理想的共同生活やらかした。僕は今、粉の舞うキッチンで頭を抱えている。
「あちゃあ……戻すのは、ちょっとなあ」
小麦粉の袋を傾けたら、手が滑ってどばっと出てしまったのだった。一度器に出してしまったものを袋に戻すのは気が引けるし、既に他の材料を入れた後だった。粉同士が混ざるといけない。
今日は休日。早起きしたので久しぶりに丁寧な生活を――手始めにピタパンでも焼こうと思ったのだが、出鼻を挫かれた。日常的にありふれた失敗だけれど、朝の一発目となると少しばかり凹む。
目の前の粉の山をすべて焼き上げたら、二日くらいピタを食べ続けることになるだろう。挟む具材を変えるにしても、さすがに飽きる。
「珍しく早いな。昨日は酒場に行かなかったのか」
ドアが開いて、家主が現れた。寝癖を直す前にキッチンに来るということは、彼もまた休みなのだろう。てっきり今日も仕事だと思っていたのに。
「いいことを思いついた」
「拒否する」
「まだ何も言っていないだろ」
こんな時のためのルームメイトである。同居しているからには有効活用するべきだ。
「君の言う“いいこと”が俺に対して有益に働いた記憶がない。君の都合で貴重な有給を乱されたくない」
「君を邪魔したりなんかしない、ただちょっと胃袋を貸してほしいだけさ!」
「胃袋……?」
アルハイゼンは疑問符を浮かべたが、目の前にある粉の山を見て察したらしい。
「何を作るんだ」
「ピタを焼くから朝と昼に食べてくれ。勿論具材は変えるし、何なら君のリクエストも聞こう」
「……卵とスモークチキン。野菜は任せる。昼は出かけるから、包んでくれ」
「良いだろう」
珍しく言い争いもなしに話が進んだ。問題が解決したこと、アルハイゼンと口論にならなかったこと、この二点で憂鬱な気分はきれいさっぱり無くなった。それどころか、彼が素直に好みを述べたことで若干高揚している自分がいる。
「卵は茹でるか? それとも焼くか?」
「焼く」
「お湯は沸いてるから、コーヒーを飲むなら使っていいよ」
「君、砂糖は」
「朝は入れない。でもミルクは欲しい」
同居している者同士の会話が成立していることに驚いた。それでいて昔のように、後輩の世話を焼いているような、不思議な感覚。自分からこの家に転がり込んだとはいえ、昔のいざこざもある。彼とはもっと冷たい……最悪の場合、必要最低限の会話だけを交わすような生活になると思っていたのだが。
「(……意外と、成り立ってる!?)」
何とも言えない気持ちでピタの生地をこねる。というか、アルハイゼンが躊躇いなく二人分のコーヒーを用意する姿勢を取ったことも驚きだ。黙って自分の分だけ用意する方が彼らしいと思う。他の人間より彼に関わる時間がほんの少しだけ多かった者の視点から、ではあるが。
「(うう、なんだよ、急に気になってきた……っていうかピタの発酵する時間もあるのに大人しく出来上がるのを待っているつもりか?)」
朝食の時間には早いといえども、お腹が空いていたら勝手に食べ始めていそうなものである。しかしアルハイゼンはミルク入りのコーヒーをキッチンの隅に置くと、自分もコーヒーを飲みながら大人しく本を読んでいた。あれは待ちの姿勢だ。
「(……っ、しょうがないな。まあ僕は先輩だし? 大人しくご飯を待っていてくれるっていうなら、とびきり美味しいやつを作ってやろうじゃないか。文句のひとつもつけられないくらいの!)」
途端、やる気がみなぎる。いつの間にか、小麦粉の消費ではなくアルハイゼンを満足させる方向に思考がシフトしていた。
「(包む用のやつは持ち歩いて汁が零れないものにしないと……パンが水を吸わないよう、バターを多めに塗っておこうか)」
生地を発酵させている間、具材の調理をしている時も彼のことばかり考えてしまう。アルハイゼンは手の汚れる料理を嫌うので、具材も零れにくいようまとめなければならない。口の周りがベトつくと拭うのが面倒だ。なので味付けはソースではなく塩コショウ。その代わり、味気なくならないようハーブを仕込む。
「よし、できたぞ!」
「……漸くか」
「待つという選択をしたのは君だろ」
「分かってる」
テーブルを挟み、彼と向かい合って座った。出来立てのピタサンド、何杯めかのコーヒーと、昨日の残りのおかずが少し。ルームメイトとの理想的で、穏やかな朝食の形。それが何故だかむず痒い。ちら、と目の前の男に視線を向ければ、黙々とピタを頬張っていた。
「昼の分はもう包んであるから、出かけるときに持って行ってくれ」
「……ああ」
「ええと、その……味の感想とかないのか」
ちょうど一口齧ったところだったので、アルハイゼンは暫く黙っていた。彼はお行儀が良いので、口の中にものを入れたまま喋ったりはしない。ごくん、と飲み込む音の後、そっけない一言が返って来た。
「美味しいと思う」
「……そ、そうか! まあ僕が作ったんだからな、君の好みだって大体把握し」
滑った。口が。好みを把握している、なんて言ったら「君に満足してもらうために作った」と認めるようなものだ。実際そうなのだけれど。
「あー……ええと、ルームメイトだし。食事を作るなら一人分より二人分のほうがコストパフォーマンスが良いだろ? 今後何か作るときに片側が嫌いな味付けを出すのは避けたい。だから今回は君に寄せてみたんだ」
「君は今後も食事を作ってくれるのか?」
「……え」
顔を上げれば、翠色の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。ごまかしたつもりがさらに墓穴を掘った。食事はお互いのタイミングで取った方が楽だし、アルハイゼンが手の汚れる料理を嫌うのは本を読みたいから。即ち、今のように一緒に食事をするのはイレギュラーであり、本来は一人で静かに食事をするのを好む。
「まあその、僕としてはどちらでも……嫌なら別に」
二人分分作る方がコストパフォーマンスが良いと言いはしたが、アルハイゼンは金に困っていない。店で買ってきても、外食をしても、全く問題にならないのである。つまり、彼がわざわざ面倒な複数人での食事を選択する必要はない……はずなのだが。
「では夕食も頼む。それと君の食事の好みを知りたい。昔と変わらないならそれで良い」
「……!!!」
今日の天気を聞くときのような自然さで、彼は告げた。
***
「朝と昼は別としても、夕飯は汁物も出すからな! どうせ僕と一緒なんだから、両手をあけて食事してもいいだろ!」
そう言って、カーヴェは今日も食材を買いに家を出る。
「今日の当番は俺だったはずだが」
「たまには魔改造されていないシチューが食べたい」
「なら好きにするといい」
あの日、カーヴェが作ったピタサンドは完璧の一言だった。
嫌がらせに、手の汚れそうな具材を詰め込んでくるかもしれない。なんて思っていたのに、出てきたのは味も食べやすさも理想的なもの。これが一度は袂を分けた人間に対する姿勢だというなら、彼は本当にお人好しが過ぎる。昼用にと包んでくれた方も、中身が崩れることのなく最高の一品だった。また食べたいと思って、今後も食事を作ることを要求してしまった。
彼との同居を呑みはしたものの、昔のことを忘れたわけではない。どうしようもない亀裂は今も残っているし、それに対して今更どうこう言うことも無い。カーヴェも同じはず。故に、同居人ができたからといって、せいぜい朝夕にすれ違う程度……家に猫が一匹住み着いた程度の関係になると思っていた。
それがどうだろう、気づけば当たり前のように同居らしい同居が成立してしまっている。食事の用意、掃除、洗濯、すべて二人分こなしてしまっていた。
カーヴェの態度からして、赦せない部分はあっても心の底から憎まれてはいないのだろう。彼のようなお人好しが他人を完全に嫌えるとも思えない。しかしながら、この奇妙な共同生活に満足しているのはカーヴェだけではないのだ。
自分にない視点を補う存在。それだけではなくなっている気がする。あの騒々しい者が家に居ない方が良いと思うのは事実である。食事だって一人で済ませた方が気楽だ。しかし、彼との生活で生まれる妙な安心感と満足感もまた、紛れない本心なのだった。少なくとも、カーヴェの手料理が自分の生活から消えるのは間違いなく"損失"である。
思考を重ねてみても、この矛盾した事実をうまく結びつける合理的な解答は見つかっていない。このまま共同生活を続ければ、ヒントが見つかるかもしれないけれど。
「たまにはシチューも悪くはないか……」
とりあえず、今日の夕飯にカーヴェの作った美味しいシャフリサブスシチューが出てくるのは確定している。今はそれで良しとしよう。