すがれ〜 囚人のジレンマ、というモデルが存在する。
「君は犯罪者A。共同で犯行を行ったBと捕まり収監されている。俺は君たちを起訴したい担当検事。俺は黙秘し続けた君を密室の取調室に呼んで、次のような話をする。
"君と彼の罪の重さはおそらく懲役5年。しかし、実は証拠不十分で、このまま君とお仲間さん両方が黙秘を続ければ2人とも懲役2年になってしまう。困ったことにね。そろそろ君は連日の取調べに飽き飽きしている筈だ。だから俺と取引しない? うん、司法取引ってやつ。──Bを売るんだ。
君がBの罪を告発して、Bは黙秘を続けたら君は公判手続きに協力したとしてこの場で釈放してあげよう。つまり懲役0年、一方黙秘したBは懲役10年だ。今の流れで分かると思うけど、Bにも同じ取引を持ちかけている。だから、逆も成立する、君が黙秘を続けてもBが君を裏切ったら君は懲役10年、Bは直ちに釈放される。もし、2人ともお互い罪を告発したら法に従って2人とも懲役5年だ"」
さて、と間の抜けた一拍を置いて海灰色が私を見た。薄く横に大きい形のいい唇が開いて、舌を覗かせる。仮定における私の名前・Aを紡いだ。
「君は黙秘と自白、どちらを選ぶ?」
九段下合同庁舎 厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部捜査企画課。
その日はフロアが閑散としていたはずだった。K県の港に停泊中の大型輸送船から違法薬物が押収された報により嫌がっていた由井さんを含めた全員が出払っていた。その全員のひとりだった私はとてもひとりで捌ききれないだろう報告書を抱えて、空振りだろうと思いつつも「お疲れ様です」と声を上げながら重い扉を開いた。
「お疲れさん」
全く予期していなかった返答と思い当たる人物に、背筋がぴんと伸びる。
課のセンターテーブルには、服部さんがどさりと座っていた。いつも通りのユルい雰囲気で声をかけながら、手持ちの資料を到底読めてるとは思えないスピードで捲っていた。「関さん少し上に呼ばれているみたいで」と話しかけた私を服部さんは「そう」といなした。
とりあえず服部さんに構う必要はないらしい、と私は判断して机に座る。そして、書類や証言と外部機関からの報告書を広げた。今日もやることがある、徹夜かもしれない。そう言い聞かせながら、報告書を広げたところで、
「君は黙秘と自白、どちらを選ぶ?」
突然投げかけてきたクイズ(問題?禅問答?)に私の手と頭が止まった。服部さんの質問の意図がどこにあるのか分からない。
「…………前提の確認をしてもいいですか」
「どーぞ」
変わらず資料を読み続けながら、服部さんは答える。
「……BはA、つまり私にとって、どんな人ですか?」
私の質問に服部さんは手を止めた。そして、私を見る。
「へぇ」
私は慌てた。何か間違えてしまったのではないかと。服部さんに対して緊張することはあっても、それは関さんとは別ベクトルの尊敬の念があるからだ。挽回のチャンスがあるなら、しっかり考えたい。
「じゃあ。A視点では利益が一時的に一致しただけの人となりを全く知り得ない人物としようか。また当然Bとは一切相談もできないものとする」