、断末魔の叫びくらいは派手に上げるべきものだろ?」
たとえ自分たちの選択が間違えていたのだとしても、たとえ自分たちは消えて然るべき存在だったのだとしても。
虫に喰われて穴だらけになった台本。観客は誰一人としていない。終幕を引く者さえ呆れて帰り、収集の付かなくなった舞台。
読者からは自業自得だと嘲られ、最後は誰からも忘れられて終わるなど。
こんな惨めな終わり方なんてあってたまるか。
終わるにしたって、終わり方くらいあるのだ。
そう。滅びるべくして滅びたのではなく──ここが[[rb:終着>おしまい]]で、ここが[[rb:ゴール>エンディング]]だったのだと。そう思えるような、終わり方が。
「……俺は、お前らを許さない」
今一度、誓いを立てるかのように唸る。
「俺はお前らを救わない」
[[rb:誰かが望んだ姿>都合の良い舞台装置]]になんか、なってやるものか。
全て、自らの意思で決めた。ここで終わっておいた方が、幸せだったのだという事実を受け止めて。その上で、個人の幸福を全てなげうってでも、彼にはやらなければならないことがあった。
「でも──[[rb:愛さない>・・・・]]とは[[rb:言ってない>・・・・・]]だろ?」
自嘲気味に笑い、燐はただただ項垂れる。
……不思議なものだ。あれほどの仕打ちを受けてなお、彼の中に[[rb:人間>あの生き物たち]]を本気で憎む気持ちは欠片も無かった。
いっそのこと、本気で憎めれば良かったのに。恨み辛みに振り切って、復讐に走ることができれば、これ以上苦しまずに済んだだろうに。
けど、できなかった。どうしても、最後の一歩を踏み出すことは叶わなかった。
今だって、そんな気持ちはこれっぽっちも存在しない。憎もうとしても、脳裏に浮かぶのは楽しかった思い出ばかり。
だから、力による支配を選んでなお……その理由は、あの頃と何も変わっていないのだ。
「だから、俺は[[rb:こう>・・]]する。内輪で揉めているうちに、ぐちゃぐちゃになって、惨めに終わるんじゃなくて…………」
人類の歴史が滅びるのは────最果てより帰還した魔王の手によって、この地上が支配されることになったから。
「……それで良い。それで良いんだ。みんなを守る。そのためだったら、俺は、俺の全てを捧げても構わない」
それが、彼を大切に思った者たちの願いとは大きくかけ離れた物であっても。
……こうすることでしか、彼は[[rb:あなたたち>人間]]の愛に応えることができなかったのだ。
祈るように両手を組み、ただただ目を閉じ、膝を着いて誓う。
数秒か、数分か。はたまた数時間か。
長い長い黙祷の後──スッと開かれた彼の目には、凍えるような冷酷な光が宿っていた。
END
2023/5/7