ようこそ、春 春。という季節がダンデは小さな頃から大好きだった。草むらを転がれば鼻をくすぐってくる甘い草の香りに、日差しを浴びて気持ちよさそうにしている小さなポケモン達。彼がチャンピオンになって数年経った今でも、春の時期は休みを見つけてはワイルドエリアや野山を駆け回り、野生のポケモン達とバトルをして季節の変わり目を満喫していた。その日も、ワイルドエリアを走り回ってから木登りをした。昼寝をしていたのか、カジッチュが木の上でゆらゆらとりんごを揺らしながら目を閉じていたので、起こさないようにそうっと横に座る。木の軋む音で、起きてしまわないかとダンデはドキドキしたが、よほど日差しが気持ちいいのだろう。全く起きる様子も無く、夢の縁で揺れているようだった。
『ねえダンデくん知ってる?好きな子に告白するときにカジッチュをプレゼントすると……結ばれるんだって!!』
幼馴染が以前話していた言葉を急に思い出して、ダンデは頬を熱くする。好きな子、好き。自然と頭に浮かぶのはインクを落としたような真っ黒な髪に、今日の空みたいに青い瞳。笑うと見える、鋭い八重歯。気付けばダンデは腰に着けていたポーチから、未使用のモンスターボールを握りしめていたのだった。
鱗模様の煉瓦道を、小さなモンスターボールを一つ握りしめて走り抜ける。膝についた乾いた泥や、髪に絡まっていた小枝や葉っぱ達が途中で力尽きてダンデから放り出されていく。そんな事、気にも止めずにダンデはただひたすらに走り回っていた。今日を逃すと次の休みまでは暫く間が空いてしまう。絶対今日、このボールに入ってくれた子と一緒にキバナに会いたかったのだ。
「っこっちくんな!!」
それなのに、走り切ったその先で漸く見つけたキバナから、真っ直ぐに勢いよく放たれた言葉は予想もしていない強い拒絶だった。ダンデは、パタパタと跳ねさせていた足音も、心臓の音もパタンっという勢いの良い靴音を最後に止まった。キバナから、バトル以外でそのような強い言葉を掛けられた事なんてなかった。だから、どうすれば良いのか分からなかった。出せというようにカタカタと揺れ動き始めた自分のボールホルダーの音に気付いていたけれど、どうしようもなく痛んだ胸へと縋るように小さなモンスターボールを引き寄せて立ち尽くす。こういう時、人との関係性を作るのが苦手なダンデにはここからどうすれば良いのか分からなかった。
「……あっ!!違うって!!!そういう事じゃねえって!!泣くなよ!!!」
ジワリと目の前に映っているキバナも、横にいるジュラルドンが滲んでいく。堰を切ったように流れ出てくる涙を見て、ギョッとしたような声でキバナが叫ぶ声が聞こえる。泣くなという言葉を拾ったダンデは、なんとか歯を食いしばって止めようとするが無理だった。
「ごめんな!びっくりしたよな!違うんだって!」
滲む世界の中に、オレンジ色が駆けて来る。キバナの慌てたような足音と一緒に、彼にギュッと肩を抱き寄せられる感覚に、ダンデは混乱しながらもホッとしてますます涙を流す。
「オレ、何かやっちゃったか?」
幼馴染からも時々言われる「デリカシーが無い」という言葉を思い出して、ダンデはその時に尋ねるのと同じ言葉をしゃくりあげる喉からなんとか捻り出す。
「あー!本当に悪かった!お前さっ……ハックシュン!!」
あまりにも大きなクシャミの音に、ダンデの涙が一瞬引っ込んだ。目をまん丸にしている間も、キバナは立て続けにクシャミを繰り返していき止まる気配は無い。
「ご、ごめんっ……オレさま、花粉症が酷くて…ッ」
そう、息も絶え絶えに言った後にもう一度大きなクシャミ。そこで漸くダンデは自分の有様を思い出した。身体中に付いた葉っぱに、木に登った時に服へと降り掛かった黄色い花粉。ダンデにとってはただの汚れでも、キバナからしたらこんなアレルギー物質の塊が勢い良く駆け寄ってきたらどうなるのか。子どものダンデだって流石に理解した。
「わあっ!ごめんなキバナ!離れるぜ!!」
すっかり涙も出なくなったので、視界が大分クリアだ。キバナから距離を取ろうと慌てて体を離そうとすれば、逆に離れないようにと抱きしめられる。
「待って!今離れたらオレさまの酷い顔面見られちゃうじゃん?!ヤダ!!ックション!」
「何を言ってるんだ?!離れないとずっとクシャミが止まらないじゃ無いか!ほらっ離れるぜ」
「ヤダー!!こんなぐちゃぐちゃになった顔、かっこよく無い!!」
ぎゃあきゃあと騒ぎ合うダンデ達を、オロオロとジュラルドンがうろつくが収拾がつかない。やがて痺れを切らしたのか、賑やかな気配に誘われたのか分からないが、ポンっと軽やかな音と共にキバナのボールホルダーからヌメルゴンが飛び出してきた。
「ヌメ〜!」
にっこり笑った彼女が両手を広げると、途端にバケツをひっくり返したような雨粒がダンデ達へと降り注ぐ。余りの勢いに目を開けることもできずに驚いたまま2人で立ち尽くし、靴の中まで水でいっぱいになった頃。ようやっと満足したような顔でヌメルゴンは再びボールへと戻っていく。
「なんだったんだ……」
「多分、花粉流してくれたんだと思う……」
「なるほど……確かに全部流れたと思うぜ」
「ほんと、ごめんな」
「謝らないでくれ!オレが何にも知らずに駆け寄ったんだから」
「いや、焦ったとはいえ酷いこと言ったのは事実だしな……ックション!」
「えっ、まだ花粉付いてたか?」
「いや、これは普通に寒さから来るやつだわ。あーあ、びっちょびちょだな。お前、今日はオフか?オレさまのアパート近いし、来なよ。着替えも貸してやるから」
するりと肩から離れてしまったキバナの手のひらの熱さが勿体無くて、ダンデはキバナを仰ぎ見る。キバナはそんなダンデの気持ちなんて知らないようで、水の重さでずり下がってきたバンダナを外し、両手で絞りながら申し訳なさそうにダンデへと提案してくる。
「キミの家、行っても良いのか?」
ライバルとして、友達としてキャンプに行ったりバトルしたりはあったがキバナの家に行くことは今まで無く。彼のプライベートな空間へ行けるということへ喜びがダンデの心の中へと湧き上がる。
「このままだと絶対風邪引くだろ。シャワー浴びて、あったかい紅茶でも飲みながらで良いからさ。そのボールに入ってるポケモンを紹介してくれよ。多分そのために、ここまで走ってきたんだろ?」
キバナの言葉に応えるように、カタンッと一度ボールが揺れる。ダンデの事情を聞いて、喜んでボールに入ってくれた少しのんびりやなこの子を見たら、キバナはどんな顔をするんだろうか。そう考えたら、じっとなんてしていられなかった。
「そう……だぜ!キミに見せたくて、渡したくて走ってきたんだ!」
だから早く行こう!片手にボールを持って、もう片方でキバナの手を握って。水の粒を髪から溢れさせながらはしゃぐダンデの顔が何故だか眩しく見えて、キバナもおんなじような顔をして笑うのだった。
乾いたレンガ道に続く子ども二人分の笑い声。そして仲良さげに並ぶ水の足跡が、太陽の光に照らされて輝く。弾む足取りによってカタカタと揺れるボールの中で、その景色を見ていたカジッチュはこれからきっと起こるだろう幸せを想像して、ひとりのんびりと笑うのだった。