幾星霜の瞬きは、ただ常盤に燦いて5.
北方に位置する茨の谷では冬が長く、空気も凍るような寒さによって樹々がゆっくりと育つ。故に木目が密に詰まり硬く重たい上質な木材の産地となっていた。ディアソムニア寮では茨の谷の楓材を8センチほどの分厚い扉として贅沢に使用している。ノックでは室内に音が届かないので、大抵の扉にはドラゴンの頭部が炎の輪を咥えた意匠のブロンズ製ドアノッカーが付いていた。ノッカーなしでは扉を挟んで声を掛けたとしても、それは風の音に似て気付かれない事が多いのだ。
メッキが禿げてつるりと光る炎の輪を、日々の鍛錬でマメも出来なくなった無骨な指先が摘んで、ノッカーを二度打ち付けた。
「親父殿。シルバーです」
張り上げた声が図らずも硬くなってしまった未熟さにシルバーは内心舌打ちした。
用心して耳をすますと中からリリアの飄々とした入って良いとの声が微かに聞こえ、シルバーはほっと胸を撫で下ろして右手で重たい扉を押し開いた。
外界との境がなくなりピコピコと電子音がシルバーの鼓膜をくすぐって眉尻を下げさせる。尖塔を模した石造りの大きな天蓋ベッドに、子どものような背格好の養父が小さく身を縮こまらせて横向きに臥し、ポータブルゲームに興じていた。真っ直ぐなざんばら髪から、シルバーとはかたちの違う尖った耳が覗いている。
「親父殿。体調が優れないのだから、ちゃんと寝て下さい」
「すまん、すまん。あと一戦だけ」
リリアが肩をすくめて手刀を切る。シルバーはため息をついたが、その口角はゆるく上がっていた。
「……わかりました。一戦だけですよ」
手持ち無沙汰なシルバーはリリアの部屋を見回した。先日軽く片付けを手伝ったはずだが、奔放な養父は昔から整理整頓が苦手で部屋はじわじわと以前の状態に戻ろうとしていた。シルバーは書物机に鎮座するパソコンのキーボードを少し押し退けて持ってきた盆を置くと、椅子に積まれた服を畳んで抽斗へ仕舞ったり床に落ちているカリンバやマラカスを楽器庫へ戻したりした。
「はっはっはー、勝ち戦じゃったわい」
「よかったですね」
「おや、待たせておる間に片付けてくれたのか。ゆっくりしておればよいものを、マメな奴じゃのう」
リリアが小さな手をちょいちょいと振ってシルバーを手招く。
「俺がやりたくてやっているだけなので、気にしないでください」
そう言いつつシルバーは手招きに応じて、身を屈めて透けるような銀灰色の髪の頭を横になったままのリリアの眼前へ差し出す。
途端。
ぱんっ!
「?!」
爆竹のような音にシルバーは瞬時に身を強張らせて構えをとり黄緑色の魔法石が嵌った警棒へ右手を遣ったが、すぐその音の正体が何か判って、筋肉を弛緩させ詰めた息を吐き出した。リリアとシルバーの間から、赤や黄色の紙吹雪が噴き上がりふたりの頭上にきらきらと輝く魔法の残滓を漂わせながら舞い落ちてきたからだ。
リリアの招き手と逆の手には、水色のハンカチがあった。
色とりどりの四角が花弁のごとく柔らかに降り積もる下で、リリアは幼子のような顔をして無邪気に笑った。
蝋燭の灯りと曇天によってもたらされる光がわずかに届くばかりの薄暗い部屋でも、リリアが笑うと温かな春の陽気に似た後光が差すようにシルバーは感じた。それは、拾われ子であるシルバーのこれまでの霧深い人生を真っ直ぐに照らしてくれた光であった。
「くふふ。シルバーよ、油断大敵じゃぞ? お主がくれたお土産で驚いていてはダメではないか」
水色のハンカチは、シルバーが花の街でリリアの為に買った、いたずら玩具の類いの土産の品だった。
「……本当ですね。自分の未熟さを思い知ります」
有事の際、例え相手が身内であっても気を乱すことなく構えられるようシルバーは教えを受けている。――己の背後には常に主君が在ると心得よ。その身は主君の護り刀であり、己へ楯突くはすなわち主君への叛逆と思え――。
刹那。シルバーの思考は消え去って、ただ背後の主君を護る為だけに研ぎ澄まされた白刃と化す。
「ふふ、わしの教え通りに動けておったのは上出来じゃがな」
四散した思考を取り戻したシルバーは、戯言であってよかったと心底安堵した。
「俺はまだまだ親父殿に届きません」
「そう落ち込むな。驚かせてすまんかったな。片付けをありがとうシルバー」
リリアの小さな手がシルバーの頭へようやく届き、丸く形の良い頭蓋骨を慈しみをもって撫でる。
シルバーは親を慕う子どもの顔になった。ずっと、こうして頭を撫でられてきた。
まだ片言しか言葉を喋れない年頃で城下町へひとりでお遣いに行き幾多の試練を乗り越えて涙目になりながら帰ってきた夕暮れ、ハロウィーンでリリアが扮する世にも恐ろしい怪物と対峙しても粗相をしなかった初めての朝、与えられた課題を全て乗り越えマレウスの護衛として公私共に認められた輝かしい昼下がり、一年のひとり暮らしののち黒い馬車に迎えられ再びマレウスとリリアの傍に在ることが出来るようになったナイトレイブンカレッジ入学の日。
はじめは大きかった養父の手を、いつの間にか小さく感じるようになっていた。見た目はいつまでも歳を取らないリリアを、心のどこかで永遠と同義の人だと思っていた。
――卵から孵った雛たちが巣立っていく様子を森で何度も見てきたのに、心のどこかで俺はマレウス様に仕官する限りずっと巣の中に居られると思っていた。頭をこうして撫でてもらえる、あなたの腕が届く距離の内に……。
「今日は調子が良さそうですね」
「一昨日は徹夜でゲームがちと白熱してしまったゆえ、立ちくらみしただけだと言うただろうに」
シルバーは視線を落とす。
――そんなこと今まで一度もなかった。あなたには変わらず元気でいて欲しい。
「ほどほどにして下さい、親父殿」
――あなたを越えることが俺の目標だ。例え離れていても、いつか来るその日をあなたに見てもらいたい。
「俺は」
――ああ、俺は。その時あなたによくやったと笑って頭を撫でてもらいたいんだ。
「シルバー」
優しく呼ばれた己の名に、シルバーははたと顔を上げた。全てを見透かしたような大粒のルビーを思わせる深紅の瞳に頼りなげな己の顔が映っていた。次期領主に仕える護衛の顔ではないとシルバーは唇を引き結ぶ。
シルバーは巣立ちの覚悟が出来ていた。だからこそ、リリアとの残された時間を大切にしたいという念いがあった。シルバーはマレウスを護衛する責務以外、このところリリアのことばかり考えていた。
リリアは慈愛を込めていとし子をただ見詰め、目を閉じるとよっこらしょと床から身を起こした。
「さて、お主。わしの部屋の片付けに来たのではあるまい。何か持ってきてくれたんじゃろう?」
「あ、そうでした」
リリアにうながされてシルバーは書物机に追い遣った盆を椅子の座面へ置くと、ベッド近くへ引き寄せた。リリアが身を起こしたベッドを揺らさないよう己も縁にそっと腰掛ける。着痩せして見えるがシルバーの体脂肪率は12パーセントほどで鋼のような筋肉を纏った身体の為に、思ったよりもベッドが沈み込みやすい。
「おや、マカロンじゃな」
銀製の盆の上には、レースペーパーを敷いた皿に鐘を模した黄色いマカロンとコーヒーマグがあった。
「はい、談話室に置いてあったので親父殿と食べようと思って持ってきました」
「うむ、ありがとう。一緒に食べよう。誰からの品じゃ?」
「一昨日、ロロ先輩が来寮された際に、手土産としてもらい受けました」
「ああ。マレウスが招待した、げに面白きヒトの子か。わしが伏せっていたゆえ出迎えに参加出来なんだ。花の街ではどんぱちやったんじゃろう? よう招待を受けてくれたな」
「行き違いはありましたが、ロロ先輩は根が真面目な人です。きっとマレウス様とも話し合いで和解し、ガーゴイルへの理解を深めて今回の交流に繋がったと俺は思っています」
シルバーはガーゴイル研究の為にロロが来校したと純朴に信じていた。
「和解のう……。いかん、コーヒーはわしが一戦する間に冷めてしまったか。お主にもらった誕プレを早速使わせてもらおう」
リリアがベッドサイドにある宝箱のような形の櫃を開け、陶製のまるい形をしたティーウォーマーを取り出した。リリアがゲームに興じてしまうと淹れてあった飲み物がすぐ冷えてしまうので今年の誕生日プレゼントとして渡したものだった。香炉のように蝋燭を入れてカップを下から温める簡単なもので、以前のリリアであれば不用の長物だっただろう。魔法をひと振りで解決したからだ。リリアはひとつ用のティーウォーマーに無理矢理カップをふたつ乗せて温める。
「先にマカロンをいただくとするかの」
「はい」
親子は並んでベッドの縁に掛けると、手を受けてマカロンをかじる。ふわっと甘い香りが鼻腔を抜け、アーモンドプードルとメレンゲで出来た脆い黄色の表面が卵の殻を割ったようにひび割れる。ほんの少しシルバーの唇からこぼれたかけらは受けた手に落ちる。中身のぬったりとしたガナッシュに味蕾が達すると木苺の濃厚な甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、ほろ苦いコーヒーが欲しくなる。皿の上にマカロンのかけらを払うと、シルバーはまだぬるいコーヒーをぐいと服した。
「ところで、そのヒトの子は魔法が嫌いとか云うておったと思うが」
同じくマカロンがひび割れてこぼれたリリアは、赤い舌でぺろりと器用にかけらを収め、なんでもなく問うた。
「己で魔法障壁を張るなり、防衛魔法を刺繍したゲストルームウエアかその類の制服なり、纏っておるんじゃろうな?」
「え?」
シルバーの無垢なオーロラの瞳に、リリアは嫌な予感を察知する。
「……もしやそのヒトの子、生身でマレウスと同じ空間に寝泊まりしておるのか?」
「ゴホゴホッ……」
――咳が治らない。私としたことが慣れない環境で疲れているのだろうか。
立襟のローブを身に纏ったロロはハンカチを口元へあてがって呼吸をなだめると、用箋挟みを手にドーム屋根の鏡舎を出て裏手へ向かった。背後の運動場の方角から、箒に弄ばれた生徒たちの馬鹿騒ぎが風に乗って、やたらとロロの耳につき顔を顰めた。
鏡舎は教師陣が駐在する校舎への道以外、周囲を切り立った崖や川に囲まれており、大切な生徒たちが住まう寮域を守る地形に位置している。ただ、平時に道がひとつしかないというのはあまりに不便な為、鏡舎の裏手へ回り込むと川に簡素な木製橋が掛かっており魔法薬学室と植物園へと通じていた。
授業中の為に人気のない少し柔らかな舗装路を時折並走するカモを避けて歩みながら、ロロは眉間に皺を寄せた。
――昨晩はあいつのせいで寝ることが叶わなかった……疲れも出るか。
ロロはマレウスに対して緊張を解くことが出来ないでいた。その様子を察したマレウスは枕投げを再度提案したが却下され、ならばとチェスの対局を所望した。少しは腕に覚えのあったロロは打ち負かしてやるつもりで臨んだが、何戦しても互いに戦闘不能状態のドローになった。わざとドローの状況にさせられているということは、相手の方が一枚上手であり実質ロロの敗北であった。今回は勝てるやもと期待をもったところで、気付けば己の駒も減っている。
マレウスは終始楽しげに頬杖をついて、ロロの一手一手をいとおしく見詰めていた。
いつの間にか懐中時計の時鐘が朝を告げるハンマーを打ち鳴らし、結局ふたりは夜通しチェスをしていたのだった。
図らずも対局に熱中させられていた事に、ロロは歯噛みするばかりであった。
もちろん、チェスで徹夜したからなどという理由で、授業に穴を開ける訳にはいかない。
マレウスは飛行術の授業だとゲストルームを出て行き、ロロは隈を深くしながら魔法錬金薬学の授業を受けた。
授業内容は火炎草の花を使った睡眠薬の錬成方法についてだった。ノーブルベルカレッジに植物園はない。基本は市街へフィールドワークに出掛け、花の街の魔法植物たちについて学ぶ。故に鏡の中のクラスメイトたちは火炎草以外の材料を探しに出掛けてしまった。
担当教諭は鏡越しのロロに、折角ならナイトレイブンカレッジの植物園で火炎草の現物を見せてもらってはどうかと提案した。
亜熱帯植物である火炎草は花の街に自生しておらず、授業では乾燥粉末の市販品を調合に使用し、自生している様子は教本の挿絵で知るのみだった。
人目を避けたいロロは、滞在期間中ディアソムニア寮から出る気はあまりなかったが、霧深い寮域は日照時間がないに等しくロロの気を少なからず滅入らせていた。埃っぽい訳ではないのに咳が続くのもわずらわしく、外の空気を吸いたい気持ちも手伝って、ロロは教諭の提案を聞き入れレポート課題を火炎草の自生条件についてとし、ディアソムニア寮から一度外へ出ることに決めた。
学園施設の場所はマレウスに伴われて初日の夜更けにひと通り見て回っていた為、ロロは場所を把握していた。また学園長をおだてておいたお陰で、ロロはナイトレイブンカレッジのどこへ行っても構わない許可をすでに得ていた。
黒いスレートタイルに道が切り替わると、いよいよ巨大な温室がロロの眼前に現れた。
「……ゴホッ」
――王立のものといっても過言ではない大きさだ。
ハンカチを口元に宛てがいながら、ロロはガラス張りの温室を見上げた。ナイトレイブンカレッジは、賢者の島は黎明の国が所有する学園だが、理事長には茨の谷の女王も名を連ねているという噂があった。
ロロは足元のカモを連れて入れないよう気を配りながら、二重扉を押し開いて温室内へ足を踏み入れた。温室内は静まり返っており、魔法石を原動力とした魔導空調装置の微かな音が聞こえるほどだった。ロロにとっては幸いなことに、授業などは行われていない様子である。
温室内の植物園は花の街とはまた異なった軽やかな花の香りに満ちていた。
入ってすぐのアーチ状になった鉄骨支柱には、葡萄によく似た幹が蛇のように天へ向かって螺旋に絡みつき蔓状の枝葉を左右へ這わして、淡い紫色の小花の集まりが房状に幾重にも垂れ下がって木漏れ日をきらきらと覗かせながら揺れていた。まるで紫の霞のようなグリシーヌの花のカーテンにロロはひと時見惚れ心和ませた。
しかし、時間は有限であると思い直して、ロロは紫の霞へ長い指を差し入れるとしっとりとした花の房を手の甲で捲り緑豊かな園へと歩み出した。植物園は土壌のペーハー値や気候などの自生条件によってエリア分けされているようで、初めはロロの見知った花々、斑入りの黄色やオレンジのナスターチウムやペチュニアが彩りを加味された配置で小径の脇を固めて出迎えてくれた。芝は若葉の色をして蔦の葉は濃緑に照り輝き、どの草花も活き活きとして見えるのは何故だろうとロロは歩みながら思った。そして、枯れたり萎れたりしたものが見当たらず、木煉瓦の小径に花びらや枯れ葉も落ちていないからだと気付いた。よく手入れが行き届いているのは、時折チリンと鈴を転がすような音や小さな影の気配を感じていたので、庭師の妖精たちの働きぶりのお蔭であると知れ、ロロは感心した。
ふと、黄色いゼラニウムの花びらの影に小さな庭師の妖精を見つけたので、ロロはポケットのピルケースから砕いたキャンディを取り出して渡すと、庭師の妖精はチリチリと喜んだ様子で宙返りをしてロロに会釈した。キャンディはマレウスに持たされているドラゴンキャンディだ。喉の為にロロも砕いたひと粒をころりと口に含む。ライムミントの甘やかな味が口腔には広がるのに、ロロは苦いものでも食べているような顔をしていた。
ロロは次いで温帯ゾーンを経て、亜熱帯ゾーンのガラス扉を開けた。暖かな温度と高めの湿度の塊にロロは少し息がしづらく感じた。
「ゴホゴホッ」
人間は自発呼吸の際、外気を取り込むと気道で加湿してから肺へ空気を送るように出来ている。慣れない高湿度の外気を取り込むと過加湿気味になり、ロロは若干肺の末端が溺れているような状態になっていた。ロロは痩躯を屈め肩で深く息をしながら緑色のペンキで塗られた温室の鉄骨支柱に手をついた。鉄柱の冷たさが手のひらに気持ちよく感じる。
「ゴホッ……あまり長居出来ないな」
思わずそう独りごちて、ロロは火炎草を探した。火炎草はタンクブロメリアから派生した植物で、葉が緋色の為に遠目でも探しやすい。亜熱帯ゾーンは温室の最奥に位置し天井高は30メーターほどもあり、無数に植るヤシの木やバナナの木が大きな緑色の葉をうんと広げても余裕があった。ロロは木煉瓦の道が小高い丘を行き過ぎた場所に目当てを見付け、歩みを進めた。
そうして、火炎草に辿り着いた時、天井からカチリと音がした。
「え?」
ロロが音のした方を見上げると、天井に取り付けられたスプリンクラーから滝のような人工雨が余すところなく降り注いできた。亜熱帯ゾーンでは気候を忠実に再現する為、スコールを模した散水方法をとっていることなどロロは知らなかった。
反射的にロロは片腕で頭上を庇ったが、水の衝撃はその身を穿たなかった。怪訝な顔をしてロロが腕を解くと、人工雨は見えない壁によって頭上の少し上で防がれていた。ロロは魔法を使う暇もなかった。誰かが魔法障壁を張っている。
「……誰だ?」
滝のような人工雨の為にロロが用箋挟みのレポート用紙が濡れないよう胸に抱いて立ち尽くしていると、だんだんとスプリンクラーの水量が少なくなって、人工雨は小雨の様相となり亜熱帯ゾーンは景色の輪郭を取り戻した。
「……人が気持ちよく昼寝してるってのに、チリチリうるさいのが引っ張るから何かと思ったら、トカゲ野郎の嫁じゃねぇか」
ロロは声のした方を振り返った。
小高い丘になったところから、レオナが気だるげな様子で首を傾げてロロを見下ろし、その頭上には虹が出ていた。
[つづく]