夏の朝ここ旭川では真夏でも朝方は冷え込み、布団から出るのが名残惜しく感じる。薄暗がりの中周りを起こさないようそっと寝台から抜け出る。上等兵候補となった宇佐美は、他の兵卒の起床前から特別訓練があるのだ。昨夜の訓練で全身の筋肉が痛む。軍袴と靴を履き、顔を洗いに向かう途中で隣の部屋を覗くと、一番手前のそろそろ起床すべき男がまだ布団にくるまっているのが目に入る。靴音を抑えながら部屋に入ると、男の肩を遠慮なく掴んで揺さぶる。
「おいそろそろ起きろよ百之助」
もぞもぞと布団が動き、んーとか何とかくぐもった呻き声が漏れ出てくる。
そのまま洗面所に行って帰ってきても、まだ布団から出ていない。呆れかけたが、そういえば昨夜、こいつは他の上等兵候補よりも体力・筋力が追いついていないとか言われて、余分にしごかれていたんだっけ。
「今日訓練だろ、遅れるぞ」
小声で再度揺さぶると隣の寝台の大柄な男が寝返りを打つ。この陰険な二年兵が目覚めてしまったら、またしょうもない嫌がらせを受ける。
この甘ちゃんを放ってさっさといきたい所だが、一人遅れただけで連帯責任でしごかれる可能性が高い。手荒く掛け布団を剥ぎ取ると、横向きに身体を丸めて身じろぎしている男が現れる。襦袢の襟首を引っ掴んで無理やり起こす。いつにも増して顔色の悪い尾形めがけて、寝台の足元の棚から引っ張りだした軍服を放り投げる。
「早く着ろよ」
一旦自分の部屋に戻り、脚絆を付け、上衣を羽織り軍帽を掴む。再度廊下から隣室の尾形の方に目をやると何とかのろのろと軍袴を履いている。実家で下の弟たちの世話を焼いていた頃を思い出す。もっともこいつはもう髭を蓄えた立派な軍人のはずだが。
通り過ぎざまに入口付近で支度を進める男の頭を小突く。
「先行ってる」
無言でうなずく坊主頭を置いて兵舎の外に駆け出す。外の空気は更に少しひんやりとして身が引き締まる。
確かに通常の訓練に追加での特別教育は、体力に自信のある宇佐美でさえもなかなかにキツイ。正直あいつがどうなろうが興味は無いが、鶴見少尉のためにもあの男が脱落しないよう見張っておいてやらねば。その含みもあって、少尉殿は時々僕たちを組ませているのだろう。
春先の少尉殿直々に御用命いただいた任務で初めて尾形と組んだ時のことを思い出す。
確か経済界のお偉いさんを消す任務で、町外れの草陰に隠れて標的が来るのを二人で待っていた。日が暮れたばかりで空は夕日の名残を残しながらも、辺りは薄暗く、まさに誰そ彼時とはよく言ったものだ。しゃがんだ足元が冷えてきて、思わず身震いする。
今回はその人気の無い道を通る男と鞄持ちを尾形が諸共に狙撃してお終い。僕の出番は後片付けと万一尾形がしくじった時の尻拭い。
演習でこいつのずば抜けた腕前は見ていたから技能面で心配は無いが、人を撃つのは大丈夫だろうか。戦地ではその時になってやっぱり人殺しなんて無理だって震え出したり、わざと弾を外したりなんかする奴も多いと聞くし。
「おい、お前人を撃ったことあるのか。びびって仕留め損ったら許さないからな」
「大丈夫だ」
隣り合った尾形は、僕の小言に振り向きもせず、冷えた手に白い息を吐きかけて温めている。愛想の無い奴。
道の彼方に待ちかねた人影が現れる。目を凝らして、予め聞いていた人物像と照合する。
「お、来た来た。聞いてる特徴そのままだね。抜かるなよ」
尾形の方を向くと既に黙って小銃を構えている。目を細め、ヒュッと息を止めると、続け様に二発。
硝煙の中の真っ黒な瞳は湖面の様に静かなまま揺らぎもしない。遠方で二つの影が時間差で倒れ込み、すぐに動かなくなるのが見える。
この薄暗さの中で良く当てたな。隣の男に目を戻すと、撃った先を見つめたまま、目を細めてほんのり得意気な顔をしている。
わあ、嬉しそうにしちゃって。こいつ案外顔に出るんだな。
「あーやるねお前。僕の活躍の場が無くなっちゃったみたいだけどさ」
「この距離なら外す訳ねえよ」
尾形は素早く周囲を確認してから立ち上がると、倒れた二人に向かってスタスタと歩み寄る。
恐らく血筋だけでなくこの躊躇の無さを知っていて、少尉殿は手駒に引き入れたのだろう。それって、もし ーふと嫌な想像が浮かぶー 僕の時みたいに、こいつの最初の殺人に篤四郎さんが関係していたとしたら…。思い至ると腹の底から殺意が湧き上がってくる。
落ち着け、まずは確かめてみよう。自分で自分を宥めて小走りで尾形に続く。
「死んでる」
跪いて呼吸を確認していた尾形が淡々と呟く。
「よし、さっさと片付けよう。お前脚の方持って」
少し離れた木立の中に予め掘っておいた二人分の穴に運び入れ、土をかけていく。
「ねえ、お前が初めて人殺したのっていつ?どんな感じだったの?」
「関係ないだろ」
鬱陶しそうに返事した尾形は、そのあとは黙って円匙を動かし続けて、口を割るつもりは無さそうだ。
身体を動かすと暑くなってきて、宇佐美は重い外套を乱雑に脱ぎ捨てる。
「なあ教えろよ。まさか少尉殿は関わってないよな」
「なんで鶴見少尉が出てくるんだ?俺がガキの頃だぞ。」
心底怪訝そうな顔をしている。これはシロだ。こいつは北関東で育ったって聞いたし、さすがの少尉殿も第二師団の時分から同郷でもない田舎の子供との接点があるとは考え辛い。
安心すると自然と笑みが溢れた。
「ふーんそっか。僕も子供の頃だよ。」
まあせいぜいこの男が少尉殿に迷惑をかけないように見張っておこう。
「なあ、似た者同士仲良くしよう、百之助」
少尉殿を真似て下の名前を呼びながら気安く肩に手を置くと、一瞬ビクッとして、それから目をすがめて訝しげに見返してくる。
「勘弁してくれ」
顔を顰めて僕の手を振り払う男は、それでも満更でもないことは僕にはお見通しだった。
それ以来、優しい僕は百之助の世話を焼いてやってるって訳だ。
件の坊主がノロノロ練兵場に駆け込んできて僕の隣に整列した直後に教官が現れた。肘で小突いて「感謝しろよ」と声に出さずに口を動かすと鬱陶しそうに顔を背けている。
全く人の親切には素直にお礼くらい言えよな。その後の銃剣術の稽古であっという間にのしてやったのは言うまでもない。