「俺もそろそろ結婚しようかな」
その言葉に、俺は持っていたマグカップを落っことしそうになった。
大方、テレビで流れている新婚番組に感化されたのだろう。日本でも海外でもバラエティ番組のテーマは大体同じだ。構成や見せ方が変わっているだけで、古今東西、恋愛をテーマにしたトークショーは受けが良い。画面の向こうで仲良さそうに話すカップルが、見つめ合った瞬間に軽いキスを交わしている。
そのシーンをムズムズとした気持ちで見ながら「また、急にどうして……」と、歯切れ悪く口にした。正直、凪にそんな相手がいるとは思っていなかったから軽くショックだ。
「んー……幸せそうだから?」
「まぁ、それはそうかもしれないけど、そもそもお前……」
相手なんているのかよ。という言葉を呑み込む。
プロのサッカー選手になり、目覚ましい活躍をしてからというもの、凪はそこかしこでモテるようになった。元々、顔が整っていることに加え、高身長で超絶トラップを見せる技巧派の選手。ボールに命を吹き込むその技は見るものを魅了する。おまけに凪は人付き合いが乏しく、そこがまた"イイ"らしいのだ。凪誠士郎に近づけるだけで、レアリティが上がるとも。
そんなわけで凪はいま、俺から見てもモテ期にある。自分が知らないだけで、恋人が居てもなんらおかしくない。
そもそも、こうして同居を始めたのだって、つい最近の話だ。以前までは別のリーグに所属していた。それが同じクラブの所属となり、そのタイミングでどうせなら一緒に住もうという話になったのだ。それも珍しく凪からの提案だった。
「俺、レオと一緒に住みたい」
一生懸命お願いしてくる凪に、俺は二つ返事で了承した。そのときの凪は何処か必死で、そのあまりの形相に吹き出したものだ。「レオのことが好き。傍にいたい。だから一緒に住もう」と拙い言葉で伝えてくる凪はたいそう可愛かった。
それから数ヶ月、凪とはプライベートでもクラブでもずっと一緒にいるが、もしかしたら同居を始める前から決まった相手がいたのかもしれない。今も関係が続いていて、結婚したいと思えるほど良好なのかも。そう思うと、何故だか胸が痛んだ。
「でさ、レオはどんなプロポーズされたい?」
「……は? なんで俺に聞くんだよ」
そんなもん、彼女にでも聞けよ。そう一蹴したい気持ちをぐっと抑え、カラカラに乾いた喉をコーヒーで潤す。
『プロポーズはベタに薔薇の花束と指輪、あとは夜景の見えるレストランでした』と画面の向こうで答える女性に、自分もなんとなく意見を被せた。
「薔薇とか用意して跪けばいいんじゃね?」
「わーお、レオらしいね。ロマンチック」
「別にそうでもないだろ。さっき、テレビで言ってたし。花束と指輪だってさ」
「ふーん……なるほどね」
凪が頷いて、ごろんと俺の膝の上に寝転がる。
ソファは四人掛けまでできる特注サイズだ。わざわざ膝の上に乗らずともいくらでもスペースはあるのに、凪が甘えるようにすり寄ってくる。そういうのって俺にではなく彼女にねだるもんじゃねーの? と思ったら、どんどん気持ちが下がっていった。俯く俺の顔を凪が下から見上げてくる。
「どうしたの、レオ。気分悪い?」
「……あぁ、物凄く」
凪の一番は俺で、凪の傍にいるのはずっと自分だと思っていたのに。それだけではなく、凪のことを何も分かっていない自分に嫌気が差す。
そもそも、なんでそんな大事なことを俺に言わないんだよ。真っ先に報告すべきは俺だろ。
「凪、邪魔」
「うわっ、」
凪の体を押し退け、ソファから立ち上がる。べしゃ、とフローリングに落ち、鼻先をぶつけた凪が小さく呻き声を上げた。
「どうしちゃったの、レオ」
「うるせぇ、追いかけてくんな」
「は……? なんでよ」
理不尽にキレていることは理解している。それでも、怒りと悔しさが込み上げてくるのだから仕方ない。
俺は凪を放置すると、わざとらしく足音を鳴らして寝室にこもった。
※※※
凪の爆弾発言を聞いてから一週間。我が家は、この世の終わりなのでは、というほどに殺伐としていた。
勝手に怒っているのは自分だ。俺にとって凪は宝物で一番だが、凪にとっての俺はそうじゃないかもしれない。それに、凪にだって言いたくないことのひとつやふたつはあるだろう。伝えたいタイミングだってあるはずだ。それを俺がコントロールするのは違う。
そう理解しているのにイライラが募ってしまうのは、凪のことが好きだと今さらながらに気付いてしまったからだ。恋を自覚した途端、終わってしまう恋なんて。虚しいったりゃ、ありゃしない。それにこの近すぎる距離がさらに俺を狂わせていく。凪の一番にはなれないのに、凪の傍には居られてしまうこの状況が、俺を苛め、欲深くしてしまう。
どんな言葉も、優しさも、どうせ最後は彼女に行くんだろ、と思うと刺々しい態度になった。
「……触るなよ」
「どうして? いつもは何も言わないじゃん」
ベッドで本を読んでいると、当然と言わんばかりに凪が腰に抱きついてきた。ブルーロックにいた頃からの習慣なので、ずっと不思議に思っていなかったが、冷静に考えると付き合ってすらないのにこの距離感はおかしい。
「っていうかさ、いつまで待たせられんの、俺」
「は?」
「いつも触ると逃げてくじゃん」
するりと服の裾から手が入ってきて、ゾワゾワとした感覚に息を呑む。
凪は甘えたなところがある。それに、思いの外スキンシップも激しい。だとしても、これは許せない。
「触るな!」
ぱちん、と手を叩いて、凪に背を向けるようにして布団の中に潜り込む。いつもなら機嫌なおして、とか、れーお? って名前を呼びながら追いかけて来てくれるのに、今日はそれがなかった。
「……あっそ。じゃあ、もういい」
冷たい言葉にぴくりと肩が震える。そろそろと顔だけを布団から出して振り返ったが、こちらを見る凪の目には光がなかった。
「面倒くさくなっちゃった」
一番、貰いたくなかった言葉を凪から投げつけられて、きゅっと唇を引き結ぶ。もう好きにするから、と出ていく凪に、俺はどうすることもできなかった。
※※※
朝、目覚めると、凪は珍しく部屋にいなかった。いつも、俺が凪を起こしてやってからクラブに引っ張っていくというのに、今日の凪はひとりで準備を済ませたのか、既に部屋にはいなかった。
声ぐらい掛けてくれたらいいのに。と、悶々とした気持ちのまま、自分も支度を済ませて部屋を出る。
なんとなく、このままひとりになってしまうような気がして、その予感がずっと尾を引くように俺の足を重くさせた。
いつものクラブに向かうも凪はいなかった。先に部屋を出ていったはずなのにいないとは思わず、何かあったのでは? と探ってしまう。聞けば、今日は体調不良で休みということになっているらしい。
いよいよヤバイことになっている気がして、吐き気がしてきた。お前も顔色が悪いぞ、と言われるも、なんとか気丈にふるまって一日を終える。
再び部屋に戻ってきたとき、あまりの寒々しさに絶望した。
「どこ行っちまったんだよ、アイツ……」
小さく呟いた言葉が、虚空に吸い込まれていく。好きにすると言っていたが、まさか出ていってしまったのだろうか。もしかしたら、彼女の元へ行ったのかも。
「凪のバカ……」
何もかも嫌になって、電気すらつけないままソファに突っ伏す。徐ろにスマホの画面をタップし、先日のやり取りを思い出した。
――俺が変なアドバイスなんてしたから、律儀に指輪を買いに行ったのかもしれない。薔薇の花束も用意しているかも。
そんなことを思いながらぼんやりと青白い光源を見つめ、薔薇の花言葉が並んでいるサイトをスクロールしていく。本数で意味が変わっていくらしいが、俺にはどんな言葉よりも凪が帰ってきてくれるだけで十分だった。だけど、それすらも叶わないかもしれない事実に胸が苦しくなっていく。
「……アホくさ」
だらんと腕を外に投げ、もう片方の腕で目元を覆う。気を抜いたら泣いてしまいそうだ。ふーっと深く息を吐き、心を落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返す。そうしてやっと落ち着いたとき、ガチャガチャと玄関の方で音がした。
「凪……?」
急いで体を起こし、いまだ鍵穴をガチャガチャとやっているらしいドアを開ける。
すると、そこには凪が立っていた。だが、その手には凪らしからぬものがある。
「お、まえ、なにこれ……」
「何って、レオが言ったんじゃん」
スッと跪く凪にわけが分からず、慌てて立ち上がらせる。こんな冷たい玄関には座らせられないし、いつ人が来るかも分からない。とにかく部屋に入れと告げたが、凪は納得していないようだった。
「ほら、凪! 立てって」
「いいの? 跪かなくて」
「そんなことしなくていい! つーか、なんだよ、これ」
「何ってプロポーズだよ。俺、いまからレオにプロポーズしようとしてんの」
想像の斜め上を行く発言に、ハァ? と間抜けな声が出る。そもそも。
「俺たち、そういう関係じゃなくね……?」
「は? 嘘でしょ。俺たち付き合ってないの?」
「あ? むしろなんでそういうことになってんの?」
「えー、同棲するときに言ったじゃん。レオのことが好きだって。レオも頷いてくれたじゃん」
「…………」
まさか、忘れちゃったの? と聞かれて、背中に冷たいものが流れる。
確かに頷いた。けど、凪からの好きがそういうものだとは思っていなかった。
「ごめん、そういう意味だとは思ってなかった……」
「あー……だから、俺、避けられてたんだ?」
キスすら許してくれなかったもんね? と凪が不服そうに言う。花束を抱えたままギュッと抱き締められて、花弁が何枚か散った。
「じゃあ、今日から俺たち恋人……じゃないや、結婚するから家族だね」
異論は認めないとばかりに見つめられて、ごくりと息を呑む。指輪まで探し回っちゃった、と言われたら、断ることなんてできなかった。それに、断る理由なんて最初から持ち合わせていない。
「ねぇ、受け取ってよ。玲王。俺の気持ちだから」
一〇八本も用意したんだよ、と言って、薔薇の花束を渡される。ちなみに意味は、と言われて、俺はふるふると頭を振った。
「いい。知ってる」
だって、さっき嫌ってほど見てしまったから。さらに言えば、凪から花束を受け取ることができる相手を想像して、心底羨ましいと思ってしまった。
だけどな、凪。それ以上に今、お前が傍にいる事実だけで泣きそうだということは、あともう少しだけ秘密にしておこうと思う。