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    hjm_shiro

    @hjm_shiro

    ジャンル・CP雑多

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    hjm_shiro

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    とどち/ひび割れた夜の治し方
    ⚠二人とも大学生

    千早が遊びまくっていると聞いて確かめに行ったら本当にヤバそうな遊びをしていたので、思わず家に連れ帰ってしまう藤堂の話。他と遊ぶくらいなら俺にしろ!って言う。
    ※モブとの間に不埒な行為はないです。

    #とどち
    re-election

     ありえない場所で千早を見つけた。天と地がひっくり返っても千早には似つかわしくない場所で、千早を見つけてしまった。
     千早はやけに思い詰めた顔で繁華街を歩いていた。だけどアイツは自分みたいに馬鹿じゃない。自分自身を安売りするようなことや、いたずらに痛めつけるようなことは絶対にしない。例えやけっぱちになって投身する一歩手前までいったとしても、その直前でちゃんと踏みとどまれるような賢い奴なのだ。だから、思い詰めた末にこんなところへ来るような奴ではない。
     できることなら人違いであってほしかった。千早に似た誰かであってほしかった。最後の最後までどうか人違いであってくれと願いながら、藤堂は千早によく似た背中を追いかけた。

    「千早!」
    「……っ、藤堂、くん?」

     嫌な予感は的中するもので、振り向いたのは千早に似た誰か、ではなく、本物の千早だった。声をかけられたことにびっくりしたのか、千早が猫みたいに目を丸くする。
     千早の隣には見知らぬスーツ姿のおっさんが立っていた。やけに長身で体格のよさそうな男が、千早と腕を組んでいる。
     どっからどう見ても父親……ではなさそうだった。顔のパーツから輪郭まで、何もかもが違う。

    「お前、何処行くつもりだ?」
    「どこって……」

     千早の視線が少し遠くに向けられる。
     雑居ビルや飲食店、やり過ぎなぐらいに装飾された看板がひしめく繁華街を進んだ先には、ラブホ街が続いている。間違ってもうっかりで入って行くような場所じゃない。
     どういうつもりだと千早を睨みつけたら、後ろにいたおっさんが「瞬くん」と千早のことを呼んだ。その、やけに甘ったるい声にゾワリとする。

    「その子、知り合い?」
    「……はい、まぁ、そんなところです」
    「知り合い……? 随分と他人行儀な言い方じゃねェか」

     同じ高校に通って、同じ野球部で切磋琢磨した仲だろうが。
     大学こそ離れてしまったけど、千早のことはずっと友人だと思っていたのに、知り合いで片付けられるのは不服だった。

    「……もう行きましょう。時間の無駄ですので」

     千早はうざったそうにメガネのフレームを指で押し上げると、おっさんの腰に腕を回した。別に偏見があるわけじゃないが、千早とおっさんの組み合わせはアンバランスでやっぱりゾワゾワする。嫌悪感というよりは、怒りに似た何かが腹の底から込み上げてきた。

    「俺との約束があっただろ」
    「は?」
    「ほら、行くぞ千早」
    「ちょ、なんです、急に!?」

     喚く千早の腕を掴んで、おっさんから引き剥がす。おっさんも驚いたのか「何するんだ!」と声を荒げた。

    「大体、君は誰なんだ!」
    「ア? 誰でもいーだろ。俺はコイツに用があんだよ」

     噛みつこうとしてくるおっさんに睨みを利かせ、千早の腕を強引に引っ張っていく。
     おっさんは怯んでしまったのか、追いかけてくることはなかった。暫く無言のまま千早と一緒に歩いていく。そのまま二人で繁華街を出たところで、千早が乱暴に腕を振り払った。

    「……で、用事ってなんですか?」
    「ンなもんねーわ。それよりもなんであんな所にいた?」
    「それ、藤堂くんに関係あります?」
    「関係……なくはないだろ」
    「友だちが淫行しようとしてるから?」
    「い、いんこう!? ってなんだ……?」
    「ハッ、どこまでもバカですねぇ〜!」

     千早が八重歯を出してケラケラと笑う。そんなに笑うこたァねーだろ、むしろ馬鹿なのは千早だろ、という文句を言いかけたところで、千早の笑いがピタリと止まった。

    「年上のおじさん捕まえて、えっちして、お金をもらおうとしてた、って言ったら理解できます?」
    「……へ、あっ、お前……マジで?」
    「おや、知っていて止めたのかと思っていました」
    「お前、マジでそんなことしてんの……?」

     思わず千早の肩を掴んでしまう。千早は光を無くした目で遠くを見つめていた。焦点が合わないから肯定と捉えていいだろう。

    「……理由はどうであれ見過ごせねェ」

     再び千早の腕をぎゅっと掴み、ずんずんと歩いていく。何処に行くつもりですか? と聞かれたが、行き先はひとつだった。自分が借りている部屋だ。
     大学生になってから、藤堂は住み慣れた団地から大学近くのアパートに引っ越した。進学した大学が都内の西外れにあり、通うのにかなり時間がかかったからだ。最初こそ通いで頑張っていたものの、すぐに無理が来て一年の夏に引っ越した。それから三年の今に至るまでずっと同じ場所に住んでいる。
     築十五年のボロアパートで、遊ぶところすらない閑静な住宅街。東京の外れも外れ。
     そんなところまで千早を引っ張っていくのは可哀想だけど、長い長い移動時間で反省してくれたらいいとも思う。少なくとも、今の千早をこのままひとりにはできなかった。

    「離してください。帰ります」
    「ダメだ。どうせ家に帰らねェだろ」

     図星だったのか千早が押し黙る。大人しくなったのをいいことに藤堂は千早を引っ張ると、乗り慣れた快速電車に千早を押し込んだ。


     ◆


    「ちょっと、藤堂くんに相談したいことがあるんだけど……」

     そう山田に言われたのは一週間前のことだった。やけに思い詰めた感じのメッセージが飛んできて、どうした? と返信したら、すぐに会って話がしたいとお願いされた。

    「……で、どうしたんだよ、ヤマ」

     待ち合わせ場所として指定したカフェの椅子に座り、注文した料理がそれぞれテーブルに届いたところで本題に切り込む。

     集合場所はお互いに会いやすい場所で、ということで、中間地点の吉祥寺になった。よく高校の頃、アホの要に誘われてみんなで行ったなァ、と昔のことを思い出す。
     桃パフェが食べたいと駄々をこねられて行った店は、今や名前を変えて別のカフェとして営業していた。今度はパンケーキとパスタが売りらしい。メガネを掛けた、言動がやや鼻につくアイツが好きそうだ、と思いながら藤堂は注文したコーラをひとくち啜った。

    「あのさ、千早くんのことなんだけど……」
    「千早?」
    「うん、そう。最近、千早くんと会ったりした?」
    「そういやァ、あれから会ってねェな……」

     千早の名前が出てきて、ぼんやりと千早の姿を思い浮かべる。
     八月末に一度、それこそ藤堂自身の誕生日を祝うために開かれた飲み会で顔を合わせたが、そのあと個人的に会うようなことはなかった。野球や講義で忙しかったし、単発のバイトも入れていたから、ほとんど誰とも会っていなかったのだ。
     さらに言えば、千早とは連絡すら取っていない。少し前に、千早の誕生日を祝いたいという主旨のメッセージを送ったきりで、向こうからは何も返ってきていなかった。

    「千早がどうかしたのか?」
    「うん……。それが、大学にあまり来てないみたいで」
    「あー、千早と学部、一緒なんだっけか」

     山田と千早は同じ大学に通っている。自分も同じだけの頭があれば二人と同じところへ行ったのに、と今更ながら悔しく思った。いまだにちょっとだけ未練が残っている。
     藤堂は手持ち無沙汰にパスタをフォークに巻きつけると、豪快に口を開いた。

    「千早くんさ、講義だけじゃなくて、野球部の練習にも時々休むようになっちゃって……。今はシーズンオフだからいいけど……」
    「アイツなりにいろいろ考えて行動してんじゃねーの? 来年には四年になっちまうし」

     就活するのか、プロ志望届を出すのか。本格的に決めなければならない。まだあと一年あるが、のんびりしていたらすぐに時間は過ぎてしまう。千早にとっても、そして藤堂にとっても大事な時期だった。

    「うーん。そうだと良いんだけど、僕、その……見ちゃって」
    「見た?」
    「うん。その、千早くんが……知らない男の人と、ホテルに行こうとしてるとこ……」

     は……? と気付いたら、口に入れようとしたパスタがバラバラと崩れて下に落ちていた。

    「わー! 藤堂くん! 服についてる!!」
    「ヤベ!」

     慌てて落ちたパスタを紙ナプキンで拾い、おしぼりで服についた染みを拭う。
     新品の服をおろしてきたっていうのにツイてない。グレーのトレーナーにトマトソースの染みができてしまった。これもぜんぶ千早のせいだ、と思うことにして、とりあえず今は詳しく話を聞くことにした。

    「で? 千早が知らねェ男と会ってる、だったか?」
    「うん。大学の最寄り駅近くで千早くんによく似た人を見かけてさ。気になって見てみたら、やっぱり千早くんで……」
    「マジかよ」
    「それに噂にもなってるんだ。千早くんが知らない男の人とホテルに行ってるかもしれない、って」

     俄には信じがたい。デッドボールを食らったとき以上の衝撃だ。
     だってあの千早が。潔癖気味の千早が。知らないおっさんとホテルに行くとか想像できない。そもそもアイツ、清峰兄からのAVを受け取っていなかったか? そのAVが男同士のAVだった……とか? それもちょっと考えにくい。というか、そんなおっさんに行かずとも、もっと他に選択肢があるだろうに。

    「あーーーー……まぁ、それが事実だとして、俺に言われても、どうすることもできねーぞ」

     だって、千早からの連絡は途絶えている。こちらがメッセージを送ったところで、返信がなければ意味がない。万事休す、だ。それは本人もよく分かっているだろうに、なんでこんなことをわざわざ相談しにきたのかを尋ねたら、目の前でクスクスと笑われた。

    「だって藤堂くん、千早くんのこと好きでしょ?」
    「……は? ア? え、なんて?」
    「だから、千早くんのこと好きだよね?」

     今度はコーラを零しそうになった。なんとかグラスを倒さずに済んだが、動揺しすぎてまだ手が震えている。山田はニコニコと笑ったまま、念を押すように、ね? と藤堂に同意を求めた。ちょっと恐怖を感じる。

    「ナニ? 俺ってそんなに分かりやすいの?」
    「千早くん以外はみんな知ってるんじゃないかな」
    「マジかー……」
    「残念ながらマジだね」

     ハァーーとでかいため息をつく。
     ずっと隠し通せていたと思っていたが、どうやら周りには筒抜けだったらしい。
     山田の言う通り、藤堂は千早のことを好いている。高校の頃から千早のことは、いいな、と思っていた。それと同時に見込みがないことも分かっていた。
     千早が自分のことを好きになるなんてあり得ない。逆立ちしたってあり得ない。だから、アイツが困らないよう静かに想い続けようと思っていた。チャンスが回ってくるその時まで、大人しくしていようと思っていたのだ。だけど、それがすべて無駄だったとは、さすがの藤堂も想定していなかった。

    「そんなわけで、僕は伝えたからね」

     このあとどうするかは君次第だと山田が言う。

     その日は千早がよく出没するという時間と場所を聞いて山田とは別れた。帰路につきながら、今日も千早は見知らぬ男と一緒にいるのだろうか、と最悪な想像をして手のひらに力を込める。
     嫉妬、怒り、悲しみ、どれもうまく当てはまらない。強いて言うなら"どうせなら俺を選べよ"という恨みがましい気持ちに近いだろうか。

    「あのバカ、何してんだ……」

     ぽつりと呟いて、手の力を緩める。手のひらに爪が食い込んでいたようで、暫く尾を引くような痛みが拳の中に残った。


     ◆


    「こんなところに住んでるんですね」

     一時間以上かけて帰ってきた我が家は相変わらず湿っぽい空気で満ちていた。慌てて窓を開けて、空気を入れ替える。
     その間、千早は興味深そうにキョロキョロと部屋の中を見渡していた。

    「とりあえず茶でも飲むか?」
    「紅茶がいいです」
    「ンなもんねーわ」

     生憎、我が家には玄米茶しかない。千早からのリクエストは無視して玄米茶を淹れて振り返ったら、千早が部屋の真ん中で突っ立っていた。

    「なんで立ってんの……?」
    「いや、さすがにフローリングの上にそのまま座るのは……」
    「お前んちだって直で座ってただろ」
    「俺の家だからですよ。君んちの床は……」
    「ちゃんと掃除してっから! そんなに嫌なら俺の枕を座布団にして座れ!」
    「それはもっと嫌です」

     いちいち失礼なことを口にしないと気が済まないのか、千早は鞄からハンカチを取り出すとそれを床に敷いて座った。マジそういうとこは可愛くねェと心の中で文句を垂れつつ玄米茶を渡す。カップに口をつけるのも嫌だと言い出しかねないぞ、これ……と思って千早を見ていたが、そっちは大丈夫だった。

    「で、なんで俺はいま、藤堂くんの家に連れてこられたんです……?」

     心底意味が分からないといった顔で千早が言う。
     そんなの、藤堂にだって分からない。ただ千早をひとりにはしておけないと思っただけだ。動機も理由も、それがすべてだった。

    「大した理由なんてねーよ。ただ、あんなことするお前を見たくなかったっつーか……」
    「藤堂くんだってどうせこの部屋に彼女を連れ込んでヤりまくってるくせに」
    「ヤ!? ヤりまくってねーわ! お前みたいに遊んでねェんだよ、こっちは!」
    「俺だって遊んでませんよ!」
    「は? おっさんとセックスして金もらってるのは遊びのうちに入んねーのかよ!?」
    「…………」

     千早が口を噤む。ここで黙らないでほしかった。別に自分が最初で最後なんて言わないけど、少なくとも適当なところで大事な一回を捨ててほしくはなかった。千早が本当に好きな相手とヤるなら文句は言わない。だけど、こんなのは、あんまりだ。

    「お前、金にでも困ってんの?」
    「は? なんでそうなるんです?」
    「だって、その、いわゆる売春……ってやつをしてんだろ?」
    「あー、そう来ましたか。まぁ、そうですね。お金に困ってるというよりは…………いえ、そういうことにしておきましょうか」
    「ンだよ、はっきり言えや!」

     ダンッと思わずテーブルを殴り付けてしまった。千早がびくっと肩を跳ね上げたのを見て、わりィ、と拳を引っ込める。
     怖がらせるつもりはなかった。ただ千早のことが心配だった。

    「なぁ、何か困ってることがあんなら話してくんね? 力になるし……」

     イップスのときだって、千早は親身になって助けてくれた。練習に付き合ってくれた。千早のことをひとりの友人としても大切に思っている。好きな奴に甘えて欲しいというちっぽけな下心を抜きにしても、千早の力になりたかった。

    「……理由を言っても笑いませんか?」
    「笑わねェよ」
    「引いたりしませんか?」
    「引かねェ」

     それなら……と、千早が一度居住まいを正してから口を開いた。

    「好きな人にフラれました」
    「へぇー……って、いまなんて?」
    「だから、好きな人にフラれたんです」

     ……ちょっと予想の斜め上を行く話に動揺を隠せない。
     好きな奴にフラれた? っていうか千早、好きな奴いたの。もしかしていま、間接的にフラれてねェか、これ。

    「お、おう……それで?」
    「正直、フラれるとは思ってませんでした。向こうも俺のこと、好きなんじゃないかと思ってたので……。でもフラれてしまったので、代わりを探したいなと思いまして……」

     千早によると、相手からはこっぴどくフラれたらしい。初めて好きになった人だから、相当ショックがデカかったそうだ。その穴を埋めるべく、おっさんたちに声をかけていたところを運悪く見られてしまったらしい。なんというか話を聞けば聞くほど、こちら側のダメージが蓄積されていくようだった。

    「とまぁ、そんな感じです。だから心配することなんてひとつもないんですよ。俺が自ら望んでやっていることですし」
    「は? 心配するに決まってんだろ。っていうか、誰でもいいわけ?」
    「そうですね。ぶっちゃけもう誰でもいいです。どうせ減るもんでもないですし」

     その言葉に、ブチッと頭の中で何かが切れた。

    「ァ? 減るもんじゃないだって……?」
    「ちょ、藤堂くん? いきなり怒ってどうしたんです?」
    「怒りたくもなるわ!! だったら俺にしとけ!!」
    「は……?」
    「誰でもいいなら俺でもいいだろ」

     勢いで千早の肩を掴む。千早は口をあんぐりと開けると、いやいやいや! と何故か顔を真っ赤にして全否定した。

    「無理でしょう! だって君、男なんて無理だって言ったじゃないですか! そもそも俺とキスだってできないくせに!」
    「キ!? キスぐらいできるわ!」

     つーか、お前とだったらその先だってできるわコノヤロー! と吠えなかった自分を褒めてほしい。っていうか、男が無理だなんて、そんなこと言っただろうか。ちょっと記憶がない。

    「とにかく、ふらふらすんのはやめろ。お前の相手は俺がしてやる」
    「……ヤ、です」
    「あ?」
    「藤堂くんとは無理です」
    「なんで、」

     そこまで拒絶されるようなことをしただろうか……と胸が痛む。もしかしたら、千早のことをこっぴどくふった相手が自分に似ているのかもしれない。だとしたらトラウマもんだよなァ、と落ち込んでいたら、肩に置いていた手を千早に振り払われた。

    「……分かりました。いいですよ。君の説教に免じて、こういうことは控えます」
    「マジか」
    「その代わり、君で遊ぶことにします」

     千早が掛けていた眼鏡を外す。下から覗き込む形で急に顔を近づけられた。うおっ、とびっくりして顔を逸らしたら、千早が「やっぱり無理なくせに……」と吐き捨てた。

    「……俺、疲れたのでもう寝ます」
    「お、おう」
    「ベッド、貸してください」

     さっき、枕を座布団にするのは嫌だと言ったくせに、ベッドで眠るのはアリらしい。
     千早は着ていたジャケットを脱ぐと、そのままベッドの中に入ってしまった。おいおい、マジかよ……と呆れつつ、布団に包まる千早を見つめる。

    「藤堂くん」
    「なに?」
    「そのジャケット、ハンガーに掛けておいてください」
    「ダアァーーー! ほんっっっと自由な奴だな!!」

     我が儘すぎる。我が家の小さなプリンセスだってここまで我が儘じゃないのに。
     仕方なく千早のジャケットをハンガーにかけて、皺にならないよう袖をピンと伸ばす。その間、千早は相当疲れていたのか、ほんの数分で眠りに落ちてしまった。

    「マジ、お前じゃなかったら叩き出してンぞ……」

     警戒心を解いたケモノみたいに、気持ちよさそうに眠る千早を見つめ、瞼にかかった前髪をはらってやる。こんなことをしている自分も、あのおっさんたちがしていることと大差ないような気がして嫌気がさした。


     ◆

     朝、目覚めると、藤堂の隣に千早も転がっていた。なんで? と混乱しつつも布団に丸まる千早を見つめる。
     どうやら寝てる間にベッドから落ちたらしい。ひとまず寝苦しくないよう、頭に枕を挟んでやった。

    「あー……体いてェー」

     背中はバキバキ、電気はつけっぱ、飲んだお茶もそのままで、朝から最悪な気分だ。ガリガリと頭をかいていたら、隣にあった塊がもぞもぞと動いた。

    「ん……とうどうくん?」
    「おー、おはよ、千早。もうちょい寝てていいぞ」
    「そうします……」

     千早は寝ぼけているのか、床に転がったまままた目を閉じた。鼻先まで布団を被る姿はあどけなくて、ちょっと可愛い。猫みたいに気まぐれな奴だよなァ、と笑ったのも束の間、時計を見て悲鳴を上げた。

    「ヤベェ! 今日、朝から講義だわ!」
    「……ちょっと、うるさいですよ……」
    「わりィ、千早! 俺、講義あったわ! 鍵は置いとくから適当に帰っててくれ!」

     ドダバタと慌てて支度をし、スポーツバッグと講義用の鞄を持って家を出る。千早は最後まで布団に包まったままで、いってらっしゃいの挨拶も見送りもなく眠りこけていた。
     まぁ、でも、それでいい。少しでもアイツが安心して眠る場所を提供できたのならそれでいいと思う。たとえ、帰ってきて部屋の中が空っぽだったとしてもそれで――。

     そう思っていたのに、帰ってきたらまだ千早が部屋の中にいた。

    「お前、帰ってねーの!?」
    「鍵、どうしたらいいか分らなかったので……」
    「適当にポストの中、突っ込んどけよ」
    「それでもいいかな、と思いましたが、お礼はしておくべきかと思いまして」

     千早が冷蔵庫を開ける。大して物が詰まっていなかった冷蔵庫に、食材がパンパンに詰まっていた。よくよく見ると部屋も綺麗だし、換気もされていて湿っぽくない。

    「掃除、してくれたんか」
    「えぇ、まぁ、得意ですしね」
    「それで、そこにある袋は……」
    「あぁ、これは俺の私物です」
    「私物?」
    「帰るの面倒なんで、もうちょっとだけここに居ようかなと思って」

     見慣れた衣料品店の袋には寝巻きやタオル、歯ブラシまで入っている。
     おいおい、冗談じゃない。いや、嬉しいけどこの部屋で千早と過ごすには狭すぎる。それに、千早にだってやることがあるはずだ。

    「お前、大学は?」
    「必要な単位はほぼ取ってます。今期、いくつか単位を落としても大丈夫ですし、そもそも最後にレポートを出せばOKな講義しか取っていないんで。ゼミも毎週顔出さなくていいですし」
    「だとしても、野球があんだろ」
    「今はシーズンオフですよ。君だって知ってるでしょう?」

     大学野球は十一月末からシーズンオフになる。おまけに冬場は寒さや天候不良、グラウンドの状態もよくなく、自主トレーニングになりがちだ。人によってはパーソナルジムや個別の練習場を借りて調整する。それは藤堂も同じだった。

    「それに君、代わりになってくれるんでしょう?」

     千早がニィ、と笑う。
     そうは言うものの、千早からは藤堂に代わりとしての役割を求めているような雰囲気を感じなかった。単なる暇つぶしになれば、としか思っていなさそうである。その点については少し安心した。
     こっちは千早が相手なら何だってできる。できるけど、そういうことは気持ちが伴わないと、とも思っている。別に自分のハジメテに価値を置いてるわけじゃないけど、千早との一回があるのなら大事にしたい。

    「はいはい、じゃあとりあえずメシ作るか」
    「話を逸らさないでくださいよ」
    「お前、なに食いたい? あ、オムライス作れるじゃん」

     冷蔵庫の中に卵がある。ケチャップも鶏肉もある。今日はオムライスにしようと卵を取り出したら、ダメ、と横から手が伸びた。

    「ハンバーグがいいです」
    「は?」
    「卵は半熟の目玉焼きにして、ハンバーグの上に乗せてください」
    「お子様メニューかよ」
    「お願い、葵にーに」
    「その安っぽいお願いの仕方ムカツク!」

     だけど、可愛かったので許す。許せてしまう。
     自分でも自覚しているが、千早に甘すぎだ。小生意気で口煩くて嫌味ばっかで、なぜか自分にだけ当たりが強いけれど、こんなのが好きなんだからマジで終わっている。きっと心臓がバグを起こしてるに違いない。いや、もしかしたら頭と目がバグってんのかも。千早が可愛く見えるし、愛しく思えるし、好きだなって思う。自分の心と体でありながら、イカれてしまっている。
     藤堂は千早に言われた通り合いびき肉を取り出すと、リクエスト通りハンバーグを焼いた。ちゃんと目玉焼きも焼いてハンバーグの上に乗せる。
     茶碗はひとつしかないから千早に、味噌汁の椀もひとつしかないからぜんぶ千早の方にやった。逆に藤堂の方は深皿だったり平皿だったり、ちぐはぐだった。

    「先に言っておくけど、粉末ダシでも文句言うなよ」
    「言いませんよ。ダシから取るのは大変ですしね」
    「昔、文句言っただろうが」
    「指摘しただけですよ。それに、藤堂くんの味噌汁もちゃんとおいしいです」

     千早がズズッと味噌汁を啜り、熱々のハンバーグを頬張る。千早に手料理を振る舞ったのは高校のとき以来だ。美味そうに食べる千早に、藤堂の表情も自然と緩む。

    「お前、がっつきすぎ」
    「朝から何も食べてないので」
    「何か食ってこればよかっただろ」
    「いろいろしてたら時間がなくなってしまったので……」

     あっ、ついてますよ。と、横から千早の手が伸びてくる。軽く千早の指が口の端に触れた。

    「何そのテクニック、怖っ。てか、お前もソースついてんだけど」

     ついつい妹にしてやるときみたいに、ソースを指で拭ってペロリと舐める。そしたら千早が信じられないものを見た、という顔で、引き気味に藤堂から距離を取った。

    「君の方が怖いです」
    「あ? お前と同じことしただけだろ」
    「だとしても舐めます? 普通」

     取った米粒をティッシュに包む千早の頬が赤い。案外、爛れた恋愛ごっこのしすぎで、こういうことにはウブなのかもしれないと思うと気分がよかった。

    「藤堂くん、おかわり欲しいです」
    「遠慮がねェな、お前」

     ハンバーグはデカいのを五つ作った。余っても、明日パンに挟んで食べればいいと思っていたからだ。だけど、この分だと今夜で終わりそうである。
     千早が今度はチーズを乗せたいと言ったから、軽くオーブンで温め直してから出した。

    「おいしいです」
    「そーかよ、よかった」

     いつも綺麗にご飯を食べる奴だけど、よっぽど腹が減っていたのか、千早の手は止まらなかった。頬張る姿はなんだかリスみたいだ。
     千早はその後、味噌汁も米もおかわりしてすべて平らげてしまったので、結局何も残らなかった。

    「ごちそうさまでした」
    「おー、皿はシンクに持っていけー。後で洗うから」
    「洗い物ぐらいしますよ」

     千早が申し出てくれたので、素直に皿洗いは任せ、風呂を入れに行く。不在の間、かなり綺麗にしてくれていたのか、細かいところまで汚れが落ちていた。軽くシャワーで浴槽を流し、お湯を溜めはじめる。
     千早が皿を洗っている間、ソワソワと落ち着きなく後ろ姿を見ていたら、千早が「うるさい」と文句を言った。

    「なんも喋ってねェだろ」
    「視線がうるさいんですよ」
    「ただ見てただけだろ」
    「おや、見てたことは素直に認めるんですね」

     皿を洗い終えた千早が部屋に戻って来る。
     1DKの六畳一間だから、台所と寝室にもなっているダイニングの二部屋しかない。こんな狭いところに千早がいるのはバグみたいに思える。というか、あまり似合わない。

    「お前、本当に帰らなくていいのかよ? 終電だったらまだあるぞ」
    「帰りませんよ。寝間着とタオルも買ってきたのに」
    「マジでここに住むつもりなん?」
    「少しお邪魔するだけです。だって君は"代わり"なので」

     やけに誰かの代替であることを強調されて嫌になる。一体、誰の代わりなのか。尋ねようと口を開いたら、ゴポゴポと浴室から嫌な音がした。

    「ヤベェ!」

     慌てて浴室に飛び込み、お湯を止める。自動で沸かないから、お湯を止めに行かなきゃならないことをすっかり忘れていた。

    「あーあ、もったいない」
    「少ないよかいいだろ」
    「それはそうですけど」
    「お前、先に入るだろ?」

     きっと家族以外が入ったあとの風呂に入るのは嫌だろう。そう思って気を回したのだが、千早はにんまりと笑った。

    「もしかして、俺が入った後の風呂に入りたいんですか?」
    「ちげーわ! 気を回してやったんだろうが!」
    「冗談ですよ。っていうか、一緒に入ります?」
    「ハァ!?」

     びっくりしすぎて馬鹿みたいにデカい声が出る。千早はケラケラと笑うと、また「冗談ですよ」と言った。冗談には聞こえないトーンだったから、まだ心臓がドキドキしている。

    「お礼に背中でも流しましょうか?」
    「……また冗談だろ。その手には乗んねェからな」
    「いえ、ちょっと本気でした」

     千早はくいっと眼鏡のフレームを上げて部屋に戻っていく。なんだか、千早の手のひらの上でコロコロと転がされているみたいだ。ここは自分の部屋で、自分の城だというのに、イマイチ調子が出ない。

    「お言葉に甘えて、先に入りますね」
    「おう」

     藤堂は入浴に必要なものを一式持ってきた千早と入れ替わる形で、寝室のベッドにダイブする。ほどなくして聞こえてきたシャワーの音がやけに生々しく聞こえてテレビをつけた。不自然なぐらいにボリュームを上げ、寝っ転がりながらぼーっとテレビを見つめる。
     そのうち眠気がやってきて、藤堂はふわっとひとつあくびをすると、そのまま目を閉じた。



    「……どうくん。藤堂くん」
    「んぁ……?」

     ツンツンと千早に肩を突かれて、慌てて体を起こした。目の前には千早がいる。どうやら千早が風呂に入っている間、眠ってしまったようだ。
     千早は風呂から出てきたばかりなのか、ほかほかと温かそうだった。髪もまだ濡れているし、眼鏡もしていない。だぼっとした寝間着から出ている指先も赤い。
     甘い匂いがしてスンッと鼻を鳴らしたら、使い慣れたボディソープの匂いがして、くらりと目眩がした。それだけならよかったが、息子が誤作動を起こしかけて慌てて自分の頬を殴った。

    「え、何してるんですか。こわ……」
    「ちょっと自分を戒めようかと」
    「ますますバカすぎて意味が分かりません」

     タオルドライをしながら千早が当たり前みたいな顔でベッドに座る。昨日、今日でこのベッドは千早のものになったみたいだ。

    「ドライヤーどこですか?」
    「あー、それなら洗面の下だわ」

     千早のために洗面台の下からドライヤーを持ってくる。千早はドライヤーを受け取ると、また脱衣所の方に引っ込んでいった。いつも自分ひとりだと気にせず部屋で髪を乾かすから、わざわざ洗面台に行って髪を乾かす千早に感心する。
     ほどなくして戻ってきた千早の髪はぺたんとしていた。

    「お前、髪の毛セットしてねェと幼く見えるよな」
    「バカにしてます?」
    「いや、カワイイんじゃね?」
    「は?」
    「ん?」

     千早の驚く顔を見て、自分の失言に気付いた。

    「わりィ、嫌だったよな」
    「まぁ、可愛いと言われて喜ぶ男はいませんよね」
    「悪かったって」
    「……でもそうですか。藤堂くんには俺が可愛く見えてるんですか」

     喜ばないと言ったくせに、機嫌が良さそうな千早に首を傾げる。千早は鼻歌でも歌い出しかねないテンションで、冷凍庫の扉を開いた。

    「お前、アイスまで買ってたんかよ」
    「たまにはいいかな、と思いまして」

     マジやりたい放題だな、コイツ……と喉元まで出かかった文句を飲み込み、風呂場に避難する。
     ちょっと千早と距離を取らないと、また誤作動を起こしかねない。
     そう思ったのに、千早が入ったあとの湯を前にまた変な気持ちになった。

    「俺、ダメかもしんねェ……」

     大きな大きなため息をつき、コントロールの効かない体を叱咤する。ひとまず、湯に浸かることは考えないようにしてシャワーを浴びていたら、ガラガラと脱衣所の扉が開いた音がした。すりガラス越しに「藤堂くん」と名前を呼ばれてびっくりする。

    「千早!?」
    「背中、流します?」
    「い、いらねぇから入ってくんな!! つーか、なんで来た!?」
    「歯磨きするためでーす」

     ドッ、ドッ、ドッ、と心臓がうるさい。もはや痛い。千早にそんな気はないだろうけれど、馬鹿みたいに下半身が反応する。
     藤堂は無駄にシャンプーを二回も済ませ、結局千早が入った湯には浸からずに風呂を出た。
     風呂に入ったはずなのに疲れが抜けないのは千早のせいだ。一足早く寝支度を済ませ、ベッドに潜り込んだ千早を引っ張り出したい。人の気も知らずに、子どもみたいな顔で目ェ閉じやがって。

    「千早、寝た?」
    「……寝てないですよ。藤堂くんは? もう寝るんですか?」
    「俺ももう寝る」
    「そうですか。では、」

     ギシッとベッドのスプリングが鳴る。一瞬、何が起きたのか分らなかった。千早がベッドの奥へと移動したのだと理解するのに、たっぷり数十秒はかかった。

    「君、昨日床で寝てたでしょ。しかも布団も掛けずに。俺が昨日、気付いて布団を掛けてなかったら、確実に風邪引いてましたよ」
    「だから今日の朝、床で寝てたんか」
    「最悪な寝心地でしたけど、藤堂くんが風邪を引いてしまうのは困るので……仕方なくですよ」

     千早がぺろんと布団をめくり、中に入るよう促す。
     さっきから、心臓が壊れそうだった。据え膳ってやつなら食わなきゃなんねェんだけど、これはどっちだ? とない頭でぐるぐる考える。千早を見たら、何故か千早の方が恥ずかしそうにそっぽを向いていた。

    「お前、自分で誘っておきながら照れんのかよ」
    「照れてないです」
    「そういうことにしとくわ」

     電気を消し、もうどうにでもなれ、という気持ちでベッドに入る。
     案の定、ベッドは狭かった。二人同時に上を向いて寝ることはできない。仕方なく横を向いたら千早も同じことを考えたらしく、不自然に向き合ってしまった。

    「ちょっと、逆側向いてくださいよ!」
    「お前が壁側向けや!」
    「嫌です。左向きに寝たいので君も左向きに寝てください」
    「俺だって左向きに寝てェけど、顔面から落ちそうでヤなんだよ」

     右腕を下にして寝たくないのはお互い同じだ。でも、ベッドの淵となると話が違う。顔から落ちそうでちょっと怖かった。

    「明日、適当に布団買ってくるから我慢しろ。ってか、俺のベッドなんだからお前が折れろ」
    「…………」

     そう言ったら千早が大人しくなった。きゅっと口を閉じて両頬を軽く膨らませたのち、仕方ないですねぇ、とため息をつかれる。
     本当に、千早じゃなかったらベッドから落としていた。惚れた方が負け、という言葉の嫌な部分をつくづく感じる。

    「とりあえず目は閉じてください。見られてると落ち着かないです」
    「お前も閉じろよ」

     おやすみ、と言い合ってから目を閉じる。近くに千早の息遣いを感じて目を閉じてても落ち着かなかった。
     今はこうして千早を独り占めできているけれど、あの名も知らぬおっさんたちも千早とこの距離で寝たんだろうか、と思うと気分が悪い。千早のことを好き勝手に暴いて、抱き締めて、まどろみながらキスでもしてたんじゃないかと思うと、腸が煮えくり返りそうになる。
     千早のそういう薄暗い部分を知りたくないのに、それでも確かめたい気持ちの方が勝ってしまって、気付けば自然と千早の名前を呼んでいた。

    「ちはや」
    「なんですか?」
    「お前、他のやつともこんなことしてたのか?」

     千早が静かになる。もぞもぞと身じろぐような音がして、さっきよりもより近くに千早の気配を感じた。

    「さぁ、どうでしょうね」

     そんなに気になるなら確かめてみますか。と囁くような声がして、ハッと目を開く。千早も目を開いていたようで視線がぶつかった。

    「おまっ、なんで……!」
    「藤堂くんこそ! 目を閉じててくださいよ!」

     ほとんど千早に突き飛ばされる形でベッドから落ちる。鈍い音がして、千早が慌てて体を起こした。

    「すみません、わざとじゃなくて……!」
    「わかってるわ、アホ」

     フーッと長い息を吐き、両手で顔を覆う。
     もうダメだ、やっぱり同じベッドでは眠れない。

    「俺、床で寝るわ……」
    「そうですね、そうしてください……」

     使っていないバスタオルや夏物のブランケットを引っ張り出し、簡易的な寝床を作る。
     こんなのがまだ続くのかと思うと嬉しい反面、身が持たなそうだ。
     千早も自分と同じだといいのに。同じだけヤキモキしてくれたらいいのに、と柄にもなく女々しいことを思って、藤堂は今度こそ目を閉じた。


     ◆
     ここ最近「よう、藤堂! 最近、調子がいいじゃねぇか!」と、会う人会う人に声をかけられる。
     確かに調子がよかった。天候がいい日にバッティング練習をすれば振れば振った分だけバットに当るし、難しい場所に打たれた球も取り零すことなく捕球できる。
     何をしても調子がよくて、周りからは何かいいことでもあったのかと詮索される毎日だ。藤堂が気持ちでプレーする男だということは今のメンバーにも知られているため、なおのこと藤堂のプライベートを周りが聞きたがった。

    「マジでいいことあったん?」
    「特にねェよ。至ってフツー」
    「とか言ってー。どうせ彼女のことでも考えて浮かれてたんだろ」
    「え、なに? 藤堂の彼女?」
    「彼女のこと知りたい。写真は?」
    「同じ大学の奴?」
    「可愛い?」

     藤堂のロッカー前にわらわらと人が集まってくる。別にそんなんじゃねェ! とムキになって返したら、怪しいと余計に探りを入れられた。実は彼女と同棲してるんじゃないかと鋭いツッコミまで入ってひやりとする。まぁ、千早は彼女じゃないけど。

    「俺、もう帰るわ」
    「なんだよ。メシ食ってから帰ろーぜ」
    「いや、メシもうあるし」
    「は!? やっぱり家に彼女いんだろ!?」

     やいのやいのと騒ぐ部員たちを引き剥がし、なんとか部室から脱出する。

     夕飯は既に朝のうちに仕込んでいた。千早が起き出すよりも早く朝食を作り、夕飯まで仕込む時間は藤堂にとって幸せな時間だった。
     好きな相手にはとことん尽くすタイプだと自覚していたけれど、ここまで尽くせるとは思ってなかった。これもぜんぶ千早だから。千早が美味そうに食べてくれるから。時間がある限り、千早が好きな物を作ってやりたいと思う。
     それに今日はちょっとした楽しみもあった。


    「ただいまー」
    「おかえりなさい。藤堂くん」

     狭い部屋の奥から千早がひょこっと顔を出す。
     既に千早がこの家に来て半月は経っている。その間、千早は一度家に戻り、タブレットなどを持ち込んでいた。日中はリモートでゼミに参加したり、レポートを書いたり。夕方は自主トレをしにジムやバッティングセンターに行っているらしい。
     まるで、理想を詰めたような生活だ。千早がここに来た理由を忘れてしまうほどには充実した日々だった。

    「千早、今日は先に風呂入ってこい」
    「風呂、ですか?」
    「おう。今日は飲むぞ!」

     両手に抱えていた袋の中身を千早に見せる。片方は酒、片方はケーキだった。

    「パーティーか何かですか?」
    「ほら、お前の誕生日。祝ってなかったなーって思ってよ」

     自分の誕生日は祝ってもらった。プロで活躍している要や清峰、千早や山田も予定を合わせて飲みに誘ってくれた。だけど、千早の誕生日は祝うことができなかった。軽く音信不通になっていたからだ。グループラインにも返信がなく、全員の予定もうまく合わなかったこともあって、結局流れてしまった。だから今日は、そのリベンジをしたかった。

    「別に気にしなくていいのに。むしろ不要です」
    「ンなこと言うなよ。お前が生まれた大事な日だろ」
    「誕生日パーティー自体にいい思い出がないんですよ」
    「そうなん……?」

     それは初耳だ。今まで何度も千早の誕生日を祝ってきたが、そんな話は聞いたことがない。それに、今までだって楽しくお祝いをしてきたはずだ。千早だって喜んでくれていたのに。

    「まぁ、だとしても普通に飲もうぜ。メシも用意してあるし」
    「……分かりました」

     そう頷く千早のテンションは終始低かった。風呂に入り、夕飯を用意するそのときまで千早の表情は暗く、缶ビールのプルタブを起こす直前になっても、「本当に飲むんですか?」と千早が念を押すように確認してきた。

    「なんだよ。飲みたくねーの?」
    「藤堂くん、あんまり強くないじゃないですか」
    「まぁ、たくさんは飲めねーけどよォ……」

     特別弱すぎるわけでもないが、べらぼうに強いわけでもない。たくさん飲み過ぎると記憶が曖昧になってしまう。
     この前の誕生日パーティーでは飲みすぎて潰れた。目覚めたら千早の家にいたし、千早はちょっと怒っていたし、追い出されるようにして家を出た。

    「……なぁ、もしかして俺、この前なんかした?」
    「思い出したんですか?」
    「いや、思い出してはねェけど……」

     千早が怒っていたことだけは覚えている。そう、怒っていた。でも、何で怒っていたのかは思い出せない。

    「そうですか。じゃあ、そのまま一生思い出さなくていいです」

     千早は素っ気なく言うと、缶ビールのプルタブを起こした。一応、酒は飲むつもりらしい。藤堂も缶ビールのプルタブを起こす。
     いつもなら軽く缶同士をぶつけてから飲むが、今日はそういう雰囲気でもなかったのでやめた。不貞腐れたままの千早を見ているのは面白くないが、今日はあくまで千早の誕生日を祝うための会である。どうせなら喜んでもらいたいし、不快な思いにさせたくない。

    「千早、遅くなっちまったけど誕生日おめでとう」
    「……ありがとうございます」
    「…………」
    「………………」
    「美味いか?」
    「まぁ、既製品なので。いつも通りの味ですね……」
    「…………」
    「………………」

     ダメだ。これ以上、会話が続かない。いつもならもっとぽんぽんとリズミカルに会話が続くのに。
     やっぱり、何かやらかしてしまったのだろうか。思い出したんですか、という言い方が引っかかる。
     千早は用意した料理に箸をつけることなく、ただビールだけを流し込んでいた。

    「千早、ちゃんと食わねェと後で悪酔いすんぞ」
    「分かってます」
    「千早」
    「うるさいなぁ! 好きにさせてくださいよ! そもそもこんなこと頼んでもないのに! 君に付き合ってあげるんですから、俺の好きに飲ませてくださいよ!」

     千早が声を荒げる。これには藤堂も苛立った。

    「お前のこと心配して言ってんだろうが!! つーか、さっきからなんだよその態度は。言いたいことがあるならはっきり言え!!」
    「言いたいことばかりですよ! でも君が気を遣ってくれているのが分かってるから、こっちも黙ってやってるんです。俺だって我慢してることのひとつやふたつあるんですから、俺ばかり責めないでください!」

     グシャっと千早の手の中で缶が凹む。
     これが合図だった。ゴングが鳴ったと言ってもいい。藤堂の中で引き下がれないスイッチが入った。

    「だったらその我慢してること言えや! 今さら遠慮する仲でもねェだろ!」
    「嫌です! 喚いたら俺が何でも言うこと聞くと思わないでください!」
    「別に喚いてねェ!」
    「あーもう! うるさいですよ、藤堂くん」
    「チッ……分かった。じゃあ、こうしよう。飲み勝負しようぜ。俺がお前に勝てたら、お前が思ってることぜんぶ言え!!」
    「ハッ、誰がそんな勝負に……」
    「俺に負けんのが怖いのかよ?」
    「……そんなことないです。そもそも君、この前だって潰れて寝てた癖に」
    「今日の俺は調子がいいんだよ。だから絶対負けねェ」

     手に持っていたビールを一気に飲み干し、グシャリと缶を潰す。千早も負けじと一本飲み干して、潰した缶を床に投げ捨てた。

    「絶対、負けないです」
    「ハッ、言ってろ」

     千早を挑発し、次々と缶を空にしていく。途中、腹に何か入れないとヤバイと思って作り置きしておいたツマミも一緒に入れたけど、大した酔い醒ましにはならなかった。段々、体が熱くなっていく。
     四本目を空けたあたりで、ぐらりと体が揺れた。体を支えていられなくて机に突っ伏す。突っ伏した藤堂を見て、千早がフンと鼻を鳴らした。

    「もう降参ですか。とーどーくん」
    「そういうお前だって、手が止まってんぞ」

     千早も顔が赤い。覚束ない手で缶を握っている。さっきから口に入れているつもりで、だばだばとビールを服に零していた。
     千早も自分と同じでザルではないのだ。どんぐりの背比べもいいところである。
     千早は眼鏡を上げようとして、自分の鼻先を指で撫でていた。

    「しぶとい人ですねぇ……。俺が本当のことをいったら、きみは困ってしまうくせに……」

     そう言って、千早が薄っすらと笑う。何かを諦めたような笑い方だった。
     千早、と名前を呼ぼうとして舌がもつれる。
     そのとき、テーブルの上に置いていた千早の携帯がブーブーと鳴った。その音を追いかけるかのように千早の手が携帯に伸びる。
     自分のことをほっぽって、他のことに気を散らす千早が許せなかった。はっきり言って、面白くない。

    「俺と飲んでるのにスマホ見んな」
    「そんなの俺の勝手でしょう。重たい男は嫌われますよ」
    「ンだよ、それ。お前は軽い男にしかキョーミないわけ?」

     だからあんなこと、してたのかよ。
     そんな言葉がふと浮かんで、飲み込んだ、つもりだった。

    「君に言われたくありません」
    「……あ?」
    「だから、君に言われたくないって言ってるんです!」

     思い切り床に背中を打ちつける。気付いたら千早に押し倒されていた。襟ぐりまで掴まれて、ぐらぐらと頭を揺さぶられる。
     なんだか、身に覚えのある光景だった。前にもこうして、千早に乗っかられたことがある気がする。

    「君が言ったんじゃないですか! 俺とは付き合えないって!!」
    「は……?」
    「いい人を見つけて、幸せになれって君が言ったから、俺っ、」

     バカ、嫌い、藤堂くんなんか消えちゃえ!
     悲鳴じみた声で叫びながら、千早がぐしゃぐしゃに顔を歪める。さっきまで意識が朦朧としかけていたのに、一瞬で酔いが醒めた。
     そうだ、忘れていた。あのときの千早は今日みたいに怒っていなかった。怒られたのは朝になって家を追い出されたときで、こうして上に乗っかっていたときは真っ赤な顔で「藤堂くん」と名前を呼んでいた。酔い潰れて床で眠ろうとしたところを千早が起こそうとしてくれて、それで。

    「……思い出した」

     そうだ、あの夜、誕生日を祝ってもらった日の夜、衝動のままに千早のことを抱き締めたんだ。

     小手指メンバーと飲んだあと、藤堂は千早に誘われる形で誰もいない千早の家で飲み直していた。
     馬鹿みたいに飲んで、食べて、ダラダラして。
     案の定、酔い潰れて床で寝そうになったとき、千早が心配して起こそうとしてくれた。そのときの千早が可愛くて、健気に見えて、後先なんて考えずに抱き締めた。
     自分のものに、なったらいいのに。
     そう思ってしまった。思ってから後悔した。
     お互い男同士で、結ばれる未来なんか永遠に来ないのに。千早が自分のことを選ぶ理由なんてどこにもないのに。
     そう思ったから、あの日、千早との間に見えない線を引いたんだ。

    『お前と付き合えるやつは幸せだろうなァ……。お前、案外……めちゃくちゃ分かりづらいとこあっけど、優しいとこもあるし』
    『……それ、褒めてますか? それとも貶してますか?』
    『めちゃくちゃ褒めてる。お前のこと、俺、好きだし』
    『……! だったら、俺と、』
    『でも、お前とは付き合えねェな……』
    『え、』
    『男となんて無理だろ。お前はちゃんといい人見つけて、幸せになれよ』

     ……。
     …………。
     …………最悪だ。千早に気持ちを伝えるだけ伝えて、期待させるだけさせて、勝手に諦めて、自分から距離を取ったくせに、またこうして追いかけている自分のクズさ加減にほとほと呆れている。

    「……俺、藤堂くんと両想いかも、って舞い上がったんですよ。でも君、俺とは付き合えないって言うし、他の人を見つけろとか言うし、だから代わりを見つけようと頑張ったのに……」

     ――でも、ダメだった。君の代わりなんて見つからなかった。やっと、君に似てそうな人を見つけたと思ったら、君が現れるんですもん。
     そう言う千早の声が震えている。
     千早がずっと求めていた代わりは自分のことだった。

    「……なぁ、千早。やり直し、させてくれ」
    「……」
    「俺はお前のことが今も好きだし、付き合いたいし、他を選ぶくらいなら俺を選んでほしいと思ってる」

     何もかもをぶち壊してしまったあの夜みたいに、千早の体をぎゅうっと抱き締める。ぽんぽんとあやすように背中を撫でたら、千早の体がぴくりと震えた。

    「そこは、俺を選べ、くらい言えないんですか」
    「なに? 強引な方がいーわけ?」

     ゆるゆると顔を上げた千早と目が合う。泣きそうな顔でこちらを見つめる千早の頬を撫でようとしたら、ピシャリと手を叩き落された。顔が真っ赤だ。

    「そういうことを急にしないでください……。ちょっと耐性ないので……」
    「お前、めちゃくちゃ遊んでたんじゃないのかよ」
    「人聞きの悪い。確かに顔合わせはしてましたけど、そういうことは一切してないです。身持ちは硬い方なので」
    「へぇ……」
    「ちょっと、ニヤニヤしないでください!」

     藤堂くんのバカ、と攻撃力の低い罵倒が飛んでくる。すっかり機嫌を損ねてしまったらしい千早が、体の上から降りていった。ちょっとだけ、名残惜しい。

    「で、結局選んでくれんの?」
    「そうですね、君がちゃんと俺のことを好きだと言って、抱き締めて、キスのひとつでもしてくれたら考えなくもないです」
    「オメェ、さっき耐性ないとか言ったくせに、かなりすごいこと言ってね?」

     明らかに矛盾したことを言う千早に、藤堂がプッと吹き出す。

     手始めに、ちゃんと千早に好きだと伝えよう。そして抱きしめよう。それから先のことは――……千早次第になるけれど、たぶん今夜、ぜんぶ叶えてあげられそうな気がする。
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