言っていいよ 数時間前迄は煌々と輝いていた街の明かりも寂しくなってきた時間。数ヶ月に一度行う大規模なワイルドエリアの巡回作業を終えたキバナは、ヘトヘトになりつつも我が家までの道のりを、タクシー乗り場から重くなった足を引き摺りながら歩いていた。最後の難関(と勝手に思っている)坂道を越えて辿り着いた玄関は、ドアライトも、リビングに続く廊下の電気も点いたままになっていた。もしかして、という期待がムクリと顔を上げてくる。
「ダンデ、ただいまー」
しかし、どんなに遅い時間になってもキバナが帰宅すると、顔を見にもぞもぞと玄関までやってくることが多いダンデの姿が無いことに少しだけ肩を落とす。まあ、流石にこんな時間だ。今日は寝ているのだろうと思いながらリビングへと入る。リビングの中も、廊下と同じくすべての電気が点けられていた。 そしてその明かりの下、キバナは散々たる光景を目にすることになった。
「おー…やったなぁ」
床一面に無残にも散らばるティッシュペーパーに、転がって中身が吐き出されたゴミ箱。最近買ったラグは、どうやったのかは分からないが水入れの中に引き摺り込まれ、触ったらぐしゃぐしゃに濡れそぼっているであろうことが容易に想像できる。
豪快に散らされたティッシュペーパー達を踏まないようにしながら歩き、キバナはとりあえず自分のポケモン達を回復装置へと丁寧に置く。ボール達は一つも揺れることなくそこへ収まる。その様子を見て、「良い夢を」と小さく声を掛けてからキバナはゆっくりと歩みを進める。
転々とちぎられて打ち捨てられたティッシュペーパーや、丸めた紙屑達が途切れた場所は、開け放たれた寝室の扉の前だった。そこは明かりが点いている様子もなく、中を覗けばひっそりとした闇が広がっているように見える。しかし、キバナには探していたものがそこにいる事が直ぐに分かったようで、ゆっくりと口角を上げながら今までよりも足音を忍ばせる。
パチリと明かりのスイッチを押すと暖色のルームライトがぼんやりと灯る。大人二人が寝転がってもまだ余りがありそうなサイズのベッドの中央にふわふわとした毛玉が一つ、ちんまりと乗っていた。その毛玉は、キバナが近づいてきたことに毛ほども気が付かず、オボンのみ二つ分位の体を、ふくふくと膨らませながら、時折小さな耳を動かして眠りについている。
「ただいま」
そうっと起こさないように屈み、眠っている毛玉の耳の裏辺りを指の腹で優しく撫でてやると、それはくふりと小さな声を出して気持ち良さそうに伸びをした。そして、そのまま手足を伸ばした形でもう一度夢の中へ。
「…かーわい」
一連の流れを見ていたキバナのロトムが写真を撮るか聞いてきたのでお願いすると、シャッター音を消して何枚か撮影してくれた。きっと世界一可愛い姿が収められているのだろう。だが、その写真は後でゆっくりと確認するとして、キバナは改めて寝室の中を見渡す。
「おっ、今回はメモを残す気力があったのか?」
ぐちゃぐちゃにされた成人男性一人分の服の横に、ノートから引きちぎったかのような紙切れが一枚落ちていた。ひょいと拾い上げて書かれていることに目を通す。
『リザードン達はポケモンセンターへ預けている。三日程かかるかもしれない。手間を掛ける。ー、ーー、』
最後、何かを書きかけてペンで乱雑に書き潰した跡があったが大体の事情は理解ができた。
ダンデが身体的に疲れ、気持ちが参ってしまうとポメラニアンという、ベッドの上にころりと転がっている小さな毛玉みたいな生き物に変化してしまう体質であるということを、初めて知った時は、驚きよりもまず「こいつにもちゃんと疲れるという気持ちがあるのだな」なんて安心感を覚えたのを、キバナは昨日の事のように思い出せる。
「お疲れ様。あと、ごめんな」
メモをポケットに入れながら壊れ物を扱うように両手でベッドの上の恋人を掬い上げる。両手にすっぽりと収まってしまうそのライラック色の毛玉は、急に持ち上げられ、暫くはモゾモゾと動いていたが、やがて嗅ぎ慣れた香りに安心したのかスンスンとキバナの指先の香りを嗅いだと思ったらペロリと一度だけ指先を舐め、そのままこてりと力を抜いた。トクトクと、キバナの両手の中からジワリとした温もりと共に鼓動の音が聞こえる。その音が乱れないように、キバナは己の胸の前でダンデを抱え直してから、明かりを消してベッドへと入る。
食事も洗濯も、残っている仕事もとりあえずはまた明日。シャワーだけジムで浴びておいて良かった。なんてことをつらつら考えながらキバナは目を瞑る。
明日はダンデとゆっくり過ごそう。そして、人間の姿に最速で戻してやろう。塗り潰された紙切れに、ペン先で削られても残った「寂しい」という文字を隠さなくても良いんだということを力いっぱい抱き締めながら何度も愛を伝えよう。
キバナは、そう心に決めて温かな鼓動の音に耳を澄ませた。