とある写真家の話 ある写真家の話
よく晴れた午前、私は妻と共に桜並木の写真を撮りに来ていた。仕事でも写真を撮っているのに、休みの日にも撮ろうだなんて、本当に写真が好きなのね。妻はそう笑って私についてきた。
丘の上の大きな公園、ざあっと風が吹いて、枝々から小さな薄桃色をさらっていく。仕事ではデュエルの写真ばかりだけど、今日はきみの写真もたくさん撮ろう。私はそう言って、桜並木を背景に、妻を写真に収めた。その日私が持っていたカメラは、撮影した写真がすぐに印刷されるタイプで、私は撮ったばかりの写真を確認した。
白い枠の中に、青空と、春霞の空気と、舞い散る桜と、笑う妻──そして、空を征く機械の群れ。のどかな春の日に不釣り合いな、非自然的な白と、青と、橙の機械たち。それらに気づいた花見客たちから、どよめきが広まり始めていた。
あの機械たちを、近頃ニュースで見ない日は無い。突如現れては破壊の限りを尽くして去っていく。どこから来るのか、何故壊すのか、誰も何も知らない。
ただ、何故か何の根拠もなく、私たちの街には現れないと、そう思っていた。破壊は、画面の向こうの出来事なのだと。
今しがた現れた機械たちは、街の中心地へと向かっているように見えた。妻が私のそばへやってきて、不安げに空を見上げたその時、群れの斥候らしき機械がちらりと光を発したように見えた。
刹那、地を走る閃光、一拍置いて、公園近くの摩天楼が轟音を立てて崩れ始めた。まるでそれが合図であったかのように、機械たちは一斉に街に攻撃を開始した。春の穏やかな静寂が破られ、爆ぜるように人々の悲鳴と怒号が上がる。
「丘の下まで逃げましょう! 地下鉄があるわ!」
呆然とする私の右手を引いて、妻が機械たちと反対方向へ丘を駆け降りていく。背後ではずっと、巨大な物体が頽れていく音が響いていた。私たちは、同じように機械から逃げる人々を追い抜き、追い抜かれながら、何とか丘の麓までたどり着いた。地下鉄までもう少しね、と妻が振り向く。走り続けるその足がもう一歩を踏み出そうとした時、地面を抉るように走った光が、妻を包み込んだ。
──否、包み込んだという言葉では、優しすぎた。
硬く、混じり気のない白に、なす術もなく塗り込められていくように、妻は光の中にいなくなった。一瞬、何が起こったのかわからなかった。光が去った後に残った、わずかな焦げ臭さで、私は何が起こったのか漸く悟った。
私は走るのをやめた。ただ、止まることもできなかった、妻が未だ手を引いてくれているような気がして、そのまま歩き続けた。悲しみ、怒り、そんなものが頭の中にあったような気はするが、それを上回るほどの何かが、私の目と口を塞いでいたようだった。涙も嗚咽も出なかった。
どれほど歩いただろうか。
私は、真昼の空を流星が行くのを見た。不思議なことに、星が通り過ぎた場所では、機械たちは破壊行動をやめた。逃げ惑っていた人々は、悪夢から覚めたような顔で、皆空を見上げている。
そのうち、青いDホイールがやってきて、助けに来たのだと言う。今更助けられたとて、どうなるというのだろうか。ただほかに行くあてもなかったから、そのDホイールの先導で公園まで戻れば、そこでは既に、負傷者の手当が始まっていた。
向こうから誰かがまた一人、怪我人を背負ってやってくる。赤いヘルメットを被った人物。彼が怪我人を地面に寝かせたのを見計らったかのように、白銀の竜が彼のそばに降り立った。私が見た流星は、竜だったのだ。そして、彼がそのあるじ。
「不動遊星だ」
誰かが、彼のことをそう呼んだ。すでにその命は失われ、しかしその伝説と名が今に至るまでも語り継がれる、過去の英雄。
「なんで遊星が」
「でも、あのドラゴンは──」
人々のざわめきの中、彼はヘルメットを脱いだ。大きく跳ねた癖毛、宙より深い藍色の瞳、その下に稲妻のように走るマーカー──果して、それは不動遊星であった。顔の右半分が、奇妙な機械に覆われていたとはいえ。
「本当に不動遊星だ」
「俺は見たぞ!遊星とあのドラゴンが、機械たちを追い払ったんだ!」
人々から上がる声は、疑惑から安堵へと徐々に変わりつつあった。しかし、それに逆らうように人並みを掻き分け、遊星の前に躍り出た男がいた。男はいきなり遊星の胸ぐらを掴んで言った。
「あんた、今頃助けに来てどうする! 俺の息子は、ほんの三十分前まで生きていたんだ、あの機械に殺されるまで……! あんたがあと三十分はやく来ていたら……俺は、俺は……」
男の言う通りだった。男がそうしなかったら、私が遊星の胸倉を掴んで同じことを言っていたかも知れなかった。
しかし、私は男と遊星の間に割って入った。
遊星は「いいんだ、彼の言う通りだ」と言った。
私は男に言った。
「やめよう、意味がないことだ」
そして、未だ遊星の胸倉を掴んでいる男の手を、左手で引き剥がした。私の利き手である右手には、何かがくっついていて、うまく動かなかった。
男はまだ何か遊星に言おうとして、しかし私の右手を見て、ぎょっとした。
「あんた……それ……」
男に指差されるまま、私は己の右手を見た。そこには、手首の先からが無い、白く細い手が握られていた。
「妻の手だ」
私は言った。
⭐︎二枚目
桜の舞う丘は、避難キャンプになった。
遊星たちは、各地を巡り、避難キャンプを作り、そこが安定したら次の地へと移動し──そうして、この混乱の中で惑う人々を助けているらしかった。
今日は機械たちの襲撃から三日。家を無くした人々のための仮設住宅が、幾つも建ち始めていた。大人も子どもも皆、遊星や彼の右腕であるジョニーの導きのもと、街の復興に勤しんでいる。
私は──まだ何もする気になれないまま、瓦礫の山に少しずつ順応しつつある人々を、桜の木の下で眺めていた。私の右手は、妻と繋がれたままだ。
まだ春とはいえ、日中は決して冷たくはない風が吹く今、妻の手は元の通り白いままというわけにはいかなかった。腐敗の色が、日に日に生気のない肌を侵している。腐った肉を苗床に、蛆が孵り始めてもいた。
それでも妻の手を離さない私に、街の人々は気遣わしげな視線を送りつつも、近づいてくる者はなかった。私の方からも、人々の集まりに顔を出すことはなかった。多分、お互いに、傷つけない距離を計りかねていたのだと思う。
しかしついに、青いライディング・スーツを纏った人影が、私に近づいてきた。
「三日間、何も食べていないでしょう。良かったらこれ、どうぞ」
彼はそう言って、私の左手に水と携帯食糧を握らせて、擦り傷の目立つ顔で微笑んだ。「ボクもお昼まだなんです。ご一緒していいですか?」
私は曖昧に頷いた。私たちは並んで、しかし言葉を交わすことなく、食事を摂った。
彼──ジョニーというDホイーラーのことを、私はよく知っていた。私は、仕事では主にプロのデュエルの写真を撮っていて、ライディング・デュエルを被写体とすることも度々あったからだ。ジョニーは、よくも悪くも有名人だ。シンクロが原因で争いが起ころうとしている時勢下で、尚シンクロを使い続けたプロの決闘者。シンクロ使いにとっての希望であると同時に、アンチシンクロ勢力からは、目の敵にされている。彼の顔にできた傷は、おそらく機械との戦いや、人命救助が原因のものだけではないだろう。
ただ、今の私にとって、そういったことはどうでも良い事実だった。街の復興も、一口だけ齧った食料も、どうでも良かった。
妻は私にとって、この世の何よりも重かった。私にとっての世界の理と言っても良かった。それが無くなった世界に、何か意味があると考えられる方が異常であると、私は思っていた。
先に食事を終えたジョニーは、一向に減る様子のない私の食糧をじっと見つめてから、「明日もお昼、ご一緒していいですか?」と言った。私はまた、曖昧に頷いた。彼がどこで誰と食事を摂ろうが、私は関心がなかった。
翌日も、その翌日も、ジョニーは昼にやってきては、私の隣で食事を摂った。妻の手が食事には相応しくない匂いを発しているにもかかわらず、だ。私のポケットは、ジョニーが持ってきた携帯食糧が貯まるばかりだ。
私は、いよいよ少しだけ気になって聞いた。誰かに何かを聞くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「あなたは何故、私なんかに構うのです」
しばらく言葉を発さず、ろくに水分も摂っていなかった私の喉は、音程の外れた言葉を発した。ジョニーは少し驚いたような顔をしてから、頭の中に言葉を探すように少し黙った後、「貴方の写真が好きなんです」と言った。
「Dホイールが生き生きしている。ボクのデュエルの様子も、以前撮ってくださったでしょう。その写真に、すごく元気づけられたから」
私は、「そうですか」としかいえなかった。妻のいない世界で、ジョニーの言うような「生き生き」した写真は、二度と撮れないだろうと思ったからだ。
昼食を終えたジョニーは、「明日もまた来ます」と言って去っていった。
その夜、私は桜の木の下で、初めてアルミ毛布を広げて眠ることにした。毛布は、私が襲撃の日以来、この木の下で夜を明かしていることを知ったジョニーが、一昨日持ってきたものだ。今夜になって、何故だか急に使う気になった。
わずかに湿り気のある芝生の地面は相変わらずだが、夜風にアルミがカサカサと音を立てる感覚には慣れない。そして、そんな音を立てることのない、家の布団のことを思い出した。柔らかな肌触りに包まれて眠っていた日のことが、とうに昔のことのように思えた。まだ、ほんの一週間ほどしか経っていないのに。家がどうなっているか、確かめようという気は起こらない。
次の日。
昼になっても、ジョニーはこなかった。昨日も確かに、「明日もまた来ます」と言っていたはずだ。どうかしたのだろうかと思っているうちに、少年がやってきた。小学校中学年くらいの少年は、黙って私の左手を取り、引っ張った。どこかへ連れて行きたいということなのだろうか。私が立ち上がると、少年は足早に歩き始めた。
避難民たちが暮らすプレハブ小屋が並ぶあたりまで来ると、女性の金切り声が聞こえ始めた。少年がさらに脚を早める。私たちの歩みがほぼ小走りになった頃、少年は脚を止めた。彼の視線の先には、泣きながら何事か叫ぶ女性と、俯いて立っているジョニーがいた。
「あなたが使ったシンクロのせいで、世界がこんなことになったの! わかる?! あなた、シンクロは希望だって言ったわね! 同じことが私の家族の墓の前で言えるの?!」
女性の言葉に、ジョニーは何も返さなかった。女性の姿に、先日遊星につかみ掛かった男のイメージが被る。私はそれで、何故少年がこの場に私を導いたのか合点がいった、少年は、私にこの場を収めてもらおうと考えたのだろう。
ただ、私は、女性の言うことも間違ってはいないと思った。
ただ、このジョニーという青年が、誰かに呪いあれと願ってシンクロを使ったわけではないことは、よく分かっていた。
故に、私は何もできなかった。
こんな優柔不断な性格をよく怒られたものだと、また妻のことを思い出した。
「何も言えないんじゃない! 私の夫は貴方のこと信じてたわよ、自分と同じシンクロ使いだからって。そして死んだの、私の前で、シンクロを信じたことを後悔しながら……貴方があんなこと言わなかったら……!」
遂に女性の拳が、打つべき相手に振り下ろされようとする。流石にまずい、制止のために差し出した私の右手は妻の手を握ったままで、それでは女性の拳を止められない。
果たして、伸びてきた何者かの手が、私の代わりにジョニーを護った。
「少し落ち着きなさい、ここは診療所の前だ。患者たちには静かな時間が必要だ、わかるね?」
そう言って女性の拳を下ろさせたのは、白衣を着た医師らしき初老の男性だった。
「でも……!」
「君の気持ちもようくわかる、だがね、君は知らないだろうけど、瓦礫の中から君を助けたのは、遊星くんと、ここにいるジョニーくんなんだよ」
「だったら何なの? それで許せって?」
医師はゆっくりかぶりを振った。
「そうじゃない……ジョニーくんのことを信じて、君の伴侶が亡くなったことは事実だ。そして、ジョニーくんが君を助けたことも事実だ。人や出来事には、いくつも側面があるんだよ。その一面だけをとらえて生きていくには、今の世の中は難しすぎる。視野を広く持つことだ。今すぐには無理だとしても、君がこれ以上悲しみや憎しみに囚われないために」
医師の言葉に、女性は俯いた。
「囚われてなんかない……もう、私があの人のためにできることなんて、代わりに悲しんで、怒ることくらいしかないのに……」
「生きている人間が死者のためにできることは、他にもある。葬式を挙げる、墓を建てる、毎日食べ物を供える……まずはそこからやってみよう、ここには助けてくれる人はたくさんいるんだから」
医師が優しく肩を叩くと、女性は暫く黙ったままでいた。その後数分は経っただろうか、彼女は小さく頷き、しかしジョニーに謝罪することなく去っていった。彼女がそうできるようになるまでには、もっと多くの時間が必要だろうと、私は思った。
「先生、ありがとうございました……ボクは、あのまま殴られていても良かったんだけど」ジョニーは力なく笑った。
「そう自分を粗末にするもんじゃない。彼だって、君を助けようとしていただろう」
医師はそう言って、私に視線を向けた。ジョニーはその時、初めて私の存在に気付いたようだった。
「来てくださったんですか」
「……この子に連れられて」
私が足元の少年に目を落とすと、彼は私のそばを離れて、ジョニーに駆け寄った。そのまま少年はジョニーの腰に抱きつき、青いライディング・スーツに顔を埋めた。少年の細い肩が微かに揺れて、彼の言葉にならない感情を表していた。
少年の頭を撫でるジョニーの手も、少し震えている。青鈍色の瞳がしきりに瞬きを繰り返すのは、溢れそうになるものを抑えているからなのだろう。ジョニーは暫くそうした後、少し赤くなった目で私を見つめて言った。
「お昼、行けなくてすみませんでした。明日は必ずいくので……今日は失礼します」
私は頷き、ジョニーと少年は去っていった。その背中が曲がり角に消えると、医師が私の肩を叩いた。
「君のことは、ジョニーくんから聞いてるよ。あまり栄養状態も衛生状態も良くないようだから、一度診させてくれないかい」
特に断る理由もないので、私は頷いた。
診療所は昼休憩中だったらしく、私の他に診察を待っている患者はいなかった。ただ、入り口からまっすぐ奥へ続く通路の両脇にはいくつか扉がついており、ちょうど看護師が出てきたところを見るに、扉の向こうには入院患者がいるのだろう。
私の診察は、入口から一番近い診察室で行われた。サオトメ先生──部屋の扉に下げられたネームプレートにそう書かれてあった──は、まず私の顔や身体の汚れを、濡れたタオルで拭ってくれた。
「君、利き手は右だろう。塞がっていて、不便はないのかい」
そう言いつつ、先生は決して衛生的ではない妻の手を、私から無理に離そうとはしなかった。医師故なのか、先生は、私の右手と繋がれた妻の手を見ても驚きはしない。
特に困りません、と私は頷いた。先生は、眉を下げて少し笑う。
「それならそれで、良いのかもしれないな。ただ、君が感染症なんかに罹らないよう、気をつけてね」
私自身には何の問題も無かったらしく、私の診察は程なく終わった。先生は最後に、食事と水分だけはきっちり摂りなさい、と言って。
桜の木の下へと戻りながら、私は先生が終始、妻の手を離さない私を否定しなかったことに驚いていた。私が妻の手を離していれば、あの時──女性がジョニーに殴りかかったあの時、私がもっと早く彼を護れていたかもしれなかったのに。
次の日。
私は早朝起き上がると、ずっと封を切っていなかった携帯食料を開け、朝食を摂った。自発的に何かを食べるのはずいぶん久しぶりな気がしたが、元より味気ない携帯食料は、輪をかけて無味乾燥に感じられた。それは、前日に感じた後ろめたさが、胸中に凝っていたからだ。
その場にいながら、殴られようとしていた青年を守れなかったこと。
私は別に、シンクロに希望を見出そうとするジョニーの思想に賛同している訳ではない。寧ろ、この街の惨禍は、シンクロが呼び寄せたものとすら思っている。ただ、それに確証はなかった。その不確かさを前に、心根のまっすぐな青年が苦しむ様を許容できない、それだけだ。
では、私はどうしたら良いのだろう。片手しか使えない私は、一体どうしたら。
昼前になっても、問いに答えは出なかった。集中力が切れた頭に、人々のざわめきが流れ込んでくる。立ち上がり、首をめぐらせて辺りを見ると、喧騒の中心は避難キャンプの入り口の方であるらしいとわかった。
その視界に、少年が駆け込んでくる。前日、私をジョニーの元に導いた少年だった。少年は、息を切らせながら私の元へやってくると、昨日よりも濃い焦燥を顔に浮かべて、また私の左手を取り、そのままもと来た道へ走り出した。
私は黙ってついていくことにした。少年の行先がジョニーの元だとすれば、昨日よりも彼が切羽詰まった状況にあるのは明らかだった。私が今、ジョニーの元へ行ったところで、何をしたら良いのかもわからない。それでも、何もしないでいるよりは良いだろうと、そう思った。
いくつかの角を曲がるにつれて人だかりは濃くなっていく、私は少年がキャンプの入り口に向かっていることに気づいていた。そうして最後の曲がり角を曲がった時、人波の向こうに、赤いヘルメットの人物がいるのを見つけた。
「皆、道をあけてくれ、怪我人がいるんだ!」
彼──遊星の言葉に、ざあっと人波が引いていく。それで私は、遊星が誰かを背負っていることに気がついた。
鮮やかな青いライディング・スーツ。それが遊星の肩越しに見える。だらりと垂れた長い腕に力はなく、遊星が一歩踏み出すたびに頼りなく揺れた。
「ジョニー……」
私は思わず呟いていた。
先に知らせが入っていたのか、すぐさま担架がやってきて、ジョニーは担架に移され、運ばれていった。ほんの一瞬見えたジョニーの額には包帯が巻かれており、血が滲んでいた。
その赤が、同じように私の脳裏に滲み、こびりついてしまったように意識から離れない。ジョニーは死ぬのだろうか? あの優しい青年が? 否、どれだけ優しかろうが、その魂が清かろうが、人は死ぬのだ。遊星に掴み掛かった男性の子どものように、ジョニーに殴り掛かった女性の伴侶のように。そして、私の妻のように。
そう思うと急に恐ろしくなって、私は妻の手を握った。力を入れた指先が、かえって血の気を失って温度をなくしていくように感じる。
不意に、左手にも力が掛かった。見ると、少年が私の手を引いている。私の脚は引かれるままにふらふらと動き出していた。動揺する私とは裏腹に、少年の顔からは焦燥は引き、真剣な表情で再び何処かへ向かおうとしている。おそらくジョニーの担架を追いかけるのだろう。彼に足並みを合わせるうちに、私の頭にも少しずつ冷静な思考が戻ってきた。相変わらず今の私に何が出来るのか分からないが、行った先で何か役に立てることがあるかもしれない。昨日からこの少年に導かれるばかりだが、やはり、ジョニーのために何もしないでいるよりはよかった。
少年は人が少ない通りを器用に選び、私達はジョニーの担架が運ばれた診療所の前にたどり着いた。昨日の閑散とした様子とは異なり、診療所の入り口は怪我人とその付き添いらしき人でごった返していた。その中で、昨日見た白衣姿が怪我人にトリアージを施している。少年はまた巧みに人波を縫って、私をサオトメ先生のもとに導いた。
おもむろに顔を上げた先生が、私たちに気づく。
「もしかして、また手伝いに来てくれたのかな」先生の言葉に、少年が頷く。
「ありがとう。それなら」先生は少年に脱脂綿と消毒液を手渡した。その手つきや言葉は落ち着いているものの、どこか張り詰めた気配を潜ませている。「緑色をつけている人を探して、できる範囲で手当をしてくれるかい。水の場所はわかるね? もし特別具合が悪そうな人がいたら、周りの医者を呼ぶように。頼んだよ」
少年はもう一度しっかりと頷いて、怪我人と思わしき人の方へ掛けて行った。
「あの、私は何か」
私の問いに、先生は首を横に振った。
「すまないが衛生上、伴侶を連れた状態の君に、他の怪我人の手当はさせられないんだ」
「そう……ですか」
咄嗟にそう返事をしつつ、私の頭は先生の言葉を飲み込むのに数秒の時間を要していた。先生の言葉の意味が理解できなかったわけではない、今の妻の手は確かに、生前の美しく清潔な姿からはかけ離れていた。
ただ、手伝いを断られて、私はひどく落胆していた。少年が手伝いを買って出た時、私は答えを得たと思ったのだ。片手しか使えない私に出来ること、その答えこそが、ジョニーを始めとした怪我人の手当てを手伝うことであると。
それが間違いであったとわかって、故に私は意気消沈し──そして、そのような感情が自分の中に起こったことに驚いていた。
妻のいない世界に何の意味も感じられない、それが本当に正しく私自身の感情で、それなのに何故私は、そんな世界に生きる人々の生命に関心があるのだろう。
妻の手を握ったままでも不便はない、それも私にとっての真実で、それなのに何故私は、昨日ジョニーを守れなかったことを心残りに思ったのだろう。
相反する感情が胸中に渦巻き、私は続く言葉を見つけられないでいた。
サオトメ先生が言った。
「ジョニーくんは大丈夫だよ。彼が元気になるのを待つことが、今の君に出来ることだ」
(続)