契約結婚────わたしは、彼の罪悪感に付け入っている。
この国の夏は、とにかく不快だ。
溜め息を吐く。頬を伝い落ちた汗の粒が、地面に小さな染みを作って消える。
「あつい……」
[[rb:故郷>西の島国]]にいた頃には考えられないような暑さ。肌がジリジリと静かに焼かれていくような痛みでさえ伴う陽光。
初めて目にした時には感動さえ覚えた青い空が、今はなんだか恨めしかった。夕方なので若干赤いが、それでも青空の範囲に十分入る。
汗が滴り落ちるほどの暑さだが、これでも習志野は東京より涼しい方であるらしい。アルトリアとしてはどう考えても[[rb:団栗>どんぐり]]の背比べとしか思えないが。
「わたし……なにしてたっけ……?」
ほんの少し外に出ただけでこれだ。暑さのせいで何をしに出てきたのか忘れてしまった。英国の夜育ちのアルトリアにこの夏の暑さはこたえる。
「あ……そっか」
辺りを見て、何か手がかりとなるものが無いかと探す。と、庭に成っていた赤い実が目に入った瞬間に思い出した。
屋敷の裏庭にある[[rb:赤茄子>トマト]]を収穫してほしい。そう家令の男に頼まれて、この暑さの中ノコノコと出てきたのだ。
事情が事情なだけあって仕方がないと言えば仕方がないのだが、伯爵家に必要な仕事を全て取り仕切っているが故に家令は忙しい。そもそも彼の本業はもっと別のものだ。たまたま人手不足とかで家令を兼任しているだけで。
特に最近はアルトリアという新しい住民が来たので、それに関しての業務も降って湧いている状態。おかしな鳴き声を上げながらこめかみに青筋を浮かべ、尋常ではない速度で筆を動かす家令の姿に恐れおののいたのも記憶に新しい。
だが、家令は別に嫌な人間ではない。それなりに話の分かる人間だ。大仰な言動と梁の上で全裸で寝るなどの奇行にさえ目をつむればの話だが。アルトリアに危害を加えてくるわけではない。ただしアルトリアが台所に立とうとすると、今のように用事を言い付けて遠回しに妨害するだけで。
「何なんだろう、ほんとうに…………確かに、まだこちらの食事事情に慣れてないのは事実なんだけど! ご飯を作ろうと思って何が悪いんだー!! わ、わたしだって……わたしだって、いちおう……彼の……」
続きを口にしかけ、しかしまだその勇気は無く。勢いに任せて言おうとした文句は尻切れ[[rb:蜻蛉>トンボ]]で消えていった。
なお、これに関して家令の男を責めるのはお門違いという奴だ。むしろそうしたのは家令の英断と言わざるをえない。
その理由は、アルトリアが台所に立ち包丁を握った際に作成された[[rb:馬鈴薯>じゃがいも]]の成れの果てが雄弁に語っている。
六尺六寸(※約2メートル)という日本人にしては恵まれた体格の持ち主である家令の拳ほどの大きさの馬鈴薯が、気が付いた時には指先で摘まめるほどになっていたのだ。それを見た家令がアルトリアを台所から遠ざけた判断は間違いではないだろう。
なお、その他にも料理に関するやらかしは何点かあるのだが、ここではアルトリアの名誉を考慮して割愛しよう。閑話休題。
蓋を押し上げて出ていきそうになった感情を押し込めて、以降は黙って黙々と赤茄子を取っていく。潰さないよう気を付けて、慣れた手付きでぷちりと枝から実をもいでいった。
収穫した身は持っていた籠の中に次々と放り投げ、アルトリアは内臓に溜まった熱気を追い出すかのように深く息を吐く。
アルトリアの故郷である大英帝国は、夏と冬で極端に日照時間が違う。
夏は夜になってもちっとも暗くならないのに、冬はいつまでも暗い。凍えるほど寒くて、誰もいない部屋でひとりぼっち。あまり良い物とは言えない思い出ばかりだった。
(──でも)
故郷で過ごした最後の冬。その終わりにさしかかっていたあの日のこと。
帽子の影から覗く見知ったはずの青い瞳が、冷酷な光を宿してこちらを見下ろしていた。あの光景だけは、生涯決して忘れることはないだろう。きっと。
「あっ」
などと考え事をしていたのが仇となったのだろう。収穫したはずみで赤茄子が手からこぼれ落ちた。アルトリアの掌よりも大きな、今日収穫した中で一番大きな赤茄子だった。
不幸中の幸いなことに、完全に熟れているわけではなかったので地面に激突して潰れることは無かった。
「待って……」
思わず、転がっていった赤茄子に向かって呼び掛ける。
固く実が詰まった赤茄子はコロコロと地面を駆け抜けて行き、やがてその勢いが弱まった頃に白い布で包まれた手が拾い上げた。
「──ただいま、アルトリア」
落ち着いた印象のある青年の声が、少女の名をそっと囁くように呼ぶ。
地味な[[rb:土埃色>カーキー]]の詰襟。大部分がそんな地味な色合いだからか、襟に取り付けられた萌木の襟章がよりいっそう鮮やかに映える。アラビア数字で『13』と刺繍されたそれは、見るたびに芽吹いたばかりの若葉を連想させた。
制帽をぐるりと回る緋色の腰に付けられた帽章で輝くのは、五芒星と桜の若葉。庇の下にできた影の中で、空のように綺麗な青い瞳が瞬く。
たったそれだけ。
それだけなのに、ドキリと心臓が高鳴った。無意識の内にぎゅっと胸の前で拳を握りしめ、来るはずがないと思っていた人物の登場に緊張したように目を見開く。
「あ……お、おかえりなさい、リツカ!」
頬が熱い。自分はちゃんと言えただろうか。アルトリアは内心で先程の自らの行動について、嫌な予想を交えて何度も反省した。この屋敷の主である彼──藤丸立香と一緒に暮らすようになってから既に数ヶ月経つというのに、信じられない気持ちでいる。彼と一つ屋根の下で共に生活なんて、ほんの半年前までは考えられなかったのに。
「ごめん、邪魔しちゃったかな?」
「ううん、いいの。それを収穫したら、最後だったから! それにわたしの方こそ、お出迎えしなきゃいけなかったのに……ごめんなさい」
「いや、連絡しなかったオレも悪いよ」
悪いことをしてしまったかと眉を下げる彼に、慌ててそう返した。
主人の帰りに出迎えもしなかった事に関して詫びを入れると、優しい彼はそう言いながら手の中にある赤茄子をアルトリアにそっと手渡してやる。
「……でも、できるだけお出迎えしたいと思ってるんだ。朝に『いってらっしゃい』って送り出して、夕方に『おかえりなさい』って言う。だって、わたしは……」
愉悦で歪みそうになる口元を律し、明るい笑顔で──だが健気で献身的な『薄幸の少女』に見えるような表情を作って。
そうして、彼女は彼の心にまた小さな傷を残す。二度と、決して、離れられない細い糸を巻き付けるように。
「──わたしは、リツカのお嫁さんだもの」
アルトリアが口にした事実を耳にして、藤丸は一瞬だけ苦しそうな表情を見せた。
だがそれも一瞬。数秒も経たずに微笑みを浮かべて「……そうだね」と頷く。
彼がそんな表情を浮かべるたびに、アルトリアはえもいわれぬ心地よささえ覚えた。
ああ、これで──また彼は、わたしから逃げられなくなった、と。
「中に入ろう。慣れてないと日本の夏の暑さは堪えるからね。倒れない内に中に」
「はい……でもわたしが倒れたら、リツカが介抱してくれるでしょう?」
試すように口にする。藤丸は一瞬、自らの内にある衝動を抑えるように喉を鳴らした。しかし一拍の間を置いた後は、いつも被っている好青年の表情で「当たり前だよ」と言う。
「オレは君の夫だからね。遠いところからオレの我が儘で連れてきちゃったんだし、奥さんは大事にするつもりだよ」
あっけらかんとしているのに、どこか苦しげな声。その根底にある感情は、今までずっと一貫してひとつだけ。
(そう────わたしは彼の、罪悪感に付け入っている)
差し伸べられた手を取って、仲良く並んで屋敷の中に入っていく。
見えるものがいるのなら、きっと仲の良い夫婦に見えるだろう。残念ながら、人ならざる存在であるアルトリアを見られる人は、今では滅多にいないのだが。
それさえ除けば、きっと二人は仲の良い夫婦なのだろう。実際には、お世辞にも綺麗だとは言えないほどの、酷く歪んで鬱屈とした感情で結び付いた仲なのだが。
クスリ、と気付かれないように微笑を漏らし、アルトリアは静かに思いを馳せる。
隣を歩く、自分を妻として[[rb:買った>・・・]]男と初めて出会ったあの日からの出来事を。