花嫁バトルロワイヤル ① 絹を裂くような女の悲鳴が上がる。その方角へちらりと視線をやって、蛍は腰を低く落とした姿勢を保ったままそろりと走り出した。蝶々のようにひらひらと、白い総レースのベールが揺れる。足首まである長いドレスの裾を捌きながら、いつもと違う衣擦れの音がやけに気になった。木の影に入って周囲を窺うと、前方に白い影がある。
花嫁だ。
蛍は荒くなる息を押し殺して、そうっと機関銃を構えた。反動に備えてぐっと踏ん張る。三、二、一…
*
「──つまり、サバイバルゲームをしろって?」
「まあそんな感じなんだけど」
首を傾げた蛍を前に、シャルロットは「うーん」と空中を睨んでカフェのテーブルに頬杖をついた。
「最初から説明するね。フォンテーヌのブライダル事業組合と共律庭の合同企画で、身分登録制度関係の法整備に伴って結婚に纏わる諸々のイメージアップをしたいんだって」
パイモンはキャラメルシロップのかかったポップコーンをぽりぽり齧りながらキョトンと瞬きした。
「イメージアップするのになんで花嫁同士でサバゲーなんかするんだ?」
「最強の花嫁を決めるのよ!」
「なんで…」尚も真っ当な追及をかけようとするパイモンの小さなお口に、蛍がぽいとポップコーンを投げ入れてやる。「──もきゅ」
シャルロットはそれを見て思わずくすりと笑った。パイモンの頬っぺたがもちもちと動く様からしか得られない栄養は、ある。
「今まではね、家系図といえば貴族か商家のものだったでしょ。それを今度の法改正で庶民にも広めようってわけ」
これまでのフォンテーヌ人はルキナの泉に祈らなければ子を授かることは出来なかった。しかし水龍の赦しを得た今や、原始胎海に溶けることのない、正真正銘人間の肉体だ。国民全体がそれをどこまで把握しているかは定かではないが、ヌヴィレットは先んじて現行法に手を加えたいらしい。これについて検律庭が法改正をし、共律庭が実質的な運用を任されている。
「それって、貴族たちは反対しなかったのかな。既得権益には敏感でしょ」
「国家元首が黙らせたわよ。今のあの人を誰が止められるの?」
「独裁政治だね」
「ご本人様は至って平和主義なんだけどね。これだって治安目的なんだから。だから尚のことイメージアップしたいんだって」
蛍は改めて手元のパンフレットをまじまじ見つめた。シャルロットからもらった今回の企画のものだ。そこには虹色のポップな字で大きく『花嫁の中の花嫁、出てこいや!』と書かれている。もうこれだけで頭が痛いのに、続く言葉が『花嫁バトルロワイヤル開催決定!』である。
たぶん、共律官は揃って気がおかしくなっている。彼らに必要なのは、イメージアップではなく休息ではなかろうか。
「ブライダル業界も活気付いててね、格安プランを設けたりタイアップ商品を考えたりしてるのよ。この企画、絶対に頓挫させる訳にはいかない!」
「で、応募はあったの?」
「警察隊から数人引っ張れたわ。あと一般公募から二人ほど…名前を売りたい劇団員から…まあ、まだ公布されたばかりだからね!」
警察隊から。それはもう、ほぼ身内では…。蛍の目が一段と死んだ横で、パイモンはポップコーンを食べ終えた。余談であるが最初、カフェメニューにあったこのポップコーンを頼むつもりはなかったのだが、キャラメルが絡んで見た目も可愛らしく、また値段の割に嵩増しされており、結果旅人の懐もパイモンの胃袋も大満足だった。なおテイクアウトして食べ歩きも可能である。閑話休題。
「シャルロットは出ないのか?」
「私は広報担当!スチームバード新聞社もこの企画に協賛してるの。現場でカメラ回してドキュメンタリー仕立てに編集して、映影化の予定もあるのよ。めざせ興行収入歴代一位!」
「おお、映影化!」
色めき立つ二人を他所に、ふうん、と気のない返事をして紅茶の入ったカップを傾けた蛍に、テーブルに身を乗り出したシャルロットがビシッと指先を突きつける。
「もう、主役はき・み!なんだからね」
「そうは言っても……、なんで私?」
「なんでって、パンフレット最後まで読んでないの?」
訝しむような顔をしたシャルロットにそう言われて、蛍は改めてこの頭痛のするパンフレットに目を落とした。無駄に派手な色使いで目がチカチカするのだ。もはや荒瀧派の作るポスターの方が忍の監修が付く分数段上である。
日時、参加資格、応募締切…と並んで、賞品と書かれた項目があった。『優勝者には金一封!』と大きく書かれているすぐ下に、小さい字で何か書かれている。蛍とパイモンはよく見ようとパンフレットに顔を近づけて、文字通り飛び上がった。
『…及びヌヴィレット様から祝福の口づけが贈られます!』
「な、何これ!?どういうこと!?」
ガタンと椅子を倒して立ち上がる蛍に、シャルロットは肩をすくめてみせた。
「並居る強豪を打ち負かした最強の戦士に勝利の女神の祝福は欠かせないでしょ!」
蛍とパイモンは目をぐるぐる回しながら「最強の戦士!?」「花嫁とは何だったのか」「参加資格に未婚者に限るって」「テイワット版バチェラー(物理)」「ヌヴィレットは女神だった…?」「もうなにもわからない」泥沼に落ちた。
実のところ飲み会の席で盛り上がった一部が強引に決めて無謀にもヌヴィレットを説得しミラクルを起こして承諾させたものである。許諾が降りたとき共律官一同拍手喝采スタンディングオベーション三日三晩祭りは続いて伝説になったりならなかったりした。
──このときヌヴィレットは部下に対して負目があった。法整備を急がせるあまり、ここのところ連日過酷な残業をさせてしまっていたのだ。なので、ストレスフルな彼らの気が済むなら…とちょっと訳がわからない企画も通したし、ちょっと訳がわからないが祝福が必要なのだと請われれば快諾した。要は生け贄である。ついでに彼らに真実必要だったのは休息である。人間から睡眠を奪うと気が狂う。水龍覚えた。
と、まあ、そんなことを知る由もない蛍とパイモンは、FXで有り金全部溶かした顔をして宇宙を背負うしかなかった。シャルロットはここぞとばかり宇宙を背負った二人の様子をパシャリと写真に納めて、無邪気ににっこりと微笑んだ。
「ね、参加するでしょ?でないと、奪われちゃうもんね?」
ヌ ヴ ィ レ ッ ト 様 の キ ッ ス !
「はわわ…」パイモンは焦った。隣の蛍が無言で震え出したからだ。マナーモードのバイブレーションだ。「蛍、冷静になれよ!キスってせいぜい手の甲とか頬っぺたに触れない程度にチュッてやるやつだろ!?こっちではそういう挨拶みたいなのあったよな!おいら、そういうのフレンドリーで良いと思うぜ…!」
「挨拶で、キスを…?」
「だから触れないやつだって!フレンドリーなやつだって!そうだろシャルロット!?」
シャルロットはにんまり笑ったまま、テーブル越しにぷるぷる震えている蛍を見た。もちろん面白いからである。
蛍には秘密がある。
蛍は恋をしている。
古今東西、老若男女、恋に狂った人間ほど側から見ていて面白いものはないのである。特に切ない片思いをやってると思い込んでいるこの旅人はエンタメとして最高だ。人の心はちょっとないかもしれない。
「──私、絶対に、優勝してみせる!!」
カフェのど真ん中で立ち上がって右腕上げて宣言かました蛍に、見知らぬ客人や店員まで笑顔を浮かべて拍手を送った。
蛍の恋は、公言していないというだけで全世界にモロバレだったし普通にみんな知っている。万人の共通認識、これがあるからエンタメはエンタメたり得るのである。
ピューッと誰かが口笛を吹いた。拍手はいつの間にかリズムを刻んで、また誰かがマンドリンを弾き出した。この頃流行りの恋の歌だった。シャルロットは「意気込みを聞かせてくださーい!」などとにこにこ笑ってカメラのシャッターを切り続けた。
この場で頭を抱えているのはパイモンだけだ。なぜって当然、蛍の一番の相棒枠は誰にも譲る気はないので。
*
「で、まんまとのせられたって訳ね」
千織は反論しようと顔を上げた蛍の顎をくいと掴んで「動かない」と鋭く叱責を飛ばした。
「少し下を見て。伏目がちに…そうよ、そのまま」
細かく指示をしながら千織の指先は忙しそうにくるくると動き回って、次々に化粧筆を持ち替えては蛍の顔にメイクを施していく。
「君、あのパパラッチにいつ弱み握らせたの」
「……ヌ、ヌヴィレットに恋人はいるのって聞いただけ」
「あらま、身から出た錆ね」
「なんでわかっちゃうの……」
ぽぽぽ、と勝手に紅潮した頬をじろりと見つめ、千織はチークの色を想定よりもう一段淡くした。ふんわりと丸くチークブラシをはらう。少し離れて出来栄えを見ると、幾分か満足気に「うん」と頷いた。最後に大粒のラメを目元に散らして、リップを塗れば仕上げだ。
「それでわからなかったら乙女じゃないわ」
「千織には何も言ってないのに知ってたよね?」
「わかりやすいの、君。わからなかったら人間じゃないわ」
「ぐぬぬ」
「はい、立って」
しゃらりと軽やかな衣擦れの音を立てて、光沢のある白が揺れる。柔らかく滑らかな生地をたっぷり使ったマーメイドラインのドレスは、きゅっと締まったボディを引き立てながらも裾回りの豊かなドレープが美しい。本来ならば人魚の尾のようなトレーンも、呆れるほど長くしてやりたかった。しかしそれも来たるべき“本番“に取っておけると思えば楽しみである。
千織がひっそり笑ったのを蛍は不安そうに窺っていた。それに気づいた千織が「そんな顔をしない」とぴしゃりと言い放つ。
「だって、こんな大人っぽいドレス初めて着たし…」
「普段着からガラッとイメージを変えたかったのよ。とても似合っているわ」
「ありがとう。でも今回の為に作ってもらって、大変だったでしょ?」
「行政から補助金が出るから大丈夫」
嘘である。補助金は行政なんかではなくヌヴィレットのポケットから出た。ついでに細かいディティールの指示すらあった。
つまりは、まあ、そういうことだ。
そんな事情はおくびにも出さずに、千織はしれっと蛍にベールをかけてやった。
「それで、どう?動けるの?──シュヴルーズ、もう入ってきていいわよ」
千織屋の女主人がドアに向けて声を掛けると、「失礼する」と歯切れの良い返事と共にがちゃりとノブが回された。ドアの向こうから顔を出した特巡隊の隊長は、まん丸の片目をぱちくりと瞬いて蛍を見ている。
「感想」
千織が腰に手を当てて促すと、シュヴルーズは間を置かずに「綺麗だ」と言った。
「見違えたぞ、旅人。本当に綺麗だ!」
「当たり前よ」
面映いやりとりに蛍の頬がまたぽっと赤らんだ。繊細な意匠のレースで出来たベールから透けたその横顔はなんともいじらしく愛らしい。言葉にせずともわかる。これは恋をする乙女の顔だ。
シュヴルーズは万感を込めてうんうんと頷いた。
「ヌヴィレット様もお喜びになる」
「こら」
こつんと千織がシュヴルーズの頭を軽く小突いた。ネタバレ禁止。それは、まだなのか。まだなのよ。ひっそり囁かれた応酬は蛍の耳には入らなかった。ヌヴィレットにこの姿を見せる、その想像だけで心臓がギュッと締まったのである。
「それより例の物は」
「用意は出来ている。威力は増したが少し重くなった。どうだ蛍、いけるか?」
催促を受けてシュヴルーズは肩に掛けていたそれを外して蛍に渡した。蛍は重さを確認するように何度か上げ下げして軽く構えてみる。
「うん、大丈夫」
艶のない長い銃身が場違いに黒々と佇んでいる。それをひょいと軽々肩に掛けた蛍は、きりりと勇ましく前を見据えた。
この美しい花嫁は、ブーケの代わりに機関銃を持つのだ。
もちろん、中に装填されているのは本物の銃弾ではなくペイント弾である。これが当たれば即退場というルールだ。シュヴルーズが鍛冶屋のエスタブレと相談して改良してくれたこれは、玩具の域を半歩はみ出している。力こそパワー。
千織は衣装の最終チェックを終えると「うん」と頷いた。
「君なら大丈夫よ。有象無象を蹴散らしてらっしゃい」
「そろそろ時間だな。行こう、スタート地点までエスコートする」
「わざわざごめんね」
「いいや、身に余る光栄だ」
そう言ってシュヴルーズは片手を差し出して、格好良く笑った。