対向車のヘッドライトが眩しくて困る。目の奥を刺す鋭い光が、さらに疲労感を増長させる気がして煩わしい。
おまけに、さっきから信号に引っ掛かってばかりだった。早く帰りたい。もう一週間は自分の部屋のベッドで寝ていない。プロのサッカー選手として練習試合やリーグ戦のために海外を飛び回っていたときよりも今の方が忙しかった。朝から晩まで山積みの書類、アポイントメント、電話、社内会議、無駄な稟議書――いろんなものに追われている。元々、忙しいのは嫌いではないが、それにしたって目が回るような忙しさだ。加えて、元サッカー選手としての解説が欲しいからと、ワールドカップの時期になるとテレビ局に呼ばれることもある。いろんなことが重なっているせいで、さすがの玲王も無意識に溜め息をついていた。
「あー、クソッ。何度目だよ……」
n回目の赤信号。苛立ちが指先に乗る。ハンドルをこつこつと爪で弾いた。ふーっと息を吐き、無音すぎるのも苛立つからとラジオをつける。だけど、眠たくなるようなクラシックが流れてきてすぐに消した。ない方がマシだと思いつつ、ぼんやりと窓の外を眺める。
そういえば、凪はどうしているだろう。もう一ヶ月ぐらい、まともに会えていない気がする。凪はサッカー選手を引退してから、コーチング業やゲーム実況など好きなことを好きな分だけゆるゆるとやっているみたいで、自分とは生活リズムが合わない。否、自分だけが合わせらない。いつも時間がないのは自分の方だった。久々に凪の顔が見たい気もする。あと、馬鹿みたいな理由だけど、凪とイチャイチャしたい。
「さすがにもう寝てるよな……」
ふと、いつぞやに凪から渡された合鍵の存在を思い出す。まだ使ったことはなかった。凪と付き合って結構経つのに、自分からは使ったことがない。
「…………」
信号が青になる。直進するはずのところを左折した。
予定変更、目的地も変更。きっと、迷惑にしかならないだろうけれど。それでも凪に会いたくて、たまらなかった。
◆
キーケースにまとめて収めていた合鍵をじっと見つめる。いまならまだ引き返せる……と思ったけれど、自分の意思に反して指先は正直だった。柄にもなく緊張しながら合鍵を鍵穴に通す。あっさりと開いてしまう扉に、ちょっとだけ不安になってしまった。まぁ、不法侵入をしているのは自分なんだけど。
「お邪魔しまーす……」
届きもしないのに一応お作法としての挨拶をして、物音を立てないよう静かに廊下を進んでいく。
だが案の定、リビングは真っ暗だった。そりゃそうだ、深夜二時を回っている。凪のことだから、もしかしたら寝室でダラダラ寝転がりながらスマホでゲームしてるかもしれないけど。でも、この静かな感じから察するにたぶん寝ている。
凪を起こすのは忍びなかったが、それでもひと目、凪の顔が見たかった。できれば、あのゆるそうな声で"レオ"って名前を呼んでほしい。あとキスもして欲しいし、抱きしめても欲しい。そんなふうに切望するのは久々だった。
「さすがに寝てるよな……」
そっと寝室の扉を開ける。部屋の奥にあるキングサイズのベッドの上はこんもりと盛り上がっていた。ゆっくりと近づき、そっとベッドの縁に腰を掛ける。ギシッとスプリングが鳴ってひやりとしたが、凪の目は閉じたままだった。右手にはスマホが握られていて、通知が溜まっているのか、画面がチカチカしている。
「なーぎ。お前のだーいすきな恋人が帰ったぞー……」
どうせ、聞きやしないだろうからと冗談めかして言ってみる。ついでにキスでもしてやろうか。いや、でも起こすと悪いし……でも……と、逡巡しながら垂れ下がる髪を耳にかけたときだった。凪の目がパチッと開いた。
「レオ……?」
「あ、わりぃ、起こしたか?」
「ううん。実は起きてたよ」
凪が身を乗り出してあっさりと唇を奪っていく。こちらの遠慮や躊躇いを知らないで。
「さっきまでゲームしてた」
「お前……普通、物音がしたら気になって見に来るもんじゃねーの?」
「うん、まぁ、気にはなったけど、レオしか入って来ないでしょ。合鍵持ってるのはレオだけだし」
久しぶりだね、レオ。と、凪が抱き着いて頬ずりしてくる。柔らかな髪が頬をふわふわと撫でるせいか、くすぐったい。
「お前、俺が居ないとすーぐ生活リズムが狂うよな。ちゃんと飯とか食ってるか? さっき、カップ麺の蓋がそのままテーブルに残ってたけど」
「あー、バレちゃった」
ちっとも反省の色を滲ませずに凪が言う。それどころか、「レオが俺のこと、放置するからじゃん」とまで言ってきた。
「別に放置はしてねぇよ。ただ、忙しいだけで」
「それがよくないよね」
ぐいぐいと押されて、布団の上に寝転がる。レオは頑張りすぎ、と言いながら、凪がきつく結ばれていたネクタイを解いた。
「悪かったって。でも、お前の顔見れてよかった」
「俺もレオの顔見れて嬉しいよ」
表情をあまり変えないまま、凪がネクタイをベッドの下に落とし、シャツにも手をかけていく。凪のただならぬ様子に飛び起きると、緩んだ襟元を掴んだ。
「バカ! 何してんだよ!?」
「何って言われても……そのために来たんだよね?」
「そういうつもりじゃ、」
「嘘つき」
抵抗する間もなく、再び凪に押し倒される。覚えてる癖に、と言われたとき、ぶわりと耳たぶまで熱くなった。それで察したのだろう、凪が分かりづらくも薄っすらと笑う。
「合鍵を渡したとき、レオはいらないって言ったけど」
「ちょ、凪!」
ぷちぷちとボタンが外されていく。確かに、凪から合鍵を渡されそうになったときに断った。誘惑に負けて、頻繁に転がり込んでしまうような気がしたから。だから、一度は断ったのだが、凪に無理やり押し付けられたのだ。
これはお守りだと思えばいいよ。疲れて、どうしても俺に会いたくなったときに来て。そのときはうんとレオのことを甘やかして、めちゃくちゃにしてあげるからね、と。
「レオのこと、たくさん甘やかしてあげるね」
まだ良いとも悪いとも言っていないのに、凪の手が肌の上を滑る。だけど、久々に気持ちよく眠れる気がした。凪のベッドの上で、凪の腕の中で、たっぷり甘やかされながら。
「久しぶりだから……お手柔らかに……お願いシマス」
「それはレオ次第」
ばっさりと凪が切り捨てる。そういえばそういうやつだった。玲王はプハッと吹き出して笑うと、凪の体を引き寄せた。