「レオ、飲み過ぎ」
そう言って缶ビールを取り上げたのは、さっきまでシャワーを浴びていた凪だった。すぐに羽目を外すんだから……と小言を零して、テーブルの上に突っ伏していた俺を引き上げてくれる。ふわっと体が浮く感覚に、俺はキャッキャと馬鹿みたいにはしゃいだ。
「やべぇ、ふわってした。もう一回!」
「ヤダよ。持ち上げるの重いんだから」
まるでお姫様みたいな扱いでソファの上に降ろされて、ふふっと笑ってしまう。こんなふうに凪の恋人も抱き上げられているのかなぁ、と思うと複雑だったが、二番目に大事にされていると思えばギリギリ許せた。バタバタと足を動かして、離れていこうとする凪の気を引く。
凪はため息をつくと、我儘なお姫様だね、と呆れた顔で俺を見た。
「ソファじゃなくてベッドで寝たい。貸せ、連れてけ」
「それはヤダ」
「なんで? 前はよく貸してくれてたじゃん」
ケチ、と文句を言い、凪の首に引っかかっていたタオルの端を掴む。
最近、凪は俺に対して素っ気なくなった。前は面倒くさいと言いつつも、俺からの頼み事ならなんでも叶えてくれたのに。おんぶもせがまなくなったし、着替えや食事も頼まなくなった。甘えることが減り、どこかで見えない一線を引いているような、そんな距離感で俺に接してくる。昔はベタベタとくっついてきたくせに、と言いたかったが、きっと彼女に止められているのだろう。確かに俺たちは、友だちにしては距離が近かった。周りから誤解されるぐらいには。
「……じゃあいいや。風呂貸して」
「酔いが醒めてからならいいけど今はダメ。昔、湯船で寝たことあんじゃん」
「だって凪んちの風呂、狭いからさ。なんか、ぎゅっと体が収まる感じがして落ち着くんだよなー」
「……なにそれ、嫌味?」
「そういうわけじゃねぇけど……でもそうなるのか?」
あはは! と空笑いをして、濡れている凪の髪を梳く。今日は本当にどうしちゃったの? と首を傾げる凪に、俺はもごもごと口を動かした。
あともう少し酔えたら、そしたら勢いで聞ける気がする。真相を問い詰めるために、半ば押しかける形で凪の家まで来て酒盛りを始めたのだから。でも、このままじゃ、何も聞けないまま帰る羽目になりそう。
と、思っていたら、ちょうどテレビからよく知る名前が聞こえてきた。
「それでは続いてのニュースです。先日、サッカーの日本代表選手、凪誠士郎さんが――」
ここ連日、嫌ってほど流れてくる熱愛報道に耳が痛くなる。凪も、自分のことを面白おかしく取りあげられるのは気に食わないのだろう。普段、あまり感情が表に出ないのに、珍しく顔を顰めた。
「ほんと、しつこすぎだよね」
凪がリモコンに手を伸ばし、ピッとテレビの電源を落としてしまう。何事もなかったかのように振る舞う凪に、俺はついぞ何も言えなかった。
何だって言える関係で、お互いのことは知らないことがないぐらい時間を共有し合っているのに、肝心なことほど言葉にできない。
本当にあの女優と付き合ってんの? って聞ければどれほど楽か。世間話のついでみたいなノリで聞けたら苦労しないけど、もし答えがYESだったときに立ち直れない。
俺は、凪のことが好きだ。世界が凪誠士郎を知るよりも前に俺が見つけた。なのに、ぽっと出の奴に奪われてしまうなんて。出会う順番も過ごした時間も、恋愛には関係ないと分かっていても負け惜しみしてしまう。俺のほうが凪のことをずっと前から好きだったのに、と。
「レオ? どうしたの? どっか痛い……?」
「は? なんで?」
「泣いてる……」
うそ、と呟き、頬に手の甲を押し付ける。凪の言う通り、本当に濡れている。意識したら止まらなかった。ポロポロと溢れてくる涙の止め方が分からず、目元を強く擦る。
「なんでだろう、酔っちまったのかな……」
「嘘つき。酔っても泣いたことなんかない癖に」
「たまには泣くときだってあるかもしんねぇだろ」
「ねぇ、玲王。今日は本当にどうしちゃったの? ずっと変なんだけど」
目元を擦っていた手を掴まれる。温度のなさそうな目で俺を見ているが、実際はとても優しくて柔らかい気持ちが込められていることを知っている。
ぽたり、と、凪の髪の先に溜まっていた雫が鼻先に落ちた。こんなに近い距離にいるのに、俺は凪に対して気持ちを伝えることすら許されていない。
「あのさ、もしかしてさっきの報道のことで泣いてる?」
「……なんでそう思うんだよ」
「だって、レオが悲しそうな顔するから」
俺に彼女がいたら嫌? と凪が言う。「嫌に決まってんだろ、馬鹿」って勢いで責めたら、凪がちょっとだけ口許を緩めた。
「ていうか、本気でニュース信じてんの?」
「お前も相手も否定しないってことはそういうことなんだろ……」
「俺は面倒だから泳がせてるだけ。それと、玲王が俺のこと気にしてくれるかなぁ、って期待してそのままにしてた」
「はぁ!?」
「そしたら玲王、泣いちゃうんだもん」
ごめんね、と凪が鼻先を擦り付けてくる。でも可愛い。と言いながら頬を撫でられて、あれ? と思った。
感情が爆発して、素直に"嫌だ"なんて零したが、それってほぼ告白と同義なんじゃないか……?
「ち、違う! 間違えた! 別に嫌じゃない! 普通、友だちに恋人ができたら祝福するもんだよな! よかったな、おめでとう!」
「……は? なにそれ」
急に凪の声が冷たくなる。何を思ったのか目尻をぢゅうっと吸われて、ひッ、と喉が引きつった。
「なにしてんだよ、馬鹿!」
「本当に玲王って素直じゃないよね。泣きながら言っても説得力ないよ」
目尻から頬、頬から顎へ。流れた涙の跡を辿って、凪の唇が降りてくる。
本当は? と耳元で尋ねられたら何も言えなかった。静かにこくんと首を振り、凪を見つめる。
「よかった。俺も玲王のこと好き」
「……っ」
「今日から俺の、本当の恋人ね」
ちゅっ、と軽いリップ音を立てて瞼にキスが降ってくる。
……ダメだ、死ぬほど恥ずかしい。失恋確定から一気に凪の恋人へと昇格した事実よりも、恥ずかしさの方が上回ってしまう。
「っ、離れろ、凪! 俺はもう寝る!!」
「ヤダよ。せっかく両想いになったんだからイチャイチャしたい」
「うるせぇ、黙れ! ベッド貸せ!」
「あ、待って、玲王」
凪の体を押しのけ、寝室へと駆け込もうとする。
だけど、
「あれ、」
足がもつれて上手く力が入らない。だから言わんこっちゃない、と、凪が後ろから抱き締めるように俺の体を支えた。
「かなり飲んでたの、忘れてたでしょ」
「わりぃ……」
「あと、本当にベッドはダメ」
後ろから凪に顎を掬われる。湿った髪が俺の頬を濡らす。
あっ、と思ったときには唇を奪われていた。
「一緒に寝たら、玲王のこと襲っちゃう」
「なっ、あ、いま、おまえ、」
「あ、でも、襲われていいならどーぞ」
もう一度、しれっとキスされて、俺は真っ赤な顔のままその場に留まることしかできなかった。