よんもじ 遮光性の高いネイビー色のカーテンを閉め切り、ベッドサイドの小さなライトのみをつけた薄暗い室内。加湿器の微かな駆動音が耳元で流れるだけの空間で、部屋の主であるキバナは文字通りダウンしていた。特筆することは無い。季節性の風邪にやられたのだ。最初はその週ジムの受付を担当していたヒトミが。それを皮切りに次々とスタッフ達がやられていく中で、気を付けてはいたつもりだったがどうやらウイルスの方が一枚上手だったらしい。結局数日前から熱を出してベッドに撃沈し、今もしつこい咳と熱に悩まされているわけである。手持ちのポケモン達をポケモンセンターに預けてこれたのだけはよくやった自分と褒め称えつつ、今はなんとかゼリーと一緒に薬を飲んではベッドに沈む生活を繰り返している。
「(あー…マジで久しぶりに風邪ひいた…全然治んねーし…早く治して会いてー…)」
掠れる声でロトムに声を掛けて、トークアプリを開いてもらう。数日前、正に発熱し始めた時に、恋人であるダンデとのやり取りを残した履歴を眺める。彼は看病をしに来たがっていたが、キバナはこの風邪の感染力が強いことを身をもって理解していたので、頑なに拒んだ。あと、自分が弱っている姿を見られたくないという気持ちもほんの一握り。
「ダンデに移してしまったら、それこそ辛い」
という一言が決定打で、ダンデは引き下がってくれたが、正直今思えば少しだけ甘えても良かったかな。なんて今更な思いが頭の中をぐるぐると巡り始める。それこそ格好悪いだろう。そんなことを考えているうちに、薬が効いてきたのかうつらうつらと瞼が落ちてくる。生き物は睡眠によって回復するのが一番だ。そう分かっているキバナは、その眠気に抗うことなく目を閉じて眠りの中に落ちていった。
偶に聞こえてくる不規則な包丁の音に、ポケモン達とのやり取りをする小さな声が聞こえて来るのを、不思議な心持ちで耳を傾けているうちに、キバナの意識は急激に覚醒していく。間違えもしない、小さかろうとこの声は。
「…ロロ?起きたロト?」
「ロト…む?」
なんで、という言葉は掠れて音にならなかったがロトムにはそれで十分だったようでキバナが寝る前に開いていたトークアプリの画面を見せてくる。そこには、キバナが打った覚えのない四文字が打ち込まれていて、既読マークも付いていた。
「ロっ!…ゲホッ!」
「ロトム、勝手に送ってないロト〜♪音声入力ボタンを押してたキバナが悪いロト!ロトムはそれを送っただけロト!」
「なっ!?!……ッ!」
悪戯が成功したような顔のロトムを捕まえようと上手く動かない右手を動かすが、するりと逃げられて頭上でくるくると回転されてしまった。声を出し続けたのが良くなかったのか、咳が酷くなる。喉が裂けるかと思うように激しく咳き込んでいると、寝室のドアが開けられて、少し焦ったような足音と声が続けて降ってくる。
「大丈夫か?」
「ロロ!ダンデはマスクをつけるロト!」
「ああ、そうだったな。ありがとうロトム」
「ロトト♪」
この野郎、ダンデの前では良い子ちゃんのフリしやがって!という言葉も咳が止まらなければ言えない訳で。会いたかったけれど会いたくなかったという相反する感情を持ちながら咳が止まるまで、優しく撫でられる背中の温かさについ甘えて受け入れてしまう。
「……」
咳が止まった後、声が出なくとも目線が「なぜ来たのか?」と訴えてきていると気付いたのだろう。ダンデはキバナの近くまで来るとベッドの端に腰を下ろし、キバナの目を覗き込むように微笑んだ。
「キミがオレの事を大切に思って、来るなと言ってくれたのも分かってるぜ。でもな、正直…頼ってくれてとても嬉しい」
はにかみながら目尻を下げて笑う恋人の姿に、ただでさえ気持ちが弱っていたキバナは心臓を撃ち抜かれたような気持ちになって思わず呻き声をあげて胸を抑える。大丈夫かと慌てる声が上から聞こえたが、かろうじてオッケーサインを出す事くらいしか出来ないのは仕方ないだろう。
「そうだ、キバナ…食欲はあるか?」
「…少しなら」
「…良かった!ちょっと待っててくれ!」
バタバタと来た時と同じように落ち着きない足音を呆けて聞いていると、少しして今度はもうちょっとだけ落ち着いた足音が戻って来た。
「…えっと…蒸し野菜と、名前はよく分からないんだが具がたっぷり入ったスープだぜ」
「名前、よく分かんねえの」
体に良さそうなの全部入れたからな!と胸を張って宣言してくるダンデに思わず笑い声を漏らすと、一緒になって咳も出てくる。本当に忌々しい。
「大丈夫か?声、出すの辛いよな。キミがよく買ってはしまい込んでいるキッチングッズがたくさんあったのを思い出してな。オレでも使えそうなのがあって助かったぜ」
レンジで全部できるなんて思わなかった。なんてちょっと楽しそうに笑う顔を見て、「今まで買っては後悔してたグッズも無駄じゃなかったな」なんてちろりとキバナの頭の片隅にペタリと小さな免罪符が貼られる。
咳が少し落ち着き、咳のしすぎでひりついた喉でなんとかお礼の言葉を伝えると、ずいっと目の前にスプーンに乗ったスープを差し出される。
「ほら、ゆっくりで良いから食べよう」
「えっ!良いって!1人で食べられっゴホっ!!」
「そんなこと言ってまだまだフラフラじゃないか。頬も先程より熱い気もするし…な?溢したら大変だろ?」
恋人からの憧れシチュエーション(当社比)が、まさかこのタイミングで来るとは思っておらず、なんなら自分の方からやってみたかったキバナは狼狽えて大声を出しかけ咽せる。それを無理をしているのだと考えたダンデは、まるで愚図る小さな子を諭すようにキバナの額や頬を、キッチンの香りが仄かに残る少しひんやりとした手のひらで撫でながらスプーンを差し出してくるのだからたまったものではない。さっきから繰り広げられる自分にとって良いことしか起きないこの展開、熱が見せている妄想じゃないだろうか。と思うが、背中をさすってくれているこの手の温もりや優しい香りのするスープは現実にある訳で。キバナの情緒はジェットコースター並みに大混乱だった。
「…イタダキマス」
「よし、偉いな」
最後は欲に負け、恥ずかしさも押し殺しながら恋人からの看病を受け入れたのだった。味は全く分からなかったけど幸せだった事だけはここに記したい。
そんな二人の様子をニヤニヤしながらサイレントモードで撮影していたロトムには、その後回復し、酷く葛藤した顔をしたキバナによって少しお高めのバッテリーと急速充電器が渡されたのも蛇足でここにだけ記したい。