散り逝く3俺は、もっと早く気付くべきだったのだ。
「田中君、今から君に私の知識を全て託すよ」
先生が何時もの様に椅子に座り、何時もの様に命令をする様に俺に声を掛ける。
それがどんな意図で、どんな意味を持っているのかあの時の俺は知るべきだったのだ。
「武市先生、それは」
「君も、少し上に行くといい。見えている風景が変わるぞ。だから准士官止まりではなく、士官に行って欲しいと思ったんだ」
穏やかに笑う先生は、俺にそう言って自分の持っていた知識等を俺へと託した。
先生から教えられた事は何一つ、取り零さないように大事に抱えるだけ抱えて。
真意にすら気付く事無く、況してや軍の一部が先生に何をしようとしていたのかさえ。
俺は何一つとして、知りもしなかったのだ。
「武市瑞山、貴方を」
軍から先生の姿が消え、気付けば先生が座っていた椅子に座らされていた。
先生が失脚させられた事を聞いた時、既に先生は軍に居なかった。
探そうにも特例で士官の試験を受けさせられ、軍に拘束されて探し出す暇すら与えられなかった。
漸く出来た時間を使って奥方を訪ねたが、先生の所在は分からないと憔悴しきった表情を浮かべられていた。
先生の失脚に関わった同郷の者から、どうにかこうにか所在を聞き出す事に成功した。
「は?」
「おいも止めようとはしたが、上官には逆れん事くれわいも分かっじゃろ!!」
「じゃっでってないで遊郭に!!先生はそげん場所に落とす様な方じゃなか!!」
「ただん嫌がらせだ!これ以上はおいも話せん。場所だけ教ゆっ。もう関わっな」
先生が居ると言う遊郭の場所を教えると、同郷の者は周りを警戒しながら俺から離れて行った。
何故、あの人が遊郭に落とされたのか。
失脚させられただけではなく、更なる辱しめを与える奴等が許せない。
何より一番近くに居たのに、何一つとして気付かなかった自分が許せなかった。
「それよりも先生を探し出さねば」
誰にも買われずに居ればいいが、もし買われていたとしても俺が先生を敬わない理由にはならない。
それに、先生がお困りのようであれば俺が身請けをすればいい。
「身請けするには何れくらいの金が必要なんだ」
はたりと立ち止まり、身請けの金額が分からない事を思い出した。
幕末の時、何度か足を運んだ遊郭で女郎を身請けしているのを見掛けた事がある。
あまり見るものではないと思い、すぐに目を反らしたせいで何れくらい積まれていたのか分からなかった。
日頃から周りに目を配れば、何時か役に立つと教えてくださった先生の言葉が頭に過る。
こんな事になるならば、遊郭での遊びをもっと知れば良かった。
後悔した処で、先生の状況が変わるわけでもない。
教えられた遊郭に向かう為に、花街へと足を進めた。
◆◆◆
ある遊郭の前で足を止めると、見世の女将が俺に気付いたのか咥えていた煙管を灰皿箱に置いた。
「軍人さん、お目が高いねぇ。ここは武家崩れのお姫さんの子が多いよ。そんな処で立ってないで、中に入って下さいな」
武家崩れと聞いて、眉がピクリと動く。
先生も言っていたが、時代が変われば身分も変わると。
その弊害が姫として育てられたおなごに向くのは、些かいい気持ちにはならなかった。
「ここに武市瑞山と言う男が売られたと聞いた。もし居るのであれば、身請けを」
先生の名前を出すと女将の表情が、あぁとつまらなそうに声をあげる。
「あんた。瑞を買いたいって言うのかい?」
「身請けをしたいと言っている」
「……軍人さん。あんた、遊郭慣れてないだろ。すぐに身請け出来る訳じゃないんだよ。それこそ、本人が嫌がれば金を積もうが何をしようが買えない。それに」
「身請けが無理だと言うなら一晩でいい。買わせて欲しい」
こんな事を言いたくはないが、先生が遊郭に居る以上、俺の立場は飽くまでも買いに来た客である事には変わらない。
身請けが出来ないのならば、一晩だけでも買うしかないのだ。
女将をじっと見つめると、根負けしたのかはぁと深いため息をついてから部屋に案内された。
「瑞が嫌がればあんたは、金だけ払って部屋に泊まるだけ。瑞が良いと言えば一晩買える。それでいいならついてきな」
「構わない。あの方が選ぶ事だ」
俺は選ぶ立場でなく、選ぶのは先生である事に変わらない。
部屋に着くと女将は、奥へと消えて行った。
微かに響く女の甘ったるい声と情事の音。
こんな場所に先生を落とした人間に、忘れていた怒りが沸々と沸いてくる。
あの時、遊郭に誘った上官を叩き斬れば良かったのかもしれない。
「武市が居なくなって、君も寂しいだろ」
良く分からない事を言いながら、俺の太股を撫でた上官は先生を煙たがっていた事で有名だった。
あの男なら、先生を遊郭に落としかねない。
やはり斬っておけば良かったと思っていると、襖が開く音がして顔を上げる。
そこに居たのは、軍服ではなく着物を纏った先生が目に入ったのだ。
「武市……先生」
お痛わしい姿に、気付けば涙が零れ落ちていた。