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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」⑤(終)
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。

    世のため人のため飯のため⑤(終)  6

     土壁に漆喰で仕上げられる蔵というものは、火災や災害の際も保管物品が被害を受けないよう頑丈な造りになっている。昔は文庫として使われていたと聞くが、建築技術の確立に加え貯蔵性と防衛性という利点が広く敷衍したことから貴族たちが自らの敷地にも建てるようになり、今では裕福さの象徴としてそこここに存在している。
     目の前に聳え建つ蔵は、貴重品や家財を預かっていた質屋の頃のものをそのまま運用しているのだろう。しかし、塀と同じく彩られた白が内在する罪の潔白を喧伝するように鋭く網膜に染み込み、胸に痛みを感じた長次郎は、何かに縋らなければ立っていられない気分に思わず首から下げた鍵を握りしめた。
     前にいた千日が体ごとこちらを向き、長次郎を見る。一つ頷いた長次郎は木札に書かれた『三』の文字と、扉の横に掛けられた木札の数字が同じことを改めて確かめると、すっかり熱を持った鍵を錠前に差し込み、ゆっくりとひねった。
     がちり、と解錠を示す甲高い音が響き、錠前が落ちる。分厚い木製の扉を押さえた手はかすかに震えていた。地面に踏ん張るように足の爪先に力を込め、体全体を使って扉を動かすと、蔵の中から流れ出た冷たい空気が顔に当たり、長次郎は一瞬目を閉じた。
     乾いた土と漆喰の匂いが鼻を突く。明かりのない蔵は入り口からの光が差し込むとほのかに明るさを取り戻し、闇は四隅へと散ってゆく。目が暗さに慣れたところで足を踏み入れ、中を見回すと、そこにあったのは頭に思い描いていた光景ではなかった。
    「何も、ない……?」
     千日の、何が起こったか理解できないといった面持ちが一瞬ののちに苦々しく歪む。米俵の一つもなく、薄く埃が積もる床を睨みつけながら「ここじゃねえようだな」と忌々しげに呟き、用済みとばかりに『三』の蔵を出た千日に続き、長次郎もその場を離れる。
     だが、今度は千日の鍵を使って隣の『二』の蔵を開けるも、二人が見たのは『三』の蔵と同じく、何もない空間だった。無意識的に放った「この蔵も……空っぽ」という自分の声が蔵の壁に虚しく響くのを聞きながら、長次郎の思考では間違っていた……? という言葉が鮮明になってゆく。だが、だからといって千日が誇る隠密部隊が偽の情報を持ち込んだとは考え難い。何が正解か分からず、頭の中が真っ白になってゆくのを感じていると、それまで冷静さを保っていた千日がとうとう声に焦りを滲ませた。
    「一つだけならまだしも、蔵を二つ空けておくなんて……」
     米を買い占めているのが事実ならば、それこそ蔵がいくつあっても足りないくらいの量が確保されているはずだ。仮に『一』の蔵にあふれんばかりの米があるとしても、それだけでは米屋の売り上げとするには乏しく、まともな生活などできるはずがない。思いもがけず現れた行き止まりになすすべもなく立ち尽くしていると、蔵の外から聞こえて来た足音が、二人の背後でぴたりと止まる気配がした。
     数にして、ざっと二十といったところか。館の使用人たちは皆表情を硬くし、凝然とこちらを見つめていた。集団の一番後ろには青くなった清顕の顔もある。どの顔からも見て取れるのが蔵を暴かれた怒りや平穏を壊された不快などではなく、隠していたものが親に見つかってしまった子どものようなばつの悪さで、今まで見たどの罪人とも重ならない面持ちに、長次郎は引っかかるものを感じた。
    「お前ら、買い占めた米をどこにやった!」
     業を煮やした千日が苛立ちをぶつけるも、使用人たちは一様に俯き、黙するばかり。はっきりとしていく違和感のまま「様子がおかしいですよ」と長次郎が言うと、使用人の一人がようやく口を開き、「買い占めてなんかいねえ」と弱々しい声で反論した。皆の代表的意見なのか、他の使用人たちも小さく頷いている。
    「嘘つけ。流魂街の米問屋に出入りしてたじゃねえか。あれは買い占めのためだったんだろ?」
     「あ、あれは……」と消え入りそうな声は千日の気迫に押されたのかみるみるうちに萎み、使用人はそれ以上言葉を発することができなかった。あれは、何だというのか? 長次郎自身も山の上から、荷車が出て行くのを確かにこの目で見た。それは抗いようのない事実……凍てついた空気の中、こちらの正当性を盤石なものにするように自分へと強く言い聞かせていると、「買い占めていない……それは違うじゃろう」と別の声が割り込み、その場にいた全員が一斉に外へと目を向けた。
     逆骨だった。その隣には親方が立っている。親方の顔にもここにいる使用人たちと同様、いたたまれない気持ちが浮かんでおり、どういうことだという疑問を目に込めれば、逆骨は続きを話しはじめる。
    「買い占めていないのではない、買い占められなかったのじゃ」
    「買い占められなかった? それは……」
     長次郎の問いに、逆骨は答えなかった。何も言わずに歩き出し、まだ開けていない最後の蔵の前に立つと、神妙な面持ちを崩さないままの親方を見やる。親方が自分の鍵を取り出し『一』の蔵の鍵を開けた瞬間、使用人と押しのけた千日と長次郎が慌てて中をあらためれば、そこには願っていた通り米俵が保管されていた。
     ただし、あるのは三つだけ。
     予想外が続き、何度もひっくり返された頭がぐらりと揺らいだように感じた長次郎が横を見ると、ほとんど空に近い蔵を唖然と見つめていた千日の目が細められ、表面には一抹の焦燥が膜のように張り巡らされた。
     睨みつける、という言葉そのままに、千日は逆骨を見やる。
    「……どういうことだ」
     そこには普段の軽口も、破天荒ともいえる明るさもない。貴族の内情を把握し、流魂街の事情にも精通し、ありとあらゆる人間の暗部をも見て来た男が掌の上で踊らされていたことに気付いたことによる苛立ちが、獣の唸りとして顕現した瞬間だった。逆骨は低く放たれた声に臆することなく、憤然とする千日と不安を浮かべる長次郎を交互に見比べ、親方を見上げ、使用人たち一人一人の顔を確かめ、そうして最後に清顕へと笑みを向けると、蔵に米がない理由を説明する口を開いた。
    「考えてもみろ。最初は自分のところの商品を高値で買うてくれる良い商売相手がいた。ところが、その商売相手が自分が売った商品に更に高い値を付けて売っていたとする。それも、一度や二度ではなく何度も。売ったほうとすれば気持ちの良い話ではない。例え、かつて自分の店も不当な買い占めを行い、同じように顧客に高値で売っていた身だとしても、じゃ。それはこやつらに直接米を収めていた農民も同じ。苦労して作ったものを不平等かつ不当に高く売られたのじゃからな。
     人というものはな、いかに悪事を染めた過去があろうと、それはそれとして私服を肥やす他人を嫌うもの。自分に一時の利をもたらした人間であろうと、良い服を着ていれば腹を立てるのじゃ」
     そこまで話した逆骨は、固唾を飲んで見守る館の人間から視線を引きはがすと、蔵の中の米俵を凝視する。三つしかない米俵は、まるで寒さを耐える山の獣のように身を寄せ合い、蔵に響く逆骨の声を聞いている。
    「そうして誰もこやつらに米を売らなくなった。まあつまりは……みんなからそっぽを向かれてしまったのじゃ。それどころか、自分たちが食う分の米まで確保できないという有様。これっぽっちの米でこの使用人の数……とても冬は越せぬ。困ったのう……」
     そうしてこの場でただ一人、沈鬱な空気を無視した明るい口調を作った逆骨は、使用人たちの心情をかき乱す意地の悪い笑みを浮かべると、けたけたと声を上げはじめる。ほとんどからっぽと言える蔵に騒々しく響くせせら笑いが癇癪玉に火を点けたのか、一番前にいた使用人の男が鼻息荒く前に進み出ると、岩のような拳を振り上げ、逆骨に殴りかかろうとした。
     「おやめください」と清顕の息せき切った声が聞こえる。しかし顔を真っ赤にした男は歩みを止める様子もない。まずい、このままでは……もしものことを考え、長次郎が斬魄刀の柄に触れようとしたところで、「よせ」と通った声が、男の進撃を阻んだ。親方だった。
     渋々といった様子で拳を下ろした男が、瞠目とともに振り返る。男を含め、なりゆきを見守っていた使用人たちの視線を一身に受けた親方の目には何もかもを失うことを受け入れた人間が見せる哀しい光……決意という強い意思が灯っているのが見えた。
    「逆骨殿の言う通り、儂は金と引き換えに信頼を失った。ここで本当の終わりのようだ……」
    「そこまでして金が欲しかった理由はなんだ? 見たところ、お前はそこまで金遣いが荒い人間じゃねえだろ? 一体どこに金が……」
     千日の問いかけに、親方は「……生活のためだ」と重々しく絞り出す。「生活? 奢侈しゃしを尽くした生活をしているようには見えねえが……」と訝しむ千日の声に、長次郎の脳裏には掃除が行き届いているものの目立った調度品のない、質素な屋敷がよみがえる。親方が思い出話を聞かせてくれた庭園も定期的に手入れはされているようだが、不揃いに刈られた生け垣や苔がこびりついた池の岩から、庭師の手による管理ではないと今更ながら気付いた。だからこそ金をどこに使い込んだのか分からず、長次郎は親方が答えるのをじっと待つしかなかった。
     しかし、聞こえた声は親方のものではなかった。逆骨は目を伏せる親方を見やると、
    「この者は金や贅沢に興味はない。事実、街で商いをしていた頃は買い占めに反対の立場だった。だがある時から金が必要になった親方殿は、自らが嫌悪していた買い占めに手を出すようになった……」
     「何故」という声を発したのは長次郎だけではなかった。千日もまた、身を乗り出して次の言葉を待っていた。
     やがて、親方は重々しく言葉を紡ぐ。
    「儂についてきてくれる、使用人たちの生活だ……」
     吐露した親方からは、事実を誰にも打ち明けず、愚直なまでの真面目さとともに心中しようとしていた男の意固地が染み出しているように見えた。俺たちの、と使用人の一人が呆然と呟く声と、息を呑む気配がした。
    「この者たちは村を追われたり、働いていた店から暇を出されたり、家族に先立たれた者ばかり。ここで面倒を見なければ再び路頭に迷うこととなってしまう。だから……」
     そうならないよう、何としても金を手に入れなければならなかったというわけか。長次郎は自分が聞いている話を信じられない、いや、信じたくないと目を見張る使用人たちの顔をぐるりと見回す。
     今の話と庭での話から、流魂街で店を構えていた頃は数人の使用人しかいなかったのだろう。それが不遇な人間を見つけるたびに一人、また一人と数が増えていき、結果的に今の大所帯ができあがったというわけだ。ここまで膨れ上がれば当然衣食住に金がかかる。祖父が羨ましかったと話した穏やかな顔を呼び起こした長次郎は、そんな親方だからこそ、自分が食えなくなるからと使用人たちを追い出すことはしたくなかったのだろうと考え、目の奥がじわりと熱を持つのを感じた。
     もし、もし自分が同じ立場だったとしたら、これだけの人間を助けようと思うだろうか。自分の名誉と使用人の生活を天秤にかけて、迷わず使用人を選ぶことなどできるのだろうか。できる、と言い切れる自信がなかった。では相手が元柳斎ならば? そうしたら、自分は迷わず元柳斎の生活を取る。長次郎が元柳斎の傍にいることを選び、彼が創る未来のために身命を賭したいと思うことと同じように、親方もまた、ここにいる使用人たちとともに生きていきたいと思っているのだろう。
     全ては想像に過ぎない。しかしこの夢物語はあながち間違っていない……そんな確信を抱いていると、「米の買い占めは儂が使用人たちに命じたもの……この儂の責任だ」と親方が語気を強めるのが聞こえた。
    「だから逆骨殿、罰するのは儂一人にして欲しい」
     親方が深く頭を下げた瞬間、使用人から「ちょ、ちょっと待ってくれ!」と慌てた声が上がった。
    「俺たちは親方が少しでも良い暮らしができるならと思って、拾ってもらった恩返しのつもりで買い占めに協力したんだ。それを俺たちのためだと? つまりは、俺たちのせいで親方が連れて行かれるってことかよ。そんなのおかしいだろ!」
     男の必死の訴えに、親方が表情を変えることはなかった。頑固な男が肚を決めた目に、親方の気質を知る使用人たちは本気を悟ったようだ。親方から千日へと視線を移すと、皆一斉に目の前まで迫り、切羽詰まった様子で口々に叫んだ。
    「四楓院の当主様、親方を連れていくなら俺も連れてってくだせえ。俺ぁ、買い占めが悪いことだって知っててやってたんだ。俺の方が罪が重いはずだよ」
    「親方が悪いなら、同意したあたしだって悪いはずよ。親方を一人にはさせない!」
    「そうだそうだ、俺だっておんなじだ!」
     詰め寄られては後ずさる、を繰り返し壁まで追いやられた千日は、自らを罰して欲しいという奇妙な嘆願の集中砲火に圧倒され、言葉を詰まらせると、落ち着かない目を逆骨に向ける。普段は威風堂々と輝く瞳に、どうする、という困惑が混じっているのは長次郎にも見て取れた。こうなることが予想できたのか、逆骨はしばらく使用人たちの切望を凝然と眺めた後、何かに満足したようににっこりと笑い、
    「親方殿を連れて行くような真似はせん」
     腹に力を込め、明瞭な声で言い放つと使用人たちから安堵の息が聞こえた。しかし「この館をどうするか、それは親方殿の判断に任せる。儂らから沙汰を言い渡すことはせぬ」と続いた言葉を、長次郎はすんなり受け止めることができなかった。寛大さよりも何か含みがあるように思えてしまい、思わず「逆骨殿、それでは」と口を出すと、逆骨は今度はこちらに目を向け、努めて穏やかに言った。
    「案ずるな、親方殿は分かっておる。悪いようにはならぬし、させるつもりはない」
     その一言で、どうやら逆骨と親方の間で何らかの取り決めがあると察した長次郎は、それ以上深く追及することができなかった。
     もしかすると、逆骨は全て知っていたのかもしれない。親方が私欲のために買い占めを行っていたわけではないことも、使用人たちが親方のために動いていたことも、館の全ての人間が自らへの罰を願うことも。
     だとすれば、元柳斎が逆骨を隊長に選んだ理由が少しは分かるような気がした。物事の表面や悪事のみの目を向けるのではなく、その本質を見抜く力。一人ひとりには心とか感情と呼ばれるものがあり、それを糧に人は生きてゆくということ。その傍らには常に天秤に乗った善と悪が存在し、ふとしたきっかけで傾いてしまう……そんな当たり前のことを実感していると、もとの調子を取り戻した千日が真摯な声を放つのが聞こえた。
    「……ジジイ、それは信じていいんだな?」
     断定的な口ぶりからは、千日もまた逆骨の言葉に何かを察していると分かる。
    「ならば俺から言うことはない。今日はここで引く」
     相手が頷くのを確かめた千日が決定に異議を唱えることをしなかったのは、千日は千日で逆骨に対し思うところがあるからだろう。なんだかんだで悪態やら軽口をぶつけ合っているものの、千日は逆骨を評価しているし、逆骨は千日の力を頼っている部分があるのかもしれない。それは年齢や家柄を超越した、ただの人間同士の関わり。だが、強い糸で繋がっているような確かな結束を見た長次郎は、これで終結の空気が場を満たす中、逆骨が清顕に歩み寄るのを目の端に捉えた。
     使用人たちの後ろで俯いていた清顕は、虚脱した顔で逆骨を見た。そんな清顕に掛けられた「騙して悪かったのう」という言葉には、病人を装ったことと四楓院の大爺様と名乗ったことの両方が含まれているのだろう。清顕はゆるくかぶりを振る。
    「いえ、良いのです。私たちも、親方も、表には出していませんでしたが内心では後ろめたさを抱えながらここまで来てしまったのです。親方のためだと、他の店もやっていたことだからと言い聞かせつつも、自分たちの行いが不義であることに変わりないという事実から目を背けて……だから、良心の呵責に押しつぶされる前にこんな日が来るのを望んでいたのかもしれません。私たちが裁かれ、全てが終わることを……」
    「お主は全部終わらせたのか? ここにいる人間が離れ離れになろうと……」
     わずかに見開かれた清顕の瞳が、揺れた。直後、引き締まっていた顔をくしゃりと歪ませ、ぼろぼろと涙を流しはじめると、こらえきれなくなった嗚咽を唇の隙間から漏らしながら泣き出した。
    「本当はそんなこと、考えたくもありません。しかし、私たちはいけないことをしておりました。相応の罰を受けなければならないのです……」
     しゃくり上げながらの弁明は、清顕の誠実さと裡に残っていた未熟さの両方が表出したものだった。一番若い清顕の涙に、周囲の大人たちは一斉に振り向き、清顕を見た。その目には一つとして冷たさがなく、相手を案じるぬくもりがあるのを確かめた逆骨は、涙を拭う清顕の手をそっと包み込むと、その心までも抱きしめるようにやさしく「お主らはまだ大丈夫じゃよ」と告げた。
    「儂はな、あの時具合が悪いと言った儂の身を案じ、ずうっと背中を撫でてくれたお主の優しさが嬉しかったのじゃ。さっき出してくれた飯だって皆で食べるつもりで用意していたものじゃろう? 米が少ない中、皆で分け合えるように雑炊にでもして、量を増やして……そんな中でも、惜しげもなくわしらに出してくれた。その心遣いがあるのは悪に染まりきっていない証拠。戻って来ることができる……」
     清顕の涙は止まることなく頬を流れ続け、雫となって顎先から零れ落ちてゆく。その一粒が手に落ち、皺の隙間へと染み込んでいくのを眺めていた逆骨は激励とばかりに力を込め、清顕の手を強く握りしめると、そのままゆっくりと離した。あかぎれが咲く白い手が、所在なげに宙をさまよっている。
    「次に会うた時は、またお主の飯が食いたいのう」
     その言葉を最後にして清顕に背を向けた逆骨は、立ち尽くす使用人たちの横を通り過ぎ、蔵を後にする。その背中を千日が追従し、長次郎も二人に続こうと足を踏み出そうとした。
     すると、それまで呆然としていた清顕が袖口で乱暴に涙を拭うのが見えた。次に上げられた顔からは迷いの一切が消え、もとの誠実な面持ちに戻っていた。それは親方も、使用人たちも同じだった。それまでしこりとなっていた後ろめたさを捨てた館の人間たちの目には皆でまっとうに生きていくという決意が漲っており、逆骨の去った方向を見つめている。
     暗い蔵の先には出口があり、光がある。親方たちが本当の意味で光の下を歩ける日は、そう遠くないはず……彼らを見つめた長次郎の胸には、そんな確信があった。

     7

     千日も、逆骨も、そして元柳斎も親方たちへの処遇を語ろうとせず、何の情報もないまま日だけが容赦なく流れていった。この十日で変わったことと言えば冬支度が済んだことと、部屋で火鉢を焚く時間が増えたことくらい。日常を日常として過ごしていた長次郎は、平静を装いながらも内心では穏やかではなかった。
     逆骨は悪いようにはしないと言っていたものの、果たしてそう上手く行くのか……もどかしさを抱えながらも、しかし今の自分にできることと言えば待つしかないという自覚もあった長次郎は、他力本願ながらも顛末を知る機会はきっとやってくると信じ、気もそぞろのまま職務に臨んでいた。
     そんな折、逆骨が部屋を訪れて来た。
    「あの館は他の者に引き渡すこととなった」
     逆骨の話を表情一つ変えずに聞いていた長次郎は、頭の片隅からやはり、という誰のものでもない呟きを聞いような気がした。
     何となく予測はできていた。信頼というものを取り戻すことは、失うことよりもはるかに困難なこと。特に同業者からも白い目で見られるようになってしまったのだ。今までの場所で商売を続けろと言う方が酷な話だ。
    「あやつらは西流魂街へと移り、そこで新たな店を構えて米屋として再開する運びとなった。街からは遠いが、ちょうど耕作放棄地となった場所があったためそこを紹介させてもらった。あれだけの使用人がいるのじゃ。買い付けだけでなく自分たちでも米を作り、今までの経験を活かしながら商売をするのがよかろうと考えた。
     それに、もともと北流魂街には米屋が多くあった。あのまま続けていたとしても、よほどの手腕がない限り競合には勝ち抜けなかったじゃろう」
    「……やっていけるでしょうか」
    「やっていかねばならぬ。なあに、あの親方殿ならば心配することはない。あやつはのう長次郎、使用人たちのために感状までしたためておったのじゃ。一人ひとりが他の場所でも雇ってもらえるようにな。それほどまでに使用人たちを大事にしておる。もう狡いことには手を出さんじゃろう」
     感状とは、古くから上官から部下への賞賛、評価を書き記してある書状をいう。主には戦での功績を記録して個人の地位を保証したり、再仕官の際には推薦状の役目を果たす公文書であるが、親方の場合は武勲よりも仕事ぶりや能力、人間性を記していたのだろう。そうすることにより、使用人たちは新たな働き口を探す一助にするつもりだったということか。
     しかし蔵での様子を見るに、感状を用意しておいたのは全くの無駄になったようだ。あの使用人たちは親方の傍を離れることはしないからだ。館の人間たちが離れ離れにならず、誰も傷つくことはなく任務は解決した。しかし……、
    「裁かなくて良いのか、と思っておるな?」
     心の裡を読まれ、長次郎はぎくりと身をこわばらせた。穏健な結末に安堵しているのは確かな事実。だが、精神の中心に居座っている意固地な自分が、例え心を入れ替えたとはいえ悪事を犯した者に罰を与えず、野放しにして良いのかとわめいている。
     これが、尸魂界の秩序を司る護廷十三隊の導き出した結論で良いのか。甘いのではないか。傍らで黙している斬魄刀は、ホロウだけでなく人のうつろも断ち切らねばならないのではないか…… 情と理、個としての自分と組織の中の自分。そのどちらの言葉に耳を傾ければ良いのか、分からない。
     ふと顔を上げると、長次郎の思考に澱む煩悶を見透かすように、じっとこちらを見ていた逆骨と目が合った。
    「罰というのは罪があってこそ。罪の重さによって罰は変わる。同業者からそっぽを向かれた。そして親方殿は母の生家を手放さねばならなくなった。それがあやつらの罰じゃ」
    「それとも長次郎は一人残らず斬り捨てたほうが良いと考えるかえ?」と続いた言葉に、長次郎は即座に首を振る。
    「まさか、そんなことは思っておりません! 親方殿たちが命を落とすことなく、良かったと……」
     一拍遅れて、自分の口から放たれた答えが感情によるものだと気付いた長次郎は、失言だったのではないかと唇を引き結ぶ。しかしそれを聞いた逆骨の表情は満足げなものであった。
    「そう、そこまですることはない。悪いことに手を出した人間とて、際限なく不幸を与えればいいわけではないのじゃ」
     因果は巡るもの。善悪は結果として現れる。ならば、行った悪以上の結果が訪れることがあってはならない。背負っている悪業よりも大きな報いがあったとすれば、途端に道理の環から外れてしまい、理不尽で不公平な生となってしまう。なんとなく、こちらだけでなく逆骨自身も自分に言い聞かせているように思い、黙然としていると目の前から「例えば……」と切り出す声が聞こえ、沈思を止めた。
    「買い占めなどではなく、あやつらがもっと商売を上手く行かせる方法があったのじゃが、なんだと思う?」
     その質問が意外だった長次郎は虚を衝かれた思いになりながらも「取引先を増やす、ですか?」と真っ先に浮かんだ方法を口にする。返って来たのは「違う」という否定だった。
    「簡単なことじゃよ……同業者を軒並み殺せば良い」
    「……えっ?」
    「そうして米を売るのを自分の店だけにすれば、客を独り占めできるじゃろう? しかも買い占めていた時よりも値を吊り上げて売ることができる」
     雲行きが怪しくなってきた話に眉を顰めながらも、長次郎は逆骨の話を聞いている。
    「他にもあるぞ。商人を脅して米を奪うという手もあるじゃろう。こうすれば買い占めるよりも容易に商品を手に入れることができる。それか農民のほうを脅して奪うのも良い。あとは……」
     その先は続かなかった。耐えかねた長次郎が「何が言いたいのですか?」と冷たい声を放ったのだ。逆骨の口から語られる残酷な方法を聞きたくなかっただけではない。あの親方たちが他人を害する姿を想像したくなかったからだ。これも情。自分はまだまだ未熟で、甘くて、そして青臭い……圧倒的な年齢と経験の差に長次郎が唇を噛むのと同時に、逆骨は答える口を開いた。
    「生き残るためには非道な手段はいくらでもあった。しかしそれらに手を出さず、あくまで商売という盤上で金を集めた。あやつらはまだやり直せる場所におるということじゃ」
    「やり直せる場所……」
    「人として踏み外してはならない道じゃ。だから儂も千日も、そして山本も機会を与えたのじゃ。もっとも、千日に至っては罰するつもりだったようじゃが……あやつもまだまだ若いのう」
     そうして引きつった笑い声を上げた逆骨は「何よりあれほどの飯を作れる若者を失うのは惜しい」と話を締めくくる。脳裏に清顕が最後に見せた泣き顔とあかぎれの手が浮かび、長次郎は腹の底に重いものが溜まってゆくのを自覚した。
     あれほどまでに清冽で、ひたむきな若者はこの世界にどれだけいるのだろうか。流魂街は下層地区へ行くにつれて治安が悪く、人々の心も荒んでいると聞いている。他を思いやり、慈しみ、そうして誰かのために涙を流せる人間が千年後、少しでも生きやすくなっている世界。元柳斎が創り上げようとしている未来まで、未熟な自分は生き残っていることができるのだろうか……身命を賭すという誓いを裏切るような苦悩に、掌の肉に爪を食いこませたところで、膝立ちになった逆骨が一歩分、こちらに近付いてくるのが見えた。
     膝と膝がくっつくほどの至近距離で腰を下ろした逆骨は、長次郎の顔を下からじぃ、と覗き込むと、ヒヒッ、と喉から声を上げた。
    「儂ら護廷十三隊の隊長は道を踏み外した者ばかり。皆なにかしら後ろめたいものを持っておる。腐り果てるか、人の形を失おうとしていた儂らをこの広い世界から見つけ出したのが山本じゃ。あやつが儂らを、人の中へと引き戻してくれた……」
     聞いたことがある。護廷十三隊の隊長は元柳斎自身が声を掛け、集めて来た猛者ばかりだと。その過去を詳しく聞いたことはないが、あまり明るいものではないというのは何となく察していた。
     人の中へと引き戻す。儀式めいた響きに、やさしさとぬくもりが込められているように思うのは、信じるという、この世界で最も曖昧な祈りを捨てられないからだろうか。元柳斎が隊長たちに人として生き直す機会を与えたと考えるのは、主を崇敬する若輩者が見る、美しい幻想にすぎないのだろうか……。
     脳裏に苛烈な生を歩み続けた元柳斎の背中を見た長次郎が、こみ上げる感情のさざ波に耐えていると、「良いか、長次郎」とこちらの胸の奥へと語り掛ける、穏やかな声がした。
    「お主は山本のためにその命を燃やすつもりなのじゃろうが、山本はお主が自分のために死ぬことを良しとしていない。山本にとってお主は、なくてはならぬ存在なのじゃ。
     だから、美しく散りゆくことに意味を見出すでない。生きなさい。地べたを這いずり回っても、木の根をかじっても、人から惨めだと指を差されようと、とにかく生きなさい。生き抜かなければ、尽くすことも、やり直すこともできぬ……」
     生きなさい。投げられた言葉は長次郎の胸にまっすぐ突き刺さり、電流が走ったような衝撃を感じた。自分は間違っていたのか? 元柳斎のために命を掛けると言い聞かせて来た決意が根底からひっくり返され、目の前がぐらりと揺らいだような気がした。
     同時に、元柳斎が任務へ行く前の自分を必ず見送り「気を付けよ」と声を掛けてくれることを思い出し、長次郎は我知らず息を呑んだ。
     自分は生きることを望まれている。右腕として、今までも、これからも……。
     望まれて生きることができるなど、この上ない果報者ではないか。おそらく、護廷十三隊には望まれずとも生き抜いてきた者もいる。その者たちから与えられる感情を蔑ろにすることなど、どんな残酷な運命が待ち受けていようと許されないような気がした長次郎は、改めて目の前の人物の顔を見る。
     逆骨は、どう生きていたのだろうか。地べたを這いずり回り、木の根をかじり、人から惨めだと指を差されながら、それでも明日の光はまばゆいと信じ、生き抜いたというのか。
    「逆骨殿」
     長次郎が呼ぶと、逆骨は胡乱な目を向けてくる。
    「逆骨殿が生き抜いた今には、何がありますか?」
     今の自分には想像もつかないほど長い年月を生きた逆骨。その苛酷であろう生の先にあるのは、果たして光なのだろうか? それとも、出口の見えない闇夜だろうか……。
     長次郎の問いに、顔に今日一番の笑みを浮かべた逆骨は、にっと歯を見せながらこう言った。
    「あまーい羊羹じゃ」
    「へっ……?」
     意外というよりは話の腰を折られたような答えにどうすればよいのか分からず、ぽかんと口を開けていると、手に何かが置かれた。見ると、懐紙に包まれた菓子があった。開いてみればそこにあったのは一切れの羊羹。一度ならず二度も……返そうとした長次郎に、逆骨は、「案ずるな、今度は千日の部屋から盗ったものではない。心配ならば聞いてみると良い」と先回りして答えると、さっさと部屋から出て行ってしまった。
     開けっ放しの戸を見つめていた長次郎は、やがて羊羹を持ったまま立ち上がると、小走りで廊下を駆け出す。


     二番隊舎にある千日の部屋を訪れると、机の上には長次郎と同じく懐紙に包まれた羊羹があった。
    「お前もジジイにもらったのか?」
     長次郎を見るなりそう言った千日は、茶でも飲むつもりなのだろうか、火鉢で土瓶を温めているところだった。「ということは、今度は四楓院から盗んだものではないということですね」と安堵を得た声を出すと、千日は小さく笑いながら「そうだ、安心しろ」と言って来た。
     生き抜いた先が、甘い羊羹……逆骨は一体何を言いたかったのだろう。脳の片隅から顔を出した疑問に、長次郎は黙ったまま羊羹を見る。中に金色の塊が見えることから、どうやら栗が入ったもののようだ。苛酷の先に待っていたのは、栗が入った羊羹をいつでも食べられる毎日ということか……? 立ち尽くしたまま感傷に耽っていると、千日が訝しむ気配がした。
    「どうした、そんな顔して」
     言った本人の顔からも笑みが消えていた。こちらを見上げる金の目に、胸の裡を吐き出さなければならない心地になった長次郎は、ええい、ままよと「あの、四楓院殿」と静かに切り出した。
    「逆骨殿は、護廷十三隊に来る前は何をなさっていたのですか?」
     顎に手を当てた千日が、まあ座れ、と自分の前に座布団を置く。自分の部屋にあるものよりもはるかに分厚い座布団に座った長次郎が一直線に前を見ると、千日は何から話せばよいのか、と言った目を返してきた。
    「実を言うと、俺もあまり知らない」
     やがて紡がれたのは、千日にしては曖昧な内容だった。
    「いくつか断片的に聞いた内容は『出身は東流魂街七十六区の逆骨』『逆骨という地区は〝ミミハギ様〟という神を祀っており、この神がいることにより尸魂界は平穏を保っている』『若い頃の逆骨は〝ミミハギ様〟のいる場所から逃げ出そうとしたが、できなかった』……あとは、『最下層に近い七十六区ということもあり、生きること自体苦労した。だから生きるためになんでもやった』とのことだ」
     生きること自体に苦労したという言葉に、長次郎の頭の中であった想像が集約され、一つ塊へと形成されてゆく。
     逆骨の手癖の悪さはそこから来ているのかもしれない。食べるために盗み、人を傷付け、傷付けられ……時には殺しに手を染めた。不遇で不憫、そして不情な現実を積み重ね、元柳斎によって〝人の中に〟戻された。そんな自分を顧みたからこそ、まだ人の道を外していない親方や清顕にはやり直す道を提示したのかもしれない。
     もしかすると、逆骨も報いの時を待っているのかもしれない。清顕が、悪行は詳らかにならないと真っ当な人間が浮かばれないと言っていたように、自らの生の最期に裁きが訪れることを……。
    「そんなに辛気臭い顔すんなって。ほら、羊羹食おうぜ。ちょうど茶もあることだし」
     黙り込んだ長次郎を見た千日が部屋の空気を軽くしようと明るい声で言ったところで、火鉢に掛けられた土瓶がひゅうひゅうと音を立てた。注ぎ口から勢いよく湯気が出ているのを確かめると、千日は傍に置いてあった手拭いを掴んで土瓶を持ち上げ、ゆっくりと火からおろす。
    「私が淹れます」
    「いいって。ここは俺の部屋。もてなすのは俺の仕事だ」
     その返しに、上げかけた腰を戻した長次郎。湯飲みに茶が注がれるさまを眺めながら、「しかし、逆骨殿が自分で買ったお菓子をくれることもあるんですね」としみじみと言った。
     何気なく放った言葉だが、土瓶を傾けていた千日の動きがぴたりと止まり、頭が訝しげに傾けられるのが見えた。
    「……言われてみれば珍しいな。いや、むしろこんなことははじめてだ。一体どういう風の吹き回し……」
     瞬間、部屋の外から大声が聞こえた。
    「おーい、俺の羊羹見なかったか? 部屋に置いてあったはずなんだが……」
     乃武綱だ。「おれ知らんよ」と返した鷹揚な声は弾児郎のようだ。少しの間どこにいった、知らないの騒ぎの後、大人二人分の足音が遠ざかっていくと、部屋には奇妙な静寂が降りる。
     静寂を破ったのは千日だ。
    「食っちまおうぜ」
     ためらいのない提案に、長次郎は「そうですね」と即座に返答する。そうして揃って羊羹にかぶりついた二人は、次には至福の笑みを浮かべていた。
    「お、この羊羹、入っているのが栗だけじゃない……これは求肥か? 執行にしてはいいものを選んだじゃねえか」
    「美味しいですね」
     千日に賛同しながら茶を啜った長次郎は、細く開いたままの障子戸の間から一つ、白いものが入り込んでくるのを見た。近付き、そっと戸を開ける。玉砂利が敷かれた庭に、白いものが次々と落ちてゆく。
    「四楓院殿、見てください。雪です」
     「どおりで寒いと思った」千日の声に、長次郎は思い出したように体を震わせた。急激に下がった気温が皮膚の表面の熱を奪い、外気と自分が同化しそうなほど冷え、血液までもが凍り付きそうな寒さだった。
    「今年の冬は寒くなりそうだな」
     長次郎の隣に立った千日が空を見上げると、雪は次第に大粒になり、あっという間に景色を白くけぶらせてゆく。
     死へと誘うような眠りの季節が、尸魂界に訪れたのだ。

    《了》
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    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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