続きはコーヒーと共に「本題に入る前に、アーカーシャ端末の基本的な知識について記そう。まず、この…ん?えっと、この、この……、は云々…」
「読めない文字があったからと言って飛ばすのは良くない。調べろ」
「……後でそうしようとしてたの」
バレていたか。
私は、隣で次から次へと読み終わった本を積み重ねていく彼──アルハイゼンを見て頬を掻いた。三時間ほどしか経っていないのにも関わらず、少し…いや、かなり厚みのある本が既に五冊積まれていた。
「分からないものを分からないまま進めるな。特に、文字など辞書を引けばすぐに理解できるじゃないか。なぜしない?」
「ああもう、する!するから」
喚いた私に呆れたのか満足したのかは知らないが、顎に指を添えながらアルハイゼンが唇を動かしている。かなりの小声でよく聞こえないものの、おそらく興味深い一文を見つけたのだろう。こちらへの関心を一切失ってしまったに違いない。
スメールで実感したのだが、私には圧倒的に知識が足りていない。ティナリやセノ、ナヒーダ、それから(悔しいが)アルハイゼン…その他にも沢山の人物に感銘を受けた。物事により理解を深めれば、アドバンテージが生まれる場面も当然多くなる。次の目的地へ向かう前に、できる限り勉強しておきたかった。
(と、思って図書館に来たらこれだ)
教令院の書記官・アルハイゼンと出会したのである。新しい本が大量に入荷されたらしく、満員御礼の今日。空いている席がたまたま彼の横しかなかったのだ。
ちなみに、一瞬怯んだがにこやかに挨拶をして座った。仲間なのだ、無言は良くないだろうと思って。
(私の方はガッツリ無視を決め込まれたけどね)
彼曰く、ヘッドホンの遮音機能をオンにしていただけで悪気はなかったそうだ。それを確かめる術はないのだけれど、私としては"本に没頭していた説"を推したい。そちらの方が有り得る。
(でも……)
先ほどもそうだが、隣に座って三時間と少し。物凄く時折リアクションを見せてくれている。遮音機能とやらがオフの証拠だ。彼の言い分を信じてもいいのかもしれない。
(それにしても妙だなぁ)
そんなに便利な機能があるのなら、私と挨拶を交わした後すぐに再度オンにしておけばいいのでは?その方が集中できるだろう、単純に考えて。
アルハイゼンらしからぬ、非合理的な行動だ。
私は、ついつい本よりも理解が及ばない彼に視線を向けてしまう。そして、
(わ……)
その横顔の造形美に、思わず頬を赤らめてしまった。
スメールの平和を取り戻すまでの間、死と隣り合わせの場面にいつも立たされていた。そのせいか、アルハイゼンの容姿を意識して見惚れるなんてことは……一度もなかったのだ。
(睫毛長い。鼻きれい、唇も……)
まずい、目を離せなくなってきた。何をしている、本に集中しろ。いやでも全く内容が理解できなくてつまらないから仕方がない。ということにしたい。
(私、今までどうやってドキドキせずに話してたんだろ)
変に意識し出すと止まらなくなる。
脳内で格闘している内に、アルハイゼンがこちらを向き始め──
(やだ、こんな顔見られたらっ…)
が、しかし。
「その本、読まないのなら貸してくれないか?気になっているんだ」
彼は私などこれっぽっちも見ていなかった。『アーカーシャ端末の内部構造〜改訂版〜』、この文字に釘付けのようだ。
呆然とした私は、ガシャンガシャンと音がしそうなぎこちない動きでアルハイゼンに本を渡した。受け取ったと同時、アルハイゼンがとてつもないスピードで読みだす。「なるほど、あの記述はやはり間違いだったか。俺が正しかったようだ」、僅かにそう言っているのが聞こえてくる。私など蚊帳の外だ。
空気が抜けた風船みたいになった私は、ただただアルハイゼンが読書に耽る姿を見ていることしかできなかった。
(というか)
凄過ぎないか?
私が苦労して読んだ一ページ目。彼にとっては引っかかる箇所など存在しないのだ。
見るからに賢そうな人物ではあるが……接する度に頷いてしまう。本当に聡明な人なんだと。
「……すごいね」
無意識に声が出た。
「みんながアルハイゼンを天才って言うのも納得だよ。私とは全然違う」
賞賛の言葉を発した瞬間、彼が手を止めた。この本を開いて初めてのことだ。
アルハイゼン、その名を呼ぼうとしたが、彼が先に口を開いた。
「それは言い訳だ」
淡々とした一言。けれど、彼が"言いたい"と思った言葉。アルハイゼンという人物を考えれば、とても大きな意味を成す一瞬だった。
(読むのを止めてでも、言いたかったことなんだ)
本の虫と化している時のアルハイゼンは、余程の状況でもない限り他人に干渉しない。言われ慣れているであろう賞賛を、どうしても否定したかったのだ。
一体、なぜ?
(言い訳……)
私は、自分を見つめるアイス・グリーンの瞳から必死に真意を読み取ろうとした。
本当のことではないか。アルハイゼンみたいな人間は私からすると異次元の存在だ。何を喋っているのか分からなくなるし、彼の中の正解に辿り着けたことなんて数えるくらいしか…。
(アルハイゼンは私と脳のつくりが違うんだよ)
それでいいの?
私は、彼の横に積まれた本たちを見てハッとした。そして、自嘲気味に笑い目を伏せる。
(線引きしてる内は、そう思うんだろうね)
私は私の可能性を自分で否定してしまったのだ。
アルハイゼンという高い壁を前にして、最初から諦めにかかって、それを当たり前のように受け入れた。
(……失礼だったなぁ)
彼自身は意識していないだろうが、この本たちは努力の積み重ねでもある。私とは比べものにならないほどの勉強をしてきたからこそ、今の彼がいる。
私は、アルハイゼンを簡単に基準にして……安心していたのだ。
(彼みたいにできなくても仕方ない、って)
これを失礼と言わず何と言う?
(……恥ずかしい)
アルハイゼンはいつも、確固たる意志をもって行動している。他人の感想に感化されたりはしない。きっと、いつだって自分の価値を信じているのだろう。
ゆっくりとアルハイゼンに視線を戻し、私は謝罪の言葉を口にしようとした。
しかし、正しい返事はそれではないと気が付いた。
アルハイゼンの瞳に宿っているのは、怒りでも軽蔑でも呆れでもなかったからだ。
(そうか)
手を止めてでも、私に伝えたかったんだ。
「アルハイゼン」
「なんだ?」
「……ありがとう」
"こんなものではないだろう?君は"
私に、気付いてほしいくらいには価値を見出しているから。
(そうだよね?……アルハイゼン)
彼が少しの沈黙を見せる。
やがて本を閉じ、静かに立ち上がったアルハイゼンがぼそりと言った。
「コーヒーが飲みたくなった。外に出る」
そうして、片付けるのであろう読み終えた本を持ち上げる。
ずっしりとした一冊を本棚に戻した後、アルハイゼンがこちらを向いた。私の手元には、一ページも進んでいない難解な本。
「それ、借りるのか?」
「え?あ、うん……?」
「俺も興味がある分野だ。一杯飲み終えるまでの間、見解を語ってもいい。君の唸り声を聞き続ける趣味はないからな」
素っ気なく本棚に向き直った彼を、私は目を丸くして見る。何が起きているのかさっぱり分からない。
最後の一冊を戻し、私が渡した本をちゃっかり手に持ったままアルハイゼンが面白くもなさそうに言う。
「……カフェでも引き続き隣に誰かが座ったとして、俺は追い出す権利を持ってはいない」
私の返事を待たず、さっさと窓口に歩いていく彼。これはもしかして。
(正解の……ご褒美)
あくまで淡々としたアルハイゼン流のお褒めの言葉に、私は嬉しさを抑えられず急いで後を追いかけたのだった。