徒恋というもの すごく昔の話、あたしがまだ子どもだった頃の話。
しんしんと雪が降り積もる中、人間の仕掛けた罠にハマった。足がズキズキと痛む。血が滲むその部分を見ると血の気が引いた。抜け出そうにもどうにもできない。もがけばもがくほどに強くなる痛みにポロポロと涙が出る。自由に外が見てみたくて、両親の目を盗んで出てきた矢先の出来事だった。誰も近くに居ない。父ちゃんと母ちゃんは探しにきてくれるだろうか。もしかしたら、このまま人間に捕まってしまうかもしれない。生きたまま皮を剥がれるなんて兄たちから聞いたばかりだった。怖くて、痛くて。でも声を出せば人間に気付かれるかもと思い、泣き声も呻き声も必死で殺した。
「おや」
声が聞こえた。人間かと目を瞑って身を硬くする。するりと頭を撫でた手。……この気配、人間じゃない。
「可哀想にのう。いま外してやるから、少し大人しくしておるんじゃよ」
ガチャリと足を挟んでいた罠が外された。
「………え?」
目を開けると、そこには男の人がいた。一面に積もる雪たちよりもその人のキラキラと輝く髪が綺麗で目が離せなかった。
「痛そうじゃな。お主は化け狐の一家の子じゃろう。送っていってあげよう」
冷たくて優しい手に抱き上げられて、身体が宙に浮き、抱えられて運ばれた。
「おじさん誰?人間じゃない?」
「そうじゃな。ワシは人間じゃない。お嬢ちゃんがただの狐ではないように、ワシも人間とは姿形は似ておるが、また異なる種族なのじゃ」
「じゃあなんなの?」
「ワシらは幽霊族という」
「ふーん。……あのね、助けくれてありがとう」
「なんてことない。家はこっちで合っているかな?」
「うん」
大きな手が背を撫でてくれるのが心地良い。眠くなるような優しい声だ。ホッとして、段々と瞼が重くなった。
「着くまで寝てても良いぞ」
「……うん……」
家に着くと家族みんなが大騒ぎだった。娘がいなくなったと探しに行こうとした時に「幽霊族の旦那」があたしを抱えてやってきたから。父ちゃんたちは恐縮し通しで、お礼に食事でもとお誘いしたが、「妻が待っているので」と言って旦那はすぐに帰ってしまった。
「おじさん、有名なの?」
雪の中に消えていく旦那の後ろ姿を見ながら、あたしの手当てをする母ちゃんに尋ねた。
「そりゃああの幽霊族だからね」
「ゆうれいぞくってなんなの?」
「何って、幽霊族は幽霊族さ。強くて特別な力を持っている。数こそ滅亡寸前だけど、いつでも一目置かれてきた方々だ。旦那はその皇帝筋の末裔さ」
「ふーん」
「そんなことより、あんた!勝手に出て行って反省してるの?みんな心配していたんだからね。怪我までして帰ってきて!」
「……ごめんなさい……」
父ちゃんは宥めていたけど、それでもその日中ずっと母ちゃんはプリプリ怒っていて、その日はもう遊ぶのは禁止。ご飯を食べてすぐに寝なさいと言われしまった。
言われた通りに寝床で丸くなりながら、旦那のことを思い出す。優しい手と声。また会いたいな。いつか会えるかな。
再び会えたのは、数ヶ月後。桜の咲き誇る季節だった。父ちゃんとその仲間の開催する花見の宴に旦那が招待されていたのだ。木の影に隠れて、旦那が来るのを待った。飛びついて驚かせて挨拶とあの日のお礼をしようと思っていたのだ。でも動けなかった。旦那はすごく綺麗な女の人と一緒だった。桜の花びらが舞う中、ピッタリと寄り添ったその人を、穏やかに優しく、時折眩しそうに見つめるその姿がなんだかとても悲しくて。結局挨拶どころか、姿を見せることもできなくて、その光景に背を向けて宴の場から逃げ出したのだった。
幽霊族の旦那が長く生き別れになった奥方とようやく再会したという話を聞いた。見つけ出したものの、悪辣非道な人間の手によって美しかった奥方は変わり果てた姿となり、また助け出す過程で旦那も深手を負い瀕死の状態だったとか。あの美男美女の夫婦が見る影もないほど崩れていたと、見舞いに行った砂かけが嘆いていた。
遠い日の記憶が蘇る。あの雪景色の中、何よりも透き通るような美しさを持っていた男の姿。それが失われてしまうなんて。一体何があったのだろうか。自分の足に未だ残る傷跡を見遣り苦々しい気持ちになった。やはり人間は好かない。
自分も何かあの方の役に立ちたいと山で薬草を摘み、砂かけに託す。お見舞いへ一緒に行きたいと頼んだけど叶わなかった。旦那と奥方は特別に親しくしていた者以外は断っているそうだ。黙って遠くから見るだけなら許されるかと、それとなく夫婦が療養している場所を砂かけに聞いてみたのだが、人間の男のところに二人で身を寄せているから、二人の存在を隠すためにも妖怪が無闇に近づいてはいけないと言われて驚いた。なぜ人間なんかのところにと顔を強張らせれば、「そんな顔をするもんじゃない」と砂かけに嗜められる。なんでもその人間は旦那の無二の親友なんだ言う。
とても信じられなかった。だって、旦那と奥方をそんな風にしたもの全部人間なのに。騙されたり、術をかけられているのではと言えば怒られた。その人間のそばにいることが旦那の強い願いだと砂かけは言う。とても納得がいかない。こちらの世界で療養した方が良いに決まっているのにと言い募ったが、その人間に完全に取り込まれているらしい砂かけには糠に釘だった。
「確かに愚かな人間、悪い人間は多い。じゃが良い人間もおる。その中でも水木殿は特別じゃ。水木殿の存在が今あの二人の心を支えてくれているのじゃから、引き離そうなどと思ってはいかん」
そう言って聞く耳など持ってくれなかった。
奥方は胎に子を抱えたまま血を搾り取られ続けていたため、助け出された時にはもう回復の見込みがないほど衰弱しきっていたという。それでもと砂かけをはじめ夫婦の知己たちがかき集めた薬や食材の甲斐もなく、程なくして夫婦に子どもが生まれた知らせと共に奥方が身罷られたことを知った。誰からも慕われていた奥方の訃報に皆が悲しみに沈んだ。
それぞれが死を悼み、ひとしきり泣いた後に話題になったのが、あの旦那の後添え、生まれてきた坊の継母についてだ。赤子には母が必要。これは妖怪だろうが当然のこと。そして旦那は由緒ある幽霊族の生き残り。奥方が居なくなって二度と純血の子はできぬとしても、あの妖力を継ぐ子は多い方がいいというのが妖の皆の総意であった。「しかしな」と誰かが言った。
「大の愛妻家だった旦那のことだ。後妻など娶るだろうか」
旦那の妻になりたいものは、それこそ側室や妾でも良いからと言い寄る者は大勢いた。幽霊族、しかもその皇帝筋の末裔である、あの美しい方の女になれたら、間違いなく妖の世界では箔がつく。誰もが羨む者になれるとこの世界を生きる女たちが過去に何度も争ったその座。しかし、どんなに色目を使われても旦那が靡いたことなど一度もなかった。妻一筋なのだと穏やかな笑みを浮かべながら全て断っていた。幼心にその姿に切ない気持ちになったのを覚えている。それと同じくらい旦那に見合うのはあの奥方だけなのだとも強く思った。他の誰かなんてあたしも考えられない。「それにねえ」とまた誰かが言う。それは確か旦那に言い寄っていた女のひとりだった。
「旦那の方も相当体が崩れているそうじゃないか。後妻以前に旦那の命ももう時間の問題なんじゃないの」
あまりの薄情さに怒りで目の前が真っ赤になった。あんたなんて旦那に袖にされて当然だったのだ。そう思うのについ考えてしまう。あの優しく美しい方がもう亡くなってしまうと……。胸が重く苦しくなって俯けば、砂かけや子泣きが怒り狂う声が聞こえた。
「縁起でもないことを言うな!あやつは決して死なんぞ!」
その声に元気づけられる。そうよ。死なない。そんなことあっちゃいけない。もっともっと薬草を取ってこようとその場を後にして、山を駆け上った。
それから季節が夏に変わる頃、旦那が少しずつ持ち直してきたと何度も様子を見に行っていた砂かけが教えてくれた。その知らせを喜んだ仲間たちが、もっともっとと秘薬やら食材が集めて旦那の元へ届くように手配をした。
そして訃報と共に届いた赤ん坊の出生の知らせから一年後、「元通りに動けるまでになった」と療養に協力した妖怪たちに旦那から手紙が届いたのだ。皆がそれに歓喜し、祝いそびれてしまった幽霊族最後の子の誕生と旦那の快気を祝いたいと宴が催されることになった。
純粋に回復を喜ぶ面々の中に、崩れた男がどうなったのか野次馬根性のあるものが混ざって集まる中、赤子を抱いて現れた幽霊族は、あたしの記憶にあるままの、元の美しい姿だった。
「旦那、お加減はどうなんだい?」
「お陰様でだいぶ良くなったのう。皆、その節は世話になった。そしてこれが倅の鬼太郎じゃ。これからよろしく頼む」
皆が腕に抱かれた赤ん坊を覗き込む中、あたしは旦那から目が離せなかった。
ああ、旦那だ。あの旦那だ。優しくて穏やかで、冬の月の光みたいに澄んだ光を放ってる。
胸がどきんどきんと音を立てる。頭がクラリとする。
今なら。奥方亡き今なら。もし今、実はずっと想い続けていたと告げたなら、彼女に向けていたようなあの穏やかな笑みを、愛を、こちらにも向けてくれるだろうか。スラリとしなやかに伸びるあの腕で抱きしめてくれるだろうか。
あたし、彼の奥さんになりたい。
眩しさと悔しさに逃げ出したあの桜舞う日から、何十年も経ち、人型も取れるようになった。あの日見た亡き奥方に負けぬくらい美しくなった自信もある。子どもは苦手だが、大事な幽霊族の末裔であり、あの旦那の子だ。大事にできる。
旦那は私の視線には気づかない。ただただ腕の中の赤ん坊だけを見ている。こちらを見てほしいと、話かけてみようと近づいた時、ずっと不機嫌そうにしていた赤ん坊の顔が歪んだ。華やかな宴の席に甲高い声鳴き声が響き渡る。旦那や周りがあやしても一向に泣き止まず、次第に引き攣れるような声に変わっていった。
「みじゅうぅ、みじゅぅう」
「おお、よしよし。そうか、水木がいないのが寂しいんじゃな。なに、きっと今頃あやつも寂しがっておるぞ。早く帰ってやろうな」
「なんだ、あんたと坊の祝いの席だってのにもう帰るのかい?」
「ああ、すまんのう。倅が泣き止みそうもないのでな。可哀想じゃからお暇させてもらうかのう」
「まあ確かにな。残念だがこんなに苦しそうに泣いてるんじゃ可哀想だ」
「せっかくの席を申し訳ない。今日のところは皆で楽しんでくだされ。ではまた改めて」
微笑みを浮かべて踵を返して去っていく。急いで追いかけたけれど、柳のようなその姿は数歩進んだところで赤ん坊の鳴き声と共に消えてしまった。
主役不在になった宴では、元通りの旦那の姿に野次馬で来ていた女たちが揃って浮き足立っていた。あんな薄情なことを言っていたくせに。あいつらには絶対に遅れをとるわけにはいかないと、能天気に酔う父を探し出して袖を引いた。
「ねえ、父ちゃん」
「おお、どうした」
「あたし、幽霊族の旦那の後妻になる」
「はあ!?いきなり何言ってんだおめえは!」
「前にみんなが旦那の後妻の話をしていたでしょ。あたし旦那のことがずっと好きだったの。だからあたしがなりたい。ねえ父ちゃん許してよ。あの方の所に行きたいの」
「いや、許すったって、そんな。俺に言われたって……、そうだ、お母ちゃんに聞いてみろ!」
「……もういい。勝手に行く」
「待て待て待て!……仕方ねえな。旦那にお前とのこと頼んでみるから少し待っとけ。ただしどうなっても文句言うなよ。俺はあの愛妻家が後妻娶るなんて思えないからな。文だけ書いてやるから、あとは自分で振り向かせるこった」
この夜の約束通り、父ちゃんはそのあと三日三晩考えて旦那への文を書いてくれた。母ちゃんはその間中、もっと分相応で同族の男にしとけとうるさく言ってきたけれども全部聞き流した。助けてもらった雪の日からずっと憧れていたの。あんな綺麗な奥さんがいると知った時はすごく悲しかった。でも悔しいほどにお似合いだと思った。彼女がいる限り、あたしが隣に並ぶなんて夢のまた夢だと思っていたけれども、やっと今叶いそうに思うのよ。
決意を固く、呆れた表情で見送る両親に背を向けて、風呂敷に少しの荷物と父の手紙を包み、旦那の住む場所へ向かった。
両親と同じくらい呆れた顔をした砂かけが、渋々といった風に教えてくれた道を辿って着いた家には「水木」の表札があった。砂かけが言っていた人間の名前と一緒。ここで間違いないはずと引き戸をひいてごめんくださいと声をかける。
「どちら様ですか」
人間の男が奥から出てくる。腕にはあの日泣き喚いていた赤ん坊が機嫌よく抱かれていた。なるほどこれが「水木」か。顔を見て納得した。砂かけが肩入れするはずだ。甘い目元が特徴的な整った顔の男だ。おばばはきっと見た目でこの男を贔屓にしていたに違いないが、あたしは騙されない。人間なんてみんな浅ましくて嫌なやつばっかりだ。できるだけ無愛想に目の前の人間に告げた。
「幽霊族の旦那を訪ねてきました」
「幽霊族?ゲゲ郎のことか?あんた何者だ?」
珍妙な呼び名に固まる私を無視して、人間は奥へ声をかける。
「おーい!ゲゲ郎。多分お前の客だ」
「そうか。すまんな水木。しかし珍しいのう。こんな昼間にワシの客人なんぞ」
私が記憶にあるものよりずっと気の抜けた声と共に旦那が出てきた。その声と呼び名の衝撃はあれど、やっと会えた喜びで思わず尻尾が飛び出した。
「旦那!」
「うわ!?……おお、尻尾だ……」
そんな私の喜びを水を差すように人間が声をあげる。
「これはこれは。あの化けぎつねの一家のお嬢さんですな」
「はい!お久しぶりです」
覚えていてくれたことが嬉しくて声が弾む。
「砂かけからワシらのために薬草を集めてくれていたと聞いております。その節は大変お世話になりましたな」
「いえとんでもないです。少しでもお力になれたのならよかった」
旦那がこちらを見て微笑んでくれる。お礼まで言われてしまい胸がドキドキした。
「本当にありがたかったですよ。それで、今日はまたなんでこんな所まで」
あんなに意気込んで家を出てきたのに、実際に旦那を目の前にしたら、「お嫁にきました」とはとても言い出せなくて、緊張に震える手で手紙を差し出す。
「……父から手紙を預かっておりまして……」
「はて、何用かのう。読んで返事を書きます故少しお待ちいただけますか」
「……まあ、玄関でもあれだから、上がってもらえよ」
「そうじゃのう。お嬢さん、中でお茶でも飲んで待っていてくだされ」
「ではお言葉に甘えて」
履き物を脱ぐと短い廊下を抜けて居間に通された。
「お湯を沸かし直してくるよ」
「ワシも手伝おう」
そう言って人間が居間を出ていくと、旦那は父ちゃんからの文を卓に置き、赤ん坊を抱いて人間に着いて行ってしまった。赤ん坊はいれど、ついに旦那と二人きりになれると思ったのに。がっかりしつつ部屋を見渡す。狭い中にちゃぶ台とタンスと、子どものおもちゃが畳の上に転がっているだけ。なんてことない質素な家だった。人間のそばにいるのだからもっと山奥とは違う暮らしをしているのかと思ったのに……。旦那はなんのためにここにいるの。
手持ち無沙汰に、転がったおもちゃを弄っていると、ふたりと赤ん坊が戻ってきた。人間から「どうぞ」と差し出されたお茶に会釈だけ返して、旦那を見つめる。視線に気づいたらしい旦那が卓上の文を手に取り広げて目を通していく。ソワソワとしてしまう。読み終わったら何て言うのだろうか。
「……なるほど」
「何の用だったんだ?」
「こちらのお嬢さんをワシの後妻にどうかという話じゃった」
「はあ!?」
素っ頓狂な声をあげる人間の男に旦那は目配せをした。そしてあたしの方を見て言う。
「……お嬢さん、お主のような方を後妻にというのはとてもありがたい話じゃ。しかしのう、亡き妻への思いも、忘形見のこの倅のこともある。ワシにとって後妻を娶るというのは簡単な話ではないのじゃよ。お父上にはワシから丁重にお断りする。遠いところ来て頂いて申し訳ないが、どうぞお引き取りください」
わかっていた。すぐに受け入れてもらえないことなんて。それでも胸が引き絞られるように悲しい。
「いやです。あたし絶対に帰りません。ずっとあなたをお慕いしておりました。側に置かせてください」
声を絞り出して頭を下げる。
「そのお気持ちは嬉しい。じゃがやはり、お応えはできませぬ」
「応えてくれなくても良いのです。側にいれれば」
「そうは言われましてもな」
「どうか、どうかお願いです」
頭を下げ続けて必死に言い募れば、頭上でため息がふたつ重なった。少しして人間が立ち上がって部屋から出ていく気配がした。それを旦那も追いかけて行ってしまう。
ひとり取り残され、どうして良いかわからないままその場で頭を下げ続けていると、どれくらい時間が経っただろうか。旦那と人間が戻ってきた。
「お嬢さん、先ほどお話しした通り後妻にするという約束はできぬ。しかしどうしてもというならお主のお父上に連絡が取れるまでここに居ても良い」
よかった。お側にいることを許してもらえた。とりあえずはこれでいい。ここから頑張って取り入っていけばいい。
平和な日曜の正午前、大方の家事を終えて、ゲゲ郎と昼飯は何にするか相談していたときだった。若いお嬢さんが訪ねてきた。こんな男所帯に何用かと思いきや、ゲゲ郎に用事だというのでこれは人間ではないなと思ったが、案の定どでかい尻尾が飛び出してきた。茶の湯を沸かしているときに、背後から抱き着いて邪魔してくる男から聞いた話だと山奥に住む化け狐の一家の末娘だという。ゲゲ郎と奥さんが臥せっていたときに、薬草を集めてくれた仲間の一人なんだとか。
なるほど。さっきも弾んだ様子でゲゲ郎を見ていた。案外、こいつも隅に置けん。少々面白くはなかったが、あんな若いお嬢さんにムキなっても仕方ないと家の中に通した。こいつと奥さんのために動いてくれた恩人でもあるらしいので、一応もてなすべきかと来客用の茶菓子を開けることにした。
今、その彼女が目の前で「後妻にしてほしい」、「ここにいさせてほしい」とゲゲ郎に土下座をしている。見事な『押しかけ女房』だ。失敗した。うかつに家に入れてしまったが、玄関先での印象は正しかったのだ。
一貫して断っているものの、ゲゲ郎も随分年下の女の子ということであまり強く出られていない。無理やり追い出すこともできずに、どうしようかと困り果てているようだ。口を出すのもなと傍観していたが、あまりにしつこいので本当に居座られるかもとため息が漏れる。それと重なるようにゲゲ郎からもため息が漏れた。言葉通りの息の合った動きに思わず互いを見て小さく笑い合う。楽し気だったのも束の間、すぐに縋るような目を向けてきた。「埒が明かないから助けてくれ」ということだろう。仕方ねえなと口の動きだけで返す。
「お茶のおかわり入れてくる」
そう言って立ち上がれば、「ワシも行く」と間髪入れずについてきた。もう少し上手く出てこいよとは思ったが、お嬢さんの方はあからさまな行動を気にするそぶりもなく頭を下げ続けているので、とりあえずそのまま鬼太郎を連れて再び台所に戻ってきた。
「いやあ、まいったのう」
「お前も隅に置けないな。随分と好かれているようだったじゃないか」
からかいの気持ちにほんの少し悋気を込めて言ってやれば、ゲゲ郎は恨めしそうにこちらを見てきた。
「他人事みたいに言いおって。そもそもお主が早くに頷いていればこんなことにもならなかったんじゃ」
「……それで、どうするよ。全然帰りそうにないぞ」
「話を逸らすな」
「今はこっちが本題だろ」
「……、そうじゃのう…あの子のお父上へ文を書き、娘を迎えにきてもらおうと思う。ただし迎えが来るまで数日はかかるじゃろう」
「妖怪とはいえお嬢さんを摘み出すわけにもいかんしな。それまであの子にはここにいてもらうしかないか」
「いいのか」
「たかが数日だろう。大したことないさ」
「……お主、もう少し妬いてくれてもいいのではないか」
ゲゲ郎が拗ねた顔で抱きついてきた。グリグリと押しつけられる頭を鬼太郎にするように撫でてやる。デカい図体をしているくせにこういう情けない仕草が可愛い。
妬いてるさ。言わないが。お前に近づく女なんて気に食わないに決まってる。
でもな。
こんな風にお前にはいろんな面がある。我儘なところもあれば、子どもみたいなこともするし、信じられないくらいに嫉妬深くなることもある。でもそれを知ってるのは奥さんと俺だけだと思うと、悋気よりも優越感の方が大きい。
ゲゲ郎を見つめるあの子の瞳を思い出す。この男の穏やかで優しい、そんなたった一面だけを見て、それで惚れた腫れただの言ってるんだろう。口角が勝手に上がっていく。あんな小娘、相手にもならんさ。上っ面だけの可愛い恋でこいつの最愛になろうなんて烏滸がましい。ああそうだ、こうなったら聞かないといけないことがあった。
「なあ、狐って何食べるんだ?」
どさくさに紛れて俺の尻を撫で回す手をつねりながら聞くと、また恨めしそうにこちらを見てくる。
「今聞くことか」
「大事なことだろ。子どもが腹空かせてるのは可哀想だ。昼飯何にすればいいんだ?」
「お主な。大丈夫じゃ、多分なんでも食うじゃろ」
「んないい加減な」
「あと、水を差すようじゃが、あの子は見た目は小娘でもお主より年上じゃぞ」
「……妖怪って面白いよな……」
「なるか?」
「……考えさせてくれ」
「そんなこと言うとるからこうなるんじゃろうが」
「……さあ戻るぞ。あの子、待たせてるからな」
「話を逸らすな!」
絡みついていた大男を引き剥がして、良い子で待っていた鬼太郎を抱き上げて、化け狐の押しかけ女房が待つ居間に戻った。