日本の夏は暑い。湿度が高くて、汗がぜんぜん引いていかない。不快感が強いというべきだろうか。そんな中、俺は家の外へと引っ張り出されていた。
「なーぎ、ほら、早く!」
「うん」
汗ばんだ腕を掴まれる。人でごった返す通りを玲王は楽しそうな顔で歩いていた。それもそのはずで、通りには出店が所狭しと並んでいる。
焼けたソースの匂い、オレンジの提灯、発電機の騒々しい音。そして、目の前には鮮やかな色の浴衣に身を包んだ玲王がいる。
数日前、近くでお祭りがあると知った玲王は「祭りなら浴衣がいる!」と意気込んで何セットも浴衣を買い込んでいた。そんなにいっぺんには着れないでしょ、と止めたけど、ひとつに絞れなかったらしい。だから今回、玲王は淡い紫色の浴衣を着ていた。ちなみに俺は深緑の浴衣だ。帯は臙脂色なのでなかなかに攻めた組み合わせだ。なお、着なかった浴衣の中には金魚模様のものや花火模様の浴衣もあった。玲王曰く、近隣の祭はこの浴衣たちを着て制覇するつもりらしい。
そんな無邪気な玲王が、俺は大好きだ。いくつになっても、好きだと思う。
気持ちは波を描く。不規則な波形はそのままどこまでも下向きに落ちていくときだってある。俺から玲王への気持ちも、そして玲王から俺への気持ちも、いつか沈んでいっちゃうときがくるかも……なんて思っていた時期もあったけれど、今のところずっと上向きだ。玲王が望んでくれるなら、俺はずっと一緒に居たいと思っている。それは、W杯で優勝するという夢を叶えてからも変わらなかった。
数年前、俺たちは夢だった金杯を手にした。そのままサッカーを続ける案もあったが、引き際は綺麗な方がいいだろという玲王と共に俺たちは引退した。それから玲王は御影コーポレーションの仕事を継ぎ、俺はサッカーのコーチング業や趣味のゲーム配信をしながら、それぞれ生計を立てている。
玲王は俺と一緒に住むことを決めたとき、お前を不自由にさせないからな、と言ってくれた。でも、俺だって玲王を養いたい。もう玲王ひとりを養うほどのお金はあるのだ。そう言っても、玲王は元々羽振りがいいせいか、俺にあまりお金を出させない。今日着ている浴衣だって、玲王がぜんぶ払ってくれた。俺の分を出すよ、って言うことすら野暮な気がして、今日はそのまま玲王が選んでくれた浴衣を着ている。
だから、今日も俺の財布の出番はなさそうだ。小さな巾着にいろいろ詰めて来たけれど、たぶん財布を出すことはないのだと思う。
「凪! 射的やろうぜ!」
「えー、いいよ。俺はパス」
「そう言うなって」
「俺、やるなら金魚すくいがいい」
「金魚すくい? 可愛いものしたがるな」
「そうかな?」
射的は弾を詰めたりするのが面倒だし、当たらなかったら恥ずかしい。その点、金魚すくいは割と得意な方だ。昔、ぼーっと金魚を眺めていたら直ぐ側にいたお兄さんがコツを教えてくれた。それ以来、割と金魚すくいが上手い。それに、金魚すくいは隣同士で並べる。近い距離で玲王と楽しめる。そうした下心もあって金魚すくいを提案したのだが、玲王はそんなことには微塵も気付かずに「いいぜ!」と笑った。
「金魚すくい、実はやるの初めてなんだよなー」
「そうなの?」
「ん、うちさ、昔いろいろ動物飼ってたことあって」
「あー、ぽい。御曹司の幼少期あるあるっぽい。強そうな犬とか飼ってそう」
「犬どころか小さなカメレオンまで飼ってたことある」
「男の子って好きよね、そういうフォルムがかっけーやつ」
「そそ。でさ、たくさん飼ってたから、金魚すくっても持って帰れないなーって思って、やんなかったんだよなぁ」
「へー。あ、おじちゃん、ポイ二つで」
はいよー! とポイと御椀を渡される。その横で玲王が万札を出しかけて慌てて引っ込めていた。たくさん崩してきたであろう小銭を巾着の中から何枚か取り出して、恥ずかしそうに店主に手渡している。
「こんな薄いので金魚すくえんのかよ……」
「すくえるよ。ポイをそっと水の中に入れて、なるべく金魚と平行に構えんの。で、枠に金魚を引っ掛けるようにしてすくう。尻尾が当たると破けるから、尻尾は枠の外」
「へぇ、詳しいじゃん」
「まぁ、見ててよ」
玲王の横でぽいぽいと椀の中に金魚を入れていく。すくうというよりは勢いで入れている感覚に近い。
玲王はすげー! とキラキラした目でこちらを見ると、俺もやる! と意気込んでいた。
「あ、レオ。袖ついちゃう」
「ん」
すでに意識は金魚へと向かっているのだろう。水面につきそうな袖を横から捲る。
やっと気付いた玲王が、ありがと、と言って顔を上げた。思いの外、近付きすぎたせいで額同士がぶつかりそうになる。
「ふはっ、近すぎ!」
「レオが好きだからかな」
「……言うようになったよなぁ、お前」
昔はあんまりそういうこと言わなかったのに、と玲王が言う。恥ずかしげもなく口説く俺のことが面白くなくて拗ねているのかとも思ったけど、照れくさそうな顔をしているからそうでもないらしい。
玲王は勢いよくポイを水につけると、俺を真似て金魚をすくい始めた。
「さすがレオ。飲み込み早いね」
「俺だからな」
そこからは勝負になって、両者譲らず黙々と金魚をすくい続ける。だけど一歩、玲王の方が及ばなかったようで、俺より先にポイが破れていた。
たくさんすくった金魚のうち、数匹持って帰るか否か玲王と相談したのち、お互い生活リズムが不規則で面倒見きれないからという理由ですべての金魚を返した。結局、最後に残ったのは、いつの間にか捲っていた袖が落ちて、水でびしょびしょになった浴衣だけだった。
「ヤバ、袖がびちゃびちゃ。絞れそうなんだけど」
「今日暑いし、そのままにしてたら乾くっしょ」
「まぁ、そうだけど下ろしたてなのに」
「ちゃんとクリーニングしたらまた着れるよ。それにまだ家に控えの浴衣がいっぱいあるでしょ」
「そうだけど……あっ、凪!」
また何か面白いものを見つけたのか、玲王の目がキラリと輝く。さっきまでびしょ濡れになった袖を嫌がっていたくせに、そんなことはどうでもいいのかギュッと腕を掴まれた。
「りんご飴!」
ぐいぐいと強い力でりんご飴が売っている屋台まで引っ張られる。正確にはりんご飴の屋台ではなく、他の飴も売っているからフルーツ飴の屋台なのだろう。イチゴやブドウの飴も並んでいた。
「懐かしー。昔、原宿で食べたよな」
「玲王はイチゴとマスカットの飴でしょ。最後は髪の毛についちゃってたけど」
「それ言うなよ。思い出すと恥ずかし……」
りんご飴を巡る一連の過程を思い出したのだろう。玲王が珍しく焦っていた。あのときは若かったよなー、なんて玲王が言う。
思い返せば、あのときの玲王はりんご飴を指輪代わりにして跪いていた。誓いの言葉まで述べ始めたことを覚えている。まるでプロポーズみたいだ、としみじみ思い出に浸っていたら、玲王も同じことを考えたのか、「プロポーズみたいだったよな」と照れくさそうに笑った。
「レオ……」
「あっ、でもあのときは、お前とずっと一緒に居たい気持ちはあったけど、そういう重たい意味はなかったからな!」
「うん」
「だから、えーっと、本番はまだって言うか……大事な一回はちゃんとしたいし……」
なんだか、さっきから玲王の様子がおかしい。から元気というか、無理矢理テンションを上げているみたいな感じがする。かと思えば、珍しく焦ったり、恥ずかしがったり。とにかく、いつもの玲王ではなくて、案の定玲王は一本だけりんご飴を買うと、それを大事そうに握った。そこで俺は確信する。きっと玲王はきっかけを掴みたいのだ、と。
「……ね、本番のプロポーズしてくれないの?」
「は、ハァ!? おまえ、なに、言って……」
「レオ、ずーっとソワソワしてるじゃん。だから、ずっと言いたかったのかなって。……ねぇ、また俺にりんご飴ちょうだい。絶対に断らないから」
「うっ……ここまでお膳立てされるとやり辛いっていうか、そもそもプランが……。うーん、でもそうだな」
玲王がわざとらしく咳払いをする。玲王はあの時と同じように人の往来で、ひと目も憚らずに跪くと、俺にりんご飴を差し出した。
「俺は凪のことが大好きだ! ずっと傍にいて欲しい。だから誓ってくれ。お前も、凪誠士郎も、これからずっと御影玲王と共に生きていくと、」
「うん、誓う。いっぱい誓う」
「ぐへっ」
玲王が言い終わるよりも先に、たまらなくなって玲王の体をギュッと抱き締める。俺は、ずっと開けていなかった巾着の紐を緩めると、中から小さな箱を取り出した。予定よりだいぶ早いけれど、たぶん今ここだと思うから。
「レオ、俺からも」
「ちょ、指輪とかずりぃ! 俺も家にあんのに! しかも同じブランドの箱!」
「ありゃりゃ、被っちゃった?」
「ってか、お前、こんなもの持ち歩いてたのかよ!?」
「うん。今日、花火があるから、そのときに渡そうかなって。……あっ、ちょうど始まったみたい」
少し離れた空で花火が打ち上がる。玲王はニコッと笑うと、ロマンチストな奴、と笑って、俺にぴょんと飛びついた。
◆
原宿のときは有名じゃなかったから写真に撮られることもなかったけど、数年前の夏祭りで行われた公開プロポーズはばっちりいろんな人から写真を撮られたし、週刊誌やテレビでも投稿者の写真が使われた。
まったく、みんなそんな素振りを見せてなかったじゃん。祭に夢中になってたじゃん。って感じだったのに、どうやらみんな俺たちの様子を伺っていたらしい。そのおかげで、プロポーズのときの写真が手に入ったから嬉しさ半分、複雑な気持ち半分。俺の可愛い玲王がみんなのスマホのカメラロールにもいると思うと微妙な気持ちになるけれど、まぁ、玲王は俺の伴侶なのでよしとする。
そんなわけで家の中はりんごのグッズで溢れていた。どうしても、りんごモチーフのものを見るとあのときのことを思い出して手に取ってしまうからだ。
キッチンカウンターの端っこに置かれたガラスのりんごに光が反射してピカピカと光る。光の加減で赤や黄色、時々青っぽくも見えるそれを指で小突いた。もはや癖みたいなものだ。玲王が仕事で家を空けているときや、珍しく遅くまで眠りこける玲王を待つまでの間、無意識に撫でてしまうのだ。
ちなみに、今日の玲王は寝坊助だった。昨日、ちょっとしつこくしすぎたからかもしれない。
俺は冷蔵庫の中身を思い出しながらキッチンへ回る。
――玲王が起きてくるまでに朝食を作ってあげよう。冷やしておいたりんごも剥かなくちゃ。
冷蔵庫の奥からまあるい赤を引っ張り出す。それは、いつも幸せな形をしていた。
◆
ふと目が覚める。じゅうじゅうと何かが焼ける音がする。
俺はふわっとひとつあくびをすると、寝室を抜け出した。忍び足でダイニングに向かい、こちらに背を向けて目玉焼きと格闘している凪の後ろ姿を見つめる。
カウンターにはガラスのりんご。割と無造作に置いてる状態なのに、割れないし、傷も付かない。
凪はあるときからりんごのモチーフを集めるのが趣味になった。図体のデカい成人男性が、こーんな可愛いものを集めるなんて、って思うけれど、思い入れがあるのは俺も同じだから何も言わない。
ちなみに、だけど。プロポーズのときに凪が用意した指輪と俺が用意した指輪は同じものだった。デザイン違いとか色違いとかもなく、まんま一緒。
趣味も性格も考え方も合わないのに、時々凪とはカチリと歯車が噛み合うときがあるから面白い。
「あれ、レオ、起きてたの?」
「おう。おはよ」
「なんだー、言ってよ。目玉焼き、焦げちゃったじゃん」
レオにやってもらえばよかった、と凪がぶうぶう文句を言う。俺はケラケラと笑うと、凪がいつもするみたいに偏光色に光るまあるいりんごを撫でてからキッチンへ向かった。