雪月花の時 最も君を憶ふ俺が生まれた時にすでに雪にぃはこの世に存在していて、当たり前のように今までそばにいてくれたから、ずっと並んで生きていけるような気がしていた。
俺は、ずっとあの雪にぃからの温かい感情を享受できるありがたさにあぐらをかいていたんだ。
雪にぃが生きている世界しか知らないのに。
ずっとそんな日常が続くとは限らないのに。
「おはよう、雪にぃ」
「.........」
ある朝、キッチンに立ちみんなの朝ごはんを作っていた雪にぃに挨拶すると雪にぃは手を止めてじっと俺の顔を見つめ返した。返事がないことに違和感を覚える。
「ん?俺の顔に何かついてる?」
「.........いや、気分を害したら悪いんだが...名前を聞いてもいいだろうか?」
「え?やだなぁ、朝から何の冗談?」
「.........」
「雪にぃ?どうしたの?」
「すまない......どうしてもお前の名前が思い出せない」
「えっ!?」
周りのみんなもざわつき始め、俺たちを遠巻きに見つめていた。
「どうした、神名」
「礼光」
礼光さんがやってきて俺たちの間に立つ。
雪にぃはほっとしたように礼光さんに目をやった。その些細な表情の変化に、俺の感情は抉られていく。
俺を見た時の怪訝な顔。
それに反して、礼光さんを見た時の安堵の感情。
「こいつの名前がわからない?他の奴らの名前は」
「弟たちの名前はもちろんわかるぞ」
と居合わせていたみんなの名前を挙げていく。
ただ一人、俺の名前だけ呼ばれないまま。
息ができない。
心臓がバクバクする音だけが耳の中で響いていく。
「主任ちゃん」
俺の背中に添えられた温もり。
「雪風、本気で言ってるの?」
苛立ったような焦ったようないろんな感情がないまぜになった可不可の声が、耳元で聞こえた。
「.........知り合いだった、みたいだな」
少し困惑したような雪にぃの声。
「知り合いって、そんなもんじゃなかっただろ!?」
練牙くんの泣きそうな辛そうな声も聞こえてきたけれど、俺はもう俯いた視線をあげる余裕なんてなかった。
「ちょっと待って」
突然凪くんの冷静な声がその場を割った。
「雪風さん、昨日子タろから何かもらいませんでしたか?」
「...昨日か?そういえば新作の肉まんの味見を頼まれたな」
「「「それだ」」」
と言う声があちこちから響き渡る。
「あの野郎、どこ行きやがった」
「そういえば昨夜から見てないね」
琉衣くんと糖衣くんの声もする。
ドタバタとみんなが子タろくんを捜索し始めてくれていた。
「楓ちゃん、落ち着いて」
可不可が俺の腕を掴んだ。
「雪風はすぐ元に戻るよ。だからそんなに落ち込まないで」
俺の顔を見上げる可不可のいろんな色が混じった綺麗な瞳。
「楓...と言う名前なのか。紅葉の季節にぴったりないい名前だな。...その、忘れてしまってすまない」
雪にぃの申し訳なさそうな声を可不可がピシャリと遮った。
「雪風は黙ってて。...主任ちゃん、部屋に行こう」
可不可が体を支えようとしてくれる。ふらつく体を踏ん張り、俺は雪にぃを見つめた。
もう一度だけ確かめたかった。
「........雪にぃ、本当に俺のこと忘れちゃったの?俺だけのことを忘れちゃったの?」
「............悪い」
「そ............っか」
改めて確かめてようやくその言葉の意味を理解し始めて、視界が濁りはじめる。
泣きたくなんかないのに。
みんなの前で、涙なんか流したくないのに。
「行こう、主任ちゃん」
「うん...」
踏み出そうとした瞬間どうしても力が入らなくてぐらりと体が揺れた。慌てた可不可が支えてくれようとするが、可不可には俺の体は重すぎてぺたりと座り込んでしまう。
「あ、あれ...」
歩くってどうやるんだっけ。
力ってどうやって入れるんだっけ。
体ってどうやって動かすんだっけ。
その時ふわりと俺の体が持ち上がった。
「ゆ、雪にぃ...」
「部屋まで運ぼう」
「雪風は触らないで!」
可不可が苛立ったように叫ぶが、添くんが穏やかに声を挟んだ。
「しゃちょーも落ち着いて、今は雪風さんに任せてみましょ、ね」
「傷つけた張本人が楓ちゃんに触れる資格なんかない!!」
「でも...話さないとお互いのことがわからないだろ?」
練牙くんが可不可を宥める声も聞こえる。
「部屋は俺たちの隣の部屋だ、運んでやれ」
礼光さんの声が聞こえて雪にぃが俺を抱き上げたまま二階へと上がっていった。
「雪にぃ...」
どうして、俺のことを。
どうして俺のことだけを。
......忘れちゃったの?
聴きたいのに声にならない。
ゆらゆらと運ばれたまま俺は気を失っていた。
夢を、見た。
幼い頃の夢だ。
昔雪にぃの試合を見に行った時の夢だった。
滑る雪にぃは本当にそれはもうかっこよくて、みんなの視線を独り占めしていて、あれが僕の従兄弟なんだ、と誇らしく思っていた。
滑り終わった雪にぃが、俺の方を向いてにこ、と笑ってくれる。
その瞬間が大好きだった。
いくら遠い存在に感じても、その時だけは俺の雪にぃだ、と思えたから。
「雪にぃ...」
手を伸ばす。
俺の手の長さなんかではもう、手を伸ばしても届かない存在。
でも、世界に羽ばたいていても、いつもJPNに帰ってきた時は一番に会いにきてくれていたから、それが当たり前だと思っていたから。
きっと、そんな俺に、罰があたったんだ。
雪にぃの言葉はいつも大袈裟で。
くすぐったくて。
少し気恥ずかしくて。
でもそんな温かい感情に包まれて安心しきっていた俺が、どうしようもなく悪いんだから。
俺のことだけを忘れてしまうほど、俺の存在が薄くなってしまっていたんだ。
涙に濡れた目をこじ開けると、映ったのは見慣れた天井でどうやら俺の部屋のベッドに転がっていたようだった。
「...大丈夫か?」
目を覚ました俺に気づいた雪にぃが覗き込む。こういう暖かさは変わらないのに。
でもこれは、きっと誰にでも向ける優しさ。
「ごめん、ずっとそばについていてくれたの?」
「ああ、顔色が悪かったからな。...何か飲むか?」
俺のことがわからないはずなのに、気遣ってくれる。雪にぃという人は誰にでもこうだから。
「ううん大丈夫、ありがとう」
「.........俺のせい、だな。悪い」
「雪にぃは悪くないよ......子タろくんは見つかったのかな?」
「まだ報告は聞いてないな」
「そっか......」
言葉が続かなくて黙ってしまう。
沈黙が重い。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「ごめんね、雪にぃ」
「何で謝る?」
「俺のことなら気にしないで。もう大丈夫だから」
「............ずっと考えていたんだ」
雪にぃが俺をじっと見つめながらぽつぽつと話し出す。
「...うん」
「名前も何もわからないのに、お前のことを考えていると胸がじんわり温かくなるんだ。きっと、俺はお前のことがすごくすごく大事だったんだろうな」
「......うん、そうだったらいいな...」
「でも、それと同時に胸がぎゅっと苦しくなるんだ。...楓、と言ったか。お前は俺にとってどんな存在だったんだろうな」
雪にぃが、目を伏せると長いまつ毛の影が色素の薄い頬に落ちた。
「............っ」
雪にぃ。
雪にぃ。
早く思い出してよ。
俺のことを忘れたなんて言わないでよ。
また涙がこぼれ落ちそうでぎゅ、と毛布を握りしめていると、ふわり、といい匂いに包みこまれる。
雪にぃが、俺のことを抱きしめていた。
「嫌なら、押しのけてくれ」
「...そんなこと、できるわけないよ」
ぽんぽん、と頭を撫でてくれる感触が、まるでいつもの雪にぃのままみたいで。
俺は堪えきれずぼろぼろと泣き出していた。
「雪にぃ、早く思い出してよ...俺のこと、忘れたなんて言わないでよ......っ」
雪にぃの上着にしがみつく俺に、
「うん、うんごめん、楓」
雪にぃがゆっくり俺の頭を撫でてくれる。
撫でられることがあんなに恥ずかしかったのに。
こんなに嬉しいことはないと今は思う。
こういう都合がいいところがダメなんだろうなと自分でも思う。
「楓、絶対思い出すからもう少し待っててくれるか?」
雪にぃが体を離すと俺の顔を見つめながら真剣に誓ってくれた。うん、と頷くとにこ、と雪にぃが微笑むから。
ああ、この笑顔は昔から変わらないな。
そう考えていた俺の頬に伝った涙を指で掬うと雪にぃは自然な動作で何気なくペロリと舐めた。
「ゆき〜!どうじゃったかボクの肉まんの効果わ〜!!」
そこへ子タろくんがバタンと部屋を開けて飛び込んでくる。後ろからゆっくり夜鷹さんが顔を覗かせた。
「そんなに急に飛び込んだらびっくりしてしまうだろう?」
その穏やかな波長に俺はなんだか拍子抜けしてしまった。
「子タろくん、雪にぃが俺のことだけ忘れちゃったんだ。どうしたら元に戻るのかな」
「ほー、ゆきのビーチェはドゥドゥーってことか?」
「どういうこと?」
俺と雪にぃは首を傾げる。
「ボクが昨日ゆきに食べさせたのわその人のビーチェのことだけ忘れちゃう肉まん!そのビーチェの体液を摂取したら元に戻る!」
...体液?
体液ってなに?
「.........楓」
「雪にぃ?」
「全部、思い出したぞ」
そう言って俺の手を握りしめる。
「なぬ〜!?体液をもう摂取したのか!どうやって!二人で何してたんじゃ〜?」
「子タろ、もう私たちは行こうか。無事解決したようだし」
「よだ〜!ボクの好奇心わ全然解決しとらん!!」
叫ぶ子タろくんを夜鷹さんは抱えて、ではお二人でごゆっくり、と言って嵐のように立ち去って行った。
な、なにか勘違いされているような...。
静けさが戻った部屋で、雪にぃが俺のそばで跪く。
「...楓、......悪かった」
俺の手を握りしめながら雪にぃが搾り出すように震えた声でつぶやいた。いや、微かに手も震えていた。
「雪にぃ、寒いの?」
「いや、大丈夫だ」
俺の手を大事なもののように両手で大切に握りしめておでこに当てている。
「......俺が、楓のことを忘れる日が来るなんて」
苦しそうに雪にぃが言う。
「雪にぃのせいじゃないよ、子タろくんの肉まんのせいだから」
「そうだとしても、俺が楓を.......」
つらそうに口に出す雪にぃのことを、今度は俺が抱きしめて返す。震えているなら、二人で温め合っていけばいい。
「ビーチェ、だって」
「ああ、そう言ってたな」
「......雪にぃ、俺のこと、そんなに大事に思ってくれてたんだね」
ありがとう、とぎゅっと強く抱きしめると雪にぃが力無くつぶやいた。
「俺は、楓が生きているから生きていけるんだ。お前は俺の存在意義だ。それなのにそんなお前を忘れるなんて自分でも情けない...」
そう言うと強く強く抱きしめられる。
「う、く、苦しい...」
「あ、すまない」
そう言って力を緩めてくれたあとも俺の肩に顔を埋めたままだった。そんな雪にぃが珍しくて、さらさらの髪を思わず撫でるとびっくりしたように顔を上げて微笑んだ雪にぃの顔が、あまりにも美しくて。
俺は本当にこの人と血のつながりがあるのだろうか、と一瞬疑ってしまうほどだった。
雪にぃが耳元に顔を寄せて囁く。
「俺はもう二度と、楓のことを忘れないと誓おう」
「あはは、ありがとう」
思わず笑ってしまった俺を見つめる雪にぃの微笑みを眺めながら考える。
どうしてこんなに雪にぃに忘れられてショックだったのか。どうしてこんなに辛かったのか。
自分の中でよく考えてみても、答えは一つだった。
雪にぃがくれた言葉が俺の中で積もって行ったんだ。
「俺も、雪にぃが好きだよ」