拝啓ウルフ様 交通事故をきっかけに、ケイゴの生活はがらりと変わった。これまでの基盤だったスケートを辞め、何をするでなく、日々を浪費していた。
スケートに未練があるのか、わからない。成長期を越え体が完成すれば、今より高く跳べるだろう。
ただ、最近のケイゴは、事故が起こる以前から、少しだけ、おかしい。
きっかけは何かわからないが、時折意識がなくなるのだ。一瞬なら、ぼんやりしていた、と片付けられるのに、それはその時によって長さが違う。
先日は、赤い郵便ポストの前で気が付いた。もちろん、ポストに用はない。
自分が生きる価値を、見出せないでいる。
今日だって、腫れ物扱いされる学校の雰囲気が嫌で、かといって寄り道する気にもなれず、真っ直ぐ帰宅した。
中学生が帰宅するにはまだ早いエントランスで、ランドセルを置いて遊びに出てきた小学生たちとすれ違う。
ポストを覗くのは、小さな頃からずっと、ケイゴの役目だった。
集合住宅の郵便受けは、ケイゴにとってはちょうど良い高さでも、車椅子の母親には少し届かない。
真神家に届く郵便物といえば、母親宛ての公文書か、いつ登録したか覚えのないダイレクトメールだけだ。あとは年賀状が何通か、しかし今は季節が違う。
(……?)
通信面を剥がして見る広告葉書でも、宛名が窓になった封筒とも違う、白い洋型封筒が一通、入っていた。
「オレ……あて?」
郵便受けのふたを閉じ、ダイヤルを回す。肩のスクールバッグを掛け直し、封筒を手にしたまま廊下を進む。
歩きながら裏面を見たが、差出人は書かれていない。
(なんだろ)
まだ父親が生きていた頃、郵便受けを開ける父に対して、自分宛ての手紙はないか、といつも聞いていたことを思い出す。
文字も満足に書けない子供にとって、自分宛ての手紙は特別なものだった。
首をひねりながら、家の鍵を開ける。すぐに自分の部屋に向かい、はさみを探す。
本当は、好奇心そのままに封筒の端を破って開封したかったが、これまで届いた僅かな手紙は全て、はさみを使って丁寧に開封していたから、揃えたかった。ケイゴなりの、小さなこだわりだ。
鞄は部屋の入り口に置き、机の引き出しから探し当てたはさみで手紙の長辺を切る。
走り書きで書かれた宛名面とは対照的に、几帳面に折られた便箋を広げながら、椅子を引いた。
個人から宛てられた手紙なんて、いつ以来だろう。ドキドキしながら、白い便箋を開いた。
「えーっと、ケイゴへ」
綺麗とは言い難い文字は、誰かの筆跡によく似ている。文字だけの第一印象は、嫌いじゃない。
「誰だよ……」
差出人は、ケイゴしか知らない筈のことを知っている。或いは、SNSを見た誰かが特定したのかもしれないが、それは考えられなかった。
事故に遭った時に思ったことは、百数文字の言葉にも、二十四時間で消える画像にもしていない。
しかし、差出人は、あの時のケイゴの感情を、正しく理解していた。
じわりと目尻に涙が溜まる。便箋の上に流れる、欲しかった言葉が、ぽつりと滲んだ。
「……ッ」
飲み込みきれなかった嗚咽が漏れる。溢れる涙で文字が消えてしまわないように、丁寧に折り畳んだ。
机の上に肘をつき、目頭を抑える。満たされた胸が痛い。
「誰なんだろうなぁ」
滲んだ涙は、制服のシャツで拭った。鼻をすすりながら、ぽつりと呟く。大きく深呼吸をして、もう一度手紙を開いた。
何度読んでも同じ文字を追う。乾いた涙が便箋に染みていた。
いてもたってもいられず、ドアの前に置きっぱなした鞄を漁る。少ない荷物に埋もれたペンケースを取り出し、シャープペンを握った。
レターセット、なんてものはない。罫線入りのノートと、授業で使ったスケッチブックしか持っていなかった。
「何してんだろ」
そもそも、差出人もわからないのに。手の中で、くるりとシャープペンを回す。
溜め息と一緒に、机に突っ伏した。開いた便箋が、かさりと揺れる。胸の中を抉る優しい言葉を、横目で追いかければ、力の抜けた指先からシャープペンが逃げた。
「えーっと、手紙の書き方……」
シャープペンの代わりにスマートフォンを持ち、検索バーに文字を入力する。横を向いたままではフリック入力がしにくいな、と体を起こした。
スマートフォンに入力すれば、指先一つで世界に繋がる。
通りすがりの誰かが、いいね、とリアクションしてくれるかもしれない。誰にもこの感情を知られたくない、と言えば嘘になる。しかし、それは誰でもない。
「は、い、け、い……」
ルーズリーフに手紙の定型をなぞる。
「誰なんだろ」
拝啓なにがし様。
そこに宛てる名前を知らない。もう一度、手紙を見た。
白い便箋は、薄い金色の罫線が入っている。住所欄よりも丁寧に書かれた本文の筆跡は、恐らく男性だろう。
切手は見覚えがある。母親が郵便局で買ったという、季節のシール切手と同じものだ。ハスキー犬というより、狼の子犬に似ている。
「まぁ書き直せばいいか」
どうせ宛てどころのない手紙なのだ。
「拝啓、えっと、ウルフ様」
あなたからの手紙に、私の心も秋の空のように澄み渡っています。