我のことが好きだったのか(……まただ)
望舒旅館。
すっかり定位置と化したこの屋上で、目の前の腹立たしいことこの上ない光景に歯噛みする。
「万葉って物知りなんだね!」
「大したことではござらぬ。稲妻の民なら誰もが知っている」
蛍が訪ねて来てくれたと思うと、厄介なおまけが今日も着いて来た。
楓原万葉。柔和な笑みが特徴的な男。あまりに顔を合わせる機会が多いもので嫌でも名前を覚えてしまった。どうやら自分の預かり知らぬところで濃密な交流があったらしく、親友と言っても差し支えがないのではと思うくらいに蛍と仲がいい。
稲妻から帰って来てからというもの、毎回このおまけと一緒に旅館を訪れるようになった彼女。せっかく長きに渡った会えぬ日々が終わったにも関わらず嬉しさなど微塵も湧いてこない。
(蛍……我に会いに来たのではないのか)
渡された杏仁豆腐をもそもそと咀嚼しながら思う。相変わらず美味いのがまた苛々する。いっそ「いらん、もう帰れ」と突き返して自分が如何に怒っているのか分からせてやれればいいのに。勿論そのような勇気は出ない、本当に帰られたら困るからだ。万一泣かせでもした日には……。
一応、二人で来る理由を聞いてはみたのだが「毎回偶然にも途中で会うんだよね」とそればかり。天文学的確率だぞ。
(くそ、何故訪ねられた側である我が気遣わねばならん?堂々としておけばいいんだ)
そう、堂々とこの邪魔者だけを追い返せば良い。
空になった容器を置き、つかつかと万葉に近付いた。一瞬驚いた後、にこりと笑って彼がこちらを見る。
「拙者に何か?魈殿」
「帰れ」
「ふむ?」
「貴様を呼んだ覚えはない。毎度毎度図々しいにも程がある」
腕組みして睨みつける。身長差……悔しいことに見下ろされている。あくまで若干だ。つくづく腹の立つ。
万葉が何か言おうとしたが先に蛍が口を開いた。
「私も呼ばれてないよ?勝手に来ただけ」
なんの悪気もない表情。ぐうの音も出ない。確かにその通りだがお前は別なんだ、と言ってしまえたら苦労はしない。やむを得ず一呼吸おき、
「遠回し過ぎたようだな。……万葉、我は貴様が嫌いだ。話したくない」
遂に言ってやった。我慢した回数は両の指を優に超えている、よく耐えたものだ。最初からこうすれば良かったのだ。きょとんとした様子の万葉を睨んだままいると、
「魈、そんな言い方は良くないよ」
悲しげな表情の蛍に怒られてしまった。何故お前が傷ついている?混乱する脳内をどうにかしようと必死になっている自分。
いきなり笑い声がした、万葉だ。
「構わぬ。拙者達だけで話していたものだから不快になったのであろう?」
「は?なにを都合のいい解釈…」
「あ、そうなんだ。ごめんね?魈」
予想外に蛍が元気を取り戻したので口をつぐんでしまう。ふざけるな、これでは我が嫉妬して拗ねたようではないか。「すまぬな」、謝罪してきた万葉になんと返せばいいのかまごついて……気付いた。
彼がやけに含みのある微笑を浮かべていることに。
(こ……こいつ)
「しかし辛いな、拙者は魈殿が好きであるから……咄嗟に出た言葉とはいえ悲しい」
「落ち込まないで」
「平気でござる。本心でないのは分かっておるからな」
「優しいね、万葉は」
蛍に慰められながら万葉がチラと視線を流してきた。目を細めて。
(こいつっ……わざとか!)
なんて恐ろしい奴なのだ。自分と蛍の間を取り持ちつつ場を和ませ且つ思慮深い人間であるという印象づけまでやってみせた。計算高い男め……!
唖然として万葉を見ていると、極めつけの言葉を頂戴してしまった。
「魈殿は可愛らしいな、ぜひこれからも仲良くしていただけると有難い」
ぽんぽんと頭に手を置かれる。あまりの侮辱に絶句した。しかも。
「万葉……本当に優しいんだね」
万葉を見つめる蛍の頬が……赤く染まっていた。ピシリと、何かが割れる音が聞こえた。
(有り得ない……)
楓原万葉。
こいつだけは許さない、鍾離様の御命令でもない限り許す訳にはいかない。強く誓った。
「……よし」
万葉の黒い一面を見た日から三日後。人知れず今日も魔物を倒し浅く息を吐く。こうしている間はあの不愉快な出来事を忘れられる……戦う理由が一つ増えたな。
とは言え疲労感はやはりあって、汗を拭いながら木にもたれた。風が心地良い。
(蛍……)
次はいつ会いに来てくれるのだろうか?もしかしたらこうしている間にも旅館を訪ねてはいないだろうか?だとすると休んでいる場合では……。気が付くと蛍のことばかり考えていてどうにも良くない。俗世にまみれては鍾離様に失望されてしまう。
だが、顔を赤らめた彼女が頭から離れない。非常に由々しき事態だ。
「万葉に……取られる」
ぽつりと呟いたその時。
「何をでござるか?」
「な!?」
卒倒しかけた。
目の前にゆるりとした空気を纏った諸悪の根源が立っていたのだ。
「万葉!貴様、何故ここに」
「散歩がてら歩いていただけでござるよ。魈殿は……おや?」
しゃがんできた万葉が口をあんぐり開けている自分の額に触れる。
「汗ばんでいる。戦っていたのか?」
「っ……気安く触るな」
手を振り払うと、やはりへらりとしていて。この男のこういう所に虫酸が走る。なにがおかしいのだ。
視線を逸らす自分を、頬杖をついて興味深そうに見つめる万葉。
「見るな」
「はは、視界に入れるのも駄目でござるか。難しいな」
「笑うな」
「まだ出てくるか」
からからと笑い万葉が頭を撫でてくる。
「触るなと今言ったばかりだ!」
「ふふ。誠、可愛らしい」
また可愛いと言われた。再度手をどかされたというのに満足げにしている万葉。いつまで絡んでくるつもりだ、と不機嫌さを露わにして舌打ちしてやったのだが、あろうことか隣に座ってきた。
「座るな」
「そう言わずとも。拙者も休憩したいのだ」
「ならば我が去るまで」
立ち上がろうとしたが腕を掴まれ叶わなかった。なにをする、言いかけたまま止まる。底意地の悪そうな万葉の顔が目と鼻の先にあったのだ。
「な……」
「蛍は鈍感であるからはっきり好きだと言わねば伝わらぬぞ」
「っ!?」
思わぬ話題に赤面した。な、何故、
「何故、分かった?と……思っておるな?」
「く……っ」
情けないことに狼狽して取り繕う機会を失ってしまった。この瞬間、彼の中で確定事項に変わっただろう。間違いない。
じわりと汗を滲ませる自分に万葉が嗤う。
「あれで隠せているつもりだったか?愛でたくなるいじらしさでござるな」
「このっ……」
いつから悟られていた?いやそこはどうでもいい、今更誤魔化せない。それならば。
「き、貴様こそだ。うかうかしていると我に寝首を掻かれるぞ」
お返しだ。尽く邪魔をしてきておいて無事で済むと思うな。
虚勢が見え見えな口調になった気はするが負けじと嗤って言ってやる。すると、
「拙者?」
万葉が不思議そうに一度瞬きをした。なんだ?この反応は。白々しい、蛍にちょこまかちょこまかとくっついておいて、貴様も大概好意を寄せているだろう?
想定外の表情にこちらまで困惑してしまい少しの沈黙が降りる。そうして、
「ふむ……成る程、理解した」
悪戯を思いついた幼子のような顔で一言。返しに困っているとポンと肩に手を置かれる。
「安心するでござるよ。拙者は蛍が好きな訳ではない」
「嘘を吐くな、どう見ても…」
「蛍が拙者を好きなのだ」
危うく元素爆発を発動させるところだった。鍾離様の笑顔を思い浮かべなんとか留まる。確実に煽られている。冷静になるのだ、怒っては向こうの思うつぼ。
長い溜息をつき、どかっと座り直す。
「随分と余裕だな」
「薄々気付いてはいたが、三日前に確信したでござる」
「……っ、か、仮にそれが事実だとしても渡さない」
「だから、拙者が好きな訳では」
「信じられるか!あれだけくっつき回って」
「ふむ……拙者は魈殿を応援したいだけでござるよ」
応援。
人を愚弄するのもいい加減にしろ、余計なお世話だ。なにが悲しくて恋敵に応援なぞされねばならんのだ?
我慢の限界がきて万葉の着物の袖をぐいと引っ張る。
「いいか?貴様の施しなど受けん。蛍も渡さん。金輪際、我に構うな」
「……承知した」
ぽやっとした顔をして……本当に分かっているのか?
そう思ったが仕方あるまい。乱暴に槍を掴んで立ち上がり、万葉の別れの挨拶を無視してその場を去った。
ところが。
「貴様、記憶喪失なのか!?」
柄にもなく大声を上げてしまった。昨日の今日で万葉が旅館に現れたのだ、しかも単独。驚き過ぎて逃げるという選択肢を忘れ笑顔で歩いてきた彼に口をぱくぱくさせる。
「しっかりと覚えておる。魈殿の愛らしいあれやこれ」
「なんっ……、か、帰れ!」
目に見えて動揺する自分に肩を震わせ笑う万葉。いや待て、蛍がいないのは逆に好都合……息の根を止めるまたとない機会なのではなかろうか。鍾離様の力を持ってしても正常な判断ができず槍を取り出して、その手を握られた。
「離せ!」
「嫌でござる」
「貴様っ……」
「……今日は試したいことがあるのだ」
妙に艶めいた声に怯んでいると、万葉の指先が硬直している自分の首筋をなぞった。不意打ちに一瞬反応してしまう。
「どうかしたか?」
「な、なにをする」
「実験」
全く意味が分からない。「ここは?」と今度は鎖骨に触れられる。何故だか理解のしようもないがいちいち反応する身体に無性に恥ずかしくなってきた。万葉相手に何をおかしな気分に……っ?
「やめろ!」
どうにか押し返し、槍をぎゅっと握り締めて理性を保つ。そんな自分を見て万葉が「期待以上だ」とにっこりした。何がだ。
火照った頬を見せたくなくて俯きがちにしていると、彼が思い出したようにこう言った。
「蛍は積極的な男が好きだとか」
不覚にも「なにっ?」と返事をしてしまい顔を上げる。万葉が嬉しげに微笑んだ。
「魈殿が彼女の求めることに耐えられるのか試したのだが……それでは先が思いやられるな」
なんと意地の悪い目をするのか。蛍は騙されている。優しい?冗談ではない、自分に優しかった時など一度もない。
「蛍の……求めること」
「そう。たかが少し触れた程度で動揺しては振り向いてもらえぬぞ」
「っ……!」
もしかするとこういう面で蛍は万葉に惹かれているのかもしれない。思えば彼は歯の浮くような台詞を平気で言えてしまうし、頭を撫でたり……今みたいに、触ったり。なんの恥じらいも見られない。自分には到底不可能だ。
(このままでは)
だがどうすれば良いのだ?人形相手に練習でもすればいいのか?駄目だ、共にいられるだけで満足していたものだから踏み出し方が分からない。
困り果てた様子の自分に、万葉が提案をしてきた。
「拙者で試すか?」
「なっ!?」
破天荒な奴だとは思っていたがここまで突拍子もないことをほざくとは。目を見開き言葉を失っていると万葉がうーむ、と小首を傾げ背を向けてきた。
「冗談だ。……では、拙者は蛍に会いに行くとするでござるよ」
「なんだと?」
「うかうかしていると寝首を掻かれるぞ」
昨日放った台詞をそっくりそのまま返され憤慨しかける。だが……だが。
「待て」
「なんでござるか?」
万葉が足を止めた。振り向いてはこない。
「さ……させろ」
「なにを?」
声が震える。
「じ……実験……」
くるりと万葉がこちらを向く。その笑顔があまりにも……愉しそうで。
「もちろん、構わぬでござる」
右も左も分からぬ自分は一体どうなってしまうのだろうとすぐに後悔した。
「……もっと近付いて」
「じゅ、十分だろう」
何をしているのやら。
最早考えたくもないが、客に見えない場所へ移動し二人で向かい合わせに座る。万葉が壁に背中を預けている形だ。取り敢えず頭を撫でることから始めてみようと手をそうっと出してみる。しかしぶるぶると震えたままそれに至らない。
「はは、この程度友人同士でもするだろうに」
「黙れ。我は仙人だ、貴様の常識には当て嵌まらん」
「交友関係がないということか?」
人を煽る天才だ、憎たらしい。
数十秒かけて、どうにかこうにかぽすんと万葉の頭に手を置けた。少し驚く。
(柔らかい)
男の髪はもっとがさがさしているものだと思っていた。実際触れてみると全くの逆で。
(気持ちいい……)
触り心地の良さに自然と手が動いていて、つい繊細な白銀の髪を撫で回してしまった。万葉がくすぐったそうに笑う。その表情を見て、
(なんだ?胸が熱い)
まるで蛍を見ている時のような。惚けていると万葉に優しく手をとられた。「もう良かろう」、そう言って。ぽかんとしながら腕を下ろし、その手を胸にあてる。熱をもっている訳では……ないみたいだ。
尚も不思議そうにしていると万葉が口を開く。
「他は何もせぬのか?」
(……他)
これ以上、となると。
先ほど彼にされたことがよみがえる。また顔が熱くなってきた。だが、あれらができない限りはこの男を超えられない。蛍の望むことができない。ごくりと、唾を飲み込む。
鍾離様、ふしだらな我をお許し下さい。
涼しい雰囲気を保っている万葉へ、もう一度手を差し出す。
(……首筋)
細くて、白い。蛍は中性的な男が好みなのか?我とは全く違う……。
(けれど)
綺麗だ。ぼうっとしてきて、指を這わせて……次は鎖骨だ。やはり美しくて、
(……つくりもの)
いけない、男相手に夢中になってしまった。ハッとして身を引こうとしたのだが急に肩を抱かれ引き寄せられた。
「なにを……っ」
そこからの言葉は出なかった。
「すまぬ、焦れったくなってきた」
恍惚とした顔。
見下ろす体勢で自分を抱きしめる万葉の、初めて目にする表情。心臓が大きく脈打った。
「な……」
「そろそろ隠すのをやめても良いか?」
なんの話をしているのか聞き返そうとしたが、
「むっ……!?」
意味をもたない声になる。口づけられている、三秒も遅れて気付いた。それくらい、信じられないことが起きたのだ。
やっと離れてくれたが未だ至近距離に万葉の唇があって、少しでも身動ぎしたらまた重なってしまいそうだ。
「き、さま……」
「それとなく蛍の予定を聞き出して、遥々稲妻から船に乗って……」
艶めかしい、ゆったりとした声色で紡がれる言葉。とんでもない怪物に見下ろされている気がしてきて背中を汗が一筋伝った。
「昨日といい今日といい……ふふ、拙者に触れられて満更でもない様子でござったな。このような可愛らしい存在、どうして放っておけようか」
僅かに伏せた瞼。長くて綺麗な睫毛だと……やけに、関係のないことを考えて。
そうやって現実逃避を、して。
顎に添えてきた彼の手が……親指が、そっと唇をなぞる。
「──ここまで申せば、もう分かるな?」
肩が震えるのは怖いからか、恥ずかしいからか?
そのような分析をするのは後で構わない、大問題が起きているのだ、これこそ由々しき事態ではないか。……万葉、貴様は。
「我のことが、好きなのか」
緩やかに細まった緋色の瞳には、途方に暮れて難題に挑む真っ赤な顔の自分が映っていた。