雨あがりの番傘「うわ、また雨か」
蕎麦屋から出るなり髪を濡らした水滴に私はげんなりして声を漏らした。
スメールへ向かう日が決まるまで稲妻に滞在することとしたのだが、どうやら"梅雨"が訪れたらしいのだ。このジメジメした鬱陶しい気候はひと月ほど続くそうで、想像しただけで嫌気が差した。
慣れた様子で歩く稲妻人を見る。着物とやらは一見、さぞ暑かろうと思える格好なのだけれど。
『涼しいでござるよ、先人の知恵が詰まっておる』
のほほんとした、とある少年の台詞が蘇った。
稲妻での長旅に大いに関わりがあった男の子だ。年齢の割にどっしりと構えていて、剣の腕も頭脳も右に出る者はそういない。
とても頼りになる……が、時折真顔で嘘をつきからかってくる為油断は禁物だ。
(絶対暑いでしょ)
その時も今も相変わらず疑心暗鬼のまま、私はしっかり用意してきていた傘を手に取ろうと傘立てに視線を移し…。
移したのだが。
「あれ?」
ない。
傘がない!
オレンジ色の、買ったばかりの…。
「ま、まさか」
狼狽しながら答えに辿り着いてしまう。
(盗まれた!!)
なんということだ、信じられない。
あんな可愛い傘を……いたいけな少女が濡れ鼠になっても構わないと言うのか。
必ずとっ捕まえて竜巻をお見舞いしてやる、物騒な計画を立てつつ無駄に底まで掘り返し始めた時、
「傘を盗られたでござるか?」
朗らかに話しかけられた。
「え…、あ!万葉!!」
「うむ。拙者だ」
声の主はつい先ほど脳内にも登場していた流浪人・楓原万葉だった。朱色の傘を手に、こてんと頭を傾け微笑んでいる。
(……元・流浪人か)
彼は自らの目的を果たし、現在は借家住まいの身だ。戦いの爪痕を残しているこの国で、ゴローをはじめとした戦友たちと共に後片付けの最中なのである。見返りのない人助けにも尽力する姿は心根の優しい万葉らしさに満ち溢れていた。
す、と影が落ち思考を遮断する。
彼が傘を寄せてきたのだ。にっこり笑われたのでああなるほどと思い、
「くれるの?」
一言。
すると万葉が目をまんまるにした後、腹を抱えて笑いだした。
「あはは!その反応は予想外だったでござる。お主、拙者が濡れても良いのだな?」
「冗談だよ、冗談。……入れてくれるんでしょ?」
えへへ、と敢えて図々しく笑顔をつくると、彼が目尻を拭い二度頷いた。遠慮なく甘える私。
少しだけ身体が触れる距離で歩いていく。目的地は町外れの川辺。今日はもう壺内でゆっくりする予定だ。人前で使いにくい為敢えて離れた位置に置いてある。
そこへ向かうのを快く了承してくれた万葉。文句ひとつ言わず傘を持っている。
「ほんとに良かったの?用事あったんじゃない?」
「構わぬよ、ああも可愛らしく来られてはな」
「なにそれ、下心だ」
「うむ。その通りでござる」
軽口を叩く万葉の頬を摘まむと嬉しそうに「いたた」と言われた。これではお仕置きになっていない。
「まあ今のは半分冗談として」、聞き捨てならない言葉を吐きながら彼が仕切り直した。
「お主と相傘したかったのだ」
「やっぱり下心じゃん!」
「雨の日ならではの時間でござるな」
しみじみと言う万葉に私がぼやいた。
「なに喜んでるの?全然気分上がらないよ、雨嫌い……」
「ほう?何故」
「いや嫌う要素しかなくない?湿度高いし濡れるし洗濯物乾かないし」
「はは、次から次へと出てきそうな勢いだ。……ふむ。どうしても壺に帰りたい、という訳でもないならば、ひとつ拙者に付き合わぬか?」
はたと立ち止まる私。目元を緩めている万葉。
ゆるりとした動作で彼が人差し指を立てた。
「雨の楽しみ方を教えてやろう」
ぽたん。
頭上で大きな雨粒の落ちた音がした。
「変わった傘だよね」
畦道を歩きながら言った。
足元が濡れるのはどうしようもないことで、ぬかるんだ土を踏む靴先がじんわりとしてきている。
私の言葉に「ああ、これか」、万葉が言ってくるりと柄を回してみせた。
「番傘でござる。稲妻ではどこにでも売っておる、皆よく使っているであろう?」
「うん。これさ、紙でできてるよね?なんでふよふよにならないの」
「油が塗ってあるのだ」
素直に感心した。最初に考えた人は天才だ、すごい。
私の思考が読めたのか、万葉が微笑ましげに頷いている。
改めてじっくり見ると、番傘はデザインに関しても素晴らしい一品だと思った。何本もの竹を使った骨組みは均一感も相まって模様にさえ見えてくる。やや色褪せた朱色の紙は、なんとも稲妻らしい奥ゆかしさを感じさせる。これは……確か"和紙"だったか。独特のあたたかみがあるな。
「かっこいいね、着物姿にもぴったり」
「気に入ったでござるか、そうかそうか」
満足した表情で万葉が相槌を打った。
うん、本当にかっこいい。万葉によく似合っていて、
「つめたっ!?」
思わず頭を覆った。水滴が頭皮に当たったのだ。
傘の下なのになぜ?キョロキョロする私に彼が笑い始めた。
「すまぬ、穴が空いておってな」
「は!?、わわ!冷たい…っほんとだ、空いてる!」
私の丁度つむじ辺り。見事に破れている。
万葉がまた柄を回した。穴の部分を後ろに移動させる為だろう。
「すっかり忘れていたでござるよ。廃棄寸前の物を安く買わせてもらった、という経緯が…」
「前言撤回!やっぱりかっこ良くない!」
「おや、むくれてしまったか。これはこれで可愛らしい」
膨らんだ私の頬を指でつつき、彼がまた笑った。
「拙者、なにせ文無しでな。いやはや、ある意味ぴったりでござる。お主の言う通り」
「自信満々に言わないでよ、もう!」
「そう怒るでない。……ほら、着いたぞ」
今度は万葉が立ち止まる。彼の視線の先にあったのは、
「……花が、いっぱい」
青色の花々。
小さな花弁が集まって、大きく丸い一つの花を形成している。かなり特徴的な見た目だ。
吸い込まれるように近付く私に万葉が口を開いた。
「紫陽花。梅雨時が見頃でな、美しいであろう?」
「うん……!綺麗だね」
初めて目にする光景に圧倒された。稲妻にはまだまだ私の知らないものが沢山あるらしい。
雨粒を弾く花びらが可愛くて見惚れていると、彼が豆知識を披露しだした。
「この花は土壌によって色が変わる。ここは月草色……」
「へー、面白いね!他はどんなのがあるの?」
「桃色と菫色が代表的ではなかろうか」
「ピンク!?えー、いいなぁ。見たい!」
「ふむ、これはお気に召さぬか?」
万葉が青の花弁を撫でた。首を横に振って私が返事をする。
「や、そんなことはないけど。雨ってさ、なんとなくどんよりしちゃうから……あったかい色ならそういうのも吹き飛ばしてくれそう、って」
「……なるほど、一理ある」
顎に手を添える万葉。失礼だったかな、と思ったものの納得した風に言ってくれたので安心した。
彼は人の意見を尊重できる人物で、頭ごなしに否定するのではなく自分の中で噛み砕いてから答えを出す。優しく、聡明……私は万葉のこういった面が好きだ。
「桃色の紫陽花が咲く場所。探しておかねば」
「いいよ、そこまでしなくても。……青も好き」
彼が真剣に考え始めたものなので流石に申し訳なくなり遠慮した。はにかんだ私に万葉が一瞬止まる。そうしてこほんと咳をし、
「時にお主。早く梅雨が明ければいいのに、と思っておるか?」
「そりゃ、もちろん」
「ならば拙者の家に行こう。とある儀式を伝授するでござるよ」
「儀式?」
返事はなく代わりに笑顔が返された。さてはもったいぶっているな?
まあ他に予定もないし、アジサイは綺麗だったし、拍子抜けなオチが待っていてもいいか。
行きたい旨を伝えると目に見えて喜ばれた。そして、
「儀式の名だけ先に教えても良いぞ」
「なに?」
得意げに番傘を一回転、にやりと笑う。
「てるてるの儀でござる」
「お邪魔しまーす」
万葉の家に来るのはこれで二度目だ。
借家住まいになったことを伝えられた時、道案内がてら招いてくれたのである。
外観・内装共に稲妻のポピュラーな家屋といった雰囲気で、広さは三人くらいなら無理なく座れる程度。
小さな台所と、田園を眺められる縁側もある。
家具は必要最低限だ。座布団もそうだが古さを感じさせ、おそらくこれらも廃棄予定だった品なのだろう。
「質素ですまぬな。ううむ、茶菓子はあったか……」
棚を開けては閉める彼にやんわりと声を掛けた。
「お蕎麦食べてお腹いっぱいだから大丈夫。ありがとう」
「む、そうか。胸を撫で下ろしたでござるよ、昨夜根こそぎ食した記憶しかなくてな」
万葉らしい言い回しについ噴き出してしまう。
座って待っているように言われ、お言葉に甘えさせていただく。他人の家とは言え相手は万葉だ、すぐにリラックス状態となりちゃぶ台にぐでんと身体を預ける。
五分後ほど経過し彼がお盆を手に戻ってきた。
「待たせたな」
乗せていたのは茶器一式と……白い布に紐、筆。あとは墨汁か。
眉根を寄せる私に万葉がクスッと笑い説明を始めた。
「てるてる坊主を作るでござるよ」
「てるてるぼーず?」
湯呑みを渡されお礼を言う。緑茶だ、啜ると丁度良い熱さと渋みが口の中に広がった。
「明日は晴れますようにと願掛けする為の、謂わば人形だな」
「わ、私にも作れる?」
「無論。これをこうして……終わりでござる」
布を丸め、紐でくくり。洋服を表現しているのか、ひらひら具合を整えていく万葉。にっこり笑みを浮かべ私の前で揺らしてみせた。
材料をポンと手に乗せてくれたので見様見真似で作ってみる。
「よっと。えい。……あ、できた。すっごく簡単」
「そうであろう?まあ、のっぺらぼうは可哀想であるから最後に一手間加えるのだが」
万葉が、豆皿に墨汁をほんの少し垂らした。毛束の細い筆をそれに浸し、てるてるぼうずにちょいちょいと何かを描く。くるんと見せてくれたのは、
「わ、可愛い!」
口を逆三角にして笑うてるてるぼうず。素朴に点で描かれた目がユニークだ。
「力作でござる。ほれ、お主も」
自画自賛する彼に促され早速私も描いてみる。使い慣れない筆で慎重に慎重に…、
「よし。どう?」
「ほう、上手いな!」
感心した様子の万葉に鼻を高くする私。彼のものを手本に、お花の髪飾りを足してあげたのだ。うんうん、我ながら上出来。
「で、これどうするの?念を送ればいいの?」
「はは、違う違う。吊るすでござるよ」
「く、首を?」
「うむ……間違ってはおらぬがそう言われると縁起でもないな」
恐ろしい儀式だ、思いつつ立ち上がった万葉に着いて行く。
「ここが良いか。空がよく見える」
縁側で万葉が雨雲を仰ぎ、いそいそと軒下にてるてる坊主の紐を結ぶ。
方法は学んだので、私の分は塵歌壺に持ち帰って吊るすこととした。「離ればなれか」、彼が冗談めかして言う。
「梅雨が終わるまで毎夜話しかけねばな。明日天気にしておくれ、と」
「そうだね。二人でお願いするんだもん、すぐ明けるよ」
きゅっとてるてるぼうずを抱きしめてはしゃぐと、万葉が微笑して私を見た。
「明けたら遠出でもせぬか?」
「いいよ、行こ行こ!」
即答する。
すると、万葉が一呼吸おいてこう言った。
「一番に、拙者と出掛けてくれるか?」
雨音が聞こえる。
しとしと、しとしと。
静かに地面へ染み込んでいく。
そんな情景の中に佇む彼は、いつもより艶めいて見えて。
「……うん」
頬に熱を感じた私は、たったそれだけの言葉しか返せなかった。
万葉がふっと目を閉じる。
「……感謝する。今から楽しみでござるな」
雨空に視線をやった彼の横顔になぜか気恥ずかしさを抱き、私はてるてるぼうずを一層強く抱きしめて俯いていた。
一週間が経過した。
残念ながらまだまだ雨模様の稲妻、今日は本降りになる前に帰ろうと急いで買い物を済ませた。
「あー、お風呂入りたい〜っ!」
湿気でべたつく身体が気持ち悪い。壺が恋し過ぎる。
いっそ梅雨明けまでモンドか璃月にでもいればいいのだが、稲妻を探索し切れていないものでそれは却下せざるを得ない。
「靴がびしょ濡れ…、ん?」
水溜まりを避けつつ走っていると、前方に見覚えのある朱色が目に入った。ついその名を口にする。
「万葉っ?」
「む?」
やはり。
振り向いてきたのは番傘の柄を肩に預けた少年。
私を見るなり、ぱぁっと表情を輝かせた。
「蛍!奇遇でござるな」
「うん。何してるの?田んぼの横で」
なんにもない場所だ、田園の他は。
こんな所で、しかも雨の中つっ立って……疑問しか湧かなかった。
訝しむ私に万葉が薄く笑った。
「……ふふ、聞こえぬか?」
「え?……ああ」
ゲコゲコ…あちらこちらから、沢山の声。
「カエル?あまりに日常と化していたから意識してなかったよ」
「それはもったいない。晴れるとこのような大合唱は聞けぬというのに」
「そうなんだ?ふーん……」
私の興味のなさにクスリと笑い、彼が自身の耳に手をあて瞼を伏せた。
雨足が少し、強くなる。
合わせたようにカエルが一際騒がしくなった。
「……そうか、楽しいか」
万葉が呟いた。とても、愛おしそうに。
正直、私には良さが分からない。カエルは苦手なのだ、騒々しいだけじゃないかとすら思う。
(……でも)
万葉のこの表情は好きだ。
……万葉と二人で聴く合唱は、ちょっとだけ好きだ。
彼は自然の中に潜む宝物を見つけるのが上手い。
私が通り過ぎてきた何気ない存在を、研ぎ澄まされた感性で宝石に変えてみせる。
そして、共有してくれる。
(雨、止んだらどこかに行っちゃうのかな)
そうではないのだろうと分かってはいるが、この声が当たり前の風景から欠けると思うと寂しくなった。
万葉を見つめた。未だ耳を傾けている。
私は、ゆっくりと傘を閉じた。
彼が驚いた風にこちらを見て……微笑む。
「あいがさ、して?」
番傘の下、万葉の肩に頭をのせた。
じわりとあたたかさが伝わってくる。
「……喜んで」
波紋を描いて跳ねる雨粒。
ほら、本降りになった。早く帰らなきゃいけないのに。
「今日は……降り止まぬままで良い」
万葉の言葉に小さく頷いた。
てるてるぼうずに願っておきながら都合がいい話だ。
私と同じことを思ったのか、彼がクスクスと声を漏らす。
(悪くないな。雨も)
ささやかな幸せに浸っていたその時。
ぴょん。
カエルが私の足首に張りついた。
「っ…きゃあああ!!」
飛び上がってパニックに陥る。万葉がケタケタ笑いだした。
「ははは!お主、好かれたでござるな」
「嬉しくない!ぜんっぜん嬉しくない!」
既にカエルは離れたのに暴れ回ってしまう。か、感触が残ってる……っ!
鳥肌の立った腕をさする私に彼が言った。
「蛙の歌、なかなかに良かったろう?」
このタイミングで!悪意しか感じないぞ。
憤慨した私はカエルの声をかき消すように大音量で叫んだ。
「もうカエル嫌い!!」
さっさと止めばいいのだ、雨なんて!
更に数日が経ったある日のこと。
「蛍、待ってくれ!」
街中を歩いていた私は突然後ろから呼び止められた。
見ると、親しい少年が手を振りながら駆け寄ってくるところだった。
もふりとした獣の耳を生やした男の子、気付いてくれたからであろう安心した顔で話しだす。
「すまない、大声で」
「ううん。どうしたの?ゴロー」
彼は抵抗軍で指揮をとっていた実力者だ。軍解体後も毎日忙しく後片付けに勤しんでいる。
万葉とは友人で、そのお陰か私もすぐに打ち解けることができた。
「以前、お前が行きたがっていた茶屋があっただろ?」
「えっと……あ、休業の貼り紙してたとこね」
少し前、モラ不足に嘆いていた私をゴローが高価買取の質屋に連れて行ってくれたことがあり。
道中、オシャレな外観の茶屋を見つけたのだ。残念ながら今話した通りの結果で入れはしなかったけれど。
記憶を辿ったところで、彼が快活な笑顔を見せた。
「昨日から営業を再開しているみたいだぞ」
「そうなの!?」
「ああ。お前が喜ぶと思って早速伝えに行こうとしたんだが……はは、ここで会うとは」
予期せぬ耳より情報にテンションがメキメキと上がっていく。
興奮した私にゴローが提案をしてきた。
「良ければ明日、一緒に行かないか?行列ができているのを見て俺も興味が湧いたんだ」
「行く!行きます!」
「よし。じゃあ今と同じ時間にここでまた会おう」
「了解!」
敬礼すると彼が声を上げて笑った。今日はあまり暇ではないらしく、会話もそこそこに立ち去っていく。
ゴローの後ろ姿を見送り、どんなメニューがあるのか妄想して……肩を濡らした雫に空を見上げた。
(結局降ってきたか)
晴れてはいないものの、朝は曇りで済んでいたのに。
急に降りだした雨に溜息をつき、きちんと用意してきた傘をさす。
昼間にも関わらず薄暗い。せっかく高揚した気持ちが萎えてしまった。
(壺に戻ろう)
とぼとぼ歩き始める。
近道をしようと路地に入り、
「わ!?」
「おっと」
盛大に人とぶつかった。
よろめいた私の腕を掴んで支えてくれたのは、
「万葉!」
「平気でござるか?すまぬ、ぼうっとしておった」
今日は偶然が重なるなぁ。
「私こそごめん」、謝り改めて向き直る。
「雨、降っちゃったね」
「うむ。なかなかどうして上手くはいかぬな」
言いつつも決して困った様子ではない万葉。
年がら年中自然と戯れているのだろうし、当然と言えば当然か。
自分の中で納得していると、万葉が質問をしてきた。
「お主、明日は何か予定があるか?」
「え?あー、あるね」
「む、そうでござるか……」
肩を落とした彼に若干の申し訳なさを感じつつ、何気なく言った。
「ゴローと茶屋に行くの」
瞬間、返事が途絶えた。
傘の柄を握る万葉の手に、力が入る。
「……二人で?」
平坦な声色。
万葉らしくないな、思いながらも答える。
「うん。前々から行きたかった店でね、楽しみだよ」
朱色の一部が滲んだ。
廃棄寸前の傘。油が、剥がれて。
「そうか」
ぼたり。
やけに雨の落ちる音が大きく聞こえた。
番傘が──傾く。
「……そうか」
見えない。
傘で隠れて、万葉の瞳が見えない。
ざあざあ、ざあざあ。
雨音って、こんなにうるさかったんだ。
「万葉……?」
心臓が鈍く痛んで、おそるおそる呼んでしまった。
どうか、したのだろうか。
彼は依然として黙ったまま。
(……止んで)
どくん、どくんと鳴る鼓動を抑えたくて、私はカサついた頭で考えた。
僅かな間でいい、止んで。
そうすれば、万葉が傘を閉じる。顔が……見える。
耐え切れずに手を伸ばしかけて、
「晴れるといいな」
「……え?」
彼が顔を上げた。いつも通りの優しい表情だった。
「うむ……。きっと晴れる」
なぜだろう?上辺だけの言葉に聞こえる。
どう反応したらいいのか分からず、当たり障りのないことを言った。
「や……梅雨、だし。雨でしょ」
「もうひと月を優に超えた。いつ明けてもおかしくないでござるよ」
「そう、なんだ」
それは、安心できるね。
乾いていた。この声は。
上辺だけの言葉は、私も同じだ。
万葉が一歩踏み出した。
全く動けないでいる私の横を通り過ぎてゆく。
「今夜、てるてる坊主に頼んでおこう。……明日こそは晴らしてくれ、と」
背中越しにその台詞を残して。
「美味い。並んだ甲斐があったな!」
「うん、丁度いい甘さだね」
団子を頬張り、ご満悦に湯呑みを持つゴロー。かれこれ三皿目だろうか。
約束通り茶屋に来た私たち。朝から一時間も待たされるはめになったが、出てくるお菓子はどれも美味しくてそんな苦労は既に忘れてしまった。……何より。
「快晴の日に食べる甘味は最高だな。豪運かもしれない」
「あはは。そうだね」
今日は日差しが肌に刺さるほどのカンカン照り。久々に文句なしの青空を拝めている、まさか本当に晴れるとは。
「こりゃ梅雨が明けたに違いない」
「分かるの?」
「ああ、毎年のことだ。感覚で何となくな」
なるほど。
伊達に稲妻生まれ稲妻育ちな訳ではなさそうだ。
感心して……不意に万葉の顔が思い浮かんだ。
(昨日、元気なかったな)
笑ってはいたけれど、どこか悲しんでいたように思う。
何か傷つけることを言っただろうか。
思い当たる節がなく、もやもやした気持ちで饅頭に手を伸ばす。噛んでも、いまいち味がしない。
ボーッと咀嚼しているとゴローが喋り始めた。
「夏の訪れを一番喜んでいるのは万葉かもな」
「え?」
「お前に綺麗な向日葵を見せたいとうずうずしていたぞ」
「ヒマワリ……」
稲妻人が、夏場見るのを楽しみにしている花の一つだと聞いたことがある。
『遠出でもせぬか?』
蘇る言葉。
急に胸が苦しくなって……取り返しのつかないことをしたのではないかと、喉を通った餡に不快感を覚えた。
ゴローが何か言っている。返事をしなくては。
美味しくない。どうして?さっきまではあんなに。
賑やかな店内で私だけが別の空間に切り取られた錯覚に陥る。
(万葉……)
この場に居もしない人間のことばかりを考えてしまう。
結局、少年に別れの挨拶を告げるまで心が晴れることはなかった。
(ゴローに申し訳なかったな)
あの日と同じ畦道を力なく歩きながら反省する。
幸い気遣わせてしまう事態にはならずお互い笑顔でさよならは言えた。けれど罪悪感は当然ある。
(……暑い)
雨天時とはまた違った暑さだ。しかし、これは待ち望んできたもの。
……そのはずだったのだが。
とあることに気付き、私は足を止めた。
(静かだ)
カエルの声がしない。
こんなにも強い日差しなのだ、元気がなくなったのかもしれない。
詫びしい。物悲しい。でも、晴れている。
(晴れて、いたって)
カエルは嫌いだ。騒がしいし、足にへばりつくし。
このまま黙ってくれていればいい。
「……あ」
無意識に言った。
視界の隅っこに見えたから。とても可愛い、ピンク色の。
「アジサイ……」
ぽつんとひとりで咲いている。気付かなかったな、この間は。
想像した以上に美しい。あたたかみのある、気分を上げてくれる色。
──万葉。
今、堪らなく逢いたい。
カエルはおりこうさんで、アジサイはすごく綺麗で、てるてるぼうずはもういらない。
だけど、彼がいなくては意味がない。
「……行こう」
万葉が私を待っている。そんな確信があった。
「万葉、いる?」
古めかしい玄関の戸をコンコンと叩く。
急いで引き返してきたもので、呼吸が乱れていた。早く行ってあげなくてはならないと思ったのだ。
反応はない。だが、気配を感じた。
招かれぬまま侵入するのはどうかと思うが、私はそこへと歩いていった。
彼が空を仰ぎ佇んでいた縁側へ。
ちりん。
涼やかな音色。これは。
(風鈴)
夏が近付くと稲妻の民がこぞって買いに行く物……そう教えてくれた。
「……蛍」
目の前で、寂しげに立っている少年が。
「ごめん、勝手に」
「いや……構わぬよ」
会話が途切れる。
いつもなら世間話を持ちかけてくれるのに。
風鈴がまた風に揺れて鳴った。……その、すぐ横。
「もう……いらないよ?」
てるてるぼうず。
晴天の下、相変わらず逆三角の口でゆらゆらと笑っている。
万葉が苦笑した。
「分かっておる。……だが、今日一日はまだ必要だと思ったのだ」
なぜ?
聞かずとも、答えは見えていた。
「途中で降り出したら、お主が悲しむであろう?」
無性に泣きたくなった。
優しい。本当に優しい人だ。いつだって私の気持ちを案じてくれているんだ。たとえ自身が傷ついていたとしても。
「万葉……、ごめん。ごめんね。一番に、出掛けようって……」
「わざとではないと知っておる。そうでなくとも謝る必要などあるまい。拙者は、お主が笑っていればそれで良いのだから」
そこまで言って、万葉が俯いた。
拳を握りしめ、唇を引き結んでいる。
やがてゆっくりと……強張った手が解けた。
「……決して嘘ではない。それから、謝るのは拙者の方でござる」
「え……?」
「今朝、お主とゴローが並んでいるのを見かけた。ああ、晴れて良かったと、願掛けして良かったと、そう思った」
万葉が息を吐く。
「……同時に」
風が止む。静けさの中……顔を上げた彼の声がよく聞こえた。
「──晴れなければ良かったのにと、思ってしまった」
自嘲するように万葉が表情を崩した。
私は何も言えない。まだ、何も言えはしない。「すまぬ」、彼が言葉を続ける。
「お主に酷いことを……。けれど本心なのだ。いくら日差しが降り注ごうが、町が活気に満ち溢れようが、」
ふ…と、万葉が静かに笑った。
「拙者の心は、雲がかったままにござる」
そうか。そうだったのか。
(傘の下で……)
そんな顔を、させてしまったのか。
懺悔を終えた彼が口元に虚しさを滲ませる。本当はもっとドロドロとした感情が渦巻いているのだろう。いっそぶちまけてしまいたいのだろう。
だけど万葉は曝け出したりしない。それが彼らしさだ。誰かを傷つけるくらいなら自分を殺しても構わない。そういう人なんだ。
彼なりの精一杯の訴えに、私は。
「……見つけたんだ」
万葉の手を優しく握った。彼が息を詰める。
「ピンクのアジサイ。まだね、綺麗な色だったの。……見に行かない?」
至近距離で目を合わせる。万葉の瞳が光を宿した。
「早くしなきゃ、見頃が終わっちゃうよね?」
「……そう、だな。色褪せてしまう……」
ちりん。
音が響いた。
再び吹き始めた風に万葉の髪がさらさらとなびいた。
彼の手を離した私は、てるてるぼうずの方へと歩く。
紐の結び目をほどき、一仕事を終えたお人形を指で撫でてやる。
「ありがとう。来年また逢おうね」
てるてるぼうずにお礼を言った私を見て、万葉が微笑んだ。そして、丁寧な動作で真っ白いお人形にお辞儀をしてみせる。
どんなに小さな存在にも敬意を忘れないその姿を眺めて、顔が綻んで、ああ好きだなぁと幸せを感じて……私の心にある情景が浮かんできた。
澄み渡る空。
夏の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、私は彼の元へと走ってゆく。
背を向けた彼はやっぱり番傘を持っていて、
いらないよ、もう。
私がそう呼びかけると、振り向き様に悪戯っぽく笑って言った。
『これは日除けなのだ』
ほら、お主も一緒に。
こちらに差し出してきた手を掴むと、彼が微笑を浮かべて握り返してくれる。
晴天に連れられ喜んだのだろう、
──くるり。
番傘が浮き足立って、鮮やかに回った。