教室の匂いが好きだ。黒板の上を走るチョークの音も、窓から吹き込んでくる風で膨らむクリーム色のカーテンも。ときどきグラウンドから聞こえてくる笑い声も好きだし、秋の空を真一文字に切る鳥の羽ばたきも好き。
嫌いなものよりは好きなもののほうが多い気がする。たとえば、凪の「レオ」って呼ぶときの声とか好きだし、おんぶをせがまれて抱き着かれたときに感じる温かさも好き。
そうやって好きなものはいくつも集められるし、簡単にカテゴライズできるのに、凪から言われた「玲王のことが好きなんだけど」という告白だけは、いまだに白黒つけられないでいる。不思議なもので、告白されてから一ヶ月以上経つのに、いまだに自分の気持ちが分からないのだ。
「……かげくん」
「……」
「レオくん!」
ハッとして視線を前に戻す。頬杖をついた手から顎がずり落ちた。気付けばクラス全員分の目が自分に向けられている。よくよく黒板の字を追えば、白雪姫と書かれた横に自分の名前を見つけた。王子様役・御影玲王、と。
「王子様役、クラスのみんなレオくんが良いって言ってるんだけど……どうかな?」
「えっ、俺?」
「ダメ?」
いやここは絶対、御影くんでしょ! レオ以外にはいないよな! と、そこかしこから推薦の声が上がる。どうやらぼーっと窓の外を眺めている間に、クラスの演劇タイトル、および配役決めまで話が進んでいたらしい。
いつもの玲王だったら、そもそもこういうときクラスの中心にいる。どんな出し物にするのか、どんな配役にするのか――そういったことを決めるとき、いつも玲王自身で仕切っていることの方が多かった。しかし今、そうならないのは、暫くの間、教室にいなかったからである。
高二の冬、玲王たちはブルーロックに招集された。青い監獄、通称ブルーロックでは、その名の通り監獄を模した施設になっており、そこでサッカー漬けの日々を過ごしていた。ようやくセレクションも佳境に入り、『プロになるためには、最低限の常識を身に着けなければならない』と追い出された頃には、三年の夏も過ぎようかという時期にまで差し掛かっていた。
元々、凪も玲王も勉強はできる。事前に話が通っていたこともあり、進級は課題をこなすことで事なきを得た。そうしていま、秋の文化祭に向けて、高校生活最後の青春だとばかりにクラスのみんながソワソワしている。
本来の性分もあり、玲王はオーケーと頷くと、その場で勢いよく立ち上がった。
「分かった、引き受ける。だけど、その代わりみんなで最優秀賞を獲りにいくぞ!」
玲王の意気込みに、お〜! っとクラスのみんなから歓声が上がる。次に拍手が湧いた。久々に感じる高揚感に、玲王の気分も良くなる。
やるからには何事にも全力だ。時間は有限だし、努力するからにはみんなでてっぺんを取りたい。
玲王と同じくクラスのマドンナ――白雪姫の姫役として選ばれた女子――も、その場に立ち上がると「私も頑張ります!」と高らかに宣言した。こちらをくるりと向いて「よろしくね、レオくん」と、鈴を転がしたような声でふふっと笑う。
彼女が持つルックスの高さと、透き通るような白い肌は、なるほど、姫役に選ばれるだけの魅力がある。確か、去年のミスコンで学年優秀賞を取っていたっけ。
本来であれば、こういう"可愛い女のコ"から告白されて、さて返事はどうしようか? と悩むものだ。
それなのに、いまだに凪からの告白を有耶無耶にしている。一刀両断すればいいだけなのに。それができないでいる自分が、よく分からない。
「それじゃあ、一ヶ月後の演劇とクラスの出し物の準備をそれぞれやっておくように」
教室の隅で黙って一部始終を見ていた教師が手を叩く。じゃあ、ちょっと早いけど昼休みなーと教師が言って、学級会はお開きになった。
※※※
昼休みを告げるチャイムが鳴ると、最近はダッシュで教室を飛び出している。理由はすぐにクラスのみんなから囲まれてしまうことと、一秒でも早く凪がいる屋上へ向かいたいからだ。
二人の様子はBLTVを通して全世界に知れ渡った。もちろん、白宝でもそれは同じ。そんな二人が昼休み、ひとりでなんか居てみろ。すぐに囲まれてしまうし、ご飯を食べる時間すら与えられないまま話しかけられてしまう。以前は玲王から誘わないと教室を出なかった凪も、ブルーロックを経た今となっては逃げるように屋上へ向かうのが日課になっていた。お互い、うまく群衆を撒き、屋上へと向かう。
「……今日は勝てんだろ」
そうひとりごちて、揺れる弁当箱を抱える。
ここ最近、早く屋上に着いた方がジュースを奢るという暗黙のルールができている。週の合計を出して、最終的に多い方が勝ち。今週は二勝二敗なので、今日で決着がつく。
玲王は弾みをつけて階段を駆け上がると、勢いよく屋上の扉を開けた。
「よっしゃ! 俺の勝ち!」
「ざんねん、もういるよ」
「は?」
何処からともなく声がしてキョロキョロとあたりを見渡す。こっち、と声がした方に顔を向ければ、扉の上、貯水タンクなどがまとめて置かれている場所に凪が座っていた。
「今週はレオの奢りね」
「クソ……今日は勝ったと思ったのに」
廊下を出てすぐに凪のクラスをチラ見した時点では、まだ凪は教室にいたのだ。呑気にあくびまでしていたというのに。どうやら、話しかけてくる生徒たちを躱している間に、凪のほうが先に着いたらしい。
凪はすとんと下に降りてくると、いつもの定位置に腰を下ろした。玲王もその横に腰を下ろす。相変わらず凪は菓子パン一個だったため、玲王の三段弁当が役に立ちそうだ。
「相変わらず、立派なお弁当だよね」
「お前の分も入ってるからな」
「うへぇー、パンでいいのに」
「ダーメ。バランスよく食え!」
ゆるく開いていた凪の口に卵焼きを放り込む。どうやら、今日の気分に召したらしい。
凪は好きな食べ物や、その日の気分に合ったおかずだとちょっとだけ目を輝かせる。分かりづらい変化だけど、その瞬間を見るのが楽しい。まるで、大型犬に餌付けでもしているみたいだ、なんて思いながら、玲王もおにぎりを齧る。今日も米、海苔、塩加減に至るまで完璧だった。
「そういやぁさ、凪のクラスは決まった?」
「ん? 何が?」
「文化祭の演劇とか出し物とか」
「あー、なんかグラウンド使ってゲームするらしいよ」
「ゲームってどんな?」
「サッカーだって」
凪の発言にブッと吹き出す。この期に及んでサッカーかよ! と笑えば、凪が不服そうに唇を尖らせた。
「俺だって反対したよ。でも、今年は俺がいるから、って押し切られた」
「具体的に何すんの?」
「サッカーゴールに点数盤を置いて、それにボールを当てるってやつ。で、参加者とクラスの代表者が戦って、参加者が勝ったら景品を渡すんだって」
「へぇ〜面白そうじゃん。お前もやんの?」
「なんか、特別枠として出なきゃダメって……」
「いいじゃん! 楽しそう! 俺と勝負しようぜ!」
「えー、やだよ。無駄に目立つじゃん、レオ」
「そんなこと言うなよ。俺たちのテクニックを見せつけてやろうぜ!」
それもヤダ。と顔を顰める凪の頭をわしゃわしゃと撫でる。
絶対、楽しいのに。ただ、なかなか決着がつかなそうではあるけれど。
「レオのクラスは?」
「あーなんか演劇だけは決まった」
「何やるの?」
「白雪姫だってさ、ベタだよな」
「もしかしてその王子様役って……」
「お察しの通り、俺に決まりましたー」
パチパチパチ。乾いたクラップ音が鳴る。もちろん、手を叩いたのは自分だ。
「……そっか」
「満場一致じゃ、断れねーし。でもさ、姫役が去年、学年でミスコンとった子なんだよ。めちゃくちゃ可愛いの。だから何かと話題になりそうじゃね? なんなら、最優秀賞まで狙えちまうかも」
自分も何かと話題になるタイプだと自負しているが、相手の子も可愛くて美人となればルックスだけで客入りが見込める。使えるものはなんでも使ってこそ。それでこそ御影玲王だと鼻先を擦ったが、隣にいる凪からの冷たい視線を感じて、慌てて居住まいを正した。
「レオはその子の王子様役がやれて嬉しいの?」
「は? いや、別にそういうわけじゃねぇけど……」
「ふーん。でもさ、レオってちょっと無神経だよね」
箸を持つ右手首をぎゅっと握られて、おかずがぽろりと地面に落ちる。
凪の黒々とした目は感情が読みにくい。だけど嬉しいときだけ、曇天の空から陽の光が差し込んだときみたいに微かに光る。今は、ただただ深い穴の底みたいに真っ暗だった。
そうやって凪から鈍い痛みを与えられて、ようやく自分が凪の言う通り無神経であることに気付いた。
「ごめん、凪。そういうつもりじゃなかった」
「うん、分かってる。けどさ、忘れないで。俺はレオのことが好きってことを」
あと、レオからの返事も待ってるんだから。
そう言って、凪がちくりと釘を刺す。
凪が告白の返事を待っている。裏を返せば、自分が凪を待たせている。その事実を改めて突きつけられた。
「あ、そろそろチャイム鳴りそうだね」
「マジ?」
「うん、なんとなく感覚で分かる」
「ヤッベ、早く食べないと」
慌てて残りのおかずを口に詰め込む。凪もちょこちょこと横から手を伸ばしてつまみ食いをするが、それでも減らない量だ。やがて咀嚼が面倒になったのか、凪がスマホと封を切らなかったパンを持って立ち上がる。
「じゃあね、レオ。先行ってる」
「おいコラ、待て! 薄情者! 置いてくなよ!」
食べきれなかった分はもういいや。と、早々に諦めをつけると、玲王は急いで弁当箱を片付けて凪のあとを追った。
そんな二人が過ぎ去った屋上に、ぽつりと小さな雨粒が落ちる。みるみるうちに、雨粒がアスファルトの色を変えていく。
夏から秋へと変わっていく空は、まるで人の心のように気まぐれで移ろいやすかった。
※※※
演劇の練習が本格的に始まった。
ちなみに今回、演劇に力を入れるため、出し物はカフェ――飲み物だけを提供するカフェ――をやることになった。とはいえ、ただのカフェではなく、白雪姫に出てくるキャラクターたちが給仕する設定になっている。完全に白雪姫への布石だ。さり気なくアピールして、演劇の方の客入りを狙う算段になっている。
玲王たちのクラスは演劇班、出し物班に分かれて準備することになった。もちろん、玲王は演劇班だ。
初日は衣装の準備があるため採寸がメインだったが、今日からは本格的に台本の読み合わせである。
昔、読んだ白雪姫を改めて読むとすごい話だ。そして、なんとも都合が良すぎる。
「レオくん、初めてなのに上手だね」
「そうか? ただ読み上げただけだけど」
「ううん、本当に王子様っぽい」
姫役の女子がすごくよかったと褒めてくれる。周りのクラスメイトたちも王子様っぽい! と褒めてくれるので、悪い気はしなかった。
「正直、ほとんど台詞ねぇしさ。むしろ、白雪姫の方が大変だろ……。ずっと出ずっぱりじゃん」
「確かにそうかも……」
「だろ?」
「でもね、出番が少ないからこそ、しっかり演じないと不格好な王子様になっちゃうじゃない? レオくんは立ってるだけでオーラがあるし、声もよく通るから、すっごく安心する。王子様役にふさわしいって思うの」
「それ分かる! 本当に安心して王子様役を任せられる!」
「本当に! 立ってるだけで華もあるし」
「みんな褒めすぎだろ」
さすがに今は何もでねーぞ、と言えば、どっと笑い声が上がる。
正直、ブルーロックから戻って数日はクラスに馴染めるか不安だった。気付けばクラスが変わり、顔ぶれも変わっていたからだ。座席も分かりやすく教室の一番後ろ、窓側の隅。そりゃあ、いつ戻ってくるか分からない生徒を席替えのたびにクジに組み込んでたら面倒だもんな、と思う。
そういった一種の疎外感があったから、こうして教室に馴染めるのは嬉しかった。
「私ね、」
姫役の子が、ちょん、と玲王の袖口を引っ張る。見下ろせば、真っ白な頬を林檎のように染めて彼女が微笑んでいた。
「レオくんが教室に戻ってきてくれて嬉しい。またすぐに戻っちゃうかもしれないけど。でも本当に嬉しいの。こうしてレオくんと白雪姫を演じられるのも嬉しい」
※※※
普通はさ、小さくて可愛いものに対して"愛情"ってやつを抱くもんだよなぁ……男なら。そう玲王は思う。
演劇の練習も日を追うごとに忙しくなり、最近では昼休みすら練習に消費されるようになった。
凪、ごめん。一緒に飯、食えなくて……。と思ったが、どうやら凪も凪で忙しくしているらしい。
万年寝太郎で、誰からも相手にされていなかった凪がみんなの注目を浴びているのは純粋に嬉しかった。自分の宝物が周りから評価されるのは嬉しいし、誇らしくも思う。だけど、それと同時に自分の物だけではなくなった凪のことを、少しだけ遠く感じる。最初に凪の才能を見つけたのも、凪の良さを一番よく知っているのも自分なのに、と。そんなことを言いたくなる。
「…………くん」
「…………」
「レオくん!」
「えっ、あぁ、ごめん、なに?」
「さっきからグラウンドの方ばっかり気にしてるでしょ? せっかく、二人で教室借りて練習してるのに……」
「あぁ、ごめん。でもちょっと気になっちまって」
台本を閉じ、窓の外を眺める。グラウンドでは出し物の予行練習をしているのか、凪が点数盤に向かってボールを蹴っていた。百点と書かれた点数盤に見事ボールが命中し、周りが騒ぎ立てる。いつもなら自分が凪に抱き着いて頭を撫でているのに、今は名前も顔もよく知らない奴が凪に駆け寄って頭を撫でていた。
「……レオくんってさ」
「ん?」
「凪くんと仲良いよね。ずっと一緒っていうか」
「うーん、まぁ、同じサッカー部だし、ブルーロックにも行ったし……」
夢も一緒に追っている、とはさすがに言えなかった。
この高校生活が終われば、また本格的にブルーロックへ戻り、プロを目指して練習することになる。今は仮釈放、執行猶予期間みたいなものだ。帰宅後は、それぞれ与えられた筋トレメニューや練習メニューをこなしているし、土日も個別に呼び出されて練習に行くこともある。
学校では前みたいにそれほどべったりではなくなったが、それでも周りから見ればずっと一緒に見えるのだろう。彼女はふーんと相槌を打つと、玲王の手を掴んだ。
「なに?」
「いや、ちょっと仲が良すぎて嫉妬しちゃうなぁって」
「は? なんで?」
「だって、おかしいよ……って言い方はよくないね。でも、私が嫉妬しちゃうぐらい、二人とも仲良く見えるから。普通、友だち同士であんなにくっついたりしないと思う……」
「そうか? 普通……だと、思ってたけど」
「どちらかというと、好きな子に対しての距離感……だよね」
彼女からぶつけられた言葉に、冷水を浴びせられたような気持ちになる。
そっか、おかしいのか。でもそうだよな。普通、友だち同士でベタベタくっついたりしないもんな。そうでなくとも、同じ男である"御影玲王"に対して、凪が「好き」なんて言うはずがない。凪の恋愛対象が男であるはずがないし、それに応える自分もやっぱりおかしい。男同士で恋愛、なんて。
それなのに凪からの好意を拒絶できずにいる。こうやって考えていること自体、全部、ぜんぶ、おかしいことなのに。
「あのさ、レオくん」
夕日のせいにはしておけないほど、彼女のまろい頬がじわっと色付く。その瞬間、何を言われるのか分かってしまった。もう何度も繰り返されてきた光景だ。本来であれば彼女から告げられるであろう言葉を心待ちにするシーンなのに、なぜだかいまは死刑宣告を待つ囚人のような、そんな気持ちになった。重苦しい絶望感がべったりと背中に張り付く。
「私、レオくんのことが好き。もし、彼女がいないんだったら付き合って欲しいな」
ああ、ほら、やっぱり。感じたのは喜びでもなんでもなかった。
「……あーっと、気持ちは嬉しいんだけど、」
「彼女いるの?」
「いや、いねぇ……けど、実は告白の返事を先延ばしにしてて……」
柄にもなく、歯切れの悪い返答になってしまう。
ここのところ何度も自問自答しているが、普通は小さくて可愛いものに対して"愛情"ってやつを抱くもんだよなぁ、と思う。そんなこと、自分でも理解している。だけど、どうしても彼女に対して愛情を向ける自信がなかった。
「先延ばしにしてるってことは、付き合えない理由があるからじゃない?」
「え?」
「あのね、本当にお試しでもいいの。その子と比べられてもいい。だから、」
彼女の細い指が、無骨な人差し指に縋り付くようにして絡まる。ほんの少しだけ震えていた。もしかしたら凪も告白してきたとき、手が震えていたのかもしれない。
この期に及んでそんなことを考えてしまう自分に嫌気が差した。今、向き合っているのは凪誠士郎ではなく、目の前にいる彼女なのに。
はやく、断らなくては。そう思うのに、彼女から告げられた「おかしい」と「付き合えない理由があるからじゃないの?」という言葉が、魚の小骨みたいに喉につっかえて何も出てこない。
やがて、
「とりあえず、付き合ってくれるってことでいいのかな……?」
そう彼女が言う。どうやら無言は肯定と捉えたらしい。そうして、気付けば名ばかりの彼女が冷たくなった手を握っていた。
※※※
気乗りしない恋人関係は、次の日には瞬く間にセンセーショナルなニュースとなって学園中を飛び回っていた。
その証拠に、教室に入ってすぐ、玲王はクラスメイトたちに取り囲まれた。
「え、うそ、マジで!? 付き合うことになったの?」
「ハァ? なんでそれ……」
「俺、見ちゃったんだもん。レオが彼女と手ぇ繋いで空き教室から出てくるの!」
「あー……」
見ちゃったのか、と思う。彼女がぎゅっと繋いでくるから、教室を出るまで振り解くに解けなかったのだ。
彼女に視線をやれば、申し訳無さそうにペコペコと頭を下げている。彼女、物腰柔らかで、可愛くて、小さくて、まるで白雪姫みたいな儚さを持ち合わせているけれど、実際は結構積極的なところ……というか、図太いところがあるぞ、とは名誉のために言わないでおいた。
それに、教室を出たあと、やっぱり無理だと断った玲王に対して言ったのだ。「せめて、文化祭が終わるまでは」と。お試し期間をお試ししないまま解消するのは嫌だと言われた。それに、本物の恋人同士で演じる白雪姫のほうがリアリティもあっていいじゃない、とも。
なかなかに狡猾なところがあるな、と思ったけど、向こうがその気ならこっちもそのスタンスでいいか、とも思う。
玲王は適当に頷くと、犬をしっしと追い払うみたいにクラスメイトたちに手を振った。
「まぁ、そんな感じだからよろしく」
「キャー!」
「マジかよ!!」
「え、じゃあ、最後のキスシーン、本当にキスしちゃったり……なんて」
誰かの一言で、一気に教室のボルテージが上がる。するわけないだろ、と思ったが、周りからの期待の目がすごかった。
さっさと席につき、どうしたもんかな、と頬杖をつく。それでも執拗に寄ってくるクラスメイトたちに深いため息をついたところでチャイムが鳴った。救われた。
「おい、ホームルーム始めるぞ。席につけー」
教師の一言が、今日はありがたく感じる。
玲王の話はその後、放課後になっても盛り上がりを見せ、その日は一日中騒がしかった。
※※※
「今日はこれで終わり! みんなよく頑張りました!」
演劇班の監督を務める演劇部部長の一声で、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れる。みんなフーッと息をつくと、パタパタと台本で顔を扇いでいた。
本番さながらの状態で衣装を着ながらのリハーサルは、いくら涼しくなったといってもじんわりと汗をかく。
玲王は早速とばかりに衣装を脱ぐと、壇上を降りた。さっさとしないと凪と合流できない。ここのところ、彼女に捕まってばかりで、帰宅すら自由にさせてもらえないのだ。
気付けば、朝から晩までクラスメイトと一緒にいるか彼女といる。別に嫌なわけじゃないし、楽しいけれど、そろそろ凪と話したい。凪不足だ。別に凪と会話をしたって特別弾むわけではないけれど。だけど、あのゆるゆるとした返しが好きだった。常にマイペース。世界のスピード感なんてお構いなしに、のんびりとしたあの相槌を聞くと癒やされる。さすがに自分でも重症だ、思考がやられてると思いながらも凪の教室を目指す。すると、ちょうど凪が出てきたところだった。
「凪!」
「レオ……」
凪がきょとんとした顔で玲王を見る。なんで此処にいるの、と言いたげな目だった。リュックの両側をぎゅっと握って立つ凪に、懐かしさすら感じてしまう。
本当に、疲れ切っている。いろんなことが波のように押し寄せて来るから、さすがの高スペックCPU――脳みそ――も音を上げそうなんだ。疲れたときに凪の顔が見たいだなんて、自分でも異常だと分かっているけれど、それでもそう思うのだから仕方がない。
「一緒に帰ろうぜ」
「……いいけど、いいの?」
「何が?」
「いや、なんでもない。いこう」
凪と連れ立って、校舎の外に出る。
外はすっかり秋色に変わっていた。どこか物寂しくて、風が冷たさを増して尖っているように感じる。
お互い、歩幅を合わせることなく自由に歩いているのに、自然と進む速度が合う。気を遣わずとも、ぴったりとハマるのは心地よかった。
「明日、文化祭だけど出し物の方はどうよ? 順調?」
「うん、順調。っていうか、もうほとんどやることなんてないし」
「あれ、凪の方は演劇とかしないんだっけ?」
「有志でバンド組んでるらしくて。そっちで出場枠が埋まったから、俺のところはなし」
よかったよ、面倒事が勝手にひとつなくなったから。と、零す凪にお前らしいやと笑って肩を抱く。そういうレオはどうなの、と返されて、少しだけ返答に詰まった。
「んー、まぁ、順調……っていうか、明日が本番なのに仕上がってなかったらヤバイだろ」
「それもそうだね」
そっと肩に回していた手を凪が外す。凪? と首を傾げれば、凪が困った顔でこちらを見ていた。
「あのさ、俺が何も知らないとでも思ってるの?」
要領を得ない問い。だけど、今の玲王には分かりすぎるぐらい分かっている。
玲王はポリポリと頭をかくと、あー、と視線を彷徨わせた。
「言っておくけど、キスまではしねぇよ」
どうやら噂は尾ひれをつき、王子様役と姫役が最後にキスをする、という話にまで膨れ上がっているらしい。
あの二人、付き合っているらしいよ。だから最後のキスシーン、見せ方を変えるんだって。本当にキスするかもって話だよ!
そんな噂が、玲王を置き去りにして飛び交っている。その噂は、凪の耳にも入ってきているのだろう。キスはしないと否定したが、いまひとつ凪は納得していないようだった。
「別にそんなことはどうでもいい」
「ハァ!? お前、」
俺のことが好きなんだろう!? って言葉が口をついて出そうになる。
なんだこれ、まるで凪に気にして欲しいみたいな言い草だ。
自分にとって凪はただの友だち。だから、恋愛感情を向けられたって困る。はずなのに。
「俺の告白は保留中なのに、女のコとは付き合うんだね」
凪が言う。耳が痛い。でも、事実だ。言葉にされると、最低最悪なことをしている自覚がある。
「……ごめん、忘れて。玲王がやる白雪姫、楽しみにしてるね」
これ以上は一緒に居られないと言わんばかりに凪が離れていく。
嫌だ。行かないで欲しい。だけど、凪を追いかけるための口実が見つけられなかった。
※※※
いくら眠たい目を擦って今日を引き延ばしても、勝手に朝はやってくる。
これほどまでに気が重い朝は、二次セレクションで凪に突き放されたとき以来だ。履き慣れた靴も鞄も重くて、心なしか吐き出す息も重い。
お気をつけて、とばぁやに送り出されたとき、空は少しだけ薄暗かった。せっかくの文化祭だっていうのに。予報だと夕方までは曇りらしいがどうだろうか。
外で出し物をやるという凪たちが雨に濡れなければいいが。
「……大丈夫? レオくん。もしかして、緊張してる?」
グラスに入ったオレンジジュースを持ったまま、玲王は暫し教室の片隅で固まっていた。五番テーブルに運ぶように言われていたことを思い出して、慌ててオレンジジュースをサーブしに行く。
どこかみんな浮足立っているのは、このあとに控える演劇に気がそぞろになっているからだろう。人に注目されることには慣れているし、嫌いではないが、まったく緊張しないわけではない。その証拠に、指先がひどく冷えていた。
「そろそろ演劇に出る人たちは準備してー」
パーテーションの裏で教室の様子を管理していた生徒が、演者たちに声をかけていく。
文化祭は十時からスタートしているが、昼を回っても凪が玲王の教室に来ることはなかった。
それもそうか。ずっと、グラウンドにいるみたいだし、と窓の外を見る。案外、盛り上がっているのか、凪がいるブースは参加者で賑わっていた。これだと見に来ないかもな、と思いつつエプロンを取る。
あれからずっと玲王は考えている。自分にとって、凪誠士郎の存在がなんなのかを。宝物、相棒、業務提携、夢を追うために必要な最後のピース。そして、友人の、男。
そうやっていろんなラベルをつけて、カテゴライズすることは簡単だ。だけど。凪に対して向ける"好き"だけが、ふわふわと宙に浮いている。なんでもすぐに片付けられる自分が、最後に残ったお気に入りのぬいぐるみを持って、うろうろと箱の前で彷徨っている子どもみたいに思えた。いつまで経っても、収めるべき場所が分からなくて困っている。
自分にとって、凪はどういう存在なんだろう。それと、みんなが思い描く、自分が思い描く、"普通"ってなんだ?
「演劇に出る人たちは急いで体育館に! あと三十分ぐらいだから、着いたらすぐに着替えてね!」
急かされるようにして教室を出る。みんなバタバタと体育館へ向かう中、ちょん、と袖を引かれた。彼女だ。
「レオくん、最後まで頑張ろうね」
きっと彼女に他意はない。でも、その"最後"という言葉に含まれた意味を想像して背筋が冷たくなった。
※※※
「結構、客が多いな」
「なんか外、雨降り出してるらしいよ」
「そうなん?」
「小雨だけどね」
「でもそれもあって、外のお客さんが中に入ってきてるみたい」
壇上の袖、既に幕が上がったステージを横目に小道具係や衣装係がヒソヒソと言葉を交わす。
演技をしていないとはいえ、袖裏は意外と忙しい。セットの入れ替えや、舞台袖に捌けた一瞬の隙を見て演者のメイクなどを直すからだ。
自分の出番はほぼ最後の方ではあるが、最後だからこそ一際目を引く。それに噂が噂を呼んで、最後のシーンがどう演じられるのか、この目で確かめようと見に来ている生徒も大勢いるのだ。
実際、王子様役と姫役が付き合っているという話から、脚本や立ち位置が少し変えられ、より客席側から映えるように舞台構成された。余計なお世話だし、全員の背中を蹴って目覚めさせてやろうか、なんて気持ちも湧くが、そんなことはできない……し、そろそろ出番だ。
スポットライトが誰もいない場所をさす。早く、そこに行かなくては。
『――なんて綺麗な人なんだろう』
衣装の袖を翻し、何度も繰り返し練習してきた台詞を口にする。全体を通して、さほど台詞も出番もないのに、客席からは歓声が上がった。ざっと客席に目を通したが、確かに雨のせいか客入りが予想以上に多い気がする。
不思議と緊張は解けていた。淡々とやり遂げなければ、という使命感の方が強くなる。
演技も終盤に差し掛かり、姫が眠る棺の前に跪く。みんなの期待を背に受けながら、そっと垂れ落ちた髪を耳にかけた。
気持ちが伴っていればキスなど簡単だ。だって彼女とは一応、恋人ってわけなんだし。だけど。
「レオくん……?」
ぽそッと彼女が小さく呟く。薄っすらと開いた瞳を、小さくて、可愛いはずの彼女を、愛しいと思うことができなかった。
「悪い」
やっぱり付き合えない、と言って、キスしたフリをする。
程なくして、拍手が湧き上がった。そのまま幕が下りていく。
「……こっちこそごめんね」
彼女が言う。無理に突き合わせたと笑う彼女に、玲王は首を振った。
「いや、ちゃんと断りきれなかった俺も悪いし、何より……」
凪の顔が思い浮かぶ。
もし此処に、凪が眠っていたとしたら。たぶん、迷うことなく口づけていただろう。
それぐらい、自分とって凪は大切で特別だった。告白されたときはびっくりしたし、男同士だろ、なんて気持ちもあったが、今となってははっきり分かる。キスができる……その、下心を伴った時点で、とっくに友人なんて枠は壊れている。
「お疲れ様。次が控えてるから早く捌けて……!」
他のメンバーが急いで道具を撤収していく。玲王も袖に捌けると、窮屈な衣装を脱ぎ捨てた。
※※※
「クソッ! アイツ、何処行ったんだよ……!」
夕方になり、保護者や一般参加者が帰っていく中、生徒たちは後片付けに追われていた。玲王も、凪を探し回るが何処へ行っても見つからない。
演劇が終わったあと、凪のクラスのブースに行ったが凪はいなかった。その後、校舎を探し回っても凪の姿は見つからず、誰に聞いても知らないと返されるばかりだった。
「此処にも居ないのかよ……」
屋上の扉を開け、がっくりと肩を落とす。
こんなに躍起になって探し回っているのに。なるほど、追いかける方は大変なんだな、と身を持って知る。
技術や能力は、時間こそかければ努力で如何様にも伸ばせるし、実際そうであることは玲王も知っている。だけど、気持ちだけはそうもいかない。凪はそれが分かっていたから、待っていてくれたのだ、きっと。
雨に濡れて、頬に張り付く髪を払いながら足元にあった小石を蹴る。小石が柵の下に落ちていくのを見届けていたとき、ふとグラウンドの隅に人が立っていることに気付いた。
真っ白な髪、怠そうな佇まい。凪だ。
「やっと見つけた……!」
急いで階段を駆け下り、グラウンドを目指す。役目を終えて剥がれかけた掲示物たちが、真横を通り過ぎるたびにパタパタと揺れた。「そんなに走ってどうしたんだよ、レオ!」という声に反応する余裕すらなく、上履きのままグラウンドに出る。
凪! と呼べば、くるりと白い塊がこちらに振り返った。
「お前、こんなところで何してんだよ……! 風邪引くぞ!」
「うん、ごめん。でもボールが残ってたから」
そういう凪の足元にはボールがひとつ転がっていた。それを器用に足先で跳ね上げると、制服が汚れることなど気にせずに凪がリフティングを始める。
サッカーを始める前は、ボールに触れたことすらなかったのに、今では吸い寄せられるようにボールが凪の足元から離れていかない。
「そんなの、晴れたときに片付ければいいだろ」
「でも、可哀相だったから」
凪がぽんとボールを蹴る。だけど、そのボールは玲王のところまで届かなかった。
水分を含んだ土が行く手を阻む。上滑りしながら泥まみれになっていくボールが、半端な位置で止まる。
「まるで俺みたいだなぁ、って思ったんだよね」
「は……? なに言ってんだよ」
「どれだけ玲王にパスしても、俺の気持ちが玲王のところまで届かないから」
小さく呟かれた言葉が、雨にかき消される。しとどに濡れた凪の顔は、たとえ涙を流していたとしても分からない。
本当に、馬鹿だなぁ、と思う。おかしくたっていい。凪と一緒にいることがおかしくったって。普通でなくても。別にいいと今なら思う。
それに、返事を先延ばしにしていたのは、付き合えない理由があったからじゃない。断る理由が探せなかったからだ。だから、こんなにも待たせてしまった。
「なぁ、凪」
中途半端なところで止まったボールを受け取りに行く。ぽんと蹴り返せば、ちゃんと凪のところまで届いた。
「蹴り返せよ」
早く、と促せば、凪がおずおずとボールを蹴り返す。泥にまみれて真っ直ぐには飛ばなかったけれど、今度はちゃんと届いた。今の自分に、凪からのパスを受け取りたいという気持ちがあったからだ。
どんなに正確にパスが出せても、受け取る側がパスを貰う気でいなければ届かない。それでいうと、凪はいつも受け取ってくれていた。
「ちゃんと俺の劇、見に来たか?」
「……見てない」
「嘘つけ! 前から二列目、右から七番目」
「…………」
「座ってたくせに」
いじける凪の足元に軽くボールを放つ。驚いた顔をする凪の腕を引くと、そっと耳打ちした。
「キスはしてない。マジで、本当に」
「……信じていいの? っていうか、それを俺に言う意味ってなに?」
「鈍いな、凪クンは。お前のためにとっておいたんだよ」
「うわっ、なにそれ。そういうところが可愛くてムカツク……」
そう言って凪がちょっとだけ笑う。黒々とした目に光が差した。そっと腰に手が回る。濡れた鼻先が擦れて、息がかかる。
「凪、好きだ」
「うん、知ってる」
冷たい唇がくっついて離れる。そうやって何度もくっつけ合っているうちに、段々と触れたところが熱くなってきた。雨の中、くるくると回りながら、凪と覚えたてのキスをする。
雨の匂いが好きだ。ぐっしょりと水を吸ったグラウンドも、泥まみれのサッカーボールも。ときどき校舎から聞こえてくる笑い声も好きだし、バケツをひっくり返したような空ですらも。
だけどな、凪。この御影玲王が一番好きなのはお前だ、凪誠士郎!