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    泡沫実践

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    泡沫実践

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    デカラビアとソロモン。

    愛と文字。つまり 永遠、寂しさを知れ ということ!
    デカラビアイベント前後編、Bデキャラストの内容を含みます。

    #メギド72
    megiddo72
    #デカラビア
    decaravia
    #ソロモン(メギド72)
    solomon

    perversionPerversion

     地理書を抱えた軀がぴたりと止まる。図書室の机に突伏し、男は無防備に眠っていた。後ろの書棚から本を引き抜く音が聞こえる。誰かと共に此処へ来たのだろう。立ち去る前に間抜けな寝顔でもみてやろうかと、静かに、そうっと前髪に触れた。
     露わになった額の、微かに険を帯びた眉根を撫でながら、この男が王になればいいのに、と思う。うつくしい魂を持っている。誇り高い生き方をえらんだ闘う者。この男を王にしてやりたいし、この男を王にするのだと決めている。追放メギドたちをまとめる軍団の長だけでなく、もっと。この大地で、ヴァイガルドで、ヴィータを導き示すヴィータの王にするのだ。描く、ひろがる己の野望にデカラビアは頰を緩めた。当然、勝手に決めたことである。

    「おい。いつまで眠っているつもりだ。」
    「んん、おはよ……」
     ぴしゃりと冷めたい声に起こされる。目を擦りながら緩慢に瞼を持ちあげる。寝惚け眼のまま周囲を見回すと、やにわにソロモンの思考は覚醒を獲た。視界に広がるのはどうにも見覚えのない、石造りの、狭い、簡素な部屋ばかり。窓はないが、空がみえた。屋根、或いは上層に続く部分が、強大な力に抉り取られたように露出していた、天井のない部屋。
    「そこに、俺とデカラビアだけが、いる。」
     確かめるように呟けば、壁に背を預けたデカラビアの脣がゆるりと弧を描いた。ひどく悠然に、鮮やかに。黒に飾られた青いいろをした眼が沈黙に輝いて、帽子に刺さる毒の針がぎらぎらと嗤っている。
    「えっと、」
     おぼえている限りでは、図書室にいた筈だった。それがいま、知らない場所に、デカラビアとふたりきりで、いる。ひとりでないことは幸いであるが、彼の監視をシバの女王やハルマたちと約束した身なれば、あまり望ましい状況とは言えまい。
     加えてそも、このデカラビアは、監視を約束されるようなことをしでかした張本人であって、彼が己を傷つけるとは想像し難いが、警戒を要する際の習慣化されたうごきでソロモンはそろりと視線を下ろし、五つの指環があることを確かめる。

    「安心しろ。ここにおまえを傷つけるものはない。」
    「いや、この状況がまず危険じゃないか……?」

     お互いに、という言葉は嚥んだ。アジトにいた筈の自分とこの場所にいることが、ハルマ側や一部のメギドたちの彼への疑心を高めることになりはしないかとの危惧はあった。併し同時に、デカラビアの言葉はするりとソロモンの腹におさめられる。理由も根拠も持たぬ言葉ではあるが、この事態を認めてからの自身はいっそ不思議なほどに落ち着いており、本来抱くべき適切な危機意識に一切の実感が伴っていないことを思えば、あくまで感覚としては、ひどく納得でき得るものではあった。

    「デカラビアは知ってるのか? ここが何処で何なのか。」
     ひとまずは事情を知るらしいこの男に尋ねるべきと判断し、やけに凪いだ心持ちでソロモンはデカラビアに声をかける。その言葉を待っていたと言わんばかりに観測者が嗤い、胸の下で組んだ、細い腕をするりと解く。黒手袋の指が宙を踊る。
    「砦の跡地だよ。これはその敷地内にある物見のための塔だが、ご覧の通りだ。すっかり壊れてしまっている。古代大戦か、或いはヴィータ同士の戦争か、まあそんなところだろう。利用する者も居なければ使い途もない、まさしく行き止まりの部屋というわけだ。」
     曰く、戦争のための、最早役目を失った部屋。得た情報を咀嚼しつつ、今も濃く残った破壊の形跡をぐるりとみあげる。高い塔があっさりと、ぽきりと折れて現在の状態になるさまを想像する。けれどきっと、実際はもっと壮絶で、荒々しい破壊だったろう。浮かぶ空想を引き戻し、得た情報を頭に描く。メギドかハルマか、或いはヴィータ。戦争による破壊、物見の塔、砦。

    「でも、なんでデカラビアがそれを知ってるんだ?」
    「簡単な話だ。ここは夢だからな。」

     芝居がかった仕草で、嵐のようにデカラビアが告げる。この舞台の為に特別拵えたかのような、常よりも更に低い声。かと思えば、困惑するソロモンの姿にくすくす、くすくすと少女の如く表情を緩める。甘美な蜜を纏う指が、脣をなぞる、ちいさな揺らぎが月を喚ぶように明滅して目にうつる。
    「それは、俺の夢か? それともデカラビアの夢?」
    「クク、そうか、まずそれを問うか。おまえらしいな。おまえらしいよ。だが、これも答えは簡単だ。ここは俺の夢でもあるし、おまえの夢でもある。」
    「リリムは、」
    「関係がない。」
     困ったな、そんな言葉のかわりの表情、眉を下げたソロモンがゆるい笑みを浮かべる。
    「夢という言葉に迷うなら、そうだな、物語と思えばいい。これはただの物語。俺でありおまえでなく、おまえであり俺ではない。」
     言葉は、うたのようにとめどなく流れている。
    「この夢にいるおまえは、此処にいるおまえだ。この夢にいる俺が、おまえの知る俺か? 少なくとも此処にいる俺は、俺をデカラビアと呼んでいるが。」
     高い銀の踵が石床を叩く規則的な音。デカラビアが此方に向かい、迎えるようにソロモンも歩を進めた。音の鳴るほうへ歩く、黒のマントが揺蕩い、鎖が瞬きをする。水晶の星は揺らめく瞬間を再生し、幾つもの赤い石が微笑い、わらい、咲う。ぴたり、やがて向きあう、ふたつの足音が息を止めた静寂が降り注ぐと、デカラビアがにっこりと笑った。

    「さて、導入はこの程度でじゅうぶんだろう?」



     黒い指が頁を捲る。



     言葉を交わすことは困難であった。口を開けば雪が、風が、傷みさえ伴う壮烈な寒気と共に入り込んで来るからだ。寒さと吹く風、噤んだ脣、足掻く、震えに抗い音を発すれば、凍りついた冷気が容赦なく肺に叩きつけられる。一音を発する度に咳き込むことを余儀なくされ、そうする間にも鼻腔が凍り付く。
     風と雪だけが自由に踊る白銀の世界。音楽もまた、荒ぶ風音のみが響かせることを許されていた。雪原はありとあらゆる音を吞み、歌声を奪われた生命は沈黙の翳で温度を繋げることに専心する。それがいま現在生物に出来得る最大限の世界に対する抵抗であったが、しかし氷の速度が彼らを待つことは期待できないだろう。
     虹いろに揺らめく氷の進軍の無慈悲な輝きは、夜を覆うしろい手のひらによって隠された、最早目にすること敵わぬ月光の燦きに似ていた。前進する氷が孕む恐ろしい炎の微笑み。
     大地は死を待つばかり———そんな言葉が決して過言ではないことをあらゆる生命が認めざるを得ない程、世界は雪と氷とに覆いつくされていた。支配者は彼らであった。侵略者は彼らであった。
     煌めく朝露、雪花が囁く朝は夢のように過ぎ去り、木々や植物の多くは雪に押し潰され息を失った。建築物とて例外でなく、降り積もる雪の質量に耐え兼ね多くは自らの滑らかな首を差し出した。彼らが腹に納めた家具食糧生命の幾つもが死んだが、しかしそれもこの世界が、我々から言葉を簒奪した、あの、ひどく雄弁な氷の微笑みによって失われた膨大な数の命を思えば、ほんの一部でしかなかった。
     雪と氷、止まない風、寒さが脣を硬く結ばせる。眼球に触れる雪は怯懦の色を桜色の肉の内側に呼び込み、大気の冷めたさとは異なる寒気が包み込むように全身を掻き抱く。
     生命の灯とはかくも儚く、容易く揺らめくものなのだと眉を下げ、嘲笑う氷の幻影が明滅、薄くひかる。激しい風に目を閉じ、身を縮ませる。当然、歩くことさえ注意深くせねばならない。分厚い雪から足を引き抜く度、疲労がしろく堆積する。 
     それでも、瞬く星を知っていた。迫り来る恐怖が花のように咲き誇る、灰被りのしろい世界に垂らされた毒の蜜が凍らない。大地へと滴り落ち、蕩ける、その鮮烈な色が灼きついている。

    「おまえを独りにするものか」

     矢を番えるように息を吸い、言葉を用意する。妨げる風、簒奪の風、凍てついた風が身体を撲つ。震えるすべてをそのままに抗いの目をひらき、言葉の私は弓を射る。



    「なにを読んでるんだ?」
    「ヴィータの話だ。悲劇と喜劇。」
     そう言ってデカラビアは左右の口の端をきゅっと引いた。机上には放り出された黒手袋と、この図書室から借りたのであろう青い本。彼が今まさに手に取る本は、赤の表紙をしていた。ぺらり、と。裸の指が頁を捲る。
    「じゃあ、えっと、赤いほうが喜劇?」
    「残念。はずれだ。」
    「はずれかぁ……!」
     穏やかな空気がゆるりと満ちる。正解でもはずれでも、どちらでも同じことだった。
     手製の栞を挟み、赤を手渡す。ソロモンは決して本に明るい男ではないが、受け取った本の重さから、アジトの読書好きがよく抱えているそれと比べると、これは薄い本の部類に入るのではないだろうかと思った。
    「どちらも短編集だ。一冊のうちに幾つかの物語が収められている。喜劇もあれば悲劇もあるから、答えとしては両方が適切かな。短く端的な内容で舞台の演目にされることも多い。」
    「へえ。そういうのもあるんだな。」
    「興味があるなら読めばいい。帳簿をつければ軍団員なら貸出は自由だ。俺でさえ利用できるのだから、長たるおまえが利用できぬ理由はあるまい。」
     そう言いながらもデカラビアは、この男はきっと読まないだろうと考える。案の定、ソロモンは申し訳なさをいっぱいに表現した顔で首を振った。
    「読みたいけど、今は時間がないかな。幻獣退治や遠征準備に忙しくて。破っちゃいそうだから持っていくのもなんだか悪いし。でもせっかくデカラビアが薦めてくれたんだ。必ず読むよ。」
    「別に薦めてはいないが。」
     随分と都合のいい頭をしているな。手袋を嵌めながらそう言い、ソロモンの額を小突いた。つりあがった橙の瞳がぱちぱちと瞬く。
    「それにしても。随分な量の本を集めたものだ。」
    「うん。すごい量だよな。」
     図書室の本がどういった管理をなされているのか、ソロモンは知らない。シバ本人や王都から贈られたものが多いが、なかには軍団メギドの誰かが持ち寄った本も収められているとは聞く。
     本を読む習慣をソロモンは持たない。それは彼の育った環境故でもあり、また彼自身の多忙極まる日々の所為でもある。
     だが時折、ソロモンはこうして図書室を訪ねることが、あった。薄暗く静かな空間と、充満する紙の香いとは、酒精を注いだグラスの氷が軽やかな音を立て蕩けるように、張り詰めた心をじわりと緩ませる。
     びっしりと詰まった本棚の中身は実に壮観で、またその光景はベリトやアムドゥスキアスたち、フルーレティと出会った邪本を巡る冒険を思い出させてくれる。蘇る記憶を噛み締め、眺める本の数々は、決して触れることはなくとも、それ自体が眩ゆい星のように思える。きっと誰かを照らすだろう、星の導き、尊い物語として目に映る。
     そういった心持ちで今日も図書室を訪れたソロモンであったが、この先客はそうは思わないらしい。瞳に剥き出しの嘲りを映し出し、デカラビアはソロモンに話しかける。
    「本というもの。文字という発明。如何にもヴィータらしい醜悪さだと思わんか?」
    「そうかなぁ。俺は思わないけど。デカラビアはどうしてそう思うんだ?」
     言葉を受け、するりと立ちあがる。音もなく椅子を引き、ソロモンを通り過ぎた先の書棚へと歩み寄る。迷いのない手付きで四冊の、分厚い本を選ぶと、デカラビアは両手に抱えたそれをどすりとソロモンの前に置いた。どれもが深い藍の表紙をしていた。
    「全ての地域がそうではないが、かつてヴァイガルドでは詩を記録するために文字が産まれたそうだ。知りたいなら、いつかこの本を読むといい。……くれぐれも表紙の色だけで覚えるなよ。」
    「え、あ、うん。わかった。」
     そう言いながらも、ソロモンはよく分かっていなかった。本を表紙の色で覚えてはならないというのは分かるが、詩を記録するために文字を発明したというのは、いったいどういうことだろう。当惑を丁寧に拾いあげ、それでいて気付かせぬよう邪悪で悪戯な表情をつくる、それがデカラビアだった。
    「戸惑うのも無理はないがな。今と昔とでは、認識の順序が逆転している。言葉は文字として読みあげるものではなく、話し、歌うためのものだった。いつでも歌を詠みあげることができるように———そんな誘惑に駆られたヴィータが、詩を永遠にするべく生命を奪い、文字という死体を産み出した。」
     指をピンと立て解説するデカラビアは、さながら学校の先生のようだった。共同生活の頃を思い出す傍ら、当時がそうであったように講義は頭をすり抜けていく。ふと、デカラビアは学校に通っていたのかと、そんなことが気になった。
    「おい。聞いてないだろう。」
    「えへへ。バレたか。ごめん。難しくてさ。」
     申し訳なさに眉を下げつつ、照れた頰を緩ませる。デカラビアはため息をひとつ零し、「まあいい」と続けた。
    「バルバトスが好い例だな。おまえはあの男が自らの詩を文字にするのを見たことがあるか?」
    「多分だけど、ないと思う。」
    「だろうな。本来詩人が操るのは生きた言葉だ。それが詩だ。聴衆に応じて中身や展開を入れ替え、声の抑揚、言葉の選び、必要なら結末さえも変化させる。吟遊詩人のうたは一度きりのもの。まったく同じものは世界にひとつも存在しない。」

     出会ったばかりの頃に、バルバトスはソロモンのために様々な英雄譚を聞かせてくれた。当時はそれさえ受け容れ難く、不気味に感じさえしたが、あれは彼なりに自分を励まそうとしてくれていたのだと理解するのに時間はかからなかった。
     今となってはソロモンは、バルバトスのうたが大好きだ。内容も音楽も、交わされる目線や微笑み、その話し振りにも、聞く者に寄り添うような響きが、バルバトスの歌声にはある。
    「……そっか。バルバトスの言葉は、生きてるんだな。」
    「そういうことだ。」
     よくできましたと、そんな言葉が聞こえてきそうな笑顔だった。
    「だが、あの男が死ねば詩は失われる。」
    「それはどうだろう。心に残る、って言うのかな。紡いでいった詩が誰かに届いて、繋がって、物語は永遠になる。バルバトスはよくそう言ってるし、俺もそうだと思う。」
    「そういった解釈も可能だろうな。だが、こう考える者もいるだろう。自らの心震わせた詩人のうたを、文字にして、いつまでも思い出せるようにしたい。ずっと後世まで。永遠に遺るよう、あの素晴らしいうたを形あるものとして残したい。そんな誘惑に駆られる者が居ないとは言えまい。」
    「それは……」
     ———それはとても、魅力的なものに思えた。ごくりと唾を嚥む音が、やけに大きく耳に響く。
     バルバトスの詩だけではない。たとえば音楽を愛するメギドたちの奏でる、あのとびきり素敵な音や歌を、ずっとずっと残せたらどれだけいいだろう。詩、音楽、演奏中に共有される熱や空気。決して忘れたくないそれを、皆に知ってほしい素晴らしいものを。
     芸術を愛するメギドたちが、或いは芸術家のヴィータが。彼らの多くが口にする「届けたい」という言葉を思い出す。
     たとえばバルバトスの詩を文字にすれば、彼のあの、豊かで美しい、聞く者を楽しませる言葉を、何処にいる誰にでも届けることができるのだ。勿論、実際に体験するより精彩を欠くことは否めないが。
    「そうして誘惑に屈したヴィータが筆を手に取った。ある者は思想を。ある者は物語を。ある者は詩を、書き記した。だがそれは、言葉から命を奪うことに等しい。」
     人々の盛り上がり、その日の天気、酒場の雰囲気。客衆に多いのは女性か男性か、そのなかでも何を好む者が多いか。土地の風習や伝統、適切な表現、今日あった出来事。それらを加味した上で詩人はうたを歌う。一度きりの、二度とないうたを。それは聞く者に合わせたとびきりの一曲であり、同時に、詩人を守る最適な言葉でもある。
    「文字は読む者を選べない。文字は読まれる場所を選べない。作者の意図を越え動き出す。一度世に出してしまえば、制御することは困難だ。銃や剣、放たれた矢。造られた武器のように、何とも危うい。」
     それからデカラビアは、纏う空気をややひりついたものへと切り替える。どうやら彼の本題は今から始まるらしいと、聞き逃さぬようソロモンも気を引き締めた。
    「それでも、文字は世界を踊っている。おまえが理解に時間を要したように、困惑が先に訪れたように。寧ろ言葉より先に文字があるのが現状だ。詩のために産まれた文字は、確かな危険を孕みながらも、今や当初の役割を遥かに越えた。逆転させた。詩から命を奪う代わりに永遠となった文字から産まれた物語。死体が紡ぐ命。……これも、そのひとつだ。」
     指が本の表紙を撫ぜる。赤と青。様々な言葉の詰まった文字、喜劇と悲劇の短編集。デカラビアは再び図書室を見渡した。本が傷まぬよう控えめな照明の灯る部屋で、ぎゅうと眼を細める。
    「…………ひどく愚かで、弱く、身の程知らず。記号に意味を見出し、死んだ永遠に生命を吹き込む創造的な営み。」
     嗚呼と甘美な息を漏らし、ぎらつく視線に数多の物語を、それからソロモン王とを映し、デカラビアはうっそりと微笑った。
    「おまえたちはさぞ、美しく滅びるだろう。」



     燃えている。ちりちりと、焔の気配がする。その火が見たくて、知りたくて、男の口内を喰い入るように見つめていた。
    「名前は、誰かに呼ばれることではじめて名前になる。」
     熱を籠めるようにゆっくりと、男の、低い音で紡がれた言葉が午後の部屋に響いている。声の主たる男は父であった。ゆるりと細められた、彼の視線の先には、すっかり仕事場に入り浸るようになった息子が居る。
     そのまるい頭を撫で、眼を細めるヴィータの顔。硝子の抱擁を受けた陽光が空間を満たしている。男の声、言葉、視線、表情。どれもが、深い感情を孕んでいた。
     彼や、彼の妻が息子に向け発する信号は常に情緒的豊かさに満ちており、鳴る、父が、微笑った、己の息子の頭を撫ぜ、奏でる、そのひどく喧しい無言の詩を、ヴィータは愛と呼ぶようだった。
    「なあ、母さんも父さんも、おまえのことがだいすきなんだ。愛してるんだ。だからおまえを、おまえの名前をたくさん呼ぶんだ。何度も何度もうるさいだろうがな、返事をくれたら嬉しいよ。セーマン。」
     そう言って破顔した父親に対し、彼の息子はただ、無言に頷いた。空間を埋め尽くす音楽、言葉と微笑みはあまりに煩く、ぴかぴかと、鳴り響く愛とやらの眩しさに、少年はそっと目蓋を下ろした。

     魚屋の娘に薬を届けてくるからと、仕事場を去る背中を見送ったデカラビアは、ひとりきりの空間に立ち、セーマン、と声を発する。彼らの尊ぶ、息子の名を呼ぶ。当然、返事はない。ひとつ、確かめるようにデカラビアは頷く。セーマンとは畢竟、色水のような記号だと、思った。
     他者に呼ばれてはじめて名になるなど、ヴィータはくだらないことを考える。名を持たず産まれ、与えられた名を生きることを疑いもせず首肯する。だから下等生物なのだと、ちいさく頬を膨らませた後、無意識にそのような所作を行った己に言いようのない不快感を抱いた。かつてメギドラルでヴィータ体を用いた際には無かった兆候が、今この肉体では息をしている。追放された魂の牢獄がこうも柔らかな肉の檻とは、なんとも皮肉なことだと鮮やかな嗤いさえ洩れた。
    「セーマン」
     もう一度、呼んでみる。肉体はひとつであり、通常それを機能させる意識もひとつである。デカラビアがセーマンを呼ぶ。それに声を返すセーマンは居ない。当然の事象を認め、首肯する。頰に指添え思考する、その内容なぞ決まっていた。決まって、いるのだ。ずっと昔から。デカラビアが意識を持ったそのときから。考える。脆弱なヴィータの身である己が、如何にして世界を滅ぼすか。関心は専らそれに注がれた。全てはそのためにあった。未だ見ぬ情景。大地が、肉体が、世界が変わろうとも、この魂が目指す場所は変わらない。

    「もう、またここにいたのね! セーマン!」
     緩く束ねた黒髪の、光が流れるような艶めきが美しい女の、母の、麗かな声が響く。彼女はセーマンを見つけたようだった。デカラビアが冷えた視線を向ける、その先で、女が、ひかる、緩やかな焔が煌々と愛を知らせている。
    「野苺のパイを焼いたの。お勉強の息抜き。一緒に食べましょう。」
    「……父さんを待たなくていいのか。」
    「ふふ、一切れだけ先にいただきましょうよ。折角の焼き立てだもの。父さんだってそんなことで怒らないわ。」
    「そうか。なら紅茶は俺が淹れよう。」

     名を呼ばれることが齎す実在の響き。ヴィータのなかではそれが確かにあるらしいことを、デカラビアは肉を以て実感する。
     矢張り下等生物だと認識をより頑強なものとしつつ、遠からず帰宅するであろう父の姿を描き、さて何杯分の紅茶を用意しようかと考える。ありがとう。お砂糖はたっぷりいれてね。こくりと頷いた息子の横顔にそう告げる女は、眩しいものをみたような、柔らかな表情をしていた。



    「おまえの碑は要らない。」
     何度目かの孤児院での労役を終えた帰り道、デカラビアはそう言った。何事かと眉を悩ませたソロモンは、やがて彼の視線の先におおきな石を———件のフォトンバーストの犠牲となったヴィータを偲ぶため建てられた碑を———見つけ、なるほどと息を吐いた。自分が碑だと、少なくともデカラビアの前では言ったことはなかった。
    「侮るのも大概にしろ。そんなものがなくとも、俺たちはおまえの旗の下に集う。認めぬ王に付き従うようなメギドは居ない。」
     けれども彼の吐く言葉は、まるでソロモンの宣言をとうに知っているかのようだった。同行していたアザゼルがそっと此方を窺う仕草をみせる。大丈夫だとジェスチャを送り、動揺を隠した声色で「急にどうしたんだ」と返すが、それさえも見透かした顔で、退屈そうにデカラビアは脣を動かした。
    「俺たちにはシステムが必要だが、システムに取込まれる必要はない。ひとりがすべての責を背負わねば維持できぬ世界なぞくだらない。王は導くだけだ。機構に用はない。おまえの碑は要らない。」
    「よく分からないが、そこまでだ。」

     ソロモンを指差したデカラビアの右の手首をアザゼルがすっと掴んだ。街中であることを配慮してか短刀は出していないが、暗器の扱いに慣れた彼ならば、ものの数秒あれば刃を突き立てるに容易いだろう。否、数秒も要さぬ一瞬やもしれない。
    「ありがとうアザゼル。大丈夫だ。ちょっと話をするだけだからさ。」
    「そうか。出過ぎた真似だったならすまない。俺がこの場に立ち会うことに問題はないか?」
    「ない。加えて言うとおまえの働きは出過ぎた真似でもない。警戒心の薄い間抜けには最適な護衛だ。」
     答えたのはデカラビアだった。当惑を秘めながらも無駄のない、美しい動きでアザゼルはソロモンに視線を投げ、その瞳が問題ないと告げるのを読み取る。掴んだ手首から手を離し、ソロモンを庇うようにふたりの間に立った。
    「碑は標ではない。誰も此処には還らない。」
     ソロモンにというよりは、碑に向けて話している。そんな印象を与える話し方だった。事実、デカラビアはその方向へと足を進め始める。後を追うかたちでソロモンとアザゼルとがそれに続く。
     肉体の動きに伴い靴は前に運ばれるが、ソロモンの脳裏にはシバとマイネが浮かんでいた。マイネ。シバの女王をアミーラと呼ぶ、古くからの友人。特別に親しいのは彼女だが、シバを慕いアミーラと呼ぶ王宮の兵士も数多い。シバがマイネに抱く信頼と、兵士に向ける信頼とが別のものであるように、マイネが抱くそれと、兵士がシバに向けるものもまた、別のものであった。
     彼女はシバの女王でありながら、アミーラというエルプシャフトの王女でもあった。兵士は、民は、彼女に敬意を抱く。そうしてマイネにとっては、シバは王女であり女王であり、替えの利かぬ、ひとりの友だちでもあった。熊のぬいぐるみ。ガブリエルが言及するほどシバにはマイネが必要だった。
     自分はどうだろう。あのときは戦う術も、知識も、余裕も時間も、何の勝算もなかった。今、ソロモン王として生きるために、少年の名前を置き去りにすることを選んだ。あの村には戻れずとも、碑になることを歓んで受け容れた。

    「おい。」
     低い声に思考が挟まれ、顔をあげればすぐ目の前にデカラビアの、黒い帽子があった。わっ、と驚いた声をあげるのに合わせ、氷の飾りがゆらり、揺れる。
    「えっ、と、ごめん。考え事に夢中になってた。」
    「……おまえがどう思っているかは知らんが、俺は一度だって死んではいない。俺とおまえの目線は合っている。自分の還る場所は既に決めている。」
     デカラビアの言葉はいつもはやくて、遠い。いまだってこんなにも、幾つも言葉と段階とをすっ飛ばしソロモンの許に届けられる。ひとり、舞台上のような口振りで。
    「でも、届いたよ。」
     投げられた言葉を受けとめる。彼のステージに押しかけることはしないし、できない。舞台袖で待つのも自分の役目ではない。けれど、手を伸ばせば届く距離にいる。届くように力を尽くした言葉を伝えることはできる。伝わらずとも届け続けることができる距離に居る。指先で触れる、彼の好む黒い服は陽をよく集め、暖かい。
    「ありがとう、デカラビア。」
     答えるかわりにクククとわらった。言葉は無くともソロモンは嬉しい顔をみせる。微笑みを送りあったって何もならない。そう分かっていたって、笑い合いたい気持ちはどうしようもなかった。
    「帰ろう! 夕飯はなんだろうな。」
     アザゼルとデカラビアと、ふたりの肩を叩き、ソロモンが白い歯をみせる。足取りは軽やかに、この大地で自らの名を選んだ3人は、同じ方向へ歩を進めた。




    「隣、座ってもいいか?」
     声をかければ、揺れる、ちかちかと星の氷が瞬いた。室内、アジトのなかであっても帽子を被り続ける者が多いのは、彼らの多くが衣服を自らの魂を世界に示す手段として認識している為であろうか。
     分厚い帽子の裡に展開される宇宙の最奥から覗く、灰いろの青、訝しげな視線がソロモンを見あげる。緩慢な速度でうごかされる瞳から一拍子の遅れ、眼の縁を飾る黒がやわと蠢いた。蛞蝓が朝に貪る生命の鳴動、花を喰む、脣が裂ける。剥き出しの指が机を叩く、春のように悪戯な音がひとつ、鳴った。

    「まずは要件を聞こうか。」
    「話がしたくて。デカラビアと。」
     躊躇いの無い口調でそう言った。対岸、デカラビアとの距離、椅子をひとつ挟んだ向こうに立つソロモンの、澄んだ瞳の黄金が形成する微笑みと、凛々しい眉の直向きとが言葉を湛えている。雄弁な眼はデカラビアを見据え、それでいて椅子にはひとつの指さえ触れていなかった。
     自ら与えた問いかけに対するソロモンの返答について、ふうん、と脣を歪めた男は、頁の端をなぞる手の動きを止め、頭上の黄金を見る。届くように嗤い声を響かせ、ゆるりと脚を組む。脣に指で触れ、悠然と言葉を紡ぐ。
    「勝手に座ればいいだろう? 誰の許可も要らんさ。此処は俺の領土ではないのだから。それとも、椅子を引いてやらねば座れないのか?」
    「勝手に座って、読書の邪魔しちゃ悪いだろ。」
    「随分と気を回す。罪人相手に。敗者相手に。」
    「……もう勝手に座るからな。」
     ぷいと逸らした顔、併し口調には気安さが滲んでいた。よく手入れされた、飴色の、古い木製の椅子を引く。ギイと軋んだ音が鳴り、驚いたように、僅かに若い背が揺れた。市場の帰りであろうか、土埃の感触の奥、ソロモンからはすこしだけ、嗅ぎ慣れぬスパイスの香がした。弾けるような刺激と、郷愁を誘う酸いと、甘い、知らない大地のにおい。身を浸すようにデカラビアは静かに、穏やかに眼を伏せ、隣から漂う香いに耳を澄ませる。ゆるりと身を任せてみる。
    「えっ、まさか、寝たの……?」
     読書をしていたかと思えば、自分が横に座った途端に眼を閉じ動かなくなった。不思議をいっぱいにして見つめるソロモンの視線の喧しさに、数分も経たぬ間にデカラビアの脣からは微笑いが溢れた。愉快な男だった。退屈しないし、見どころがある。甘さは少々欠点だが、それさえもこの男を描く線のひとつだった。
     態とらしく竦めてみせた肩、寝る訳があるかと呆れ顔を披露すれば、急に眼を閉じるからびっくりしたと返される。
    「それで? 態々ご足労痛み入るよ。おまえには、俺に構うよりすることがあると思うが。」
    「忙しいのは事実だよ。でも、暫く会えなくなる前に、デカラビアと話しておかなきゃと思ったから。」
     微かに首を傾げ微笑うソロモンに、デカラビアもちいさな微笑を返した。頰にあてた指をぱたぱたと揺らし、睫毛を鳴らす。
    「そうか。では、なにから?」
     晩餐会のメニューを尋ねる仕草で問いが放たれた。デカラビアは読み掛けの本を閉じ、机上に積み上げた本の山からまた別の本を取り出す。深い朱のいろをした表紙のそれを、ぱらり、捲る。

    「まずは望みの話をしよう。」

     図書室のなかに流れる空気が湿気を孕みはじめた。囁く驟雨の揺らめきを背後に言葉を交わしあうことを、はたして何と表せばよいのだろう。ソロモンとデカラビアとのあいだにある、交錯する、ちりちりと擦れあう視線が描く、掠れる光の先にある言葉が滴のかたちをして落下する。そういうものを、あの日から繰り返している。
    「デカラビアの言葉が知りたい。ゆっくり、少しずつでいいから。まずは、オマエの望みが知りたい。」
    「滅びと再生、とは既に伝えた筈だが。どうも俺の王は他の言葉をご所望らしいな。」
     脣の左右を引き、たっぷりの余裕を寛げる。愉楽の指が宙を辿り、とびきりに分厚い、薄青に銀の刺繍が施された本に触れた。
    「塔を建てる。ヴィータの手で。」
    「塔を壊したい。俺の、この手で。」
    「塔が建つよう世界を調える。俺の名をした災厄で秩序へと導く。」
     音がソロモンに届いたのを確かめると、表情を覗き込むように身を近づけた。いろを消した脣で、いやらしく微笑う、嬉々として囁く。
    「今の答えは気に召したかな?」
     ぽつり、最初に降りてくる雨が地面に触れる音を皮切りに、いっせいに雨が落ちてくる。激しい音に包まれた世界を見ようと窓に視線を向ければ、青を孕んだ濃い黒の髪がぴょんと跳ねる、濡れた自分の顔が映っていた。
     ずきずきと頭が痛む。雨音と一緒に訪れた冷めたい空気が肌寒さを呼びこみ、ソロモンは青い顔で剥き出しの腕を摩った。すぐ側にいる、分厚いローブの下をきっちりと着込んだ男は、寒さとは無縁のようだった。
    「…………ブランケットは。」
    「欲しい。」

     無言に立ちあがったデカラビアが入口近くのカウンターへと向かう。積まれた深紅のブランケットを取ると、ソロモンの隣へと戻った。雨音に掻き消されたのか、彼自身の所作故か、引かれた椅子はソロモンと異なり、ひとつも音を立てなかった。
    「マントくらい羽織れと言っただろう。」
    「この状況じゃ言葉もないけどさ、それってこの状況を見越しての助言じゃなくない?」
    「ふむ。まあそれもそうだな。」
     ふわり、肩にかけられたブランケットの、微かにごわついた、併し柔らかな感触がソロモンを包む。雨音よりも、冷えた空気よりも、ずっと近くで、緋色の温もりが世界を取り巻いている。
    「ありがとう。ふふっ、……あったかいなぁ。」
     差し出された毒のない笑顔に少しだけ困った顔をして、僅かに視線を彷徨わせた後、定型の言葉の鋳型に思いを流しこんだデカラビアは「もう寒くないのか」と尋ねた。湖のいろをした視線は空になった手のひらに注がれていた。
    「うん。もう寒くない。デカラビアのおかげだ。」
     ぎゅっと遠い目をした青年が頰を緩める。それから、空っぽの手をみつめて、毛布、一枚だけしか取ってこなかったんだな、と呟いた。
    「デカラビアは、寒くないか?」
    「おまえみたいに薄着をしていない。」
     ぴしゃりと壁をつくる話し方は、けれどこんなにも近くに居るのだ。効き目は薄い。薄いどころか、逆効果だった。だったら、おまえの分を俺が取ってくるよ。そう言って浮かせたソロモンの太腿を、デカラビアは素早く押さえ付けた。寒くないから要らない。伝えようとした言葉を咽喉の奥に押し籠めると、自分で取りに行く。そう伝え立ちあがった。

    「碑の話を覚えているか。」
     同じいろのブランケットを抱え戻ってきたデカラビアが、矢張り静かに座りながら尋ねる。
    「うん。覚えてる。」
    「それは重畳。忘れられていたらどうしようかと思ったよ。」
     揶揄いの言葉をくるくると操る。よく動く脣とは異なり、開かれた眼はじっと、静かに、前だけを見ていた。矢張り脱ぐ気配のない帽子の、広いつばの下に僅かばかりの身を寄せ、頰と額にかかる髪の向こう、幾らかよく見えるようになった横顔を、ソロモンは大切に見つめている。
    「今は遠い目標ではあるが、ヴィータ全員にシステムの自覚を与えねばならないと、俺は考える。そこに至るためなら、戦争でも武器でも、如何な手段でも構わない。この世界の滅びの危機の、当事者は全てのヴィータなのだからな。まずは、そこから始める必要がある。」
    「手段を問わないことについては賛成できない。」
    「だろうな。おまえ程ではないが、フルカネリもそのスタンスだった。」
     言葉と同時に、微かに眉を寄せた。デカラビアのその表情の意図をソロモンは解せないが、大事なひとなんだろう、ひどくありきたりに、だが強い確信を抱いて、そう思った。そう考える間にも隣の男は言葉をうたう。声は雨音よりもはやく耳に届く。
    「戦争こそがメギドの言葉だった。……それが今や落ちぶれたものだ。皆が同じ言葉を操り、皆が同じヴィータ体をとっている。」
     とはいえ、と嘯いてから、デカラビアはクククと嗤った。何もかもを馬鹿にして、何もかもを愛してやまない。そういうふうに顔を歪めた、奇怪な笑い方だった。
    「戦争以外の言葉を持つからだ。愚かで滑稽な堕落。だから俺は言葉で戦争を仕掛けたのだ。結果は無様に終わったが。」
     それでも、変わらず、デカラビアはわらっていた。嬉しくて嬉しくて、だから大きらい。弧を描く脣の四文字がぴかぴかと無音を鳴らせる。
    「俺はまだ、一度も勝利したことがない。」
     響く、堂々たる言葉にソロモンがそっと首を傾げる。望みは何か。己が投げた問いへの答えであるとやがて気づくと、肩を覆うブランケットを指先で摘み、そこにある赤を確かめた。
    「まだ何も滅ぼしていない。」
    「シバやガブリエルたちが認めざるを得ないくらい、デカラビアはヴェステンを救ったよ。悔しいけど、滅ぼして救う、オマエのやり方を通したんだ。」
     違う。顔を顰めて呟き、デカラビアが首を振った。声色に滲む苛立ちが肌を搏つ。握り込んだ五芒星のローブに深く、濃い皺が刻まれる。
    「確かに俺はヴェステンを滅ぼした。だがそれでは足りないのだ。そんな滅びでは世界を救えない。戦争が多くのメギドの望みであり、その先に求めるものが勝利ならば。俺は勝ちたいのだろう。この世界に勝ちたい。世界を救うため、この世界を滅ぼしたい。」
    「勝つ、っていうのは、俺に合わせてくれた表現だよな。それは分かってるけど、でも、じゃあ俺は、俺たちは、オマエの敵なのか?」
    「おまえを敵と思ったことなどない。貴様らは敵にすらならん。」
    「そう。そうだよな。オマエはそう言うんだ。」
     太い眉が歪に曲がる。歯の奥を噛み締める。図書室は静かに、ブランケットは暖かく、雨は止まない。
    「今の世界を守れ。共に見届けろ。おまえの示した罰は、俺にとっても都合の悪いことばかりではないさ。ヴィータの短い寿命を思えばもどかしくはあるがな。だがそれだけだ。俺はいつか必ず敵になる。
     俺たちはおまえの敵じゃないのに、オマエは俺たちはの敵になるのか。舌にのせた言葉をまごつかせる。聞きたいことが、知りたいことがたくさんあった。彼の操る言葉を潜り抜け、己の言葉で貫く必要がある。
    「デカラビアは、俺たちの敵になりたいわけじゃない。そうだろ?」
    「己の裡で答えの確定した問いを投げかけるのは些か幼稚が過ぎるな。まあいい。砂糖をやろう。望まないと言ってやるとも。俺も、おまえも、互いの敵対を求めてはいない。その解釈は可能だ。」
     ソロモンがほっと息を吐き、デカラビアは息を吸った。湿った空気が口内に満ちる。
    「この軍団がハルマと方針を共にすることも、ヴィータが奴らの雛であることも。疑問を抱かぬことに我慢がならない。致命的な歪みだろう。あれこそがこの世界の毒だ。だから先に俺が滅ぼすのだ。災厄へ導く。この世界の毒は俺でいい。」

     おおきく、静かな微笑みだった。咲いた星の音が雨を撃ち、今、雄弁な死が再生を抱く。誰もが永遠を知っている。認識不可の永遠を。夢現の愛に縋らずとも其処にある。脈打つ心臓が燃える焔の源泉である。
    「計画を動かしたときから命は捨ててるって言ったよな。分からないんだ。繰り返すのか? 滅ぼして、救って、その先は? デカラビアの未来が知りたい。オマエの勝算を聞かせてくれよ。そこから話を始めたいんだ。」
    「……ふっ、ククッ、ふふっ、ァ、ははっ、」
     眉震わせるソロモンの隣で、デカラビアがやにわにゆらゆらと笑い始める。地響きのような、低い、断続的な音を立て、やがては図書室の静謐を突き破り、晴れ渡るような盛大な笑い声をあげた。腹を捩らせ、愉快に歪めた躰、両手は勢いよくソロモンの肩を掴む。瞳が、燃えていた。開いた口の奥に何がみえる。煌々と灯る、焔のいろが宇宙だとして。
    「ククク、先か! 未来か! 勝算か! ない。そんなものはないよ。ソロモン。必要もない。戦争が終われば次の戦争を。何度滅ぼしても足りぬのなら、何度でも滅ぼせばいいだけだろう?」
     うっとりと、先程までの笑いが忽然に音を顰めた静寂に満ちる蠱惑の響、当然の指先で脣をなぞる、開いた花の芳香、デカラビアは華やかに微笑った。嫣然の舌が血に咲き誇り、毒の蜜が滴り落ちる。
    「俺がおまえを王にしてやる。誰もが畏れる支配者にさせてやろう。ソロモン。」
    「何度も言うけどさ、いらないよ。俺はそんなこと望んでない。」
    「俺が望んでいるのさ。ヴィータの王はおまえがいい。」
     神経質の潜んだ理知の眼差しがソロモンを見据える。息が、血液が、内臓の収縮が、心臓が、見透かされているようだった。
     冷えた眼だった。燃える氷に似た眼をしていた。凝視する、視線だけでおまえを喰い破ると言わんばかりの、それでいて強迫的な震えがあった。無言に伸ばされた指がブランケットの下に入りこみ、黒い指が刺青を辿る。その指を捕まえて、存在を伝えるように数度握り込む。デカラビアの瞳に自分を映した。
    「俺じゃ足りないか? 世界を守るために世界を変えたいと思ってる。一緒に戦いたいんだ。デカラビアは俺に、勝算を感じない?」
    「感じているとも。おまえはこの世界の……俺の希望だ。だが、足りない。おまえだけでは足りない。それでは不満だ。だから、おまえが王として座すに相応しい世界を俺がくれてやろう。足りないさ。まだまだ足りない。ちっとも足りない。おまえは世界を変えるだろうが、この世界の構造を変えはしないだろう。」
     にっと得意げに微笑むと、デカラビアはソロモンのブランケットに手を伸ばした。奪うように引っ掴んだそれを、優雅な所作で自分とソロモンとの肩に掛ける。脣を交わすより深く、赤い温もりをふたりで分け合う。ひとり用のブランケットはふたりの両肩を覆うには長さが足りず、互いに自然と身を寄せ合った。
    「今度こそ見せてみろ。おまえの勝算を。聞かせてみろ。おまえの描く世界を。行動で示せ。できなければ俺が滅ぼす。それだけの話だ。信頼しているさ。期待もしている。だがそれでも、俺にはおまえがそれを為せるとは思えん。」
    「だったら! ……戦争を、する、から。戦争で示すよ。俺の戦争で、俺の意思をおまえにみせる。だから、見ててくれ。見ててよ。俺のこと。」

     震える舌で、併し勇ましく宣言する青年の、光輝湛える眼差しを美しいと思う。誇らしささえ感じる。
     けれど、だからこそ、デカラビアはいやだった。堪らなく愉快で、不愉快だった。ときに恐ろしいほど、この男はメギドの思考を理解する。意味のない、幼稚な行動だと思いながらも、デカラビアはむかつきに任せソロモンの額を指で叩いた。
    「戦争を手段にするのはメギドの道理だ。おまえはヴィータだろう。」
    「デカラビアだってそうだろ。」
     そうだな、と首肯いた。戦争以外の術で世界に意志を示せる。それがヴィータだった。それは確かな勝算だった。ソロモン王がヴィータであること。それでも、この世界にはまだ、戦争が必要だった。
    「メギド。ヴィータ。追放メギド。」
     メギドは魂を生きる。そうでありながら追放メギドは、ヴィータとしてヴァイガルドを生き、ヴァイガルドで死ぬことを定められている。
     死なば魂は失われ、世界を循環する輝きの一部になる。メギドとして。或いはヴィータとして。役割を果たすことが生の意味だろうか。分け合ったブランケットの下、デカラビアは考える。メギドラルでの己のこと、メギドのことを考える。
     闘争本能を旗に掲げ、戦争を目的と履き違えた多くのメギドは愚かだ。戦争は手段に過ぎない。だがそれがマグナ・レギオ体制下に於ける望ましい在り方だとも、知っている。パンは素敵だ。サーカスも素敵だ。そう思えたなら。盲目の錯覚を許容しそれに耽溺できたなら。弱ければ個を貫けぬ世界なら、世界にとって望ましい在り方を選べば楽だろう。それは弱くとも、ただ生きているだけで為せるから。
     デカラビアは決して強いメギドではなかった。有力な古メギドと比べれば世界を知らず、己の無知にさえ自覚がなかった。もっと力を蓄えてから挑むべきだったと。おまえはまだ未熟で、早過ぎたと。弱者に通せる意思はない。声を響かせたいのだとしても、まだはやいと。捕らえられたデカラビアに、掛けられた声はそんなものだった。彼らはたいてい、デカラビアより長く生きていた。
     見積りが甘かった。相手を下に見ていた。抜かりは認めよう。大いに反省もする。だが、それでも。それでも、我慢ができなかったのだ。足りないし、偽れない。胸の鼓動、衝動が背中を突き動かす。
     強さも知識も不足していた。弱者がたったひとりで為せることなど知れている。併しそれでも、迫る滅びを前にして、今此処にある世界を理不尽だと、不満を怒りを危機感を抱かない者が何を言おうとも、抗うことに、決して早過ぎるということはないのだ。
     星が鼓動する。星が呼応する。駆け抜ける光はすぐに消えるだろうが、構わなかった。何度でも、何度でも。魂の求めに応じ駆動する。馴化された獣ではなく、己が見定めた個のため誇り高く。その過程で命を失うことに、歓喜こそあれ何を恐怖することがあろうか。

    「射られた矢は己が貫いた世界を知ることはない。それを知るのは射手ばかり。メギドは彼の世界で己を見つけ発生するが、それは世界の意志とも言えるだろう。」
     幻獣を憎むことにも意味があるように、戦争に狂った阿呆のようなメギドの振る舞いにも意味はあるというわけだ。最後に何処か自戒染みた言葉を付け足し、デカラビアは口を閉じた。
     少しばかり疲れを滲ませた背中を椅子に凭れさせると、次はおまえのターンだ、そう言わんばかりに視線だけを動かし、ソロモンを見つめる。沈黙していたかと思えば、突然に話し出す。内容に首を傾けながらもcソロモンはそっとデカラビアの手を取った。今ここにいる彼を掴む。
    「その、彼の世界が俺にはイメージしづらいんだけど……世界に望まれたから皆んなが生まれたわけじゃないだろ?」
    「海を守る。それを個とするメギドがいるな。おまえはそれを首肯する。メギドの多くは、戦争を好む。血を浴び肉を穿つ戦争をだ。おまえはそれを首肯する。芸術を魅了されたメギド。マグナ・レギオは彼らを認めないが、おまえはそれを首肯する。」
     深く腰掛け、水底に触れるほど瞼をおろした姿は、まるで老人のようだった。老いた青年の、併し未だ少年の、デカラビアの言わんとすることを察したのか、ソロモンは硬く口を閉じ、岩のように険しく、真剣な表情となった。
    「滅びと再生が俺の個だ。放たれた炎が己の灼いた世界を見たいと欲を出したのさ。おまえが言うように誰かを踏み躙る望みだとしても、それは譲れん。」
     だったら尚更、死んじゃだめだろ。計画を動かすことと、そのなかへ命を擲つこととは別だろうと。胸に湧いたその想いを、併しソロモンは口にしないことを選んだ。
     偉大な戦争のなかで死ぬことを誉とするように。メギドとはそういうものだと、少しだけ知っていた。傷ができるほど強く頰を噛む。痛みでは寂しさは微塵も薄れてくれない。

    「世界に望まれたからメギドはあるのか。メギドの個は誰の意思か? そんなものは決まっている。始まりの目的が何であれ、此処にいるのは俺だ。ひっくり返してやればいいのだ。俺は選んだぞ。最早対象はメギドラルですらない。この世界に災厄を齎すと。」
     滅びを期待され産まれたとしても。滅びによってメギドラルを救い、世界に貢献することこそが意思なのだとしても。そんなものは知らない。ただこの手にあるのは、この心臓を突き動かすのは、尽きぬ滅びへの渇望と、この世界の眩しさだ。
     だから逆転させよう。滅びこそが己だと。毒でも薬でも構わない。大地が何処であれ、災厄という矢となり世界に挑めばそれはデカラビアだ。定義は己で定めてしまえ。
     語る、デカラビアの背後には、膨大な書棚が広がっている。大量の本の内側に、無限とも思える数の文字が詰まっている。うたを残すために生まれた記号は、今やそれ自体が雄弁な生命となった。雨は止まず、図書室は暗い。それでも、ソロモンはきゅっと瞳を細めた。世界が無性に眩しいものとして眼に映る。そうして視界の中央で、ひとりの星が不敵に微笑う。
    「俺から眼を離すなよ。必ずおまえの眼を掻い潜り、この世界を滅ぼしてみせる。」
    「フフッ、それってなんだか、予告状みたいだな。」
     途端にデカラビアはげんなりした顔になる。千変万化の怪盗、計画が頓挫した決定的な要因のひとつとなった純正メギドの、気障で瀟酒なウインクが頭に浮かんだのか、おまえも随分と意趣返しが巧みになったなと、机の下、爪先でソロモンの脹脛をつついた。蕾が破れた雨音の奥、微笑み交わす音が鳴り響く。


     ややあって、するり、立ちあがったデカラビアにつられブランケットが歪にずれ落ちた。ソロモンの肩に垂れ下がったブランケットと、自分の膝にあったブランケットとをソロモンの肩に被せると、先に広間へ戻るとデカラビアが告げる。雨に揺らめく瞳は、ソロモンと同じかたちをしていた。
    「おまえが、俺の個を認めない男でよかった。だからおまえが王なのだ。俺に寄り添えないおまえがすきだよ。ソロモン。」
     口づけより鮮やかにデカラビアが微笑う。落とさぬようブランケットに手を添え立ちあがり、広間なら俺も一緒に行くよ、微かな苦しさを孕む微笑みで、ソロモンが言う。
    「あのひとは、オマエに寄り添える相棒なんだな。」
    「ああ。いいだろう? あれは、あのヴィータは。あいつは、かわいい俺の男だよ。」
     ソロモンより少しだけはやい足取りで進む、デカラビアは一度だけ振り返ると、ひどく無邪気に、得意げにそう言った。
     


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    泡沫実践

    DONEトラファルガー・ローはパンを食わない。葡萄酒で咽喉を潤さない。かれの主人はドフラミンゴではないからだ。
    呪え祝うな あの、忌わしい、運命の夜から七年が経った。愛を注いだ。庇護下に置いた。腹心の相棒を据えていた心臓の席を与え、これは重要なものだと誰の眼にも分かるよう、色を違えた揃いの羽織も遣った。そうやって、心からだ、心の底から、己の心臓のようにたいせつに可哀がっていた弟の、手酷い裏切りに遭い、胸を裂く想いで鉛玉を撃ち込んだ夜から、七年。堕ちた身が被った獣の暴力、父を我が手で殺めた記憶が悪夢として今尚蘇るように、七年前のあの夜も又、ドフラミンゴを苛み続けて、いる。重く伸し掛かる、痛む、思い、痛みは絶えることがない。記憶が薄れることなどある筈も無い。況してあの夜は、弟を殺した、耐え難く、怒りと屈辱と心痛、喪失、に極まる一件、それだけでは済まなかったのだ。あの日、ドフラミンゴは奪われた。決定的に、致命的に。ロシナンテ、ロー、愛、信頼、心臓、右腕、未来。奪われた全てをひとつに集約するならば、それはハートだった。ハートが全ての言葉になる。空席、赤い、血より濃い、同類。ハートの席。其処に座るべき男の名前。失い、奪われ、未だ手に入らない。その境目を判別することなぞ最早出来まい。
    5341

    泡沫実践

    DONEドフラミンゴさんの話。

    原作通り、当時子供であるドフラミンゴによる父親の殺害描写など暴力描写が含まれます。ご注意ください。
    祝え呪え王の生誕ごめんな、と言って眉を下げ微笑い、ドフラミンゴの父は残して行く家族に命を差し出した。最早他にできることはないと腹を据えたようにも、銃を突き付けてきた息子に対し取るべき行動を何も考え及ばなかっただけの愚鈍にも思える姿だった。差し出された命の貨幣をドフラミンゴは受け容れ、ロシナンテは拒絶した。撃ち込んだ鉛によって与えたのは赦しである。死体となった頭を切断する糸に震えは無かった。銀盆に載せられた首は強張りの隠せぬ、併し柔らかな微笑を湛えている。ドフラミンゴは銃をヴェルゴに手渡すと、伏せられた瞼の端に滲む水を己の熱い指で拭い、最期の言葉に謝罪を選んだくちびるから流れる血の筋や、頸から滴り、溢れ出した血液が、ひたひたと、満たすように銀の大地に広がっていく様を凝と見詰めている。ドンキホーテ・ホーミングは赦された。罪は死によって赦される。犯した罪は己の血によってのみ灌がれる。哀苦に眉を歪ませ、肩で息を切らせながら、ドフラミンゴは冷静だった。頭の半分は激情に浸っていたが、残りの半分は恐ろしいほどに冷めたく、それが眼になり父を見詰めていた。
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    泡沫実践

    DONEロシナンテとロー。
    無題 愛とは全身全霊の行為だ。魂の火が愛だ。ドンキホーテ・ロシナンテが白い子供への憐憫に涙を流した夜、溺れた火種、トラファルガー・ローの心臓は息を吹き返し、幽かな、確かな火が灯された。程なくして心臓、赤い悪魔の実が、ロシナンテの前に立ち現れる。道化は笑った。心の底から祝福を叫んだ。これは奇跡だ、と。ハートの果実は空想でなく、間違いなく実在する、手の届く希望で、あった。同時にそれは、決断を迫る悪魔でも、ある。だがコラソンは迷わなかった。ドンキホーテ・ロシナンテに躊躇いはなかった。惨禍に投げ入れられた子供。同じ苦しみを味わった、何としても止めねばならぬ血を分けた実兄、父の如く慕う恩人、忠を誓う、己を拾い上げてくれた海軍、人々の生活を守り抜く為の組織。決断を鈍らせる要素は幾つも存在する。それでも、かれは選んだ。すべてを裏切り、世界を敵にまわそうとも。トラファルガー・ローを救うと定める。己が持つすべて、命さえ賭しトラファルガー・ローと生きると決める。ロシナンテは既う、知ってしまったのだ。瑕の永遠、この世界の残酷も、白い子供の柔しさも、躍る、赤い心臓に手が届くことも。
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