とあるナックルの片隅で◆ライラック色の髪をした少年の回想
「あ、チャンピオンだ!」
「チャンピオン!」
「何かイベントでもあったっけ?」
困った。
俺は、大きな街の真ん中で冷や汗を掻きながら、どうしてこんなことになったのかをひたすらに考えていた。
今日は午前中にシュートでのチャリティイベントに参加した。午後はスポンサーの会社が行うガーデンパーティへの参加が予定されていたが、そちらが主催者側の事情でのキャンセルとなったので、突発的に午後は丸々オフとなった。予定されていた休みより、こういうイレギュラーな休みって得な感じがして俺は好きだ。せっかくだから前々から欲しいと思っていた物を買おうと意気込み、勢いのままユニフォームで飛び出した。自分なりに人目が少ない道を探しながら、地図アプリと睨めっこ。しかし、俺の努力も虚しくうっかり路地から大きな通りへと出てしまった。途端に集まるキラキラとした眼差しの人、人、人。応援してくれる人達の期待の眼差しを裏切ることはできず、突発的に始まってしまったファンサービス。握手に写真、サイン。もみくちゃにこそされないけれど、このままだと行きたい場所に行けないまま休みが終わってしまう。顔には出せないが内心焦りつつも人混みは消えるどころが増えていく。どうしたものかと困っていると、人混みの奥から良く通る声が聞こえて来た。
「すみません!通して貰えますか!」
「……キバナ!!」
人混みからひょこりと片腕を上げながら出て来たのはキバナだった。チャンピオンに加えて最近ジムリーダーとして注目され始めている彼が来たことで、周りからは歓声があがる。ついでに黄色い悲鳴も聞こえて来た。いつものトレードマークであるバンダナは外され、髪を下ろした彼は同じように服装もいつものナックルユニフォームでは無く、ブラックとアイボリーの大きめのパーカーになんだかシュッとしたズボンを着ている。あまり見かけない格好のキバナを見て、そのかっこよさにドキリと胸が高鳴る。
「お前、ローズさんが次のスケジュール間に合わないって探してたぞ!案内するから早く行こうぜ!」
「えっ?!次?」
「ほら、こっち!すみません!次の予定あるのでチャンピオンのファンサービスはここで終わり!次は是非スタジアムに来てな!」
周りを解散させるよう、そう叫びながらキバナは俺の手を掴み大通りから路地へと足早に歩き始めた。流石に仕事の邪魔をしたくは無いからか、ファン達もわらわらと左右に分かれて俺達を通してくれた。そのことにホッとする間もなく、俺は大混乱に陥った。
「(手、握ってる!大きい!冷たい!)」
なんでこんなにパニックになっているのかだって?そんなのキバナが好きだからに決まってるじゃないか!初めてバトルをして目と目が合った時に、頭の奥からバチバチと響き渡った雷みたいな衝撃が、自分の心の中「恋」というものを一気にキバナの形に焼き付けられてしまった。そこからはライバルとして色々な場でバトルをしてきた。何とか好きな事を伝えたいと思いつつも、会う機会があるのは仕事の時だけだ。連絡先も知らないし、バトルの時は控え室も違う。取材や撮影などでも俺が多忙な身だ。中々時間を取って話すこともできず、チャンスを逃しまくって距離を縮められずにもう二年。
それなのに、なぜか今良くわからないけれど手を繋いで一緒に歩いている。次のスケジュールができた事は残念だが、キバナと手を繋げただけでも全てがチャラだ。それくらい嬉しい。
ドキドキしたまま右へ左へ歩く。何か話しかけてみようとするが、キバナと仕事以外で話したことなど無かったので結局無言で歩くことになってしまう。キバナも同じ気持ちなのか、何も話さない。気まずい沈黙が流れたまま辿り着いた先は、古びた小さな煉瓦造りの家だった。焦茶色の壁に覆われているその建物は、壁の半分が蔦に覆われており、まるで昔読んだ絵本の魔法使いの家みたいだ。入口の木の扉にある小さな「OPEN」のプレートを見て、初めてここが何かの店であることに気づいた。まだ、手は繋がれたままだ。
「キバナ?ローズ委員長は?次の予定って…」
「えっ?あれ嘘に決まってんじゃん」
「はぁ!う、嘘ぉ?!」
「だって、あぁでも言わなきゃお前ずっと囲まれてたじゃん」
「それはそうだけど」
キバナは戸惑う俺なんてそっちのけで扉を開き、繋いだ手を引いて俺にも入ってくるよう促す。
「……わぁ!」
白を基調とした壁には色とりどりのドライフラワーで作られたリースや花束が所狭しと飾られ、置かれている丸テーブルも壁と同じ白く、天板に壁の花と同じように色とりどりのタイルがはめ込まれている。床は様々な柄の木が組み合わされて敷かれており、不思議な模様を描いている。とても綺麗で不思議な空間に思わずぱかりと口を開けたまま見渡していると、クスクスと笑い声が隣から聞こえてきた。ハッとして隣を見ると、キバナがそれはもうおかしそうに空いている方の手のひらで口元を隠しながら笑っていた。片想いをしている相手に笑われたことに気づき、途端に恥ずかしさが生まれた。顔が赤くなってしまったの隠そうと思わず繋がれていた手を離して、両手で帽子のツバを思いっきり下げて顔を隠す。手を離してしまったのは寂しかったが、この真っ赤になった顔を見られる方が嫌だった。
「くっ…ごめんごめん、あんまりにも大口開けて突っ立ってるから…くくっ」
「わっ笑わないでくれよ!もう!」
ツンっと顔を逸らして不機嫌な事を表現すると「ごめんって」と全く反省していないような半笑いの謝罪と共に俺の顔を覗き込もうとしてくるので、ムキになって体ごと後ろに逸らす。それを見てキバナも動く。逸らす、動く、逸らす、動く…。
二周ほどそれをした辺りで、キバナがフェイントをかけてきてパチリと音がしそうなくらいガッツリと目があってしまい、何だかそれが面白くて2人同時に吹き出して笑い出してしまった。店に入るまでの気まずさは何だったのか。
暫く笑い合っていると、店の奥から「そろそろ座って貰えるかね?」と笑いを堪えた初老の男性店主が控えめに声を掛けてきて、今度は二人揃って顔をカジッチュみたいに真っ赤にした。
◇◆◇
「ここ、オレさまのお気に入りの店なんだ。」
ナックルシティの奥まった場所にあって、店主の趣味の店なので不定期営業。席同士は適度に離れており、奥には観葉植物のプランターによって隔てられた半個室のような席がある。静かに過ごしたい時などは、店主に営業しているのかを確認してから来店していることを、この店オススメのクリームティーセットの紅茶をゆっくり飲みながら楽しそうにキバナは話してくれた。俺もキバナの真似をしてなるべくゆっくりと飲んでみる。なるほど、ゆっくり飲むといつもより良い香りがする……ような気がする?
「そんな大切な場所、俺に教えてよかったのか?」
「別にダンデなら良いよ。それに、どうせ教えたってお前絶対辿り着けないじゃん。」
前半の言葉に胸を飛び跳ねさせたのが間違いだった。後半がきっと本当の理由だろう。唇を尖らせてキバナの分のスコーンも鷲掴みにして口に詰め込むと、抗議の声が上がったが知った事ではない。俺の恋心を弄んだ罰だ。可哀想に。傷心の恋心は心の隅で膝を抱えてさめざめと泣いている。
「そういえば、ダンデは何であんなとこでウロウロしてたんだ?」
「実は、弟がもう少しで誕生日なんだ。そのプレゼントを買いたいなって思ってたんだけど…その。」
「道に迷ってあの大通りに出ちゃったと。」
「うん…せっかくオフになったのだからいつもの通販サイトからじゃなくて、お店でじっくり選びたかったんだが…。」
忙しくて直接会える時間が少ない分、贈り物は目一杯気持ちを込めて渡したかったのでとても悔しい。この時ほど自分の方向音痴が情けないと思ったことはない。
「あ、あのさ。じゃあさ、これから一緒に買いに行かない?」
「えっ?」
「お、オレさまも実は母さんの誕生日が近くてさ。ダンデさえ良ければだけど、もしよかったら一緒にどう?」
キバナの言葉に俺の恋心は飛び上がってガッツポーズをとって踊り出した。我ながらチョロすぎるだろう。
「やっぱりダメ?」
「ダメじゃない!俺も行きたい!」
ちょっと声が裏返ってしまったが、キバナの気が変わらない様に半分席から腰を浮かせながら食い気味に返すと、キバナは嬉しそうに笑った。
「やった!じゃ、これからオレさまとデートだな!」
「(でっ…デート!!!?)」
「デート」という三文字で俺の心臓はドキドキと跳ね回る。キバナはそんな深い意味もなく言ったのかもしれないが、俺にとっては夢にまで見た言葉だ。あまりの嬉しさにもう恋心は頭の中で大喜びで駆け回っている。俺もできるなら今すぐ叫びながら走り回りたい。
「じゃ、行こっか。」
店主へと支払いを終えて、さあ出発しようとしたときに、さらっと来た時と同じように俺の手を握って歩き出すキバナに、俺はただ顔を真っ赤にしながら黙って着いていく事しかできなかった。でも、嬉しい気持ちは伝えたくて、握ってくれた手をキュッと力を込めて握り返す。そうすると振り返りはしないものの、キバナもキュッと同じように手を握り返してくれた。それが嬉しくて俺は思わず満面の笑みになった。
行きと同じようにお互い何も喋らずに手を繋いで歩くが、俺はもうその沈黙を不思議と気まずく感じることは無かった。
◆とある喫茶店店主の回想
白い漆喰風の壁に、磨き込まれて輝く木の床。ナックルシティの片隅に開いた喫茶店の店主である初老の男は、彼の好みに合わせて自分の牙城を洗練されて無駄の無い、兎に角シンプルな空間に仕立て上げようとしていた。しかし、内装が完成してもいない途中から、妻がアレコレと趣味仲間と作ったという枯れた花や、木工作品を所狭しと飾り立てるものだから、今現在この空間は男の理想とはちょっとだけ違う様相となっている。だが、それのおかげかは分からないが、今日も妻が笑って側に居てくれるので良しとする。鼻歌を歌いながら床の掃き掃除をしている彼女は出会った頃と変わらずに、まるで妖精のように可愛らしい。最近新しく裾に刺繍をしたという花柄のカフェエプロンが、彼女の足元をより可愛らしく引き立てている。
仕事の現役を引退した後、趣味だった紅茶の店を街の外れに開いてから片手位の年月が流れた。気が向いた時に店を開き、妻が焼いたスコーンを戯れにメニューに載せながら、近くの常連客達との井戸端話。刺激は確かに無くなりはしたが、男にとって概ね平和で安寧な日々が続いていた。
カランカラン
そんな男の理想とは違ってはいるが愛着も湧いてきたこの牙城に。妻の趣味で吊り下げられた、ココガラの形をしたドアベルの音と共に小さな子どもが扉の内側へ滑り込んだ来たのは、季節がもう少しで冬へと変わる少し前位のことだった。
「…やってますか?」
大分大きめなパーカーのフードを頭からすっぽりと被り、顔が殆ど見えないようにしている十歳ほどの子どもは、顔を見せないままそう男へと尋ねてくる。
「今から開けるところよ。運がよかったわねぇ」
男が顔が見えないその子どもを少し警戒し、顔を見せてみろと声にする前に、店の小さなショーケース(いつの間にか置いてあった)へとスコーンを並べていた妻がヒラリと男の前に滑り出て、子どもの前へと膝をつく。
「おい、「あらあら、こんな季節なのにたくさん汗を掻いてるのね。奥の席へどうぞ。そこなら人も来ないわ。後で冷やしたタオルも持っていくから…ゆっくりとメニューでも見てて頂戴ね」
男の言葉を遮るように、やや強引に話を進めていく妻の姿を見て、最初は眉を顰めていた男だが。妻がそっと背を押した事で奥の方へとゆっくりと歩き出した子どもの横顔を覗き見て、そこで漸く事態に気付く。
海のような、空のような瞳からは音もなく涙が零れ落ちていた。そしてその顔は、最近になってこのガラル随一とも言える位、誇りと埃が溜まった街の門番に最年少で就任したばかりの子どもだったのだ。
◇◆◇
「タオル、ありがとうございました」
気持ちが大分落ち着いてきたのか。フードを下ろし、チョコレート色の肌に肩まである濡烏のように黒々とした髪を揺らし、まだ少しだけ赤みのある目元を緩ませて笑う子どもに、息子達も独り立ちして暫く経っていた妻はもうメロメロだった。
「良いのよ。でも、もうちょっとだけ拭いた方が良いわね」
妻が持ってきた新しい濡れタオルで目元を優しく冷やされた子どもは、遠慮がちに。でもとても嬉しそうにそれを受け入れる。
「あぁ〜可愛いわぁ。貴方、キバナ君でしょう?この間テレビで頑張ってる所を見たわよ。ねえ、頭を撫でても良い?」
「それは別に良いけど…怒らないの?」
「…どうして怒るの?」
「だって、偉い人達は言ってくるよ?キバナが伝統あるナックルの門番らしく無いって」
さっきもそれで、怒られたんだ。怖かった。そう言うと、その時のことを思い出したのか。やっと引っ込んでいた涙がもう一度溢れ出そうになっていた。
「誰がそんなこと言った」
男の、低く唸るような声を聞いて子どもはビクッと肩を揺らして男の方を振り返って顔を見る。が、口を開けたところでハッとしたような顔になり、言葉を音にすることは無かった。
「なるほど…無闇矢鱈に陰口を言わないのは賢い」
「…雄弁は銀だけど、沈黙は金だって教わったから」
「ふんっ、あの偏屈ジジイの割には良いこと教えてるじゃないか」
「じい様の事、知ってるの?」
「そりゃあね。ナックルジムは大分代替りをしてなかったからな。まあ、今ので大体話は分かった。つまりお前の能力に負けて、自分の望んだお飾りを据えられなかったクソジジイ共が、寄ってたかって自分達の理想と鬱憤をぶつけてるわけだろう。赤ん坊でもあるまいにアホらしい」
ハラハラと成り行きを見守っていた男の妻が、その言葉を聞いて堪らず声を上げる。
「もっと言い方ってのがあるでしょ!めっ!」
大人の程のいいサンドバッグにされているという事実を、濁らせることも無く伝えてしまった男に抗議の意味も込めて、男の妻は子どもの体を自分へと引き寄せてその頭を撫ぜる。しかし、果たして泣き出してしまうかと思った子どもは、二人の予想とは反対にキョトンっと不思議そうな顔をしていた。
「…確かにみんな適当なこと言ってくるなぁって不思議で怖かったんだ。なるほど、そういう事なら納得できるや。なんか、それが分かったら…あの煩い人達が今度は可哀想になってきた」
子どものスパッとした言葉に、男は目尻から涙が滲むほど大笑いし、堪えようとしていた男の妻もやがて一緒になって笑う。この子は、言われた言葉をに傷付いて泣いていた訳ではなかったのだ。訳のわからない言い分を吐き出す埃の塊の真意がわからず、怖くて泣いていたというのだ。この子はおそらく聡いのだろう。ただ、まだその力の使い方は分からないでいるようであった。笑い始めたその二人の様子を見て、最後には涙がすっかりと引っ込んだ子どもも、一緒に笑顔になるのだった。
◇◆◇
温かな紅茶に、たっぷりのジャムとクリームを乗せたスコーン。それをちびちびと食べ進めながらキバナは男の話に耳を傾ける。
「伝統は、ただ古いものを守っていくだけでは駄目なんだ。新しい物も取り入れて進化をしていかないと、やがて伝統はただの愚かな歴史の産物に成り果ててしまう。だからこそ、君という新しい風がナックルに来てくれたことを私は嬉しく思っている」
男は、大昔の人が言っていた言葉を適当に混ぜた激励の言葉を、さも自分が考えたかのように子どもへと伝えた。キラキラと目を輝かせて話を聞く子どもに気を良くした男は、ついでとばかりにアドバイスをもう一つ。
「沈黙は金とは言うがな。そんなのクソ喰らえな事の方が多いぞ。強気で喰らいつけ。バトルの時に見せるあの気概はどうした。どうせ気力も体力もあのジジイどもよりお前の方があるんだから。それでも駄目ならぶん殴れ」
「強気…?」
「そうね、殴るのはちょっと駄目だけど、気持ちを強くもつのは大事よ。キバナ君は、大切で大好きな人はいる?」
大切で大好きな人。その言葉を聞いて、暫く悩んだそぶりを見せた後にキバナはパッと目を輝かせるが、そのままもう一度首を傾げる。
「……どうかした?思いつかなかった?」
「ううん、大切って聞いたときに一番に顔が浮かんだ子がいたんだけど、あんまり関わってこなかったから……大好きって気持ちが合ってるのかは分かんなくて」
「あらそうなのね。でも、一番に浮かんだってことはその子の事が大切なことには変わりないわ。何か大変な事が起こったとき、後ろにいるその子がいるってイメージしてみるのよ!ほら、例えば強盗がやってきたとか」
「……その子多分そういう時、いの一番に飛び出して相手を丸焦げにするけど」
「あらぁ元気いっぱいなのね!じゃあ、考え方を変えましょう。その子が何か悲しい事があって泣いている。泣かせた相手がキバナ君の目の前にいると思って気合いを入れるのよ」
「……泣かせる?」
暫く考え込んだ後、キバナの穏やかに緩んでいた目尻はギュッと上がり、先程までとは別人とまではいかないものの大分険しい表情となった。
「おお、調子出てきたな。どうせやるならガッツリ一人称を変えて、言葉遣いも少し荒々しくしてみろ!ジジイ共も絶対ビビり散らすから」
「え〜ほんとに?」
上がった目尻をまたすぐ下げながら尻込みするキバナの姿に、勢いが消えないようにと男が言葉を畳み掛ける。
「ほら、その子を守ってみせるんだろう。試しにやってみろ!俺様キバナ様だぜー!みたいに」
「お、オレさま?」
「もっと力強く!そんなんじゃお前のポケモンも不安になってしまうぞ!」
「おっ、オレさま!がっがおー!!」
両手を広げて、子どもなりの強さのアピールなのだろう。目を吊り上げて力一杯叫ぶその姿は控えめに言って、たいそう可愛かった。必死に守りたい子のことを考えて目尻をギュッと上げてはいるものの、幼さの残るまろい顔にとっては大変アンバランスな可愛さとしか言いようが無かった。大声に釣られたのか、ポンっと音と共に子どもの相棒らしき白銀の体を持ったポケモンが飛び出してきて、やがて子どもと同じポーズを、小首を傾げながらその横で行う。それもまた、たいそう可愛らしかった。
「きゃー!可愛い!そしてかっこいいわ!!素敵ねぇ!」
「いいぞっ!それくらいじゃ無いと伝統は守れないからな!」
ガッハッハと笑いながら褒めてくれる男とその妻の態度が嬉しかったのか、キバナは益々大きな声でガオーッと声を出す。そんなちょっと不思議なやり取りは、やんややんやと声に釣られてやって来た常連達をも巻き込んで、アレやこれやと大騒ぎし。店にクローズの札が掛かるまで続いたのだった。
「ありがとー!」
メロメロになった妻から、お土産として紙袋へとパンパンにスコーンを入れてもらったキバナは、来た時とは打って変わってピカピカの笑顔で手を振り、ナックルシティの鱗模様を遡って家路へと向かうようだった。それに軽く手を振りかえして見送った男の妻は、小さな門番が居なくなると、少しばかり寂しそうに店の看板を閉店の文字へとひっくり返す。
同じように、キバナの姿が見えなくなるまで仁王立ちで見送った男は、暫く考え込んだ後に店の奥にある自宅へと繋がるドアを開け、そのまま最近は開けていなかった衣装部屋まで足を運ぶ。
「あらっ、貴方どちらへ?」
「………ちょっと、出てくる」
「そのスーツなら、隣のネクタイの方が貴方に似合うわよ。やんちゃは程々にしてくださいね」
男が億劫そうにしながらも、一番大事な時にと決めているスーツを着込むのを見て、妻はコロコロと鈴を転がしたように笑う。現役時代より、ベルトの穴が二つ変わってしまった腹を撫でながらスーツに身を包み、玄関の扉を開けると、それに合わせて黒塗りの傷も汚れもない車が音も無く男の前へと滑り出てきて止まる。
「じゃあ、夕飯迄には帰ってくるから」
「頑張ったら貴方の好きなニンジンケーキを焼いてあげるわ」
「…行ってくる」
ぶっきらぼうに返しながらも、男の口の端が持ち上がるのを妻は確かに見たが、可愛い夫の名誉の為に、口には出さずに車が走り出すのを見送った。
次の日の午前中、ナックルシティのジム経営に携わってきた重鎮の半数が急遽、一身上の都合によって一気に人員交代されるという事が発表され、市長が滝汗を掻きながら会見を開くことになり。ナックルシティの片隅にある小さな、それでいて紅茶が美味しい喫茶店のそれまた小さなショーケースには、たっぷりとクリームチーズを乗せたキャロットケーキが並ぶことになった。
◇◆◇
それから約1年程が経った。ナックルシティのジム経営は最年少の門番がやってきたことで急転直下の転換期を迎え、新しい風を巻き起こしている。変化を苦手としているこの街の人々へ、持ち前の愛嬌と地頭の良さですっかりと受け入れられていった子どもが、ディスプレイ越しに目を吊り上げて威嚇のようなポーズをする事にも夫婦がすっかり慣れてきた頃。子どもはすっかりと懐いたチョロネコのようになり、時折店へと顔を出すようになった。
そしてその日は、初めて一人での来店ではなかった。
「ここ、オレさまのお気に入りなんだ」
そう、はにかむように笑う子どもの顔をキッチン奥から男の妻が楽しそうに眺めている。物珍しそうに店内へと入ってきたライラック色の髪の子どもは、テレビ越しで見ていた豪快で激しい姿とは違い、どうやら年相応の子どもらしい部分もあったらしい。いつもの子どもも、一人でここに来る時より幾分かはしゃいでいるように思える。そう心の中で独りごちつつ、スコーンを口いっぱいに詰め込んでホシガリスみたいになっている子どもの方を見て新聞の反対側で一人笑みを作る。
子どもが子どもらしく楽しそうにするのがいつの時代も大事な事だと考えている男は、ふといつもと違う雰囲気の妻に気付き、チラリと目線をキッチンの奥へと投げる。妻は、なんだかキラキラとした少女みたいな笑みを浮かべて子ども達を眺めている。可愛い。いや、気になるのはそこではないのだ。いつもの妻なら、いの一番に話しかけていきそうなのに、今日はキッチンから出てこない。会わないのか?という意味を込めてショーケースを指先で軽く叩いて音を出すが、妻は店主のジェスチャーを見ても決して出て行かなかった。
「しぃー……」
と人差し指を顔の前に持ってきたまま、また二人の姿を眺めていた。
これは、今は大人しくしておこう。わいわいと子ども二人で、まるでゴムボールのように弾み始めた会話をバックミュージックにして、男はのんびりと茶器の整頓をすることにした。お気に入りの白磁のカップは、今日も最高に綺麗に光をまろく反射してくれていた。
◇◆◇
「恋よ!恋!」
女性というのは、こういう話題がいつの時代も大好きだなぁ。なんて、男は思考を明後日の方向に飛ばしながら、頬をヒメリのみのように真っ赤にしながらはしゃいでいる妻の姿をぼんやりと眺めた。
「恋だって?」
「だって、あの2人の顔!私とのデートの時に待ち合わせ場所に走ってくる貴方の顔と全くおんなじ表情だったもの!間違いないわ!」
「……それは…そうなら…ふぅん……そうだな」
男は妻を愛していた。
「でしょう?!あんな風にキラキラして、相手の姿を目で追っちゃうところなんて…もう若い頃の映画デートをした時の貴方そっくりだったわ!」
「ほぉ…へぇ…そうだな」
もう一度言うが、男は妻を大層愛していた。なので、ここで違うんじゃないかだなんて意見するのは土台無理な話だった。後、若い頃からいつもスマートに隠せているだろうと思っていた妻への行動が思い切り妻に筒抜けだったことにも恥ずかしさを感じて、男は妻とは違う意味で頬を真っ赤に染めたのだった。