髪の毛一本も残ってない 薄暗く、タバコの紫煙が立ち込めるパブの片隅。菫色の長い髪をその空間に沈めながら、一人の男が丸テーブルを挟んだ先にいるもう一人の男へと語りかけていた。
「ここ最近、オレの周りに赤い封筒が急に現れるんだ」
話を聞いていた血色の悪い細身の男は、怪訝そうに眉を顰めつつも目の前にあるグラスを傾ける。
「高額納税者のお前に督促状を送るバカでもいるんですか?」
「いや、分からないんだ」
「は?」
「デスクの上や、帰り道の路地裏、家のバスマットの上なんかにないつの間にか置かれているんだが……中を見る前にみんなが回収したり燃やしてしまうからな」
「なるほど、じゃあこの話についてはここで終わりです」
「いや、もうちょっとだけ聞いてくれても良いじゃないか」
「嫌ですよ。まあ、それに関してはおまえは何もできることはないから、気にしないことです」
「それ、キバナにも言われたぜ」
「くれぐれも、変な好奇心を出さないように」
「それも、キバナに言われたぜ」
カランっとグラスの中の氷が揺れる。アルコールを摂取しても、なお血色の悪い顔を歪めて、菫色を見つめるネズは大変不機嫌だった。
変な話をされたからではない。今正にはなしをしていた赤い封筒が、菫色の髪の毛を持つダンデの頭上から降ってきたからだ。
「言った通り急に現れるだろう?」
うんざりだという顔を隠さずに、ダンデは肩を竦める。その間にも、もう一通封筒が落ちてくる。まるで、ダンデが触れることを催促してるように彼の髪スレスレを通って落ちてくるそれは、控えめに言っても薄寒い。
「気味が悪いですね」
「忠告通り触らないようにしているが、こうもしつこいと封筒を開けてスッキリしてしまいたい気持ちもある」
「カラマネロ、やっちまいな」
いつの間にかボールから出ていたカラマネロが、器用にも丸テーブルの上にある封筒の上へのみ、消化液を吹きかける。パチパチと、何かが焦げるような嫌な音がした後、立ち昇った煙はタバコの煙へ混ざり合り、沈み込んでいったのだった。
「変な匂いだ」
「あぁ…かみの燃える匂いですね。キバナの言う通り、お前は無視を続けるように」
余りにも真剣な温度を持った言葉に、ダンデは気圧され、素直に頷くのだった。
パブでネズと会った後も、ダンデの日常には真っ赤な封筒がずっと現れ続けた。触るなと言われた通りダンデは一切手を触れず、気が付いたら手持ちのポケモンや、恋人のキバナがすぐさま処理していく。流石にそれが1ヶ月以上も続けば、ダンデも封筒に対して恐怖よりも嫌気が強くなる。
「……あれ?」
そんな終わりの見えない攻防戦の中、ダンデはいつものようにタワーの執務室で書類仕事に勤しんでいた、はずだった。
「オレ、タワーにいたよな?」
普段の癖で右腰へと指先を伸ばすが、そこにあるはずのモンスターボール達は一つ残らず消えていた。ダンデは、じっとりと背中に嫌な汗を掻きながら周りを見る。薄暗い路地には、人影どころが生きているものの気配が一つも感じられなかった。ただ、足元に広がる煉瓦が、特徴的な鱗模様だと気付いた事で自分が立っている場所がナックルシティであると見当がついた。
ポケモンの技の流れ弾に当たってテレポートしてしまう事案は聞いたことがあるが、前兆も無くいきなり知らない場所へ飛ばされるのは聞いたことが無い。兎に角、人のいる場所まで出なければ。そう、ダンデが足を動かした時だった。
血のような真っ赤な封筒が一つ、ダンデの目の前へとストンっと降ってきた。
その封筒を視界に入れたダンデは、どくりと心臓を騒がせる。好奇心と、これを開けば封筒が降り注ぐ日々から解放されるかもしれないという仄暗い希望。それらをキバナとの約束と天秤にかけて心がぐらつく。不意に冷たい湿った風が吹き、ダンデの前髪をイタズラに揺らし、鱗模様の煉瓦敷の道の上に落ちていた封筒も一緒になって浮き上がる。
「あっ」
飛んでいってしまう。ダンデは咄嗟に手を伸ばして封筒を拾い上げようと駆け出す。が、その指先は封筒へと触れることはなかった。
ぐちゃり
「駄目だって言ったじゃん」
何かが潰れたような音と共に、見慣れたスポーツシューズがダンデの視線の先、先程まで赤い封筒のあった煉瓦敷の上に勢い良く現れる。それと同時に、温度の無い声が頭上から聞こえて、手を伸ばした姿勢のままダンデが固まる。
「オレさまさ、言ったよな。関わるなって」
「……好奇心に勝てなかったぜ」
「好奇心、チョロネコを殺すってことわざ知ってる?」
「し、知ってる」
イタズラが見つかった子どものように口を尖らせるダンデに、キバナはピシャリと容赦が無かった。これは完全に怒っている時のキバナだ。そろりとキバナから一歩離れてから目を明後日の方向へと向ける。暫く黙ってから、もう一度謝罪の言葉を口にすると、キバナの長い溜息が聞こえてくる。
「次は見つけても触らないぜ」
「うん、まあそれはもう良いんだけどよ」
もう?良い?キバナの話す言葉の意味が分からずに困惑していると、キバナは踏み出していた足を戻して頭の上で手を組んだ。
「いつもオレさまが間に合うか分かんないんだから、気をつけろよな」
空気が変わった。そう直感したダンデがちろりと目線を送れば、そこにはいつものキバナの姿。知らずに止めていた呼吸を再開して、ダンデは漸くキバナの方へと一歩踏み出した。
「もう、封筒には触らないし気をつけるようにするぜ」
「ふふっ、だからそれはもう大丈夫だって。入れる中身がすっからかんになっちまったんだとよ」
「……?」
「ほら、帰ろうぜ。タワーのスタッフ達やポケモン達がお前のこと血眼になって探してるぞ」
スイっと差し出された手へと、ダンデは自然に指を絡めて繋ぐ。大きな手のひらで包まれて歩き出すと、やがて人々の喧騒が耳へと入ってくる。戻ってきた。何故だかそう確信できたのだった。
それから、赤い封筒がダンデの前に姿を見せることは無くなった。