【弟子バロ】弟子がものすごい勢いで師匠を口説く話「ああもう、好きと言っているのが分からんかああああああ」
いきなり弟子がブチ切れた。検事執務室のガラスがびりりと震え、蝙蝠たちがどこぞに飛び立つ。
胸元のクラバットを掴まれ、至近距離から叫ばれた元死神――バロック・バンジークスは色素の薄い目をばちぱちとまたたかせた。
「驚いた。心臓が止まるかと思ったぞ。法廷中に響き渡るような声で言わなくとも………………好き? スキ……とは?」
対する弟子、亜双義一真はぐぬぬおおと髪をかき乱して派手に懊悩した。
「だから!」
青年は手直にあった紙を二つ折りにして放り投げる。
「オレは!」
サーベルが抜かれ、素早く踊る刃が空中で紙を切り裂く。
「貴君を!」
宙を漂う紙が掴まれ、胸元にびしりとつきつけられる。
「愛している」
受け取った紙を開けば、見事なハートマークになっていた。
「……器用だな。サーカス団から熱烈な勧誘を受けそうだ。これで暮らしていけるぞ」
「待った キサマは話をそらしているッ」
「派手なパフォーマンスで気をそらしたのは貴公だろう……」
ガルガルと牙を剥きそうな剣幕で、亜双義はこちらに詰め寄ってくる。距離が近づくにつれ顔が上向きになり、首がつらそうだと思考がまたそれる。
注意力散漫。法廷なら致命的なことであり、いつもの自分らしくもない。
明晰な頭脳を持つバンジークス卿は、詰まるところ――静かにパニクっていた。
――やはりあり得ない。
すばやく検討したところ、先ほどの発言は大いに間違っている。若さ故の過ちを諭すこともまた師匠の務めだろう。そう結論付けたバンジークスは、対話による解決を目指すことにした。
「落ち着け、アソーギ。貴公は勘違いをしている。茶でも飲んで落ち着くがよい」
「勘違い、だと……?」
「アフタヌーン・ティーの時間だ。淹れてくれるか」
「…………」
ぎろりとした目線は煉獄の炎もかくやという熱をはらんでいたが、どうにか男は渋々足を進めた。戸棚から取り出したのは、油洋燈 立てが付いたケトルである。火を灯して湯を沸かし、茶葉の分量を量る手つきを後ろからじっと見る。
その仕事ぶりは、従者をしていた頃から変わらない。ゴールデンルールを示す教本の通り、同じ動作を何度重ねても手を抜かず、毎度きっちり時間を計る実直さは素直に好ましいと思う。
おそらく亜双義も、そういう隣人を快く思う気持ちを恋愛などと勘違いしているのだろう。そうとしか思えない。――もっとも、過去の因縁が絡みつく我らを示す言葉として「愛すべき隣人」が適切とは思えないが。
「できました」
「感謝する」
亜双義用の椅子を出すように指示し、ティーカップに口をつける。椅子を置くように指した場所はジオラマの方だったが、青年がしれっと座ったのは机を挟んだ真正面だった。
「眼前に平然と座る無礼、どうかお許し願いたい」
「……いざ自分が言われると、謝意の欠片もないことに驚きを禁じえぬ」
「フッ、ふてぶてしいのは検事の特質だ」
どんなに忙しくとも、ティータイムにはいったん仕事の手を止めて休むように。休憩をとることで仕事が捗り、クリアな思考を保つことができる――そう何度も言い含めたのは、この男が仮面の従者をしていた頃だった。他は一度で言うことを聞いたのに、何故かこれに関しては非常に強情だった。
「マッタク、決死の男に言い寄られている最中だというのに、考え事ですか」
「む……何故、」
「その鉄面皮に隠れているようだが、プライベートでは意外と分かりやすい。貴君が黙っているときは、仕事のための思索と神の雫に関する事項を除いて、だいたい自罰的な内省かぼんやりかだ。仕事はちょうど片が付いて待ち時間であるし、今のは後者だろう」
まったく、いやになるほど師をよく見ている。
「人が黙しているときは、大抵そうだろう」
「いや、我が親友……成歩堂のヤツは、少し間があるととんでもない阿呆な思い付きばかりしているし、例の探偵なら科学実験に妙なアイディアに金策に人の弱みに事欠かないだろうし、アイリス嬢ならば次の新作のネタに香茶に発明に忙しい」
一度に九語話す勢いで列挙され、たしかにと頷く。
「もしや、私はひどく単純な人間なのだろうか……」
「じゃなくて! また話がそれてしまった」
「ああ、先ほどはそなたのことを考えていた」
「えっ」
正面を見れば、亜双義はこちらを見たまま固まっていた。
「ここに来た頃、ティータイムは休めと何度言っても休憩をとろうとしなかった。休むことを憎んでいるように、そなたは仕事に打ち込んでいたな」
「あの頃は何かを掴まなくてはと強く思っていたし、何事もガムシャラにやるべしというのが故郷の風土――じゃなくて! これも脱線だ!」
ああもう、と亜双義はカップを上に向けて、野蛮ともいえる速度で中身をごくごくと飲み干した。
「アイラブユーは、アイラブユーという意味であろう! 他の意味があるか!」
びしりと人差し指をつきつけられた。
「たしかに愛は分かる。が――我らは男同士だぞ?」
「だから何だ」
「そう言われても、だから男同士だ。……ああ、日本の法律のことは知らぬが、貴公はよく勉強しただろう。英国の法では、同性で婚姻はできぬ。故にその言葉は承服しがたい」
「ぐあああああああああ」
ピシャリ! というどこかから鳴った音と共に、亜双義は攻撃を受けたようにのけぞった。法廷ではよくあることである。
はあはあと呼吸を整えた亜双義は、前髪を直しつつ「異議あり!」と叫んだ。
「オレは結婚を……やぶさかではないがムニャムニャ……今すぐにと申し込んでいるワケではない! 申し込んでいるのは交際なのだッ!」
「――!」
持っていたティーカップが盛大に揺れて、中身がこぼれそうになる。胸元のクラバットを汚さぬように、慎重に受け皿へと置いた。
「こ……交際。それは、恋文のやりとりだろうか?」
「やぶさかでは……やぶさかではないがしかし……それだけではなくッ! お互いに相手を想い、その……共に生き、時には接触し、愛を誓う、そういう仲になることを指す!」
上気した頬が目に入る。こんなに真っすぐ交際を申し込まれる日が来るとは思わなかった。混乱した脳がまばたきの間に夜空の星を映し出す。
「き、貴公はその……若さ故、勘違いしているのだ。私とばかり接しているのだから、なんだ……師や兄を慕う……というとおこがましいが、そういうアレを恋愛だと思っているのだろう。あの探偵やミス・ワトソンに同じ年頃の御婦人でも紹介してもらえば、すぐに違うと――」
「待った オレは日本において女性と話したことが何回もある。恋文もいくつかもらった! だからモテなさすぎて頭がおかしくなっているという推論は大ハズレである!」
「いやそこまでは」
目をそらし、クラバットの位置調整をする。口に出すには少し準備が必要だった。
「……それに、私は…………プロフェッサー事件の本質を見抜くことができなかった。貴公からそういうアレを受ける資格はないし、一人息子を堕落の道に引き込むなど、ゲンシンに申し訳が立たぬ」
ぐっと亜双義は口の端を引き結んだ。拳を握り、大きく息を吸う。
「ああ。許せないという感情は否定できない。だが同じように、オレは、貴君への恋慕も否定できなかった。言われなくとも既に幾千もの時間を悩み、そして――覚悟は完了している! ソレはソレ、コレはコレ! 感情は両立するし、慕いに慕う強い衝動がオレを突き動かしている。つまり! いつでも! 交際! できるというワケだッ!」
「……? ? ????」
サーベルを抜き刀身を見せながら言われると、脅しのようだった。
混迷を極めた脳みそが脱線を重ねるのを、半ば白目を剥きながら引き止める。とんでもない告白だった。
「しかし……何もかも承服しかねるがいったん聞くとして……いつからなのだ。弟子入りから一年ほど経った。悪いが、マッタク気づかなかった」
「む、それは……オレも隠していたことだし。ハッキリ自覚したのはここ半年くらいだろうか? 一応その……アプローチとして花を贈ったではないか」
「花……? 悪いが覚えがない」
花束を渡されたらさすがに覚えているはずだ。が、そのようなことは一度もなかった。
「ぐっ! お、贈ったではないか、貴君の部屋に!」
指摘され、どうにか思い出す。
従者時代の護衛任務を引き継いだかたちで、亜双義には自宅に部屋を与えていた。同居といえば同居状態である。
自室の掃除は少ない使用人に頼んでいたが、たしかにここ半年何回か、花瓶に花が活けられていた。
机に、名前も分からない花がある。最初は「しなくてもいいのに」と思ったが、次第に「次は何色だろうか」と楽しみになった。
「私の部屋にか。メイドに礼を言ったら笑顔を返されたので、彼女のおかげだと思っていた……。御高齢だから、耳が遠かったのかもしれんな」
「くっ~~! 恥を忍んで手紙もつければよかった」
「そなただったのか……礼を言う。目を楽しませていただいた」
「わ、わ、わかればいいのです」
頬を赤くしながら、年下の男は居住まいをただした。
「そ、それに……英国の小説や詩歌集も読んで勉強して、一応……こちらのやり方で口説き……褒めたりもしていたのですが」
「……?」
首をかしげると、亜双義は「~~」と頭を振った。
「目が……目がきれいですねとか! 触ってみたい髪だとか! 華奢な腰ですねとか!」
言われて確かに思い出す。馬車での移動中など、そんな言葉を聞いた覚えがあった。たいていそんなとき、彼の膝には本が開いた状態で載っていた。
「ああ、小説の音読でもして、辞書に載らないような英語の勉強をしているのかと」
「口説いていたのですが」
「私相手に『華奢』は明らかにおかしいだろう」
「クソッ 発音を直されたときに気づくべきだった」
下品な言葉が聞こえたので、思わず首を振って十字を切った。
「くっ……日本男児が……日本男児がこれ以上できることなど……ッ! あまりにも……ッ!」
両手で拳を握り、机に突っ伏してしまった亜双義は、明らかにショックを受けていた。
こちらも相当に青天の霹靂だったが、一周回って逆に落ち着いている。
「でも…………好き、なのです……。誰に何と言われようと止まれない、胸にこれ以上とどめておけない……。オレは……あなたを…………」
潤んで熱のこもった目が、じっとこちらを見つめている。
彼の言う通りそれは暴発に近く、大きすぎる感情が蒸気のごとく噴き出しているように見えた。
若さとはここまで苛烈だっただろうか。少なくとも己は、ずっと低温で生きてきた。このような情熱に近寄るだけでも溶けてしまいそうだ。
「それは……本当に、隣人愛や友愛ではないのか? 女性が男性を愛する愛なのか……?」
「逆です」
「逆?」
「いや違うな――ありのまま、人間が人間を愛するということです。勉強した詩歌はオレにはピンと来ないものばかりでしたが、一つだけ響いたものがあります。ブラウニング夫人だったか、愛するなら他の何にもよらず、愛によってのみ愛せ――と。見た目も地位も話しぶりも関係ない、ただ愛するから愛している……それが分かりませんか」
「っ……!」
思わずたじろいだ。真っすぐな目だった。
後ろめたさの欠片もない、そんな目で男を口説ける男は、きっと英国中探してもこの男一人きりだろう。
どうやら彼の主張は、その気持ちによっては否定できないようだった。
癖で検事章に触れそうになり、どうにか思いとどまる。上がった右手で紅茶を飲んで、眉間を揉みながら覚悟を決める。
「婚姻関係にない男女の関係は、たしかに存在する。――が、それはふしだらで、不道徳なことだ。それに貴公は知っているだろう。ラブシェール修正条項を」
「…………」
「暗唱してみよ」
若き青年が、勢いを削がれて目を伏せる。
我ながらずるい返しだと思った。が、司法に身を置くものとしては「知らなかった」では済まされない。
「……公的な場であろうと私的な場であろうと、他の男性と著しい猥褻行為を行った男性はすべて軽犯罪を犯したとして有罪であり、裁判所の裁量において以下の懲役刑に処す」
震える息を吐きながら、亜双義は必要十分な暗唱をしてみせた。
「私自身で担当したことはないが、それでも有罪判決は年に数回出る。さらに古い法では、神の意に背く不自然で堕落した行為……つまり生殖を目的としない性交、バガリーについてつい四十年前まで死刑の対象であった。社会道徳として、許されぬことなのだ」
「異議あり!」
亜双義は机に拳を打ち付けた。
「たしかに法は事実としてある。しかし『著しい猥褻行為』だと 『神に背く行為』だと オレは断じてそんなことを求めているワケではないッ! 条項が定められた背景だって知っている、少年少女を売春から守るためだろう。この想いを、そんな……ッ、野蛮で下卑た薄汚い欲望と一緒にしないでいただきたい! この告白が、淫猥な行為のみが目的だと思っているのなら、キサマの目は曇りに曇っているぞ」
ぎりぎりと奥歯を噛む音すら聞こえてきそうな剣幕だった。
間違ったことを言ったつもりではないが、配慮に欠けた断り文句であったと自覚する。
「すまない。たしかに貴公の気持ちを犯罪だと突き返すのは、礼を欠いた発言だった」
「マッタク! 性行為などと……順序を飛ばしすぎだ」
論点がずれた気もするが、慎重に言葉を選びながら再度口を開く。
「貴公の国では、おそらく違うのだろう。だが英国では純潔と清純こそ道徳なのだ。先も言ったが生殖を目的としない関係――つまり同性間で特別に親密な関係などあってはならないのだ。ラブシェール修正条項の定義はアイマイだ。結果として、決定的な行為をした証明がなくとも、怪しい男同士というだけで売春容疑をかけられる。かわした恋文の数々も、堕落の証拠として法廷に提出される。嘆かわしいことに、新聞各社も大衆も、それを面白おかしく騒ぎ立て……法で定めた罰以上の辛苦を与えるような、不幸な事件もあった」
「…………」
亜双義は珍しく背中を丸めたまま、じっと聞いている。明らかに、彼の炎が勢いを削がれ消えていくのが分かった。
胃の腑がじくりと疼いた気がしたが、いつかは告げねばならないことだった。
「年齢差も身分差も、法廷では非常に不利だ。私は若い東洋人を買った、堕落し退廃した唾棄すべき貴族として後世に悪名を残し、貴公は男娼として新聞に書き立てられる。……結末は、どう考えても不幸なものだ」
――その名をあえて告げぬ愛。
有名な事件での証言を思い出す。当事者すら言葉にできなかった関係を。それが堕落か真実の愛かは結局証明されず、ただ刑罰と不名誉が残った。
正義の裁きを時には捻じ曲げる陪審員制も最終弁論も、法について失望するところはある。――が、だからといって背くわけにはいかなかった。
「ぐ…………」
「だから、アソーギ。貴公の気持ちは……しかと、受け取った。が、応えることは――」
「異議あり!」
亜双義は勢いよく立ち上がると、処分するように言っていた樽に向かってサーベルを抜いた。素早い斬撃が樽を襲う。
「うおおおおお異議あり異議あり異議あり異議あり異議あり異議あり異議あり異議あり」
木屑が飛び、やがて樽の表面には「Objection」という刻印が浮かび上がった。
「異議あり」
最後にサーベルを一閃させ、亜双義はこちらを向いて刀身を鞘に納めた。と、同時に樽がばらりと砕ける。残ったのは、四角いチップと化した破片の山だった。
「…………後で掃除するように」
「運びやすくしておきました」
ふう、と額を拭った亜双義は、「そういうワケだ」と胸を張った。まったく意味が分からない。
「オレがその程度、調べもしなかったとお思いか」
「む」
「面と向かって言われて冷静さを欠いたが……反論にもならん! バレなければいいとかそこらへんは置いといて、貴君の反論には重大な欠落がある!」
法は法だ。水が下に流れるがごとく当然の道理を語ったはずだ。
――なぜこうも、日本人というのは頑固な生き物なのか。
つきつけられた人差し指の存在感が急に増した気がして、バンジークスはごくりと喉を鳴らした。
「英国社会の一般論についても、法についての慣例も分かった。が――貴君の気持ちはどうなのだ。オレはまだ、一回も気持ちを聞いていない。一言でもイヤだと言われれば、オレもいくらか納得してみせよう。説得の準備はできているがな」
「………………」
ひゅっと息を呑む。虚を突かれ、思考が数秒止まった。
「何も言わなくていい。オレは知っている。貴君がどれほど鈍いか、行動に己の感ずるところを勘定しないかは身に染みてよくよく分かっている。何しろ己の好物を自分自身で知らぬ朴念仁ぶりだ。最近の献立にシチューが多いのは厨の者にオレが助言を――話がそれていかんな。とにかく!」
亜双義は、自信たっぷりに言ってのけた。
「貴君もオレと同じ気持ちだろう」
「…………………………何?」
素のホワッツが出た。
遅れて、どくどくと心臓が主張を始める。努めて冷静にと心がけながら、残った茶で喉を潤す。
「ばッ――世迷言も大概にすべきだ、アソーギ。己の気持ちなど己が一番よく知っている。その勘違い、そろそろ若さのせいと流してやれなくなってきたぞ」
「流されるのは御免こうむる。むしろ爪痕を立てるのが狙いです」
「マッタク、己の考えに固執するのは法廷内だけにしていただきたい。外ではマナー違反である」
「どちらがです。貴君こそ、ああだこうだと言い立ててオレの言葉を真面目に取り合おうともしない。そんなに怖いのですか。後ろ盾の一つもない、小柄で憐れな日本人が」
「思ってもないことを言うものではない。ミスター・アソーギ。冗談にしては笑えぬ」
「……………………」
机を挟んで睨み合う。
口説かれている場のはずだが、流れる空気は明らかに法廷内のそれだった。
意志の強そうな眉毛を片方動かし、亜双義は顎を少し上げる。
「ふん、そこまで言うならば――いいだろう、オレもカードを切るぞ。キサマがオレを好きである論拠をつきつける」
「なんと……」
ここまで図太いのかとむしろ感心するまでいったのは、きっと驚きすぎて当事者意識がすぽんと抜けていたからだろう。
くらえ と突きつけられたのは、いつかシデナムで撮った写真だった。
温室、美術館、博物館、モールなど全ての娯楽をそろえた公園で、欧州文化に触れるのもよいだろう、とオペラ鑑賞に連れて行った日があった。結局、彼が一番興奮していたのはゴンドラから見る等身大の恐竜模型で、きらきらとした横顔が子供のように見えたのを思い出す。
「この日に、何かあっただろうか?」
「二人で連れ立って出かけたのだぞ」
「?」
「貴君から誘って、あ、逢引きなど……、これはもう好きといっても過言ではないッ!」
「……………………」
おかしい。法廷では切れ者で、隙のない論理が売りのこの男が、今はまったく同一人物には見えない。風邪でも引いているのだろうか。
「それに、目がよく合う」
「目が」
「朝から晩まで行動を共にして、なんと一つ屋根の下にいる」
「それは、弟子だからだろう」
「こんな扱い、今まで他の誰にもしたことはないだろう」
「まあ初の弟子である故に」
「オレにだけかすかに微笑むときがある」
「マッタク身に覚えがない……」
「この前不慮の事故により接触しただろう。列車が急停止し、向き合うかたちで密着したとき、その……わざとではないが胸に顔を埋めてしまい……貴君の胸の鼓動が、非情に速かったのを覚えている」
「列車の急停止時に平静を保っている者の方が少ないだろう」
「ぐおおおおおおおおおおお」
亜双義はのけぞり、両手で頭を抱えてぶんぶんと振った。法廷ではよく見る光景だ。
「違う! オレはこんな童貞のようなコトを言いたいのではなくッ!」
「純潔を保つのはいいことだ」
「ちょっと黙ってていただきたい! 違う! そうじゃないッ! ッ~~~~ 物証はないがしかし、目を見れば分かる! 貴君はオレを、オレに…………特別な想いを、感じるのだ……。思春期特有の、自分がそうだから相手もそうだという決めつけではない。願望の押しつけでもない。愛の存在を確かに感じているからこそ、オレは……!」
しばらく悶絶した後、亜双義はハッと息を呑んだ。
「そうだ、ここは法廷ではない……物証がなくともよいのか。そうだ、貴公を分からせ認めさせればよい」
ツカツカと靴底をならし、彼は扉の鍵をかけ、カーテンを閉めにかかる。止めたが華麗に無視された。
蝋燭から蝋燭に火が灯され、室内がぼうっと橙に揺らめく。
急に空気が変わった気がして、己らしくもないが、逃げ出したくなった。
この弟子が本気なのは、もうとっくに分からされていた。
――困る。
鈍いと言われたがその通りである。把握している感情は、それだけだった。
「失礼」
「ッ――!」
薄明りの中、手を握られた。
とっさに離そうとしたものの、位置のずれた手を再び捕まえられる。
書類整理のために手袋を外していたのがよくなかった。久方ぶりに触れた他人の体温は、ひどく熱く感じられた。
「何をする、ミスター・アソーギ」
「心配せずとも、貴君の不利になることや傷をつけるようなことはしないと誓おう。――ひとつ実験をさせてください。結果は貴君の心のみぞ知る」
椅子の傍らに立った男に、じっと見下ろされる。
目が慣れたがそれでも暗い。青年の顔の半分は揺らめく炎で照らされ、もう半分は闇に溶けて輪郭すら分からない。いつもより年かさに見えたその眼差しが一瞬玄真のそれと重なって、心臓がぎゅうと傷んだ。
「駄目だ」
意図はまだ不明だが、それだけは分かった。
じりじりと距離を詰めたもう一つの手が頬に触れてきて、さすがにはねのけた。
「やめよアソーギ!」
「実証実験です」
「世迷言を」
「大真面目だ。一度、ただ一度の接触……接吻で答えが分かる。貴君もこの問答を疾く終わらせたいのなら協力すべきだ」
「ッ~~~~! 話にならぬ! 第一、結果は私の心が出すと――それならもう答えは決まっている。ノーだ。これ以上の問答は無用である」
議論を断ち切り腰を上げるが、ぐっと肩を押されて立ち上がれない。
体格差に任せて強引に押しのけることもできたが、それはひどく不誠実なことに思えた。
男の声が覚悟を背負った真剣なものであり、下卑た響きなど一切ないのは分かりきっている。
それに、意思を蹂躙して従わせようとする気迫がないのもまた厄介だった。脅迫ならばもっと楽なのに――と浮かんだよからぬ考えを慌てて消し去る。
そうだ、この男は「自らの意志でオレを愛せ」と、そう迫っているのだ。
ひどく真っすぐで、どこまでも傲慢な要求だった。
「恐れているのか、バンジークス卿」
「何だと」
安い挑発だった。
「西洋では男性同士でも、挨拶で唇に接吻をするのでしょう」
「いやしないが」
「…………」
「……家族ほど親しければ頬には」
「まあそれはそれとして、」
亜双義はなかったことにした。強引な理論展開もまた検事の特質である。
「唇がちょっと触れるくらいなんですか。こんな接触ごときが著しい猥褻行為だと判じられたら、さすがに可愛らしい司法であると笑いを禁じ得ない」
「論点をずらすな。罪かどうかと言っているのではない。ただ単純に不要だと言っているのだ。我々の間には既に信頼関係があり、それは揺らがない。ただ確固たる線引きがあるだけだ」
「そうでしょうか? 何事もやってみなくては分かるまい」
「やらずとも明白である」
ぎろりと睨めつけるが、ものともせずに青年は屈んできた。
少しのけぞったが、背もたれに邪魔され動けない。本格的に距離が縮んで、脳内で言葉の渋滞が起こる。
「こ、困る…………」
毅然として言論でねじ伏せなければ。そう思っていたのに、いざ口から出たのは弱々しい声だった。無意識に手の甲が唇に触れていて、自分でも驚きながら離す。
かつての死神とは思えぬふがいなさに、恥がじりりと込み上げた。
「くッ」
だが意外にも、亜双義には一番効いたようだった。
ぎくりと動きが止まり、至近距離で見つめあう。
「困らせる……つもりはなかった。が……たしかに、一方的すぎるきらいはあった。申し訳ない。貴君が受け入れるだけの時間も必要だ」
少し距離があいて、ほっと溜息をついた。これでしばらくは休める。
「十待ちます。十、九、八……」
「い異議あり! せっかちすぎる」
「そうですか?」
「せめて十年待て」
「遠回しなお断りではないかッ!」
バレたか。しかし冷静に考えて、十日は欲しかった。
背中を伸ばした姿勢に戻り、亜双義はすうはあと深呼吸をした。
「だが、やはり……本当に不要ならば、貴君がオレを何とも思っていないなら、適当にやり過ごしてからこう言えばよいのです。何も感じなかった――と。そう頑なに拒むのは、脅威を感じているこそだ」
「詭弁である。貴公の主張は一貫して誤った前提を元にしている」
「怖いのですか。気持ちを暴かれるのが」
「違う……」
侵食される。
堅く築いた城壁を一つ一つ崩した異国の軍勢が、秘めた宝物庫の扉をこじ開けにかかっているような気がした。その中には何もないと必死で叫んでも、まるで見えているかのように「ある」と言い張り攻めてくる。
本人にすら分からぬことを、どうしてそう断言できるのか。試薬が色を変えるように、何か確かな証拠がほしい――そう、意識の奥が傾いた。
「何も一緒に地獄に堕ちるよう勧誘しているのではない。ただ、今は、目に見えぬ愛を確かめたいそれだけなのです。それだけでよい。先祖にも法にも背くことはない。心の内までは判事にも女王にも裁けない。……もし明日世界が滅びて二人きりになれば、他の何も気にせずに貴君はオレを愛するだろうか」
「ッ……熱い」
熱かった。何もかもが熱かった。
じっと注がれる視線も、顔をすくうようにあてられた両手も、蝋細工なら溶けてしまいそうなほど熱かった。
くらりと眩暈を覚える。灼かれる。暗いのに眩しくて、息が震えて声が出ない。
――やはり駄目だ。許されない。
そう言って胸板を押そうとしたが、間に合わなかった。
「ッ…………」
存外柔らかい感触と共に、若い唇が押し当てられた。
髪と鼻と衣服が触れあい、熱を感じ、息が止まる。
最初は強すぎたので、少し引いて力加減を調整される。焦点を結ばぬ至近距離で、黒い目がじっとこちらを観察していた。
耳鳴りの中、血潮が体の中を流れる音すら聞こえた気がした。
――唇がちょっと触れるぐらいで。
――こんな接触ごとき。
――何も感じなかった、と言えばいい。
あんな軽口、本人が欠片もそう思っていないのは明白だった。
ただ一度の接触にすべてを賭ける愚かなギャンブル。それを提案した亜双義一真という男は、勝算なしにオールインなどするわけがない。
侵食される。狭い扉をこじあけられる。
目覚めて仕事をして帰って寝ての、歯車のごとき変わらぬ静穏無風の毎日に、爪を立てて押し入られる。痛みは必要経費だとばかりに責め立て、乱暴でふてぶてしく、苛烈で横暴で傲慢な、十も下の日本人に、心の内を暴かれる。
「ッん、んぐむぅう――ッ!」
濡れた感触が唇に伝わり、その衝撃でやっと体が動くようになった。慌てて突き飛ばし、肩で息をしながら手を口に当てる。
「ッ~~~~! ほ、ほんのちょっと、触れるだけと、言ったではないか――ッ!」
「っは、っは…………………………返す言葉もない」
またとうとうと言い返してくると思ったが、予想に反して亜双義は静かだった。
胸の鼓動がうるさい。ティーカップを持ち上げたが空で、神の雫までは遠かった。
「………………窓を開けるぞ」
締め切った部屋は、汗ばむほど暑かった。窓を開ければ状況は改善するに違いない。
立ち上がって右半分のカーテンを開け、左を掴んだところで後ろから止められた。手首を掴まれ、強引に目を合わされる。
「何か感じたことがあるのではないですか。もう貴君の心は答えを知っているはずだ」
感情を抑えているのだろう。不自然に平坦な声の調子に、ざわりとうなじが疼く。
何も分からない。いや、分かりたくない。
正しくあらねば人を裁けない。自分の気持ちなど感情など、優先順位の内にすら入れたことがない十年だった。正しさと理性で生きてきた。それしかない人生だった。
鉄の理性に殉じるしか、道はない。
「……………………ノー、だ」
「そう、か」
震える息を吐く。これでよい。拒絶こそが正しさだ。
――と、そのとき刺すような光に覆われて、目元を覆った。カーテンを全開にされて、丁度西日が入ってきたのだ。
「はは、分かった! 分かったぞ!」
窓をバックに、亜双義は両手を腰にあてて高らかに笑う。無残にもふられた男の言動ではなかった。
「何がだ」
「愛を確信した」
「げほげほぶはごほ」
ショックから、思わずむせた。
「失敬。とうとう気が変になったのか、ミスター・アソーギ」
「そんなに後ずさらなくても……。まあいい。アイリス嬢が提唱した、最新の嘘発見法をご存知か」
「法廷では使えない恒例のアレか。最新号のランドストマガジンには載っていなかったぞ」
「直接聞いたからな。――あ、違う! うら若き女子に恋愛相談など軟弱なこと、この大和男児がするワケがない! あくまでも検事としての仕事に使えることを日々情報収集しているだけで、すなわち勉強熱心というワケで」
非常に目が泳いでいるが、そこはゆさぶらないでおく。こちらも同様に動揺しており、青年の目を盗んで呼吸を整える。
「嘘をつくときに活性化する神経があり、それは首の後ろの血管に強く関係しているという。血流の増大に従って体温が増し、毛穴がひらき、微弱な電流が生まれることによりうなじの後れ毛が、今貴君のそれはもう見事に逆立っているのだ!」
「なッ、馬鹿な! そんな判別法、今まで知られていないワケが――」
素早く首の後ろに手をやった。が、手に触れる感触はいつも通りで、とても逆立っているとは思えない。
「ふはははは! 引っかかったな! 実際は瞳孔と脈拍で測るのが正しいやり方だが、正直よく分からなかったからカマをかけてみた。その反応、ウソをついた者にしかありえんッ!」
「ッぐ、なんだとおおお……ッ」
胸元に衝撃を覚えて思わず手をやる。最近の法廷に波乱は少なく、久々に受けたダメージだった。
「フ……今日の目的は達成した。ならば次の段階だ」
「待てアソーギ! わ、私は認めてなど……」
次とは何だ、まさか接吻より凄いことを と構えてしまう。
「たしかに日本にも鶏姦を取り締まる条例は過去存在した。が、十年足らずで消えた。刑法を定める際に、採用されなかったのだ」
混乱しきった師匠を置いてけぼりにして、弟子はさっさと論を進める。
「わが国は後進国とはいえ、それでも条約で認められた国家だ。同じ行為が一つの国では有罪で、もう一つの国では無罪になる。神が定めた万全の法ならば、そんなことはあり得るだろうか。――否! 違う」
亜双義は、目の前の闇を切り裂くように手を払った。どこからか向かい風が吹く。
「法とは人が作ったものだ。神ではなく、人が、作った。——だから変えられる。悪法ならば、人の手によって正さねば。現に選挙法などは細かく変えられてきただろう。そうと決まれば法改正について調べる必要があるな。勉強に人脈作りに、やることは多い」
燃える青年は、満足げに腕を組んだ。
「今日は大変有意義な時間であった! これからの目標が一つ増えたぞ。ああ心配は無用、貴君に師事し行う修行も決して手を抜くことはない。この時間ならば、もう今日は新たな呼び出しもないだろう。急ぎ図書館に行ってくるから、また夜に……」
「待て待て待て待て」
暴走特急か躾け途中の猟犬か。
一方的にまくしたて飛んで去る勢いの弟子を、どうにかベルトを掴んで引き留めた。
「よく、よく落ち着くのだカズマ。あの探偵にコカインでも盛られたか」
「失礼な! 貴公が鈍重すぎるのだ」
話がだいぶ前に戻った。
眉間の皺を揉みながら、唸って言葉をひねり出す。
「法を変えるなど、どれだけ難しいことか……。それに皆が求めた選挙権と違って、性的堕落を示すバガリーは……信心深い英国人には受け入れがたい禁忌なのだ。表立って活動したら、いったいどんな悪評を立てられるか……。もし今日のことが貴公の動機となるならば、私は」
「ええ、それも分かっています。――加えてオレはよそ者だ。貴君は屈折しつつも対等に接してくれたが、他はそうではない。矢面に立てばバッシングは避けられないし、貴君にも危険が及ぶ。そのくらいは分かっているさ」
「ならば――」
「しかし、裏で働きかける分には問題あるまい」
振り返り男は笑う。にっこりと、まるで二枚舌の英国人が見せるような、含みのある笑顔だった。
「あくまで改正は何十年後の長期目標だ。法はすぐには変えられないが、しかし法解釈の前例を残すことは、このオレにだってできる。たとえば『著しい猥褻行為』について明確な証拠を必要とするようにとか、行為参加者が三人以上の場合にするとか。判例が法律を生むコモン・ロー。けっこうなことだ。――ああそうだ、最近下町で仲良くなった刑事も、中庭で知り会った判事のタマゴも、オレの話に興味があるようで、近々腹を割って話す予定だ」
「……フ、まったく、何という、途方もないことか…………」
十年ぶりに稼働した表情筋が、かすかに口角を上げるのが分かった。
とんでもない切れ者だと思っていたが、あり得ない馬鹿者も兼ねているとは!
ここまで呆気にとられたのは、ミスター・ナルホドーの突飛な推理を聞かされたとき以来だった。今日はいったい何度衝撃が来れば済むのやら、モルグ街からオランウータンが逃げ出してももう驚かない。
「たとえ貴方が認めずとも、今は嘲笑されても、オレはやってみせます。本気のほどは結果で示す。それでは――」
ふんすと息を吐き、亜双義は踵を返した。
「まあ待て。今のはなんだ、アレだ、褒めようとしているのだ」
「えっ」
グラスを取り出しボトルを開け、聖杯を二つ用意する。
「出る前に乾杯をしても?」
「あ、ああ……」
この男のことだ、おそらくこちらの反応も反論も、予想し対策を練ってきたのだろう。
ならば、きっとこれは予想外だったに違いない。
聖杯を掲げて燃える瞳を見据える。
「私はまだ、キモチとやらを認めていない。仮に目標達成となっても、貴公の言う交際関係が成立する保証はない。それでもそなたはいばらの道を往くのか」
「――もちろんだ。愛する者を愛してはいけないというのなら、それは法が間違っている。オレと同じ思いを抱く者のためにも、戦えるものが戦わねば」
まったく意志は揺るがない。いやになるほどの快男児ぶりであった。
ならば、こちらも襟を正して向かわねば。
「承知した。貴公の、想像を超えた成長と覚悟に乾杯を」
杯を合わせ、神の雫を口に含む。いつもはゆっくりと香りを楽しむところだが、今ばかりは一息に飲みたかった。
ぷはっと口を開け、正面から見つめあう。師事してたった一年で、この男の視野はずいぶんと広がり、大志を抱くまでになった。
「手は貸さぬが知恵は貸す。必要な資料などあれば言うように」
「十分な尽力ですよ、師匠殿」
「……妙な気分だ。言っておくが、バガリーには反対だからな」
「清く正しい愛ならば神も罰したりはしまい。胸を張っていいのですよ」
「自信がありすぎる……」
「検事の特質です」
はっ! と亜双義は白い歯を見せて笑った。
「それでは失礼いたす! ……忙しい! やることがいっぱいだ!」
騒がしい男がいなくなり、しんと執務室に静寂が訪れる。
空の杯を机に置くと、置いたままだった紙のハートが目に入った。そっと持ち上げ、表面を撫でてみる。かすかな凹凸を指の表面で感じ、ようやく実感が湧いてきた。
――昔は、兄から愛をこめてのんびりバロックと呼ばれていた。膝を擦りむいた一時間後に泣き、プレゼントをもらった半日後に大はしゃぎする。何故か時差があったのだ。
成長して機敏さを身に着けたものの、粗忽者のベンジャミンにすら「おっとり」なんて言われる始末。
どき、どき、どき、どき、どっくんばくばく。
遅れて、体が高熱を訴えた。激しい鼓動に見舞われてふらふら後退し、バンジークスは椅子に倒れ込んだ。
奪われた唇に手を当てる。あの口づけが何度も何度も、脳内で繰り返し再現されていた。
「……あ、愛して、いる、など…………」
――困る。
どうしていいか分からなくて困る。
先祖や死者に顔向けできなくて困る。
立場上こちらが犯罪者になるのだから困る。
――言われてみれば、たしかにそうかもしれないと思ったから、困る。
「次から、どういう顔で会えばよいのだ…………」
元死神は大きな体を丸めて悩む。
頭の中では、いつか共に聞いたアリアが鳴り響いていた。少年ケルビーノが歌い上げるあの曲は、たしか「戀の惱みを知る君は」というタイトルだった。