すべてが終わったのは、夏の暑い日のことだった。喪服を着た背中がやけに汗でベタついていたことを思い出す。
今振り返っても過酷な夏であった。暑さもさることながら、最愛の父を亡くしたことによる後処理に追われていたからだ。
人はいずれ死ぬ。分かってはいたけれど、この人はきっと長生きするんだろうなぁ、と、そう漠然と思っていたから、まさかこんなにも早くお別れすることになるとは想像していなかった。
そんな父の葬式は馴染みのない弔問客が多く、私はそのほとんどを知らなかった。
「……涼音ちゃんか。大きくなったね」
受付で声をかけられても、その相手が誰だか分からない。一応、父たちと同じ、サッカーの日本代表選手として選ばれた人たちは知っていたが、それ以外はさっぱり。
「なんとか社の山田です」「生前お世話になった鈴木です」と言われても、私は少しだけ頭を下げる程度で、彼らとはほとんど会話を交わすことなく、冷たくなった父の元へ案内した。
◆
さて、私の父についてもう少し話そう。
私の父は、日本人であれば誰もが知っている大企業の社長である。そして、元サッカーの日本代表選手。私が引き取られるよりも前にワールドカップで優勝したことがあるらしく、その立役者の一人。もう一人の父である凪――便宜上、お父さんとしておこう――は、ことあるごとに玲王――以降、生前呼んでいたパパとする――の自慢をした。
レオはすごかったんだ。
俺にパスくれて。
どこ走ってても俺のこと見つけてくれる。
具体的にどこがどう素晴らしかったのか、お父さんの説明ではよく分からなかったが、とにかくパパはすごかったらしい。お父さんは喪主挨拶でもレオがいかに素晴らしかったのかを永遠と語っていた。あの口下手でめんどくさがり屋のお父さんが。感情の起伏に乏しいお父さんが時折、言葉を詰まらせながら。
だけど、決して泣くことはなかった。そのことを後々お父さんに話したら、「レオの前では最後までかっこつけたいからね」と言っていた。
でも私は知っている。お父さんが隠れてこっそり泣いていたことを。最後まで一緒にいてくれるって約束したのに。と恨み言を吐いて。
「ねー、お父さん。この荷物はどうするの?」
「あー、それはこっち」
パパの書斎を二人で手分けしながら片付ける。
私はパパの書斎が大好きだった。さすがに大きくなってからは部屋に籠もる回数も減ったけれど、小さい頃はよく書斎を秘密基地みたいに使っていた。
『ねぇ、パパ。これなーに?』
『これ? これはなー』
凪との思い出! と言って、パパはよくガラクタを見せてくれた。高校の時にお父さんからもらったらしい謎のキャラクターがついたキーホルダー、お父さんとデートで行ったらしいシネマチケットの半券、遊園地のステッカー。全部大事な物なのだと嬉しそうに話していた。
小さな箱に入れてしまっていたようで、どうやらそれがクローゼットの奥で引っかかったまま眠っていたらしい。それを引っ張り出して床に広げたら、お父さんがため息をついた。
「レオ、こんなの取ってたんだ……」
「自分も取ってた癖に」
「……」
「映画の半券もステッカーも、この前整理したときに出てきたよ」
逆にこちらがため息をつく番だ。二人して似ている。いつも私に秘密を打ち明けるとき、二人とも似たような顔で同じことを言う。今思えば惚気みたいな内容を。
ただ、そのときの私は秘密の重さを知らぬ子どもだったので、両方の父親にその秘密をリークしていたが。
「これは俺が持っとく」
「……うん」
大事に抱えた小箱はまるでパパである玲王そのものみたいで、お父さんはそこに愛情を注ぐように撫でた。
「ここの整理が終わったら涼音はどうすんの?」
「私はしばらくこの家に住みたいかな。借りてるアパートもあるけど、そっちはいつでも帰れるし」
「そう」
「お父さんは?」
「俺は旅にでも出ようかな」
「旅!?」
あのめんどくさがり屋のお父さんが!? と素っ頓狂な声を上げる。
基本、家でぐうたら三昧、レオ〜って甘えていたほどのお父さんが。どうして、と思ったが、レオと一緒に行ったところを周りたいと言われて納得した。
「そっか。行くときは連絡してね。お見送りするから」
「うん」
「気を付けて行ってきてよ。もう歳なんだから」
「そこまでおじいちゃんじゃないよ」
レオが作ってくれた美味しいご飯を食べて、レオが作ってくれた運動メニューを毎日こなしていたからね。とお父さんが言う。それもそうかと、私は笑った。
パパもそうだったのにな。でも、パパは昔から戦車のごとく物凄い勢いでキビキビと動く人だったから、先に心臓の電池が尽きてしまったようだ。もう少し、のんびり生きてくれてもよかったのに。
「たまには手紙書いてね」
「……頑張ってみる」
「これ、絶対出さないやつだな」
「一通ぐらいは出すよ」
そんな軽口を叩きながらパパの書斎を片付ける。
それから一ヶ月後、お父さんはそれはもう忽然と、私に一言もなく姿を消した。
◆
北欧の冬は寒い。世界中探し回っても居なかったお父さんは、なんとノルウェーにいた。それも田舎町。もし、書斎を整理したときにアルバムをくすねていなかったら辿り着けなかった。どうせあの人はパパのものを全部持って行くはずだ、と思った私は、アルバムだけはと死守したのだった。
「さっむ……!」
並のブーツやコートでは歯が立たない。耳たぶや鼻先が凍てついて落ちてしまいそう。それだけは嫌だなぁ、と思いながら写真の裏にあった住所を手がかりに田舎町を歩いていく。
途中までは車で移動していたが、町に入ってからは二人が愛した場所を知りたくて歩くことに決めた。
だが、その決断が浅はかだった。既に心が折れそうである。
「なんでこんな寒い場所に……」
文句を垂れながら写真と家を見比べる。日本と違ってカラフルな外壁が多い。写真に映る家も真っ黄色だ。よくまぁ、こんな派手な家に……と思わなくもないが、北欧は寒さが厳しいため、人の心も陰鬱としやすいらしい。だから、温かみのある色の外壁や室内の調度品が多いと聞く。きっと、部屋の中もカラフルなんだろうなぁ、と想像しながら、ようやっと目的の家を見つける。
私は一言、文句を言ってやらねば、と思いながらドアを叩いた。
「はーい……あれ?」
随分と薄着で出てきたお父さんが、私を見るなり首を傾げる。どうして来たの、と言いたげな顔だった。なので、私はずいっとお父さんに迫ると、バカ、と一言だけ呟いて中に入った。
「普通、娘に連絡しない父親とかいる!?」
「イギリスから手紙出したじゃん」
「そうだけど! でも本当に一通だけとは思わないじゃん!」
「てか、よくここまで来たね」
「話をぶった斬んなーー!!」
お父さんと話すと時々こうなる。お父さんは時々こうして脈絡もなく話を切って、パパに怒られていた。今なら少しだけその苦労が分かる。
私は予想していた通りカラフルな部屋の中にある大きなソファに駆け寄ると、ふんぞり返って座った。
「そもそもこのアルバムがなかったら見つけられなかった!」
「あー、それね、わざと置いていったやつ」
「なんだとぉ……?」
「だから、わざと置いていったんだよ」
お父さんが、のそのそとキッチンで手を動かしている。ザラザラとした音がしたからコーヒーを入れてくれているのかもしれない。
「俺がわざとじゃなかったら、全部回収してるよ」
「そう……」
「で、涼音も写真のところを回ってきたんでしょ?」
「回らされた、が正しい」
年甲斐もなく、足をバタバタさせる。
長期休みが取れるたびに、アルバムの場所を回った。ほとんどヨーロッパが中心だったから、一度に何箇所か回れただけマシだったが、それでも一年以上はかかった。
「いいところだったでしょ。全部、レオと一緒に行ったところ。途中からは涼音ともね。覚えてないだろうけど」
「ごめん……」
「ううん。小さかったからね。実はこの家にも涼音が一歳ぐらいのときに来てるんだよ」
「そうなの?」
「うん」
お父さんがソファーの前にあるテーブルに淹れたばかりのコーヒーを置いてくれる。お父さんは向かいにある小さな一人掛けのソファーに座った。
「そのときさ、どっちが涼音にパパって呼んでもらうかで揉めに揉めて」
「なにそれ」
「レオも俺もパパって呼んでもらいたかったから、じゃあ涼音に決めてもらおうってことになったんだよ。二人でお前の気を引いてさ。パパですよ〜って手叩いたりとかして。そしたら涼音、俺たち二人のこと指さしちゃったんだよね……」
「あながち間違ってないしね……」
「で、今度はさ、レオがふざけてママですよ〜って言ったら、涼音、レオの方だけ指さしてた」
「なにそれウケる! でもレオはママみ強いもん」
「それ、レオが聞いたら怒るよ」
「だって〜」
毎朝、布団を剥いで起こしてくれたのは玲王パパだった。美味しい朝食を作ってくれたのもパパ。靴下を裏返しにして怒るのもパパ。ちなみにこれらは私だけではなく、お父さんに対してもパパは同じように面倒見たり怒ったりしていた。
「だから、レオをパパ、俺をお父さんってことにしよって」
「全然、覚えてない……。でもなんか成り行きでそうなっていったような……?」
「俺がレオのこと、たまにパパ〜って呼んでたからかな」
「いっつもパパ〜〜って、くっついてたもんね」
キッチンに立つパパの後ろに、お父さんはよくくっついてた。二人にとっては普通の距離感で、私にとっても見慣れた風景だったから、二人とも仲が良いなぁと思いながら見つめていた。
「ねぇ、なんで二人は此処にも家を建てたの?」
お父さんに淹れてもらったコーヒーを口にする。
私の好みに合わせてくれたのか、ミルクと砂糖入りだった。ちょうどよい甘さのそれを冷ましながら飲む。
「昔、ヨーロッパのリーグにいてさ。レオとはチームが一緒になったり、バラバラになったりしたんだけど、よくオフのときはデートしに行ってて……。で、レオって冬が似合うじゃん?」
「うん? うーん……そうなのかな?」
「ほら、もこもこしたニットとか着てると可愛いし。淡い色が似合うし。それに寒いと俺にくっついてくれるし」
「さらっと惚気けないでくださーい」
「……ごめん。でさ、たまたまここに遊びに来たとき、静かで居心地よくて、ここに別荘を建てようってなったんだよね。まぁ、建てたはいいものの、引退してからはレオの仕事の方が忙しすぎてほとんどこっちには来れなかったんだけど……」
お父さんがやっとカップを持ち上げる。少し前まではパパが冷ましてくれたやつを飲んでいたけれど、今はもうそれをしてくれる人がいないから、冷めるまでじっと待つしかない。特別、猫舌でもないだろうけれど、お父さんは甘えたがりなのでいつもパパに冷ましてもらっていた。
「そんな感じで来る頻度こそ少なかったけど、星も綺麗だし、シーズンになったらオーロラも見れるから気に入ってるんだよね。まぁ、オーロラを見るにはもうちょっと上の方に行かないとなんだけど……」
「へぇ、見てみたいな」
「行ってくるといいよ。俺はもう散々レオと一緒に見たし、この体だと移動がきついからね。涼音の土産話を楽しみにしてるよ」
よっ、と小さく声を上げてお父さんが立ち上がる。おかわりいる? と聞いてくれた。すぐにコクコクと首を振った。
「てかさ、ちゃんと食べれてるの?」
「面倒だけど頑張ってるよ。そうしないとたまーにレオが夢に出てくるんだよね」
ご飯食べろ、体動かせって言ってくるんだよ。と、嘘か本当か分からないことをお父さんが言う。でもパパのことだから本当に有り得そうだなと思った。
「あ、お父さん。私がやるよ」
ゆっくりとした動きで、二つ分のカップを持ってキッチンに行くお父さんの後ろをついていく。じゃあ、あとはよろしくとお父さんは私にコップを託してソファーに戻っていった。
そんなお父さんの後ろ姿を見て思う。
カラフルな家具と開放感あふれる大きな窓、そして広々とした部屋。いくらパパとの思い出が詰まった大切な場所だと言っても、此処にぽつんと一人でいるのは寂しくないのかと。
「お父さんはさ、ずっと此処にいるの?」
出しっぱなしにされていたドリッパーにコーヒーの粉を入れていく。
我が家は面倒くさくてもこれだったな、と唐突に思い出した。たぶん、パパが拘ったんだろうけど。
「……うん。最後はレオが一番気に入っていた此処に居たいかな」
「そっか……。そんなに気に入ってたんだ」
「うん。此処だと、俺たちのことを誰も知らないからね。いーっぱいイチャイチャできたし」
「また惚気けた」
「別にいいじゃん」
「もう慣れてるけどさ」
お父さんと私のカップにコーヒーを落とす。
この二人は最後まで仲が良かった。羨ましくなるぐらいに。いつか、私にもこんな家族が欲しいと本気で思ったぐらいに。だから、どうしてもお父さんには聞いておきたいことがあった。
「お父さん」
「んー?」
「ひとつ、ずっと聞きたいことがあったんだけど」
「なに?」
淹れたばかりのコーヒーを持ってソファーに戻る。
熱々のそれをお父さんは受け取った。冷えた指先を温めながら、ふーっと冷ましている。瞬きひとつで、またあの光景――パパがお父さんの隣でコーヒーを冷ます瞬間――が色鮮やかに戻って来る気がした。それぐらい、二人は愛し合っていて間に入る隙がない。だからこそ、どうしても聞きたかった。
「どうして私を引き取ったの?」
お父さんの動きがぴたりと止まる。お父さんは私を見ると「なんだ、そんなこと」と言った。
「涼音と一緒に居たかったからだよ」
「でも私は知らない施設の子どもだったじゃん」
「そうだね」
私は施設にいた。父たちは当時、所属していたチームの慈善事業の一環として、施設の子どもたちにサッカーを教えに来ていた。そのとき、私を見て引き取ることを決めたらしい。二人はそのとき初めて私と出会った。だから、引き取る義理も無ければ理由もなかったのだ。それなのに、なぜ。
「涼音を抱っこさせてもらうことになってさ。そしたら涼音、俺等にぎゅってくっついてきたんだよね。しかも帰ろうとしたらギャン泣き」
「うわ……恥ずかしい……」
「で、何度か施設に通ってるうちにますます涼音が懐いてくれて、なんだかそれで離れがたくなっちゃった」
レオもレオでこんなに懐いてくれるなら……って話になり、引き取ると決めてからのその後は早かったらしい。私はすぐ父たちに引き取られた。
「でもさ、二人だけで生きていく選択もできたわけじゃん」
「……そうなんだけどさ、でもこうして一人になったとき、一緒にレオのことを話せる娘がいるのって幸せなことじゃない? たとえレオと俺の順番が逆になってたとしても、レオも俺と同じことを言うと思うよ」
お父さんがまたふぅふぅとコーヒーを冷ましている。
確かに、こうして家族のことを話せるのは嬉しいことかもしれない。施設にいたら、きっと片親を亡くした寂しさも、長い年月を経て得た幸せも感じられなかった。
「俺たちは、一瞬だってお前のこと、邪魔だなんて思わなかったよ」
その言葉にハッとする。
たぶん、私が言われたかった言葉だ。此処にいていいよ、と思わせてくれる言葉。
「だからさ、また来世でも俺たちの娘になってよ」
「アハハ! 来世って!」
「娘のポジションは空けておくからさ」
お父さんが真顔でちろっと舌を出す。パパの癖があるときからお父さんにも移ったみたいで、茶目っ気を出そうとするとき、いつもそうしていた。
「レオと一瞬に迎えに行くよ」
「パパも確定なんだ」
「当たり前でしょ。俺の隣にいるのは来世も、その次の来世も、未来永劫レオって決まってんの。レオの隣も俺だけ」
「うわっ……。パパが聞いたら、愛が重い! って言いそう」
「そんなのはもうとっくの昔にレオにはバレてるよ」
「それもそうか」
「うん」
お父さんの目元が緩む。
よかったね、パパ。お父さんはずーっとパパの隣だってさ。
そう心の中で笑ったら、リビングにある大きな窓が風で微かに揺れた。