魔法は解けない「イヌピー、オレさ、魔法が使えるんだ」
言いながら、くだらねえ話だと思った。
イヌピーの前に小指大の小さな瓶を寄越せば、彼は訝しむこともなく、詰められたコルクを引き抜いた。
これで、終わるんだ。
全身に絡まった、鉛の網が解けていく。気持ちは軽かった。翡翠の瞳に睫毛の影が落ち、イヌピーは瓶の底を見つめて、ココ、と言う。三ミリリットルもない液体が、深い青色で安心したのだ。赤だったらたぶん、残酷だと思ったから。
一滴で一日前、二滴で一ヶ月前、三滴で一年前のことを忘れるという。深海から掬ったみたいな、濁りのない青のクスリ。胡散臭い世界に足を突っ込んで、胡散臭いばかりの人間と繋がりを持って、でも、信頼の置けるルートで調達したのだ。だから大丈夫。
「オレってサイテーかな」
「ココはサイテーじゃねえよ」
乾杯、なんて言いそうな顔で、小瓶を掲げる。
白い喉仏が跳ね、イヌピーは一息に嚥下した。
「……魔法がかかるのは、オレがアジトに帰った頃か?」
口もとを拭って、笑い、ココは馬鹿だな。とか、イヌピーはそれからゆっくり目を閉じて、何度かクスクス肩を揺らしたら、椅子を引いて立ち上がった。
「じゃあな」
背にかけた上着を掴み、不器用にナップサックを肩にかける。なんの気ない、昨日と同じイヌピーの後ろ姿だった。
*
「バイク屋をやる?」
「ああ。ドラケン、バイク好きなんだろ? 興味ねえ?」
「興味は……、すっげぇある、けど」
「じゃあ決まりだな」
金の髪を荒っぽく掻き上げ、イヌピーは満足そうに鼻を鳴らした。最近、彼はよく笑うようになったと、タケミっちが言ってたっけ。動物を見るような感想に、一応乾は先輩だろうと小言をいえば、でもドラケンくん、イヌピーくんですよ……なんて、要領を得ない応えに顔を顰めたところだった。でも、なるほど。目の前の男はそこそこある図体にやわらかな金髪をのっけて、お利口にオレの言葉を待っている。
「イヌピーさあ、タケミっち達に犬みたいに言われてたぞ」
「あ? 犬?」
「そんでオレもなんとなく共感してる、今」
「はぁ?」
わけわかんねぇよ。口をへの字に曲げて、イヌピーはやれやれと手を挙げた。ポーカーフェイスで不気味だと、黒龍にいたときはもっぱら宇宙人ポジションだった乾だが、話してみると案外、友好的だったのが印象だ。
ヘルス特有の安っぽいベビーピンクの部屋で、ハリウッド俳優さながらの高級感を漂わせているくせに、イヌピーはマヌケなアクビをかまして膝を立てた。
「でも、考えといてくれ。オマエがいると心強いんだ」
「……あぁ」
そうやって彼がオレの部屋から出た途端、嬢の黄色い声が爆発して項垂れる。隣の三ツ谷は助けてやれよと笑っていたが、イヌピーのことだから。嬢の誘惑は意に介さず、さっさと店を後にするだろう。
中学を卒業して、東京卍會は解散。元総長はオレたちの前から姿を消した。濁流のように流れていく日々に、いっそ東卍の大木らしく独活にでもなってやろうかって、三ツ谷と笑っていた矢先。イヌピーの誘いはオレにとっても青天の霹靂だった。
「でも正直、イヌピーってどうなんだ」
「どうって?」
ダンベルを左手に、三ツ谷はヘルスマットに伏して体勢を横にする。寝ながら持ち上げたら危ねぇよ。何度も言ってんのに、妹がいない部屋でコイツは大概自由人だ。
「三ツ谷も思うだろ。経営とかさぁ、そーいうん、苦手そうじゃねって」
「……うーん、まあ、思わなくはねぇけど」
「どっちかって言ったら、イヌピーより」
「ココくんだろ。言いたいことはわかるよ」
でも、そこまでだ。細い腕が数回、垂直に上下して、三ツ谷は横目でオレを見る。
「オレらがそう思うってことは、なによりイヌピーくんがいちばん考えてることだろ」
「……そうだけど」
イヌピーの前で、ココくんの話を出すのはご法度だった。それは暗黙の了解として、オレたちの間で浸透している。
「けどイマイチ、よくわかんねぇんだよな。イヌピー、ココくんの話ぜんぜんしねーから」
仕事終わりのおっさんたちがぞろぞろと訪れる時間、廊下側のドアからはあられもない嬌声が漏れ聞こえる。
わからない、と言ってからオレは、いや、わかるんだけどよ、と口籠もった。それでいて、こちらを窺う三ツ谷の言いたいことは理解している。
「……ドラケンが、皆んなの前でマイキーの話しないのと一緒だろ」
「言うとおもった。でも、そーじゃねぇの。オレが言いたいのはさ……」
ここまで(えっ!)