さよなら、さよなら、また明日。閑静な住宅街を国産車が静かに走り抜ける。もちろん法定速度は守った上でだ。車の外はもうとっくに日が沈み、広がっているのは黒に近い、濃紺の空。闇を照らすように街灯と住宅街に灯る暖かな光が等間隔に並んでいる。
車は緩やかに速度を落とし、振動を感じさせないほど勢いを殺してエントランスの真正面でピタリと横付けされた。
「到着致しました。知事、お疲れ様でございました。また明日、七時半にお迎えにあがります」
運転手の言葉に一瞬、遠い過去の記憶が掘り起こされる。似たようなセリフを言った男。
「着きましたよ、若。それじゃあ、また明日」
忘れたはずの、忘れるはずもなかった男の顔を思い浮かべ静かに頭を横に振る。ドアを開けても下りない都知事に何か粗相をやらかしてしまったと焦る運転手が堪らず声をかける。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。ご苦労」
運転手は深く頭を下げた。顔は見えなかったが、思い出した顔とは似ても似つかない。と言っても思い浮かべた男の顔は何年も、それどころか十数年見ていないから、似ていないかすら曖昧だ。
エントランスを潜り、都知事である青木遼はようやく心休まる自分だけの時間を過ごすのだった。だが、思いがけず浮かんだ顔のせいで落ち着かない。よりによって、である。書きかけの文字を紙ごとぐしゃりと丸め投げ捨てた。