夜空、星二つ ガラルにしては気持ちの良い、からりとした青空が朝から広がっている日だった。ブラックナイトに関する諸問題で暫く奔走を余儀なくされていたキバナは、ようやく業務もひと段落し始めた。屋外での作業は晴れの少ないガラルでは何よりも優先したい事柄だ。そんなこともあって、キバナは温かな陽気の中、ナックルジムの中庭で膝と頬を土で汚しながらせっせと植物の剪定に明け暮れていた。元が城ということもあり、一般の人々が立ち入らない場所には未だに当時の面影を残す部分が多い場所だ。キバナが居る中庭もその一つで、ナックルのジムリーダーが代々手入れをしていくことがいつの頃から習わしとなっていると聞いていた。初めてその役割を聞いた時には正直乗り気では無かったキバナだったが、元々好奇心旺盛な方だと自覚していることもあって、やり始めてみればなんだかんだと楽しみを見つけ出し、気付けば少しずつこだわりも持つようにもなってきた。
「剪定はこんなもんでいいだろ。ヌメルゴン、付き合ってくれてありがとな」
「ぬめ!」
お気に入りの日傘の持ち手をくるくるとさせながら機嫌良さそうに返事をしたヌメルゴンは、剪定した枝葉を抱えて庭の奥の方へと歩き出す。庭の奥からは楽しげな野生ポケモンの声が聞こえてくる。恐らくはよく見かける虫や草ポケモン達だ。彼らに切った枝葉を渡しにいくのだろう。瑞々しい木々達は食糧にも、彼らの棲家を飾る家具にも変化する。それを知っているヌメルゴンはとびっきりのお土産を手にご機嫌なのだ。
「アイツらによろしく言っといてくれよ」
「めー!」
任せてというように返事を返し、ヌメルゴンの姿は草木の間へと隠れていった。額の汗を拭いて、ずっと曲げていた腰を労るように伸ばしながら空を見上げる。先ほどと変わらない空の中に一つ、嵐の予感を見つけた。
「穏やかな時間は終わりってか」
青空を切り裂くような速度で、こちらへと向かってくる朱色の火竜を眺めながらキバナは思わずそう呟いた。火竜はやがて、スピードを上げてキバナの方へと真っ直ぐに落ちるようなスピードで滑空してくる。その背中に見知ったライラック色がしがみついているのも、そしてそのライラック色がキバナの頭上高い位置ででこちらに向かって両手を伸ばしながら飛び降りたことも、優れた動体視力を持ったキバナの目は捉えていた。
「っ!?ばっ!なにやって!」
咄嗟に抱き止めて勢いを殺すようにそのまま地面を転がり、3回転ほどしたところでようやっとキバナは腕の力を抜く。地面に打ちつけた背中が痛いじゃないかと抗議をしてくる。キバナが腕を下ろしても、ライラック色は伸ばしてきた両手をキバナの背中に回しながら逆に抱き付いてくる。
「……ダンデ?だよな?」
「……」
「どうした?なんか緊急事態か?」
しがみついてくるライラック色の正体を確認すべく、地面に仰向けで転がった上に乗っている頭らしき部分を触りながら問いかけると、言葉が返らない代わりに伸ばした手のひらに頬を擦り寄せられた。それはまるで幼い子どもか、生まれたばかりのポケモンのような仕草で、自分の知っているダンデとはかけ離れた行動にキバナの脳は大分混乱した。
「ロロっ!着信ロト!」
『よかった!誰かいました!』
『キバナさんだわ!』
『そこにオーナーはいますか?!』
急にけたたましい声と共にダンデの胸ポケットから飛び出したスマホロトムは、スイっとキバナの前まで飛んできて通話をオンにした。テレビ通話になっているようで、液晶には慌てふためくタワースタッフ達が見える。阿鼻叫喚と言っても過言ではないような画面先からの喧騒に眉を顰めつつ、スタッフ達を宥めながら聞き取った話はこうだ。
タワーのレンタル用にとスタッフと共に育成していたポケモンの中に、技がどうしても上手く形にならない子がいたそうで。その子の特訓中に技があらぬ方向へと飛び、ダンデへ思い切り命中したらしい。エスパータイプの特殊技だったことで体に物理的なダメージは無かったが、どうやら『さいみんじゅつ』系の技だったのか、ダンデは技が命中した後にまるで野生のポケモンのような行動をし始めたらしい。タワースタッフが宥めようにも警戒心がとても強く、散々逃げ回った後にボールから出ていたリザードンにしがみついて、怯えたように唸り声をあげていたらしい。どうしようか、なんてスタッフが額を突き合わせて対応を考えようと目を離した隙にダンデはリザードンに飛び乗ってタワーを飛び出してしまったらしく、現場は大混乱。残されたスタッフ達が、藁にもすがる思いでスマホロトムに連絡をし続け、現在キバナに繋がったということだった。
「ばっきゅ!」
「おうおう、お前も災難だったな」
「ぎゅあ!」
相棒を助けてくれ!と言わんばかりに、涙目でキバナの方へと駆け寄ってきたリザードンを撫でつつ、スタッフの話に耳を傾ける。その間もダンデはキバナへと抱きついたまま全く離れる気配が無い。
『では、技の効果が無くなるまでよろしくお願いします』
状況を飲み込みきれず、適当に相槌を打っていたらなんだか変な方向に話がいきかけて、たまらずキバナが待ったをかける。
「えっ?いやなんで?タワーの専門医がいる施設の方が良くないか?」
「それが、今の所ポケモン以外には全く懐かなくて……人に対してそんなに友好的な態度なのはキバナさんが初めてなんです」
「マジか」
『そういうわけですので、暫くオーナーをお願いします!』
「えっ?!」
ぶつり。と、半端無理矢理に押し付けられた状況に呆然とするキバナだったが、それから数分後にスタッフからダンデの症状と回復までの見通しについて医師の説明を添えた文章がデータで送られてきては、彼方もそこまで追い詰められていたのかと同情もする。
「医師の見立てだと、この状況は長くて数日程度か。まあ、やるだけやってみるか」
キバナが見上げた空は、変わらずからりと晴れたままだった。
キバナから離れたがらないダンデを宥めすかして、なんとか自宅までタクシーに乗せて連れてきたが、そこからが本当の嵐の始まりだった。ダンデが具体的にいったいどんな催眠に掛かっているのかは分からなかったが、とにかく今の彼が甘えん坊で寂しがり屋だという事は数時間で嫌というほど味わった。
少しでもキバナが離れようとすれば癇癪を起こしてしがみつき、撫でてやればコロッと上機嫌になる。トイレに行くのも一苦労だ。そして、キバナがポケモン達と触れ合うのは良いが、テレビやスマホに視線を集中させると直ぐに邪魔をしてくる。前にポケスタにアップしたナックラーだった頃のフライゴンみたいな行動をしてくるな。なんて遠い目をしながらキバナはランチの準備をなんとか終わらせる。ダンデは、ジュラルドン達と一緒にポケボールで遊んで貰っている。久しぶりにプライベートで会うダンデの様子が違う事に最初戸惑っていた彼らだったが、キバナが事情を話せば割と直ぐに事情を理解してダンデへと関わってくれた。そんな彼らとのやり取りを見ていても、ダンデは本当に自分がポケモン、しかもまだ幼い子どもだと思っているようだった。
「そろそろ飯にしようぜ!」
ケラケラと屈託なく笑いながら遊んでいる彼らにそう声をかけると、全員飛ぶように駆け寄ってくる。午前中はバトル調整に加えて、中庭の作業を手伝ってくれたヌメルゴンは特にお腹が空いていたようで、ふんふんと食卓へと誘いにきたキバナの指先の香りを嗅いで、早速ランチのメニューを予想しているようだった。
「今日はデザートに、きのみとフルーツのタルトがあるぜ」
その言葉に目を輝かせてヌメルゴンが飛び跳ねると、ダンデも真似をして飛び跳ねる。それを見て、陽気なジュラルドンやフライゴン達も一緒になって飛び跳ねてリビングの床がグラグラと揺れる。その揺れが面白いのか、ダンデがもう一度跳ぼうとする前にキバナは彼の首根っこをつかまえてから、全員を食卓へと送り出すのだった。動画でも撮りたい光景だったが、そんな事をしていたら冗談じゃなく床が抜けてしまう。
ランチタイムは一息つけるかと思ったが、ダンデはテーブルの上にある料理を眺めはするものの、自分では全く食事に手を付けず。あれこれ試した後、キバナの手からなら食べるという事に気が付いた。サンドイッチに始まり、デザートのタルトまで小さく手でちぎりながら食べさせてやると、時々差し出した指に戯れつきながら嬉しそうに食べていく。
「お前、今はオレさまとそんな仲良いわけじゃ無いのにな。なんで、来たんだよ」
もぐもぐとモモンのみを頬張っているダンデへ、そう問い掛けるように声を降らせるが、言葉は勿論返ってくることはなく。その代わりに口元を食べカスだらけにしながら「んっ!」と元気いっぱいな返事らしき声が返ってきた。
「言葉も消えてんのか」
「ん?」
「なんでもねぇよ。美味いか?」
「んっ!」
多分美味しいと言ったのだろうと自己完結し、キバナが口元を拭いてやれば、何が面白いのかは分からないがダンデは楽しそうに笑う。
それからまた数時間がたった頃。やっとダンデの状態にも慣れてきたキバナは、彼の状態について心配しているであろうタワースタッフへと現在の状況について、メールを送ろうとしていた。その間、ロトムは遅めのランチタイムでキッチンへと行っている。最近は電子レンジ横のコンセントから電気を食べる事にハマっているらしい。ロトムが抜けたスマホを持ち、中々に上手い文章が思い浮かばず頬を掻いていると、ダンデがその様子に気付いたらしい。それまで遊んでいたボールを放り出し、キバナの座っているソファまでやってきた。どうするのかな、とキバナがスマホから目を離さずに様子を見ていると、視線が動かないキバナの様子に苛立ったのだろう。ムッとした顔で景気良くスマホを叩き落とし、そのままソファに乗り上げてキバナの横を陣取り、腹へと額を擦り付けて唸る。余程自分から視線が外された事がお気に召さなかったらしい。キバナは、余りにもストレートなダンデの行動に思わず笑ってしまう。
「遠慮がねぇな!」
「んっ!」
「はいはい、撫でろってか」
「んー!」
落としたままにしておけば、他の幼いポケモン達に悪戯されてしまうだろうスマホを持ち上げようとするが、手を伸ばそうとすれば途端に威嚇するように唸るダンデに、仕方ないなと宥めるようにその豊かな髪の毛を整えるように手のひらでゆったりと撫でてやる。
「……満足か?」
ダンデからの返事は無かったが、ニコニコと邪気の無い顔でギュッと腹へ抱きつかれてしまえば怒る気など生まれない。落ちているスマホを見たら、きっとロトムから小言が飛ぶだろうが、その時は元に戻ったダンデにしてもらおう。そんな事を考えながら彼の頭を撫でていくと、すっかりリラックスしたダンデはキバナの膝へと頭を乗せて膝枕のような体勢で寛ぎ始める。
「ふふっ相変わらず自由な髪の毛だなぁ。すぐ跳ねる」
「んー」
モジャっとイタズラに髪の毛を掻き乱しても、むずかりはするが怒る様子は無い。その事になんだか気をよくしたキバナは、ゆったりとダンデの頭だけでなく、顔、背中も撫でてやる。そうして暫くすれば、ダンデの呼吸は少しずつ深くなりやがて寝息に変わっていった。
「ほんとに、生まれたばっかのポケモンみてぇだな」
やっとこ一息つけるかも。と、ソファの背もたれへと体を預けて今日の出来事を振り返ってみる。とてもドタバタはしたが、キバナは正直物凄く楽しかった。遠慮も配慮もなく行動するダンデと一緒にポケモン達と大騒ぎしながら過ごした一日は、まるで何もしがらみの無かった子ども時代に戻ったような気がした。そのせいか今のダンデを通して、思い出の中に残っている幼いライバルの姿が何度も忘れないでというように溢れ出てくる。その思い出が余りにも無邪気に笑いかけてくるものだから、キバナはずっと前から蓋をしていた感情までも思わず溢しそうになって、慌てて自制した。今日はそれの繰り返しだった。
まだ2人が互いの立場をよく分かっていなかった頃。ライバルとして、友達として休みの日が合えば2人揃ってワイルドエリアに飛び出して、朝から晩まで泥だらけになりながらポケモン達と一緒に今日みたいに大騒ぎではしゃぎまわったものだった。勝率だとか、タイプ相性だとかなんて気にもしない。観客なんて誰もいない草っ原でバトルもたくさんして、夜になれば夜空を眺めながらなんでも無いような事をたくさん語り合った。
それが、ガラルという土地でのポケモン勝負の世界において、後ろ指刺されるような事だなんて思っても無かった2人は、年が経つに連れて増える中傷や出鱈目な憶測をみっしりと書き並べられたゴシップ記事に、自分達がもう「子ども」ではいられないと考えた。だから、2人でたくさん話し合った後に、なんでも無い事をたくさん語り合った夜空の下で、2人揃って最後の雑談をして、月の光を頼りにテントを片付けてさよならを告げた。
さよならを告げてから、キバナは漸く自分の心の中に陣取っていた焦げ付くような感情の正体に気付いたが、もうどうにもできないことだった。
もどかしかったこの数年、自分なりに心の折り合いをつけようと必死になっていたが、そうしようとすればするほど、焦げ付いた感情は取れなくなって。程よい距離感なんて分からなくなり、正直ダンデに酷い態度だってたくさんとったのだ。それを、チャンピオンを降りたからハイ元通り。友達からまた始めましょうなんて簡単にはいかないのは、キバナも分かっていた。恐らく、ダンデも。
そんな中、文字通り転がり込んできたこのトラブルをなんとか生かしたい。もう抱えていた感情は可愛い「恋心」なんて物では無くなってしまった。躊躇ってばかりでは、この膝の上で可愛らしくあどけない笑顔を誰かに盗られてしまう。
それだけは、それだけは絶対に。
「無理だな」
思わず本音が声となって放り出される。自分以外がダンデの寝顔を見て、楽しんでいる姿を想像しようとすれば、心の中に積もりに積もった焦げ付いた感情達がもう一度熱を持って燃え上がりそうで耐えられない。唸りながら、撫で続けていたダンデの寝顔をもう一度見ようとすると、予想と反して真顔の彼とかっちりと目が合った。
「……やっぱり、オレじゃ無理か?」
「お前、戻ったのか」
「ずっと意識はあったんだ……でも、体は言うことを聞かなくて。キミに甘えるポケモン達が羨ましいって思っていた気持ちのまま動いてたんだ」
でも、今はっきりと目が覚めた。そう告げるダンデの表情は硬い。ただ、その表情とは違ってキバナに伝えられた内容には引っかかる部分があった。
「羨ましい?」
「……忘れてくれ」
「嫌だね」
「無理なんだろう?ちょっと期待してしまったんだ、離してくれ」
ダンデは懐いていた膝の上から飛び上がろうともがくが、キバナは長い両腕で押さえ込むようにダンデを抱きしめて動けないようにする。暫く本気の攻防が続いた後、根負けしたダンデがキバナから表情を隠すように背中を向けて膝の上に頭を乗せて転がる。
「……キミ、無理っていう割にすごく粘るな……」
「いや、これ以上拗れるのは死んでもゴメンだったから全力で止めたんだわ。お前、絶対勘違いしてるもん」
「何も、勘違いなんてしてないだろう!」
「お前が、オレさま以外とこうしているのを想像するのが無理。そう言いたかったんだよ」
「それって……どういう」
言葉を上手く咀嚼できなくて、生まれた疑問をキバナに問いかけようと彼の方へと顔を動かしたダンデは、思っていたよりもずっと近い位置にあるチョコレート色の鼻先と、アクアマリンの瞳にどきりと心臓を跳ねさせる。
「こういうことだよ」
重なった瞳を見つめていれば、唇に何か柔らかいものが触れ、離れていく。ダンデの驚いた顔がキバナの瞳に映っている。そして、キバナの焦げ付くような眼差しもダンデの瞳に映っていた。
「どう、いう事なのか、オレは……言葉が欲しい」
「いいよ。しっかりと聞いてくれよな」
2人の顔がもう一度ゆっくりと近づいて。小さな、それでもしっかりとした言葉達はダンデの耳へ、そして心へと子どもの頃に2人並んで見た流れ星のように真っ直ぐと降り注いだ。
「……分かってもらえた?」
そっと名残惜しそうに顔を離したキバナは、そこで呼吸を忘れた。
「……んっ!!」
蕩けるような笑顔で笑うダンデの顔は、少年の頃の記憶と何も変わらなかった。そして笑いながら彼は泣いて、キバナの腹へと抱きついた。
今日、これから一緒に夜空を眺めに行こうか。くだらない事をたくさん話そう。震える声で紡がれるキバナの誘いに、抱きついたままのライラック色は何度も何度も頷いた。
それだけで、返事は十分だった。
END