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    まもり

    @mamorignsn

    原神NL・BL小説置き場。

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    まもり

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    邪タルタルです。問答無用で可愛い。堪らない。
    実体化可能なタルタリヤがアヤックスにベタベタするお話です。ちょっぴり切ない。

    #邪タルタル
    evilTartar

    ドッペルゲンガーの矢 ドッペルゲンガー。
     この世に三人いる、自分と同じ姿の人間。三人目に出会うと死に至る…らしい。
    (殺せるものなら殺してみろと。せっかくの機会だし俺同士で戦おうと。そう言いたかったのに)
     数年前、そんな都市伝説に興味をもったアヤックスは意気揚々とドッペルゲンガー探しに出たことがあった。結果は散々で、見つからなかったのはもちろん、自分に酷似した後ろ姿にはしゃいで近付くとご老人だったオチまで用意されていた。「俺の老後はあんな感じかもしれない」、オカルトを追い求めた帰りにリアルな想像をして、それからは二度とあの遊びをすることはなかった。
    「公子様?」
    「ん?ああ、悪い」
     アヤックスは、怪訝な顔をしたデッドエージェントに軽く返しながら封書を渡してやる。次の任務について書かれた極秘のものだ。ファトゥスの座につき部下ができてから、こういったやり取りをするのも仕事の一つとなった。正直、面倒ではある。
    (戦いにだけ身を投じられたらどんなに楽しいか)
     そう思い、憂鬱になったアヤックスの耳元で声がした。正確には、"耳元で言われた気がした"。
    「退屈そうだね、アヤックス。分かるよ、こんなの楽しくないよな?ファデュイなんて抜けちゃおうよ」
    「っ…やめろ、静かにするんだ。タルタリヤ」
    「はい?」
    「!」
     先ほどより怪訝な顔をしたデッドエージェントに心の中で「しまった」と舌打ちし、アヤックスはわざとらしい咳払いをする。
    「これは重要な任務だ、失敗は許されない。できるな?」
    「もちろんでございます。公子様の仰せのままに!」
    「よし。俺が合流するタイミングについてだけど…」
    「アヤックス、退屈だよ。まだ続けるの?説明なんてしなくてもいいじゃないか、そいつが一人で野垂れ死ぬだけさ。俺と話そうよ、時間の無駄だ」
     ダメだ、全く集中できない。
     少し苛立ってきたアヤックスは、できる限り簡潔に早口で説明したのち「行ってきて」とデッドエージェントを突き放す。些か不安げな様子だったがやむを得ない。最悪、自分が行けばどうにかなるだろう。
     敢えて長く息を吐くと、今となっては(こいつでさえなければ)会いたくも何ともないドッペルゲンガーが嬉しそうに騒ぎ出した。
    「やっと二人きりだ!待ちくたびれたよ」
    「タルタリヤ、時と場所くらい選んでくれないか?」
    「選択肢なんかないよ、俺はいつだって君と話したいんだからさ。アヤックスもそうあるべきなんだ」
     ドッペルゲンガーことタルタリヤこと俺はやはり話が通じない。一応、俺なのに。
     その事実を再認識したアヤックスは、姿形もない存在に向かって「はいはい、そうだといいね」と相槌を打った。
     タルタリヤ……他に呼び名が思いつかないこの男は邪眼を手にしてから現れたもう一人の自分だ。何を言っているのか我ながら理解不能だが、ともかくアヤックスの精神世界に気がつくと棲んでいたのだ。
     性格は小狡くて甘えたがりでワガママで好戦的。全く似ていない。いや、最後のは一緒か。認めたくはないけれど。
     ため息をつくアヤックスに、彼が不服そうにこう言った。
    「まだ怒ってるの?"出なかった"だけマシじゃないか」
    「それは当たり前に守ってもらうべきことだろ」
    「そんな言い方しなくたって…」
    「出てきたら金輪際お前とは口を聞かない」
     タルタリヤが黙り込む。納得した訳ではあるまい、どうせ不貞腐れているのだ。
     "出てくる"というのは彼の実体化を指している。
     余程でない限りまずあり得ないが、アヤックスが許可することにより可能となるのだ。幽霊のようなボヤけた存在などではない、正真正銘生きている人間の身体として。過去に数度実体化した際、周囲の誰一人疑問に思った風もなくタルタリヤの横を通り過ぎて行った。
     ……そう、数度は許してしまった。
     この実体化、とんでもなく厄介な仕様があるのだ。
    「怒るなよ。最近は我慢してやってるだろ?」
     ぼそりと言ったタルタリヤにアヤックスは返事をしなかった。
     その仕様とは、アヤックスに負荷を与えて無理やり出てしまえること。電撃のような痛みが走り、強烈な眠気も襲ってくる。
     タルタリヤには何のデメリットもないので、都度「やめろ」と叱りつけてようやく分かってもらえた始末だ。こいつの性格からして善意で理解したとは到底思えない、気まぐれだろう。
    (いつか俺に成り代わるかもしれないな)
     そのくらい長い時間実体化されたらどうなるのだろう?二度と目覚めることができなくなるのか?
     自分が死んだら、タルタリヤも死ぬのかな。
     アヤックスは少し考えたのち、一秒たりともこいつに時間を割くべきではないと判断して任務の準備に取りかかった。




    (結局、あの後全然話してくれなかった)
     昼時の璃月港。
     楽しげに行き交う人々を恨めしく思いながら、タルタリヤは不満のぶつけ所を探していた。
     アヤックスときたら昨日は任務のことばかりで、確実に自分よりデッドエージェントとの会話の方が多かったに違いない。こんなに近くにいるのに。
     出会った当初はもっと柔らかい接し方をしてくれていたように思う。
     しかし、それはつまるところ、
    (俺が"力"だったからなんだろう)
     アヤックスはおそらく、まさか邪眼が意志を持って日常生活にここまで関与してくるとは思ってもみなかったのだ。話しかける回数が増えるほど二人の距離は離れていくばかりだった。
     一番近くにいるはずなのに、一番遠い。
    (ほら、今だって)
     アヤックスが大声で笑った。そしてなんとか息を整えた後に水を飲み、向かい側に座っている男へテーブルいっぱいに置かれた料理を勧めた。男は礼を言い、箸をとる。
     その様子をタルタリヤはアヤックスと全く同じ視点で見ている。……見せられている。
    (最悪の気分だ)
     この、品良く料理を口に運んでいる男の名は鍾離。元岩神でアヤックスとは友人である。璃月での大仕事をしていた際に近づき、最終的に交友関係を持つまでに至ったのだ。
     タルタリヤが世界で二番目に邪魔だと感じている存在。一番は自分を負かした忌々しい旅人。思い出しただけで破壊衝動に駆られる。
    「先生って本当に面白いよね」
    「そうか?俺は感じたことをそのまま話しているだけだが…」
    「だからだよ。あー、笑い過ぎて腹が痛い」
     港で鍾離と出会してからのアヤックスはずっとこんな様子だ、心底嬉しそうに話している。任務の後処理が残っているのだし、立ち話で終わらせれば良かったのに……昼食にまで誘って。
    (昨晩、明日は俺の話を聴くって……そう言ったじゃないか)
     アヤックスの嘘つき。
     自分を黙らせて眠るための方便だったのだ。
     彼が鍾離に「これ美味しいよ」と料理をよそう。「公子殿の見立てなら間違いなさそうだ」と鍾離が手を差し出す。皿の受け渡しをする二人の手が、重なった。
     瞬間、タルタリヤはありもしないのに身体中の血液が沸騰したかのような感覚を覚える。そして、
    「やめろ!」
    「っ!」
     アヤックスの顔が強張る。彼が危うく離しかけた皿を鍾離が驚いたように支えた。
     いけないことだと分かってはいる。それでもタルタリヤは二人の間に割って入るのを止められない。
    「俺のアヤックスに触るな!」
     まずい、抑えられなくなってきた。
     訝しげな表情を見せる鍾離。アヤックスが、耳元どころか脳内中に響いたのであろう怒鳴り声に呻いたからだ。それでいい、こちらに意識を向けてくれたら。
     アヤックス、アヤックス。それ以上そいつに触れないで、俺の話を聴いて──
     椅子が倒れた。
     アヤックスが勢い良く立ち上がったせいだ。突然の出来事に店内が静まり返る。
    「……公子殿?」
     鍾離が眉根を寄せ彼を呼ぶ。それすらもタルタリヤには耐え難い。
     俯き、棒立ち状態になっているアヤックス。少しの間があった後こう呟いた。
    「鍾離先生、ごめん。ちょっと気持ち悪くなってきて……帰るね。支払いは済ませておくから」
     そうして、返事も待たずに歩き出す。店の外に出ても下を向いたままの彼、流石に心配になりタルタリヤはおそるおそる話しかけた。
    「本当に気分が悪いのか?……怒った?」
     返答はない。
     せっかく邪魔者を引き剥がせたというのに、結局そこからもアヤックスはタルタリヤを無視した。
     夜、ベッドの上で家族からの手紙を読み返す彼にタルタリヤはただ寂しさを募らせるほかなかったのだった。




    (あいつは一体なんなんだ?)
     起床して、ひたすら話しかけられたがためにろくずっぽ読めなかった手紙を片付けて、アヤックスは腹立たしく思いながら着替えていた。
     昨日は最高から最低に大転落劇を繰り広げた一日となっしまった。久々に先生に会えたのに……全部あいつのせいだ。
     手紙を読むのを諦め、意識が落ちる直前までベラベラベラベラと喋り続けたあの邪眼。お陰で寝不足極まりない。
     アヤックスは手早く作った朝食を胃の中に放り込み、洗面台に向かった。どうにもこうにも奴のことで頭がいっぱいだ。
    (思えば初めから俺に懐いてたな)
     邪眼を手にした日を思い浮かべつつ歯を磨く。
     湧き上がる力。蠱惑的な紫電の輝き。……に、くっついてきたもう一人の自分。
     それはそれは嬉しそうにしていて、扱いに困ったアヤックスは邪険にする理由も(当時は)特になかったため普通に挨拶をしたのだ。以降、朝から晩まで相手をさせられるはめになった。
     最初から冷たくしておけば違った未来が訪れたのだろうか?
    (そうでもないか)
     自分の精神世界から聞こえる寝言と欠伸に呆れてしまう。面倒なのが起きる前にさっさと用事を済ませようと、アヤックスはサッと扉を開けた。
     部下との待ち合わせ場所である層岩巨淵に着いたのは部屋を出て二時間後のこと。太陽はすっかり真上まで到達しており、若干の暑さを感じた。
     内なる自分が相変わらずムニャムニャと眠りについているお陰で今日はスムーズに話を進めることができた。あいつのいない世界はこんなにも快適だったのか、随分と長い間忘れていた気がする。
    「それじゃ、任せたよ」
     一通りの説明が終わり、部下の背中をアヤックスがバシッと叩いたその時。
    「あっ、タルタリヤ!」
     可愛らしい声に呼ばれた。アヤックスが振り向いたそこには、セシリアの花飾りをつけた金髪の少女が立っていた。
    「相棒!」
     思わぬ偶然に嬉しくなり、少女の方へと駆け出す。この可憐な女の子の名は蛍。鍾離と同じく、アヤックスが璃月での任務を遂行していた際に出会った人物だ。
    「どうしたんだい?こんな所で」
    「依頼があったから。……また何か企んでるんじゃないよね?」
    「まさか。ピクニックさ」
    「層岩巨淵で?」
     腕組みをした少女に睨みつけられるも、アヤックスは気分が高揚して収まらない。仲間でも友人でもなく、相棒。蛍は自分にとって唯一無二の存在なのだ。
     部下を帰らせたアヤックスは、彼女の隣にそそくさと並んでにっこり微笑んでみせた。
    「ね、相棒。依頼って終わったの?」
    「だったら何?」
    「俺と手合わせしよう!」
     お決まりの台詞を口にしたアヤックスだったが、残念ながらそっぽを向かれてしまう。振られると余計に追いたくなるものだ、諦めずに蛍に付き纏っていく。アヤックスが五度目のお願いをしたところでついに蛍が怒鳴った。
    「もう、しつこい!…っわわ!?」
    「おっと。大丈夫?」
     大声を出した拍子に足を躓かせた少女の手をアヤックスが掴む。
     すると、みるみる内に彼女の頬が赤くなっていった。
    「相棒?」
     キョトンとしてアヤックスがそう言ったと同時、全身に激痛が走った。思わず「ぐっ!?」と呻いてしまう。強く身体を抱き、中腰になり苦しみ出したアヤックスの頭上で蛍の慌てたような声がした。返事をしてやりたいが電流が爪先から頭の天辺まで駆け巡り、そんな余裕など到底ない。
     痛みで吐きそうだ。首筋を脂汗が伝い、ぞくりと悪寒が腰から背中にかけて走り──
    「だめ、だ。出るなっ……!」
     絞り出した言葉も虚しく、アヤックスの身体から禍々しい紫の閃光が放たれた。それは瞬時に人間の姿を模っていく。蛍が信じられないといった風に口を開いた。
    「うそ……タルタリヤが、もう一人?」
     アヤックスの霞む視界で、邪眼の化身がこきりと首を鳴らす。気怠げでいて……怒りを隠しきれない様子で。
    「またこの女か、アヤックス」
     いつもの雰囲気とまるで違う。地を這うようなタルタリヤの声音を聞いて、アヤックスは咄嗟に少女に向かって叫んだ。
    「相棒!逃げろ、こいつは…」
     その叫びは途中で遮られる。前髪を掴まれ、アヤックスは雷光を纏う化身の方へと無理やりに視線を合わせられた。虚ろな瞳が無表情に瞬きをする。
    「アヤックス……力関係を分からせられたいのか?俺を本気で怒らせない方がいい」
    「タルタリヤ、相棒にはっ…何も、するな」
     深淵が目を細める。そこからはなんの感情も読み取れない。
     痛みにアヤックスが苦悶の表情を浮かべた。それを見て僅かにその眼差しが揺れる。何かを伝えたいが我慢しているような、そんなゆらめきで…。
    「あなた、邪眼ね?手を離しなさい!」
     思考を遮断されたのかタルタリヤが舌打ちをした。仕方なくといった風にアヤックスを解放し、鬱陶しげに蛍を見据える。得体の知れない存在に身構える少女。そんな彼女をタルタリヤは羽虫程度にしか思っていないだろう。
    「君、アヤックスに惚れてるわけ?」
    「なっ!?」
     突拍子もないタルタリヤの言葉に蛍が絶句する。アヤックスまでもが驚いた、こいつの思考回路がさっぱり分からない。冷め切った表情で彼が続ける。
    「アヤックスは俺のものだよ?少し気に入られたからって勘違いしないでほしいね」
    「なんの話をしてるの、私は」
    「わかった?」
     かくん、とタルタリヤが小首を傾げる。可愛らしい仕草のはずなのにあまりにも平坦な声だったせいで不気味さすらあった。蛍が息をのんでいる。
    「俺、問いかけてるんだけど?」
     彼が少女の方へ歩き出す。
    「と、止まりなさい。斬られてもいいの?」
    「は?誰に向かって言ってるのかな」
    「あなたしかいないでしょ、邪眼」
    「理解しているなら口の利き方に気をつけろ。今この瞬間も生きていられることに感謝してもらいたいね?……俺の慈悲のお陰だと」
     目の前で立ち止まり、見下ろしてくるタルタリヤに蛍が剣をぎゅっと握りしめたのが伝わってきた。完全に恐怖で動けなくなっている、邪眼から発せられるあまりに濃い殺気で。
    「噛み砕いて言おうか。俺のアヤックスに近づくな、触れるな、関わるな。……わかった?」
    「……っ!」
    「わ、か、っ、た?」
     返事がないことに苛立ちを感じたのだろう、タルタリヤの身体から紫電がバチバチと音を立て始めた。いけない、これ以上は本当に。
     アヤックスは震える手で彼の腕を握った。触れられたのがそんなにも信じられなかったのか、タルタリヤが目を見開き反応する。
    「…っ相棒には、何もするな」
     再度その台詞を言ったアヤックスは、唇を噛んでも断ち切ることのできない眠気に襲われ意識を失った。





    「……俺だって無理に出たくないんだよ?」
     荒野から離れ一本の大木を見つけたタルタリヤは、その下に主人を寝かせてぽつりともらした。
     あのうざったい旅人は帰らせた。君さえいなければこんなに怒ったりはしない、そもそも宿主を殺せば自分も消えてしまう、押し問答をすればするほど実体化の時間が延びてアヤックスの命を蝕む…他にもいくつか理由を話し、ようやく納得させた形だ。面倒な奴め、力で黙らせてやっても良かったのだが。
    (嫌われたくないし)
     結局のところ、タルタリヤはアヤックスに勝てはしない。単純な力比べの話ではなく心の問題だ。
     主人だからなのか、自分にとって彼はどうあっても一番なのだ。いつだって贔屓目に見てしまう。すごく可愛くて優しい。……他の誰かには。
    「俺にも笑ってよ……」
     すり、とアヤックスの頬を指で撫でる。汗はもう引いているようだ。苦痛はおそらく実体化の一瞬だけで、眠ってしまうのは体力が急激に奪われるせいだろう。虚脱感に支配されたアヤックスは、やろうと思えば自分の好きにできると思う。それはそれで唆るのかもしれないが。
     しかし、タルタリヤが真に望むのはちゃんとした心の繋がりだった。彼に好きだと言われたいし、必要とされたい。先ほどのように、触れられたい。
     タルタリヤはアヤックスに掴まれた左腕を見て、握られていた箇所を自分でもそうしてみた。途端に胸が締めつけられ、何をしているんだと恥ずかしくなってきて額に手をあてる。
    「初めて触られた……」
     自覚するほどに早鐘を打つ鼓動。自分にもきちんと臓器があるのかもしれないなどと冷静に分析することで気を紛らわし、タルタリヤはアヤックスの寝顔に視線を移した。落ち着いた様子で眠ってくれているのは安心する。だが、切なくもなる。
    (だから出てきたくないんだよ)
     アヤックス、君と話せないから。
     許可を得て出なければ意味がない。俺は君の笑顔が見たいんだ。
    (もうそろそろ……帰らないと)
     これも無理に出てきたせいだ。本格的にアヤックスの命を食べなくてはならなくなる。それだけは絶対に避けたい、少しでも長くそばにいるために。
     タルタリヤは名残惜しさを堪え、ゆっくりと彼の方へと顔を近づけた。そして、これくらいは許されるだろうと唇を舐める。
     口内に広がる血の味を楽しみながら、タルタリヤは一言だけ残していった。
    「おやすみ、アヤックス。愛してるよ」





     眠い。
     非常に、眠い。
    (昼時だっていうのに耐えられない)
     アヤックスは、全く覚醒してくれない重い身体をなんとか引っ張って歩いていく。相当酷い顔をしているのか、通行人が自分を三度見くらいしてきた。
    (全部あいつのせいだ)
     久々の実体化だったため異様に体力を消耗したのではないかと、アヤックスはそう決めつけている。木の下で目が覚めた後、次の日に影響があると確信してわざわざ早めに寝たのだが……焼け石に水だった。
     今日の任務は戦闘になる確率が極めて高い。前々から楽しみにしていたのに最悪だ。
     戦いに身を投じるのがアヤックスの生きがい。前代未聞の戦闘中に寝落ちだけは避けたかった。それは釣りの時だけでいい。
     稲妻で流行っているらしい五目ミルクティーの出張屋台に寄った後、ズズズと黒い物体を吸い上げながらアヤックスは地図を開いた。
     そこで本日最初の邪魔が入る。
    「美味しい?アヤックス」
     ぐしゃ。地図を持つ手に力を込め過ぎた。
    「俺も飲みたい!いいだろ?なぁ」
     やむを得ずアヤックスは念仏を唱えるように任務内容を声に出しながら地図にかじりつく。
    「もちもちするの?ぶにぶにするの?気になるよ、ねぇ、アヤ…」
    「静かにしろ。用事が終わったら買ってやるから」
    「今がいい」
    「ダメだ。ワガママを言うのならさっきのもなし」
    「……分かったよ。約束だからな」
     全く、こいつは。
     蛍に危害を加えていないらしいから(昨夜何度も弁明してきた)かろうじて話してやっているが……アヤックスは邪眼の交換ができないか真面目に相談したい気持ちだった。化身は化身でも、もっとマシなのがいい。
    (他の執行官はどうしてるんだろ?まさか俺のだけじゃないよな)
     だとすれば酷いスネージナヤンルーレットだ。とんだ外れを引かされた。
     アヤックスは大きなため息をひとつ吐き、地図をしまって歩き出す。「幸せが逃げちゃうよ」、彼のその言葉をスルーしながら。
     着いた先は、今は廃墟になっているという住宅地。数々のラクガキや崩れたまま修繕されていない家が視界に入る。確かに人が住んでいるような様子は微塵も感じられなかった。
    (賊の溜まり場と化してるみたいだけどね)
     アヤックスは薄暗い家の中を物色する。かつて研究者が生活していた家らしく、組織の求める資料が残っているかもしれないのだそう。いつもならこんな任務は部下に任せているのだがどうも賊とやらは大人数のようで、
    (ほら、来た)
     且つ、好戦的とのことだった。
     殺気を察知してアヤックスが外に出ると、そこには何十という賊が集まってきていた。これは自分が出向いて正解だったな。
     如何にもゴロツキといった体で、どいつもこいつも下卑た笑いを浮かべてアヤックスを見ている。これはボコボコにしても問題なさそうだ。眠気は普通に残っているが、気分がノってきたのも事実。アヤックスは双剣を創り出し、勢い良く賊たちに向かって突進した。
     けれど……。
    (本当に数が多いな)
     どのくらい戦っているのだろう?斬っても斬っても増え続ける敵にアヤックスの息が上がってきた。元々体力が空に近い状態で来たために、バテるのが想像以上に早い。加えて眠気も酷くなってきている。
     肩口が裂けた。矢を射られたのだ。幸い擦り傷だが普段なら造作もなく避けられたはず。
     と、アヤックスの視界がグラついた。
    (なるほど、毒矢か)
     熱をもった傷口を自分で斬り裂く。毒で侵された部分を取り除くためだ。アヤックスは噴き出した血を気にもせず双剣を構え直す。すると、
    「出ようか?」
     タルタリヤだ。戦闘中は自身も楽しんでいるからか基本的に話しかけてこないのだが、流石に見ていられなくなってきたのだろう。アヤックスは冷たく突きはなす。
    「余計な心配をするな。俺一人で十分だ」
     そう言ったはいいものの、身体は着いて来てくれない。先ほど大量に血を失ったのも痛手となった。明らかに動きが悪くなったアヤックス、ついには背後からの殺気に反応できず──
    「がっ!?」
     これは刺された痛みではない、電撃による…。
    「タル、タリヤ。お前……!」
     状況を理解し、倒れる直前。
     アヤックスは、自分を見下ろすタルタリヤの双眸が悲哀に満ちていることだけを認識した。




    「う……」
     次にアヤックスが目を開けた時にはとっぷりと日が暮れてしまっていた。
     起き上がると周囲には死体が折り重なって転がっていた。そのどれもが残酷なまでに切り刻まれ、顔も性別も分からなくなっている。生き物が焼けた匂いもした。鼻が曲がりそうだ。
     しかし、それらにはなんの感慨も湧かない。自分はとうにそんな段階を越えている。代わりに腹の底から煮えたぎってきたのは…。
    「タルタリヤ」
     アヤックスは自分で自分の声が分からなかった。それくらい、感情が込もっていなかったのだ。
    「……なに?」
     かなり遅れて、タルタリヤが小さく返事をする。叱られるのを理解している子供のように。
    「出てくるなって、言ったよな」
    「……だって」
    「どうして俺の邪魔ばかりするんだ」
    「そんなつもりじゃ、」
    「そうだろ!お前は一体俺をどうしたいんだよ!なんで毎日毎日……っ」
     珍しく声を荒げたアヤックスに驚いたのだろう、タルタリヤが息をひそめているのが伝わってきた。
     もう我慢の限界だ、どれだけ許してきたと思ってるんだ?友人との会話に、仕事に、自室での静かな時間に。今日という今日は耐えられない。戦いに水を差されるのだけは絶対に許せない。
     こいつさえ。こいつさえいなければ、
    「お前なんかいらない、消えろっ……!」
     アヤックスの怒声が寂れた廃墟に響き渡る。返事は……ない。息を切らせて、そこから何分も何分も経過して。
     返事はまだ、ない。
    (……なんだよ、いきなり)
     なぜだか胸騒ぎがしてきたアヤックスは、無意識に呼びかけてみた。
    「タルタリヤ……?」
     だが、終ぞ無邪気なあの声が返ってくることはなかったのだった。




     タルタリヤの気配がしなくなってから早一週間が経過した。
     その間どうだったかと聞かれるとそれはそれは静かで快適で、やりたいことを当たり前に完了させられた。改めて鍾離と食事ができたし、何だかんだで心配してくれていた蛍に謝罪もできた。任務は滞りなく完遂。これが本来あるべきアヤックスの人生だった。
    (俺って、前はこんなに生きやすかったんだな)
     つい最近も似たような朝があった。まさか当たり前になるなんて。
     少なくとも耳元や脳内で年がら年中喚かれることはなかった。まさに羽根が生えたような気分だ。
     アヤックスは平和な自室で家族から届いた新しい手紙を開く。トーニャの字だ。愛らしい文面に口元が自然と緩む。元気に暮らしているようで一安心し、アヤックスは早速返事を書こうとペンをとった。
     ところが、いつまで経っても文章が浮かばない。いつもなら言いたいことばかりで便箋を追加しそうになるのに。なぜか?
    (嘘だろ……)
     タルタリヤが気がかりで仕方ないからだ。
     アヤックスは愕然とした。連日の実体化で脳がイカレてしまったのかもしれないとすら考えた。とにかくムカつくあいつの顔が離れてくれない。自分で自分の顔面を思い浮かべ続けるという気色の悪い事態になり、アヤックスは頭を抱えた。
    (だって、いくらなんでも突然過ぎるだろ?)
     あれだけうるさかったのが急にいなくなったら違和感の一つくらいある。自分は至って正常だ。
     その根拠となる理由を無理やりに引っ張ってきては唸り、引っ張ってきては唸り…ついにはペンを置いてしまうアヤックス。今日は書かないでおこう、こんな心持ちで書いたらトーニャに失礼だ。
     アヤックスはベッドに転がり、宙に向かって呼びかけた。
    「タルタリヤ」
     やはり返事はない。なんなんだ、あいつ。調子が狂うじゃないか。
    (調子、ね)
     今のアヤックスは身も心もすこぶる健康で、なんならこの一週間はとてつもなく充実してしていて、こうやって毎日が過ぎていけばいいと心底思えるのに。
    (決して完璧とは思えないんだよな)
     タルタリヤがいない。パズルのピースが欠けたまま。その絵柄は好きでもなんでもなくて、完成しなくたってどうでもいいと探すことすらしなかった。
    ──だが、それは自分にそう言い聞かせていただけに過ぎなかったのだ。
    (魔王武装できなきゃ困るし)
     それも言い訳。こっそり昨日試してみると普通に使えてしまった。望む結果だったにも関わらずアヤックスの心にもたらされたのは空洞感で、いくら否定しても埋まることはなかった。いつの間にあいつは自分にとってこんなにも大きな存在になっていたんだ?
     邪眼を貰った日からタルタリヤはいつも自分のそばにいた。
     おはようから始まり、おやすみまで。たくさん質問攻めに遭った。好きな食べ物は何か、特技は何か、どんな人に好意を抱くのか。いつの間にか自分という人間を最もよく知る存在になっていた。
     アヤックスが他の誰にも見せない表情だって知っていた。
     璃月での計画が失敗した日。今となってはヘラヘラと笑って蛍に接しているアヤックスだが、悔しくないはずがなかった。自分の弱さを目の当たりにし、あの夜は何も口にせず椅子に座って窓の外を見ていた。
     タルタリヤが必死に励ましてきていたが、アヤックスにとってはそのどれもが必要のない言葉だった。だから、一言返したのだ。
    『強くなりたい』
     と。すると、彼が僅かに声を震わせた。
    『俺もだよ、アヤックス。もう絶対に負けたりしない。最後には俺たち二人で笑っていなくちゃダメなんだ。そう決まってるんだ……!』
     アヤックスはその時とても驚いたのを覚えている。タルタリヤを戦闘狂の殺戮機械だと思っていたから。心なんて存在していないと思っていた。
     なんだ。こいつ、結構人間みあるんじゃないか。
     拍子抜けしたアヤックスは少しだけ彼を微笑ましく感じて、泣き出したそいつを仕方なく慰めてやったのだ。
    『アヤックスが世界で一番なんだ、俺のアヤックスなんだから。認めたくない』
    『そうだな、俺の目指すところはそこだ』
     だから強くなろう。
     誓いを立てたあの夜、タルタリヤは疲れ果てて眠るまで何度もアヤックスの名を呼んできた。その度返事をすると、やがて安心したように彼は寝息を立てたのだった。
    (あんなに、二人で強くなるって宣っていただろ)
     口だけだったのか?やけにしおらしかったもので優しくしてやったら、これだ。
     なんだかイライラしてきたアヤックスは、気分転換に料理でもしようとキッチンへ向かった。ジャガイモに玉ねぎに、人参に…うん、これだけあれば作れるな。
     小気味の良い包丁の音を立て、野菜を鍋に入れる。ふつふつと煮えるのを眺め、アヤックスは肩を鳴らした。
    「いっ!?」
     忘れていた。盛大にケガをしていたのだった。処置が早かったため大事には至らなかったが、完治はまだまだ先のようだ。
    (あれはなかなかに肝が冷えたね)
     賊との戦いを思い出すアヤックス。それに伴い、嫌でもあいつのことを…。
    (ちょっと、言い過ぎたかもな)
     タルタリヤからすれば宿主の危機なのだ、許可など知ったことかといった具合だったろう。蛍を帰らせた話の過程でアヤックスの死=彼の死を意味すると知った今となってはあの行動に納得がいく。
     けれど、きっとそれだけが理由ではない。タルタリヤは自身がどうこうではなくて、
    (俺を失うのが怖かったんだ)
     日頃あれだけ構え構えとせがんでくるのだ、それに気づかないほどアヤックスは鈍くはない。自分が意識を失う直前、この目に捉えた彼の表情が何よりの証拠である。
     アヤックスは鍋の火を止めた。ぼうっと考え事をしている間に完成していたか。よそって食べるべく、食器棚の戸を開けるアヤックス。皿を一つ取ろうとして…手を止めた。
    (俺があいつにかけてやらなければいけなかった、正しい言葉は)
     はー、と大きく息を吐いた。そして、はっきりとその名を口にする。
    「タルタリヤ」
     失くした欠片を埋めに行こう。自分が壁にぶつけて、壊してしまったパズルのピースを。
     静まり返る台所。アヤックスはテーブルに料理を置きながら話しかける。
    「たまには一緒に食べよう」
     机の上には、ほかほかと湯気の立つシチューが二つ。
    「お前に逢いたいって、そう言ってるんだけど?……タルタリヤ」
     ふわんと、紫色の光が部屋に満ちた。アヤックスは、向かいの席に形づくられていくその姿を感慨深い気持ちで見つめた。許可した場合はこんな風に現れるんだな、驚いたよ。
    (なに安心してるんだろ、俺)
     椅子に座っている。魂の片割れかというほどに、自分に似た男が。肩を落とし、俯き、表情はまだ見えず。
     カランと音がした。彼がスプーンを手にとったのだ。
    「久しぶり。……タルタリヤ」
    「食べて、いいのか?……アヤックス」
     彼がゆっくりと面を上げる。
     バツが悪そうな顔をしたタルタリヤが、おずおずと問いかけながら自分を見ていた。ああ、本当に久しぶりだ……。
     アヤックスは「当たり前だろ」と答え、少しの間目を閉じる。やがて瞼を開き、タルタリヤをまっすぐに見据えて言う。
    「俺が悪かった、タルタリヤ。……助けてくれてありがとう」
     彼の目がまんまるになる。その顔があんまりにも可笑しくて、せっかく真剣に謝ったというのにアヤックスは噴き出してしまった。ぱちくりと瞬きをするタルタリヤ、そんな様子がまた可笑しい。
     アヤックスが腹を抱えているのを見て彼がむず痒そうに目を逸らす。そしてこう言った。
    「俺こそ、呼んでくれてありがとう」
     照れ隠しをした、柔らかな笑顔で。
     アヤックスは、心臓が高鳴ったのを確かに感じた。
    (おいおい、まさか)
     俺に対して?いや、正確には俺に似た者だが。速まった鼓動に混乱して胸を押さえるアヤックスに気づきもせず、「すごく美味しいよ!」とシチューを食べるタルタリヤ。やめろ、そんなに素直に褒めるな、また動悸が……。
     おかわりまでした彼が満腹になった頃、アヤックスはようやく一杯目を食べ終わるところだった。気を落ち着けるのに時間を要したのだ。今日のシチューは大成功だな、と自己評価しつつジャガイモを噛むアヤックス。ふと視線を感じて前を見ると、タルタリヤがじーっと凝視してきていた。
    「な、なんだ?口に付いてるとか?」
    「ううん。……あのさ、アヤックス」
    「?」
    「一緒に、寝ていい?」
     もう少しで砕けたジャガイモを床にぶち撒けるところだった。リアクションを最小限に抑えたアヤックスは、「何を言い出すんだ!?」とタルタリヤに返す。
     いい訳ないだろ、こいつさては調子に乗って…。
    「ダメなの?……戻った方が、いいのか?」
    「うっ……」
     どこでこんな表情を覚えてきたのか?シュンとして上目遣いで自分を見るタルタリヤに、アヤックスは怯んで言葉に詰まってしまった。いや、だって俺だぞ!?自分の顔面が真横にある状況で寝つける気がしない。弟たちとも訳が違う。こんなどでかい男と……何より、邪眼と寝るってなんだ?意味が分からない。
     どう言えばいいのか悩んでいると、タルタリヤがのそりと立ち上がり皿を洗い始めた。やたらと背中から哀愁が漂っている。
     逡巡し、結局アヤックスは根負けしてしまった。
    「……分かったよ、一緒に寝る」
     一応、負い目があるし。これでチャラだ、チャラ。
     ガシャンと、流し場の上でタルタリヤが皿を落とした。割れなかったか?今。
     くるり。アヤックスの方を振り向いたタルタリヤは、まるで玩具を買い与えてやった時のテウセルみたいで。
    (やっぱり兄弟って顔が似るんだなぁ)
     一度発した言葉は引っ込められない。ジワジワと迫り来る後悔の念をごまかすように、アヤックスは関係のないことを考えるほかなかった。





    「アヤックス、寝ちゃった?」
    「……まだ」
     何回目だろう?このやり取りは。
     アヤックスは眠気まなこでぼんやりと考える。ベッドが狭い。セミダブルに大の男二人が寝ているのだ、当然である。ぴったりとくっついているタルタリヤの身体は予想外にあたたかくて不覚にも心地が良い。
     暗闇の中で彼がこちらを向くのが分かった。吐息が耳にかかって少しくすぐったい。
    「アヤックス」
    「なに?」
    「俺さ、アヤックスのことが…」
    「……なんだよ?」
     歯切れの悪いタルタリヤに続きを促す。すると、耳元でそっと囁かれた。「大好き」、と。
     アヤックスの頬が熱くなる。自分に自分の声で好意を伝えられて照れるなんて、いよいよ博士にでも脳を調べてもらうべきなのかもしれない。恥ずかしさに身動ぎしたアヤックスの腕をタルタリヤがギュッと抱いた。おい、抱き枕じゃないんだぞ。
    「くっつくな、暑い」
    「俺は寒いから」
    「お前な、自分さえ良ければいいのか?」
    「そんなことないよ。アヤックスが笑ってる方が嬉しい」
    「っ……矛盾してるぞ、なら離せよ」
     アヤックスの指摘も虚しく、ますます抱きしめてくる力が強まった。抵抗しても良かったのだが、暗がりでも分かるほどに彼が喜んでいるものだからその気が失せてしまう。
    「俺がいない間、寂しかった?」
    「快適だったよ」
    「……そっか」
     いつものように文句を言ってこないタルタリヤ。アヤックスはどうにも罪悪感に苛まれた。ぽりぽりと頬を掻き、ボソッと付け加えてやる。
    「最初は、ね」
    「……!アヤックス、それって」
     これ以上サービスするとロクなことにならない気がする。アヤックスは確信を持ち、「寂しかったの?そうなの?」と質問を重ねてくるタルタリヤを無視して強く目を瞑った。わざとらしいイビキのおまけ付きだ。自分を呼びながら揺さぶってくる彼だったが、決死のスルーにより諦めさせることに成功した。
     と、思いきや。
    (……ん?)
     タルタリヤの手が、ゴソゴソと上がって来ているような……。狸寝入りをやめようか迷っている内に、頬にまで手が到達した。待て待て、流石にこれは嫌な予感がする。アヤックスの肺が圧迫された、タルタリヤに上半身を乗せられる形で。反射的に押し退けようと彼の肩を掴んだ瞬間、唇に柔らかい感触がした。
    「っ!?」
    「……アヤックス、いけない子だな。寝たふりだなんて」
    「タルタリ…、っ」
     再度唇を重ねられ、抗議の声は上げることができなかった。本気の抵抗を見せるアヤックスだが、想像以上に手強くビクともしない。腐っても人外ということか、この馬鹿力め……!
     ムームーと間抜けな呻きを晒すアヤックス。不意にタルタリヤが笑ったと思えば、
    「!?」
     ぬる、と舌が侵入してきた。こちらは全力で触れさせまいと引っ込めているのに、容易に絡めとられて変に声がもれてしまう。アヤックスは唐突に自身の身体に異変を感じた。やばい、悟られたくない。これは不可抗力だ、生理現象だ。
     アヤックスが更に激しく抵抗しだしたせいか、タルタリヤが勘づいたように唇を離した。呼吸は楽になったが心臓が強烈にうるさいままだ。アヤックスは手の甲で口元を拭い、目が暗闇に慣れたためか見下ろしてくるタルタリヤの顔をしっかりと見てしまった。
    「可愛いな……興奮しちゃったんだね、アヤックス」
     悦に浸る、その表情を。
     カッと耳まで熱くなるのが分かった。勘弁してくれ、自分と行為に至る趣味は俺にはない。他にもうやりようが分からず目を伏せ、はあはあと喘ぐアヤックス。しばらく様子を楽しむようにタルタリヤが見つめてくる。なんて醜態を晒しているんだ、俺は。
     やがて満足したとばかりに身体も離してくれて、けれど代わりに手を繋がれた。
    「なんの真似だ」
    「これくらい構わないだろ?……ふふ。おやすみ、アヤックス」
     まだいいかどうかの返事をしていないのに、今度はタルタリヤが眠りについてしまった。
    (下手に離すと今度こそ掘られる)
     情で寝床を共にするのを許さなければ良かった。後悔の念しかない。アヤックスはげっそりして、気が気でないまま瞼を閉じた。
    (あれ?こいつ、どのタイミングで消えてくれるんだろう)
     一抹の不安を胸に抱きつつ。




     何かが焦げたような臭いで目が覚めた。ドカン、ガチャンと騒音もする。
    「なんだ……?」
     アヤックスは眉間に皺を寄せ、全く寝た気がしない身体を気合いで起こした。本当に焦げ臭い。まさか火の不始末?火事か?
     昨晩は認めたくないがタルタリヤのことで頭がいっぱいだったため、きちんと火が消えているかどうか確認していなかったように思う。記憶を辿ったアヤックスは急激に焦りが生じてきて、ドタバタと台所に向かって走り出した。
     ところが、予想外の答えがそこにあった。
    「おはよう、アヤックス!」
    「お、はよ……」
     エプロンを装着したタルタリヤがテーブルに異物を並べていたのだ。
     一皿目、真っ黒の何か。二皿目、炭のような何か。三皿目、この世に存在してはならない何か。心なし、飲み物も青黒いような……。
     アヤックスはおぞましい食卓を見てごくりと生唾を飲み込んだ。視界の端で破壊されたキッチンが目に入ったが、もう考えたくない。
    「腹減ってるだろ?アヤックスの大好物を作ったんだ!」
    「ああ……ありがとう」
     タルタリヤが椅子を引いてくれる。物凄く座りたくない。背筋をピンと張り、石のように固まるアヤックス。彼に促され、食べるか逃亡するか究極の二択を迫られた。
    (まあ、でも……)
     日頃料理をする身としては、出されたものにきちんと手をつけたいし味わってやりたい。作る側は一所懸命に頑張っているのを分かっているからだ。タルタリヤをチラと見る。かなりワクワクした様子だ、気持ちは理解できる。
     アヤックスは腹を括り「いただきます」と祈祷するかの如く手を合わせて一口、食べた。待ち切れないといった雰囲気で彼が感想を聞いてくる。
    「……個性的な、味だな」
     褒められたと勘違いしたのであろうタルタリヤが、ぱぁっと表情を輝かせる。まずいな、明日も明後日も作り出すかもしれない。直近で言えば今夜か。胃が爆発しそうだ。
     コホンと咳払いをし、アヤックスはタルタリヤに提案をした。
    「夕食は俺と作ろう。コツを教えてやる」
     言ってからアヤックスは「しまった」と口にしかけた。これでは居座らせ続けるだけではないか。
     前言撤回しなければとフォークを置いたアヤックスだったが、その言葉を伝える機会を喪失した。
    「本当か!?実に楽しみだよ、約束だ!」
     とびきりの笑顔を見せたタルタリヤに、胸が大きく跳ねたからだ。
    (そんなに嬉しいか?俺と過ごすのが)
     すっかり彼のペースに乗せられているアヤックス、昨夜のことはとうに頭からすっ飛んだ。心底自分が好きで仕方がない風のタルタリヤを、ほんのちょっとだけ可愛いと思ってしまった。
     早速メニューを考え出す彼の姿を見て、やれやれと小さく笑う。
    (約束か)
     そういえば五目ミルクティーの出張屋台に行ってやっていなかったな。今日の昼はあの周辺で済ませるとするか。別に、おとなしくしている間は邪険にする必要性もない。突っぱねるよりはずっと賢い付き合い方だ。アヤックスは心中で誰に聞かせるでもなく言い訳をした。
     それから、ワガママなくせに素直な彼を見つめ、もうしばらくの間は実体化させたままでもいいなと考えて微笑を浮かべる。
    (俺も、お前が笑っているのはそれなりに好きだよ)
     ──射殺(いころ)されてしまったか。
     どうやらドッペルゲンガーにまつわる噂は本当らしいと……少しの愛しさを自覚した朝だった。
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