友2 久しぶりに会った彼は、また新たな傷が増えていた。
常に険しさを纏い相手を睨みつける血走った双眸が、こちらの姿を認めてふっと緩む。
よォ、と軽く手を挙げて近づいてくる顔に浮かぶ、懐っこい笑み。
寄らば斬る、寄らずとも斬る、役立たずは死ねと言わんばかりの凶悪な眼光から、仲間である隊士達からも距離を置かれがちな男だが、本来はこちらの方が素なのだろう。
母を助け、弟妹の面倒をよく見る頼れる長男であったその過去。
理不尽に幸福を奪われ生き延びた者と、理不尽に幸福を奪い生き延びた者。
互いに血族殺しと揶揄されようと、その内実は天と地ほどに違う。
少なくとも、彼の血は己と違い穢れていない。
どころか鬼を滅するに非常に有用な毒餌となり得るそれを、それを使いこなす彼を、小芭内は深く敬している。
彼──不死川実弥が隣に立った時、血の匂いが濃くなった。
腕に巻かれた真新しい包帯に滲む、鮮やかな赤。
まだ塞がっていないということは、昨晩の傷だろうか。
茶屋が外に誂えた席に並んで腰かけ、注文の品を待ちながら互いの近況を語る。
「お待たせしました!」
店の看板娘、というにはまだ幼い少女が茶と菓子を乗せた盆を持って駆けてくる。
その足元を犬が過ぎった。
「きゃ……!」
危ない、と思う前に体が動く。
小芭内は盆から落ちそうになった菓子皿と湯呑を、不死川は転びかけた少女の身体を。
互いに危なげなく受け止めたところで、不死川が口を開いた。
「大丈夫かァ」
片腕で軽々と抱えた少女を立たせてやりながら、もう片方の手で飛び出してきた犬の首根っこを捕まえている。
「わりィな、こないだ握り飯やってから懐かれちまったみてぇでな」
不死川に持ち上げられた犬は、手足をぷらぷらとさせながら不死川を見上げ尻尾をぶんぶん振っている。
「急に出てきたらあぶねぇだろうがコラ、分かってんのかお前、おら座れェ」
意外にも大人しくその場に腰を落とした犬に、不死川が破顔する。
「おー、やりゃできるじゃねぇかァ」
よーしよしよしと大きな掌で犬の頭を撫でまわす不死川を店の娘はどこかぽぅっとした顔で見ていたが、小芭内の視線に気づくや頬を赤らめ、「すみませんでした!」と一礼して店内へ駆け戻っていった。
「……お前はきょ──煉獄とはまた違う方向で罪作りだな」
「あァ? 煉獄ゥ?」
「いや、何でもない。茶が冷めるぞ」
凶悪な面相に似合わず甘味好きの不死川は好物のおはぎを三皿──粒あん・こし餡・きな粉の三種──小芭内は鏑丸用に草団子を一串頼んでいた。
小芭内が口元に持ってきた串団子を、鏑丸は器用に横食いしていく。
尻尾が跳ねているのは旨い証拠だ。
「待て、まだだまだ、まーて!」
不死川がおはぎを片手に犬への躾を施そうとしている。しかしまだ子犬の域を脱していないのだろうそれは、すぐに飽きて不死川の手にじゃれつき始めた。
「あ、コラ!」
甘噛みした牙が包帯に引っかかり、ぱらりと解ける。
そのひらつく先端に子犬が飛びかかろうとした時──。
静かに団子を飲み込んだ鏑丸が、シャーッと吠えた。
途端びくっと硬直したかと思うとすぐさま尻尾を足の間に丸め、ぺたりと地面に伏せた子犬に、不死川がおお、と感嘆の声を上げる。
「やるなァ、鏑丸」
意外と序列に厳しい鏑丸が子犬に礼儀を教え込む中、小芭内は団子串を皿に戻し、不死川の解けかけた包帯を手に取った。
「ついでだ、新しいのに取り替えてやる」
「お、悪りぃなァ」
古い包帯を外すと、赤い線が現れた。綺麗な切り口ではあるが深めに肌を割くその傷からは未だ血が滲んでいる。
小芭内にとっては嗅ぎ慣れた鉄の匂い。
しかし彼の流す稀血は、鬼にとってはこの上ない美酒となる。
鬼とは人の成れの果て。
人として、いかに優れた者であったとしても。
一度鬼と成ってしまえば終わり。
皆例外なく、得た強大な力で弱き人々を弄び餌とする愚劣な存在へと変わる。
悪鬼滅殺。
人の世のため、滅ぼさねばならぬが鬼。
けれど小芭内は知っている。
そんな鬼を利用し、自らの安楽豪奢な生活を得続けた人々を。
人でありながら、自らの意志で鬼の力を人に向けて振るわせてきた、穢れた一族を。
人を餌とするが鬼なれば。
鬼を道具として人を餌とした人は。
人ながらに鬼の心持つ、悪しき異形。
人を餌として肥え太った一族の、穢れた血肉を受け継ぐ己も、また──。
小芭内は目前の太い腕に刻まれた無数の傷跡と、新しい傷を見る。
そこに滲むのは鬼の美酒。鬼ならば惑う、鬼ならば酔う稀なる血。鬼への強烈な殺意を煮詰め凝縮した、鬼にのみ作用する、人由来の毒。
誰よりも鬼に近しい血肉を持ち、鬼より贄にさえ指名されたこの身が。
確かに人であると、今も人であると言い切るための、証立て。
ちろり、と。
傷口に這わせた舌先が拾う、前と変わらぬ錆の味。
「──まずいな」
込み上げる安堵が、古傷に引き攣る口元を緩ませる。
「だろうなァ」
その様を見つめていた不死川は、のんびり相槌を打った。そして細い指が包帯を綺麗に巻き終えるのと同時、小芭内の口におはぎの欠片を突っ込む。
「口直しに食っとけ。ここのはうまいぜェ」
錆の味を消して広がる、素朴な小豆の甘み。
小芭内は食全般に対して興味がない。というより、どちらかと言えば嫌悪めいた感情さえ抱いている。
しかし、今口内に広がる豊かな甘さは、素直に旨いと思った。
これは紛れもない、人の食べ物だ。
他所とは餡子が違うんだよなァと嬉しげにかぶりつく友人を色違いの目でじっと見上げながら、小芭内は舌に残る甘さを茶で洗い流す。
と、最後の一つを大事そうに手にした不死川が、何でもないことのように告げた。
「まあ、安心しろや。この血がまずくなくなったら──そんときゃ俺が何とかしてやるからよォ」
きな粉を落とさないよう慎重に口元へ運び、ばくりと噛み付く。男らしく隆起した喉仏を上下させながら、不死川は茶飲み話の気軽さで続ける。
「だから、何があっても俺んとこまで帰って来い。家族に、そうさせちまう前になァ」
小芭内の脳裏に炎が過ぎる。金と朱に輝く清廉なそれは、小芭内にとって唯一の家族が纏うもの。血の繋がりはなかれども、共に暮らした時間は瞬きほどに短くとも。
彼らは小芭内の、何より大切な家族だった。
指についたきな粉を舐めながら茶を飲む横顔に、小芭内は淡い笑みを浮かべる。
傷だらけの苛烈な表層の下に潜めた、その優しさ。傷の痛みを知ればこそ、誰かに代わり己に新たな傷を刻むことを躊躇しない友の不器用な優しさに。
小芭内は、揺らがぬことを誓う。
何があろうと、人であり続けることを改めて。
皿から団子の残る串を咥えて取った鏑丸が、不死川にぐいぐいと押し付ける。
「なんだ、くれるってのかァ? ありがとよ」
素直に受け取り草団子を食んだ不死川の足元で、子犬がきゅーんと鳴き声を上げる。
「あ、悪りぃ、お前の分わすれてたわ」
慌てて娘を呼び追加注文する不死川の隣から、小芭内は空を見上げる。
高く晴れた秋の空は透明に青い。
気心の知れた友と、あと何度こんな時間を過ごせるかは分からない。
分からないからこそ、今はただこの穏やかな時を満喫させてもらうとしよう。
先程のお返しに不死川から磯辺団子を貰う鏑丸を目の端に止めながら、小芭内はゆっくりと程よく冷めた茶を啜った。