禁断の書「アルハイゼン。キスして」
唐突に放った私の台詞に、彼がティーカップを持とうとしたまま動かなくなった。片方の手には、どうやらストライクゾーンだったらしく二周目に突入している本。付き合い始めた私たちの仲を引き裂く、憎たらしいライバルだ。
「なんだ、急に」
「だって読み終わらないんだもん、それ。ずーっと待ってるんだけど」
私がアルハイゼンに告白してから一ヶ月。「君はそこそこ興味深い」「アルハイゼン。キスして」
唐突に放った私の台詞に、彼がティーカップを持とうとしたまま動かなくなった。片方の手には、どうやらストライクゾーンだったらしく二周目に突入している本。付き合い始めた私たちの仲を引き裂く、憎たらしいライバルだ。
「なんだ、急に」
「だって読み終わらないんだもん、それ。ずーっと待ってるんだけど」
私がアルハイゼンに告白してから一ヶ月。「君はそこそこ興味深い」とよく分からない言葉と共に了承されたはいいものの、恋人らしい雰囲気になったことなど全くなかった。
勤務時間中は空気を読んで我慢をし、どこにいるのか分からない場合は諦めて我慢をし、見つけたと思ったら遮音機能をオンにしている時は考え事をしているのだろうと我慢をし…要するに、以前とそんなに変わらない関係性だった。
今日はアルハイゼンの方から会いに来てくれたため、こうして一緒に過ごせている。しかしながらその動機も、"塵歌壺に入って仕組みを解き明かしたい"というただの探究心のようだった。
とは言え、期待はした。したの、だが。
『少し疲れたな、休憩にする。本を読んでもいいか?』
と言ったきり、ソファでコーヒーを嗜みながら以下略。といった有り様なのだ。
「これじゃ本が恋人みたいじゃない」
「君は物に嫉妬するのか。変わっているな」
私が明らかに不貞腐れたせいか、アルハイゼンが溜息を吐いて本を置いた。
「なぜ、キスがしたいんだ?」
真顔で小っ恥ずかしくなる質問をされ、卒倒しかける私。
「な、なぜって。そりゃしたいよ、としか」
「君の常識と俺の常識は違う。読書を中断してもいいレベルの、納得のいく理由をくれ」
「はあー!?」
これはとんでもない堅物だ。相も変わらず真顔な辺り、怒っているわけではないらしい……なんとも格好のつかない議題ではあるが、どうやら真剣に論じ合いたいようだ。
コーヒーを一口啜り、足を組み直してこちらを見るアルハイゼン。矛盾があればひたすら叩きのめしてきそうな眼差しだ。
ごくりと唾を飲み込んだ私は、そろりと言った。
「大多数が抱く願望じゃない?か、彼氏に」
「君は読心術でもあるのか?もしくは証拠となるデータを持っているのか」
「ど、どっちもない」
「そもそも、俺は君の気持ちを聞いているんだ。その他大勢は関係ない」
「う……」
それは確かに。みんながしたいから私もしたい、ではあまりにお粗末過ぎるし。
「つ、付き合ってるんだよ?私たち」
「キスをしなければ恋人ではなくなるのか?君の中で」
「そんなんじゃない!けど…」
苦し紛れの言葉など、彼に届くはずがない。
アルハイゼンが本に視線を移した。ダメだ、お話にならないのを悟って私から興味を失い始めている。
(なんなの?そんなにちゃんとした理由がなくちゃいけないの?私はただ…)
焦燥感だとか、怒りだとか、悲しみだとか。感情がぐちゃぐちゃに混ざっていくのが分かった。本に手が伸びる。待って、今考えるから──
情けない音が室内に響いた。彼がほんの僅か、鉄仮面に驚きを滲ませる。
「アルハイゼンが大好きだからじゃ、ダメなのっ……?」
ぎゅっと膝の上で拳を握った私は、涙声で想いの丈をぶつけた。また鼻水が垂れてきそうになり、ズズッと吸う。ああ、本当に情けない。
(ろくな返しはできないし、泣いちゃうし、もう最悪だよ)
これでは到底納得させられない。それどころか、呆れて私への気持ちが冷めてしまうかもしれない。正直、元々好きでいてくれていたのか謎ではあるが。
(フラれる。終わりだ)
拭いきれなくなった涙が頬を伝った瞬間、ぼふりと背中に柔らかい感触がした。自分に影を落とすものの存在が真上にあることを理解し、涙も鼻水も一気に引っ込んだ。
「言っておくが、君が満足できるかどうかは別問題だぞ」
「ア、ア、アルハイゼン!?」
押し倒された挙句顎を持たれているこの状況に、私の目玉は絵に描いたような渦巻き模様になった。自分からは見えないが確実にそうだろうとしか思えない。
アルハイゼンの顔が目と鼻の先まで近づき、反射的に彼の口を手で覆ってガードしてしまう。
「……ひみがしろとひったんだろう(君がしろと言ったんだろう)」
「や、そうなんだけど!いきなり過ぎて、まま、待とう!落ち着こう!」
「慌てているのは君だけだ」
虚しく引っ剥がされた私の手はそのまま拘束され、もはや抵抗すら許されない事態に陥った。アルハイゼン、もしかして意地になっていやしないか?私のためにわざわざ動いたのに、当の本人が土壇場で拒否。ちょっぴり、ご機嫌斜めに……。
(考えれば考えるほど私が悪い!認めるからっ…)
「まっ…」
「待たない」
「〜っ!」
ゼロ距離で、アルハイゼンの瞳が見えた。恥じらいも動揺もない、静かな緑。どうして?どうしてこんな時にまで、
「れいせい、なの……?」
か細い声で何とか言った私に……彼が、笑った。
「なるほど。ようやく理解が及んだ」
「アル、ハイゼン……?」
分かりやすい笑顔では決してない。極めて控えめで、見た者を不安にすらさせる──悪魔的な笑み。
私は、彼に答えるべきではなかったのかもしれない。
長い長い文献を読み終えた後、"もう一度"と思わせる魔力。カタルシスの味。
私の唇に這う指は、
「その表情が見られるのなら……キスをするのも悪くない」
解を追い求めてページを捲る、探求者のものに他ならないのだから。