One Night Fight! 態度には出さないももの、ダミアン・デズモンド(17歳)にとって、今日は楽しい1日だった。
先日、長年の想い人であるアーニャ・フォージャーとのデートの約束を漕ぎ着け、今日はその約束当日。昼前に駅前で待ち合わせて、まずはカジュアルレストランでランチ、その後は彼女の希望でショッピングモールに行って、色んな店を巡った。途中、フードコートで休憩がてらクレープを食べたりなんて事もした。甘い物が得意ではないダミアンだったが、彼女と初めて食べたクレープは美味しかった。
そして夜、20時には彼女を自宅に送り届けると彼女の父と約束したので、それに間に合うよう少し早めにディナーを設定した。
――そのレストランに向かう途中だった。
街中の雰囲気が宵の口へと移り変わろうという時間帯。街灯に明かりが灯って街や通りを照らす。
そんな中、行き交う人々に紛れて歩いていたダミアンとアーニャ。と、急にアーニャがダミアンの左腕に絡み付いて来た。
「お、おい」
デート出来る仲まで進展させられたと言え、交際関係にはない。むしろ、今宵のディナー中かその後の送り届ける途中で交際を申し込もうと意気込んでいるところだ。そんな中でいきなり彼女から絡み付かれたものだから、ダミアンは大いに動揺した。
しかし、
「――ねぇじなん」
呼び掛けきた彼女の声が低く潜めたものだったので改めて彼女を見て、ダミアンの浮わついた気分は一気に掻き消えた。
それまで朗らかに笑っていたはずのアーニャが、いつの間にか真面目でどこか怯えているような表情になっていたのだ。急な変わりように、ダミアンは訝しんだ。
「……何だ急に?」
「今日じなんに付いていたSPさん、3人で合ってる?」
「は? あぁ、そうだが」
何故それを知っているのか? 彼女に話していないし、彼らは付かず離れずの距離から警護するので、パッと見では気付かないはずなのに。
「あのね、少し前からSPさん達、いなくなってる」
「はぁ」
「しっ! 声大きい」
「いや、何で――」
「あとね、アーニャ達、ずっと変な人に尾けられてる。6人だったけど、SPさん達頑張ってくれて今は3人。あ、後ろ見ちゃダメだよ」
「……何で分かるんだ?」
「えーと……オンナのカン?」
「何だよそれ……」
「でもほんと。どうする?」
「……ちょっと待ってろ」
言って、ダミアンは空いている右手でジャケットの裏側を探った。ここにSPと連絡が取れる小型無線機が仕込んであるのだ。小さなスイッチを押すと、応答を待つオレンジ色の小さなランプが点く。これが緑色に変われば、向こうと繋がった状態になり会話が出来るようになる。しかし、10秒ほど待っても変わらない。通常は3秒以内に応答するのにないと言う事は、何らかの理由で応答出来る状況にないのだろう。3人とも。
「……フォージャーの『オンナのカン』ってヤバすぎだろ」
茶化すように言ったが、内心ではかなり焦っていた。
ダミアンは脳内を目まぐるしく回転させる。
SPがやられたという事は、自分達は非常に危うい状況だと考えていいだろう。こちらがSP達の異変に気付く前、つまり今すぐにでも襲ってくる可能性が高い。こんな人目がある街中で事を起こすつもりならば、暗殺者と言うよりはテロリストか。
デズモンド家で雇っているSPは全員が精鋭だ。何なら、執事や秘書、運転手といった一般の使用人以上の地位にいる者は皆それなりの体術を会得している。そんな彼らより上級者のはずのSPが3人も無力化された。
かくいうダミアンも一応護身術を習っているが、ただの暴漢1人相手ならともかく、SPを倒すような相手では1対1でも勝てるかどうか。ましてや今はフォージャーがいる。彼女を護りながら一緒に逃げられるだろうか……いや、俺が囮になってフォージャーだけでも逃がせば或いは――
「じなん、迷ってる時間無い。関係ない人巻き込まないように場所移動した方がいいと思う」
「それはそうだが……」
「じゃあ行こ!」
「いや、その前に俺の話聞けっ。奴らの標的は俺だ。俺が引き付けているうちに、お前は途中で分かれて警察に駆け込め!」
「ううん、分かれない方がいい。2人一緒の方がどうにかなると思う」
「いや、俺1人でお前を護りながら3人も相手するのはさすがに――」
「じなんとアーニャが別々になったら、悪者も別々に追い掛けてくるかもしれないでしょ。じなんが見えないとこでアーニャが捕まってもいいの?」
その可能性も考えなかったわけではないが、彼女がピンポイントで突いてきたので驚く。
「そ、れは――」
「行こうじなん!」
「っておい待て! あぁクソ!」
言うことを聞かず先に走り出した彼女に舌打ちし、着ているジャケットのボタンを外しつつ彼女の後を追った。
こちらが走り出した直後、慌てた様子で動き出した3人の男の姿を視界の端で確認しながら。
◆◇◆
アーニャが『不穏な思念』を感じ取ったのは、実はダミアンと待ち合わせて合流した直後からだった。
悪意がこもった、まるでコールタールのような、ねっとりとした黒い思念。だがその時は、思念の主と距離があったからか言葉としてははっきり聞こえず、感覚のような程度のものが1つだった。むしろ、ダミアンのSP3人の方が近かったのか、『坊っちゃんがデートっ』『大人になりましたねぇ坊っちゃん!』『お相手様もしっかり警護しなくては!』なんて声が薄っすら聞こえてきたくらいだ。
不穏な思念が1つから6つに増えたのは、フードコートでクレープを食べていた頃。向こうは3人ずつの二手に分かれていたと言え一気に5人も増えて、さすがのアーニャも内心でどうしようか焦った。でもきっと、SP達が何とかしてくれると信じて過ごした。
そのSP達も、不穏な気配を察知しているのか、途中から警戒感を強めていて、そのせいか不穏な気配の主達も慎重に動いている様子が感じられた。
SP達と怪しい6人が接触したのは、アーニャ達がディナーのためショッピングモールを出た直後だった。どうやらSP側が片方の3人組の姿と動きを捉えたらしい。本来はその時点でダミアンへ無線で一報を入れるべきだったのに、デート中だからと気を遣って連絡を入れなかった。こっそり対処して事後報告のつもりだったようだ。
SPは3人を制圧したところで、もう片方の3人組に急襲を受けてしまった。これによって、警護役がいなくなってしまい無防備状態になった上に、肝心のダミアンがそれに気付かないという最悪な事態に陥ってしまったのだ。
――以上の流れを、アーニャはテレパシーで常に読み取っていた。
これだけ長い時間、特定人物の思考だけを読みながらダミアンとデートするのはなかなかの至難の技だった。実年齢が13歳を過ぎた辺りから能力を制御出来るようになって、周囲の人の思考全部を拾わず遮断したり、逆に特定の思考だけを読む事が出来るようになった。人が多い街中やショッピングモールに居ても、昔みたいに鼻血を出したり倒れなくなったのはそのお陰だ。でも今日は、久々に鼻血が出るかもしれない寸前まで能力を稼働させて複数の特定の思念を拾い続けたので、アーニャは精神的に疲労困憊だった。
――でも、ここでへばるわけにいかない! 本番はむしろこれからだ。ここからは自分達だけで切り抜けないと!
「ったく、俺の話聞け!」
アーニャの方が先に走り出したのに、あっという間にダミアンが追い付いた。さすがコンパスの長さが違うだけある。
「嫌だ! じなん死なせない!」
「はぁ」
もう1つ、実を言うと、悪者に狙われる事は今朝のボンドの未来予知で事前に知っていた。しかも2パターン見ていた。
1つは、街中をダミアンと駆け抜けた末、薄暗いどこかの路地でダミアンとアーニャが誰かと対峙している……というもの。
この映像で、正直言ってアーニャはデートに行く事に尻込みした。すると、今度はアーニャがデートに行かなかった場合の方の未来が見えた。
デートをキャンセルされ、暇を持て余したダミアンは、寮を出て街の本屋へ繰り出す。自分1人だけだからとSPも1人に減らしてしまい、警護が手薄な中待ち構えていた6人の悪者に襲われ――というもの。最悪だった。
こうなると、アーニャはデートに行く一択しかなかった。
しかし、知ったのは当日の朝。待ち合わせまで2時間もない。出来る準備も限られる。こんな時、両親に相談すれば助言をもらえたかもしれない。しかし、自分とボンドの超能力を明かしていない。それを伏せて助言を請うても、勘が鋭い父に不審に思われて、デートをキャンセルするよう厳しく言われる可能性が高い。
だから、アーニャなりに出来る対策をしてきた。例えば、動きやすいよう、靴はおしゃれなヒールが高いやつじゃなくてショートブーツにしたし、服装もタイトなタイプではなくゆとりがあるふんわりデザインのものをチョイスした。あと、このショルダーバッグ。実は――
「死なせない、って何だよ一体」
「そのまんまの意味! アーニャだけ助かっても、じなんいなくなるの絶対イヤ!」
「は」
ボンドが予知した未来のうち、アーニャがデートをキャンセルした場合の方は免れた。だから、今向かうのはもう一つの、ダミアンと共に立ち向かっている未来。でも見えたのはそこまで。そこから先は分からない。
「こっち!」
「あ、待て!」
予知で見た通りのルートを辿る。表通りから曲がったそこは、ビルとビルの間を通る路地だった。車1台しか通れないような幅しかなく、最低限の街灯しか設置されていなくて薄暗い。
先程、悪者の『気配』が二手に分かれた。予知の通りなら、そろそろ挟み撃ちされるはず――
「くそっ、挟まれた!」
舌打ちするダミアン。2人は足を止めた。
◆◇◆
アーニャの後について走っていたら、前方に男が1人出て来て行く手を塞ぐように立たれた。振り返れば2人の男が同じように道を塞いでいる。横道は無いし、男達を躱せる程の道幅もない。万事休すだ。
だと言うのに、隣に立つアーニャから意外な呟き声が聞こえた。
「――大丈夫、予定通り」
(『予定通り』?)
意味は分かる。しかし意図は分からない。問い質したいが――
「どこへ逃げようってんだい、デズモンドのお坊ちゃん」
前に立つ、黒髭を口の周りにたっぷり蓄えた男が問うてきた。厭らしい笑みを浮かべながら。
「お坊ちゃんは羨ましいねぇ。こんな可愛いお嬢ちゃんとデートしちゃって」
穢らわしい目つきでダミアン達を――いや、アーニャを見る。
その目玉を潰してやりたい衝動に駆られるが、ぐっと堪え、
「逃げてねぇよ。誘ったんだよ、無関係の人を巻き込みたくなかったんでな」
表情筋を押し殺し、感情が声音に乗らないよう意識して、淡々と応対する。
「ほぉ……。いつからオレ達に気付いた?」
「さぁな。教える義理もないだろ」
ここへ誘ったのも、こいつらに気付いたのもアーニャだ。だからと言ってそれを馬鹿正直に明かすほどダミアンは愚かではない。
「お坊ちゃんのクセにその受け答えはいただけないなぁ」
「悪党にはお上品にお喋りしなくていいって教えを受けているからな」
「おいおい、政治家の息子がそんな態度でいいのか? 悪党もれっきとした『国民サマ』だぜ? 大事な一票を持っているって知らないのか?」
「警察に捕まって有罪判決を受けた者は、選挙権が剥奪されるって知らないのか?」
不毛な会話を続けている間にも、ダミアンはアーニャだけでもこの場から逃がす算段を必死に模索する。あぁくそ、全然浮かばねぇ。アーニャを背に庇い、せめて背後を取られぬよう、ビルの壁際へじりじりと退がるしか出来ない。
「捕まらなければ関係ない。
さて、そろそろお話は終わりだ。若いのに気の毒だが、俺達の食い扶持のために死んでもらう。悪く思うなよ」
全然気の毒そうに聞こえない口調で言って、男は懐から大振りなナイフ――大型のコンバットナイフを取り出して見せた。
――こいつらから雇い主の情報を聞き出したかったし、応援のSPが来るのを一縷の望みにかけていたが、タイムリミットか。
「フォージャー、ここにいろ」
ダミアンはアーニャに静かに告げて、ヒゲ野郎と対峙しながら壁際から離れる。適当な場所で止まると、左足を引いてほんの少し腰を落として構えた。
一方のヒゲ野郎は、
「カノジョにイイトコ見せたいのか? 笑かすねぇ。
……お前ら、デズモンドの次男はオレが殺るんだから手ェ出すなよ? デズモンド家へのいい仕返しだ」
ニタニタ嗤いながら、ダミアンへナイフを見せ付けるような素振りをする。恐怖を覚えさせるつもりなのか分からないが、生憎とダミアンはそれくらいで恐れをなすようなタマではない。冷めた頭でヒゲ野郎の挙動を注視していると――ヒゲ野郎の腰が沈むや、瞬間的に間合いを詰めて来た。
「っ!」
首もと目掛けて突き出された右手のナイフを、ダミアンは相手の右側へ回り込んで躱す。すぐさまヒゲ野郎の右手首を右手で掴んで捻り上げた。ヒゲ野郎が驚きの表情を見せたと同時に小さく呻いて、たまらずナイフを落とす。そのナイフを誰もいない方向へ蹴り飛ばすや、ダミアンは自身の左腕を曲げて、その前腕をヒゲ野郎のこめかみに打ち付けた。即座に右手を離すと、打撃の勢いでヒゲ野郎の身体が1歩離れたので、その後ろに回り込んで、
「フッ!」
サッカーで鍛えた右足で膝裏目掛けて蹴りを繰り出した。強烈な『膝カックン』を食らった形になり、膝を曲げて仰け反るようにバランスを崩すヒゲ野郎。その襟首を掴んで引き倒し、地面に仰向けに転がしてやるや、鼻っ柱を固い靴の踵で踏み抜いた。
「――っ」
すぐさま男から距離を取って伺う。動かない。丁度街灯の真下に倒れたので、鼻から血を流して白目を剥いているのがしっかり確認出来た。多分鼻の骨が砕けただろう。
よし。1人目は油断してくれていたからか何とかなった。問題は2人目以降。今度は本気で襲ってくるだろう。どこまで対処出来るか――
◆◇◆
ダミアンがヒゲ男のこめかみに打撃をお見舞いした瞬間、知らない男の声がアーニャの脳内に流れ込んできた。
(やべぇ! ただのひ弱な坊主じゃねぇぞ!)
その声にアーニャがそっちを見れば、スキンヘッド……めんどいからスキンヘッド男改めハゲ男が立っていた。さっきの声の主はこいつらしい。
(じゃあ、連れの女を人質に――)
「えぇ」
ハゲ男の目線と矛先がアーニャの方を向いた。
(あばばばばっ)
パニックになりかけながらもアーニャは考える。逃げる――は却下。どうせすぐに追い付かれるし、じなんと離れるのは良くない。
(――実戦は初めてだけどっ)
アーニャは腹を括った。幸い、相手は先のSPと戦った際に持っていた拳銃を破壊されて丸腰らしいのは心を読んで確認済み。
(今こそ、ちちとはは直伝の護身術を!)
ハゲ男が腕を伸ばしてこっちに向かってきた。5メートルほど離れていたが、あっという間に距離を縮められた。
わずかなその間で、アーニャは肩に斜め掛けしていた重たいショルダーバッグを――この時のためにと、使わなくなった鈍器レベルの重量級参考書を詰めてきた――を急いで肩から外してベルトを握り、
「はぁー!」
間合いを見て、渾身の力でバッグを砲丸投げのように斜め下から振り上げた。重みと遠心力でかすかにブンッと唸ったバッグは、ハゲ男の横っ面へ見事入った。ハゲ男が反射的に動きを止めて顔を横へ背けている隙にバッグを引き寄せて、今度はバッグ本体を両手で握る。
「ガキがぁあ!」
目の前でハゲ男が悪魔の形相で叫び、アーニャに向いた。
「ひぇっ」
その迫力が怖かったアーニャは、半分涙目になって反射的に悪魔のハゲ男の顔面にバッグを渾身の力を込めて叩きつけた。くぐもった男の呻きが聞こえたが無視。アーニャは右足を持ち上げて、ブーツの足裏を思いっきり前へ突き出して股間へ1発入れた。たまらず押し出されふらふらと数歩下がったハゲ男へ、その数歩分を勢いをつけて距離を埋め、飛び上がるような膝蹴りを股間へもう1発。
「ぽごぉあ」
と言う表現で合っているか分からない変な声をハゲ男が発し、前傾姿勢になって頭の位置がアーニャの胸元ほどまで下がったので、その脳天にバッグの角をお見舞いしてトドメをさした。
「――っ」
顔面に2発、股間に2発、脳天に1発、計5発も食らったハゲ男は、地面に崩れ落ちて動かなくなった。心の声も沈黙。
(や、やった! ちち! はは! アーニャ初めての実戦うまくいったよ!)
アーニャは重いバッグを抱え込んだ状態で歓喜した。
特殊な家庭環境が故、両親から万が一のために非力なアーニャでも使える護身術を数年前から特訓させられたのだが、その甲斐があった。
って、喜んでいる場合じゃない! あと1人ギョロ目男がいたはず!
どこにいるのかと見回すと――
◆◇◆
なんとかヒゲ野郎を屠ったダミアンがアーニャを見ると、なんと彼女1人でハゲ野郎と対峙していた。妙に重たそうにしていたバッグを上手く武器にして善戦している。
(アイツ、護身術習っていたのか)
身体1つで応戦するダミアンのやり方とは違い、手持ちの物も使う方法は女性向けの護身術だろう。いつの間にどこで習ったのか知らないが、長らくトレーニングを受けている動きだ。
そんなアーニャに加勢すべきか、残ったギョロ目野郎を制圧するか逡巡したその瞬間、ギョロ目野郎がアーニャの方を向いて懐に手を入れるのが見えた。
「――ンなろ!」
毒づきながら腕時計のバックルに指を掛けてパチンと外すと、ギョロ目野郎に向けて投げつけた。フルメタルバンドで重みがあるそれは、目論見通りギョロ目野郎のこめかみ辺りにヒット。
「ヴァ」
殆んどダメージにはならないだろうが、不意打ちとアーニャから気を逸らさせるのが目的だ。案の定、ギョロ目野郎の視線は地面に落ちた腕時計へ向いて、次にダミアンへ移した。忌々しいと言わんばかりの形相で、懐から取り出した拳銃をダミアンに向け――
バサッ!
恐らくギョロ目野郎には目の前にちょっとした黒い幕が拡げられたように見えたであろう。実際は、ギョロ目野郎が腕時計に気を取られているうちに距離を詰めたダミアンが、着ていたジャケットを脱いで、丸めて少し上を目掛けて投げ、それが宙で拡がっただけだった。
ギョロ目野郎に届く前に失速して、ひらひらと地面に落ちただけで何のダメージにもならないそれ。精々視界を一瞬奪うだけにしかならないだろう。
でもそれで十分だった。ダミアンの姿を一瞬遮られたことで、銃のトリガーを引くのを躊躇ったギョロ目野郎。その隙にダミアンは体勢を低くして、相手の足元に入り込み、さっきヒゲ野郎にお見舞いした踵蹴りをギョロ目野郎の右脛にお見舞いした。――と思った瞬間、繰り出した足を脛に届く寸前で掴まれた。ギリッ、と力が込められたのが伝わってくる。
(ヤバい折られる――!)
背筋が凍った瞬間、ドスッという音がし、ギョロ目野郎の手が少し緩んだ。すかさず足を引き抜いて体勢を整えるや、低い姿勢を活かして、立ち上がりざまギョロ目野郎の鳩尾に肘鉄を食らわせた。鈍い呻き声。チラリと相手の右手を見れば、拳銃が握られたままだったので、即座に払い飛ばす。
拳銃の行方を目で追った時、地面にアーニャのバッグが落ちている事に気付いた。さっきの重たい音の正体は、彼女がこのバッグを男に投げつけて命中した音だったのだろう、と合点がいった。後であれに代わる新しいバッグを買ってやらなければ。
「じなん! その人電気ビリビリ持ってる!」
(電気……スタンガンの事か!)
アーニャからの警告に、ダミアンは瞬時に飛び退いて距離を取った。
改めて男を見ると、左手にスタンガンらしき物を隠すように持っていたのが見えた。
危なかった。下手に接近していたら電撃を食らっていたかも知れない。さっきのバッグといいスタンガンといい、彼女には感謝だ。
スタンガンを持っているとなると、男には下手に接近出来なくなった。もし向こうが予備の拳銃を持っていようものなら、こちらはかなり不利だ。今度こそこの場からフォージャーを――
と、そこで、
「ダミアン様!」
前方から名を呼ぶ男の声。ダミアンとアーニャはハッと視線を向け、ギョロ目野郎も背後を向いた。
「動くな!」
拳銃を手にやって来たのは、ダミアンのSPだった。3人のうちの2人で、どちらも負傷しているようだが、辛うじて無事のようだ。先に駆けつけたリーダーはギョロ目野郎に油断なく銃口を向けて構えながらダミアンのすぐ傍に、やや遅れた方はアーニャの前にギョロ目野郎から庇うようにしてそれぞれ立ちはだかった。
「遅いぞ」
「申し訳ございません」
リーダーが間近に来て分かったが、リーダーの様相はボロボロだった。街中では目立たぬよう、スーツを着た普通の会社員を装っていた筈なのに、整っていた髪型は乱れ、上着やスラックスは所々切り裂かれ、切り口が赤く染まっている箇所もいくつかあった。アーニャの前に立つ者も、確か眼鏡を掛けていた筈なのにそれがない。ここに来る前に交えた一戦の熾烈さを物語る痕跡に、ダミアンは彼らを責める気になれなくなった。
「……まあいい、話は後だ。敵方のうち2人は片した。残るはこいつだけだ。
全員拘束したら、後はいつも通りで」
「はっ」
「応援は?」
「護送車と共に4人が向かっています」
「4人か。じゃあそのうちの2人は、俺とフォージャーに回してくれ。残りとお前らは敵方の収容と後始末を」
「承知しました」
「終わったら怪我の治療しろよ」
「恐れ入ります」
一通り指示を出したダミアンは、胸中で安堵の息を吐いたのだった。
◆◇◆
ギョロ目野郎も制圧し、応援のSP達も駆けつけたところで、ダミアンはアーニャを連れて場所を移動した。丁度小さな公園があったので、そこのベンチに2人は並んで腰を下ろす。
移動する前に回収した腕時計を手首に嵌め直しながら時間を確認すると、ディナーの予約時刻まであと数分だった。こんな事があった後ではとてもじゃないが食事の気分になれない。レストランには申し訳ないがキャンセルだ。
「すまなかったフォージャー。俺のトラブルに巻き込んじまった」
自分のせいで、無関係な彼女を危険に晒してしまった。さすがの彼女も胆を冷やしたろう。
しかし――
「ううん、じなんのせいじゃないから謝るな」
あっけらかんと返されて、ダミアンは一瞬言葉が詰まった。破天荒な彼女でもさすがに今回の件は恐怖を覚えて、下手すれば泣く事も想定していたのに。
「い、いや、お前、襲われたんだぞ。怖かっただろ?」
「うん、怖かったけど、昔、もっと怖い思いした事あるから、それに比べればへっちゃら」
「は」
おい待て。今回よりもっと怖い思いした事ある、ってどういう事だ
聞き捨てならなくて問い質そうとしたのに、
「それに、今回はじなんが傍にいてくれたから、大丈夫かな、って」
「~~っ!」
にっこり笑い嬉しい言葉を言ってくれたものだから気が削がれてしまった。
「……いや、こっちこそお前がいてくれてかなり助かった。俺だけだったら対応しきれなかったわ。
フォージャー、お前、護身術習っていたのか?」
そう、まずそっちを聞いておきたい。
「うん、ちちとはは直伝」
「親から習ってるのか」
「そう。ちちもははもべらぼーに強い」
「あのおっさん、護身術まで出来るんかよ……。母親、えっと、ヨルさんもまあまあ強いのか?」
「まあまあどころか、アーニャが知る限り、人類最強女子」
「……」
「ははだったら、さっきの悪者3人なら同時に素手で相手しても余裕で瞬殺」
「……ヨルさんって、市役所の職員だったよな? 市長のSPでもやってるのか?」
「ううん、普通の事務員」
「……そうか。まぁ、うん……」
何でもこなすスーパー紳士な父親に、格闘術の使い手らしい母親、その両親から習った護身術で大の男を昏倒させてけろりとしている娘……フォージャーの家って何気にヤバくないか? いや、深くは考えまい。
「ねぇ、アーニャスゴかった?」
「あぁ、スゲーよ。頑張ったな」
「へへっ」
無邪気に笑うこの彼女に結構助けられてしまった。1人を倒してくれたし、ギョロ目野郎を相手していた時には、彼女のお陰で命拾いした。けど、
「でも、もう絶対、お前を危険な目に遭わせない」
これだけは、絶対に譲れない。
「アーニャじゃ頼りにならない……?」
「違げーよ。
さっきさ、お前、俺の事死なせないとか、俺がいなくなるのは絶対嫌、みたいな事言っていただろ? 俺も同じだ。お前に何かあるのが絶対に嫌なんだよ。
だから、今夜でこれっきりだ。お前にあんな事、絶対させない」
「ふーん……でもじなん、カッコ良かった! 戦える男だったんだね!」
「まぁ、一応は……」
(でもまだまだだ。フォージャーが一緒の時、コイツを護れるくらいにはならねーと。戦うんじゃなくて『逃げる』も覚えねーとな……)
護身術の手解きをしてくれた『師範』にはお墨付きを貰ったが、別の課題が生まれた。師範にはしばらく会っていないけど、近いうちにアポを取って相談をさせて貰おう。
「さて、と、レストランの方に電話してキャンセルしないとな」
ベンチから立ち上がる。公衆電話が近くにないかと見回すと、
「え レストラン行かないの」
「は? いやだって、さっきあんな事があったばっかりだぞ? 食欲あるのか……?」
「当たり前! じなんが連れて行ってくれるレストラン、いつもどこも美味しいし、慣れない事やったからお腹空いたもん!」
「……」
そう言えば……とダミアンは思い出す。
イーデン校に入学した年、課外授業で博物館に向かう途中でバスジャック事件に巻き込まれたあの時。
あんな非常時だと言うのにコイツは、犯人グループのリーダーに二度目の食糧を要求していたんだった。昔からとんでもなく肝が座っているのだ。
「……分かったよ。行くぞ」
「うぃ! あとどのくらいで着く?」
「ここからだと、歩いて5分くらいだな」
「おー近い! 楽しみ!」
ぴょい、とベンチから立ち上がったアーニャ。そして、
「じゃあ行こ!」
ぱぁ!と笑顔を見せられ、ダミアンの胸が今日1番ときめいた。
「んんっ……その、こっちだ」
(……ったく、可愛いくて強くて肝が座ってる……サイコーだよお前は)
こんなヤツが傍にいたら、普通の淑やかな御令嬢じゃ物足りないじゃないか。
「バッグ貸せ」
「へ?」
「持つ。重いんだろ?」
一戦の後、バッグの種明かしをしてくれた。妙に重たそうにしていると思っていたら、使わなくなった参考書を入れていたという。非力な女性には、バッグが暴漢相手に有効な武器や盾になるし、雑誌1冊でも入れておけば、重みと厚みが更に効果を増大させる、と父親から教わった上での事だと言う。……では何故、雑誌でも十分なところにブ厚い参考書を仕込んで破壊力と防御力を上げたのかを問うたら、「……えっと、オンナのカン?」との事。釈然としないが、そういう事と受け入れた。
その大活躍したバッグを受け取ってざっと見れば、古い傷もいくつかあったが、真新しい擦過傷の方が沢山が出来ていたし、破けて中の裏地が見えている部分もあった。もうバッグとして使えないだろう。
「バッグ、弁償する」
「え? あ、大丈夫気にするな。これ、昔使っていた古いバッグで、ずっと全然使っていなかったから」
「それでもだよ。それに気持ち悪いだろ、それでハゲ野郎の顔面を殴ってたりしてたよな?」
「確かに気持ち悪いけど、これは記念に取っておくの」
「記念?」
「ちちとはは直伝の護身術の初戦にして初勝利の記念」
「おい……。まぁ分かったけど、それでも代わりのバッグは買うぞ。今日は無理だから出直す。明日も俺に付き合え」
「えー……」
「……嫌なのか?」
「んーと、アーニャはじなんと会うの嫌じゃないんだけど、ちちの説得が大変」
「説得?」
「ちち、ベッキーとのお出掛けはすんなり許してくれるのに、じなんとだといつもなかなか許してくれないの」
「……」
「じゃあじなん、アーニャの家に来て、ちちを説得して!」
「は いや、それは――」
暴漢を相手するより、彼女の父を説得する方が遥かに厄介な事案だとダミアンが思い知らされるまで、あと数時間――。
〈END〉